第二十一日  從 ひ



 『もしなんぢらわがいましめまもらわが愛にをらん』 (約十五・十

 我等は前章においすでに安息と力の生涯に入る秘密は、キリストの個人的愛を眞實に洞察さとり、彼がその愛をもって魂を守り給ふべき事を確信するにある事を默想して來たが、この過渡うつりかはりの經驗と、これを悟り、これを受くる信仰とに關聯して服從あるひは献身等のことば屢々しばしば用ひられてゐる。魂は全き服從の生涯に自らを委ぬるのでなければこの可驚おどろくべき愛に保たるゝ事を要求し得ない事を悟るであらう。又罪より守られん爲にキリストに依賴よりたのみ得る信仰は、彼に從ふ力においてもまた敢へて彼に信賴する事によってその眞實を試されねばならぬ事をも知るであらう。この信仰によって魂はそのさまたげとなる一切をなげうこれ斷切たちきって神によろこばるゝ生涯を送らんと約束し又これを期待するのである。これ救主すくひぬしの御敎訓によって我等がこゝに學ぶところの眞理である。彼はわが愛にれと仰せ給ふと共に、その愛にる生涯の必要條件を提出して『もしなんぢらわがいましめまもらば、わが愛にをらん』と仰せ給ふたのである。これは決して、彼が今開き給ふたその愛の邸宅の戶を閉づるものではない。これある者が屢々しばしば誤って陷らんとする如き、我等はかれいましめを守り得ざるが故に、その愛にる事あたはずと云ふやうな思想を暗示するものとは全くことなってる。否、命令は又約束である。『わが愛にれ』と、これが約束でなかったならばかく命じ給ふのは無理と云はねばならぬ。この敎訓は決して開かれざる戶を通して達し難き理想を指示するものではない。そのむべき邸宅に招きし愛は、又その手を延ばしてこのいましめを守ることを得しむるのである。ねがはくは我等をして昇天し給ひししゅ聖力みちからによりて服從のちかひをなし、そのいましめを守る爲に自らを委ぬる事を恐れしむるなかれ。我等はかれ聖旨みむねの中にりて、いましめを愛しこれを行ふ時にその愛に至る事が出來る。

 たゞ我等をしてその意味するところを明らかに了解せしめよ。これは我等がすべて神のむねなりと知りし事を行ふことである。其處そこには我等がたしかめ得ざる疑はしき事柄があらう。無知の罪も矢張やはり罪たるを免れない。其處そこには又肉よりきたる我等が統御し征服し得ざる心ならぬ罪があらう。此等これらに關しては、神は時に應じ探りを與へ謙遜へりくだらしめ、し我等が單純であり眞實であるならば、彼は我等の豫期よきに超えておほいなる救拯すくひをなし給ふであらう。しかこれは眞に服從せる魂にのみ望み得べき事である。服從とはかれ聖旨せいしとして我等が知り得しすべての事を積極的に實行する事をも含んでいる。これは出來得べき事である。キリストの聖力みちからによって、我等はかゝる服從を心の目的となす事が出來る。キリストを我等の葡萄樹ぶだうのきとし、そのちからを與へきよめを與ふるかれの力を信ずる我等には、この信仰の服從は相應ふさはしき事であって、かれの愛の中にる生涯を堅固かたうする所以のものである。

 『もしなんぢらわがいましめまもらわが愛にをらん』、これは天の葡萄樹ぶだうのきが我等に與へ給ふ生活の啓示しめしである。彼にる者に彼はその愛の中に全くる生涯の秘密を啓示しめし給ふのである。すべてに於いてかれむねに全き心をもて從ふ事は、かれの愛を享樂たのしむ生涯に入る道である。

 『從ひてれ』と。めぐみ深きしゅよ、我等はたゞなんぢ聖旨みむねを知るによりてのみ聖心みこゝろを悟り、なんぢ聖旨みこゝろを行ふによりてのみなんぢの愛にり得べき事を敎へ給へ。しゅよ、ねがはくば我なんぢの愛にらんとねがはゞ、自己の力によりて行ふ事の全く無益にして、たゞなんぢの力によりて信仰をもてなす事の如何に肝要なるかを敎へ給へ。



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