第二十四日  たがひあひ 愛 す べ し



 『爾曹なんぢらまたたがひに愛すべし これわがいましめなり』 (約十五・十二

 神は愛である。かれすべての性質とその完全とは愛である。彼は自己の爲に生きずしてその生命いのちめぐみを與ふる爲に生き給ふ。またその愛をもっ聖子みこを生み給ふた。そは彼等にすべてを與へんが爲である。彼はその愛をもって受造物を造り給ふた。そは彼等をしてそのめぐみあづかるものとせんが爲である。

 キリストは神の愛の子にして、その愛の保持者、默示者、傳達者である。かれの生も死もことごとく愛であった。愛はかれ生命いのちであり、又その與へ給ふ生命いのちである。彼はたゞ愛せんが爲に、その愛の生涯を我等のうちにあって送り給はんが爲に、又彼自らをすべて彼を受くる者に與へんが爲に生活し給ふ。まこと葡萄樹ぶだうのきついて第一に思當おもひあたる事は愛である。すなはち彼はその生命いのちを枝に與へんが爲に生くるのである。

 聖靈は愛のれいである。彼はキリストの愛を與ふる事なしにその生命いのちのみを與へ給ふ事が出來ない。救ひとはこの愛がかちを得て我等のうちに入り來る事にほかならない。我等はこの愛を持てる程度に從って、それだけすくひを持ってると云ふ事が出來る。全きすくひとは全き愛である。

 キリストが『われ新誡あたらしきいましめ爾曹なんぢらに與ふ』(約十三・三四)、『これわがいましめなり』とてすべてを包容する唯一のいましめとして『たがひに愛すべし』と仰せ給ふのは怪しむに足らない。枝はたゞ葡萄樹ぶだうのきと一體であるばかりでなく他のすべての枝とも一體である。彼等はひとつれいを飮み、ひとつの體を搆成かうせいし、ひとつを結ぶのである。し信者がキリストの彼等を愛し給ふ如くたがひあひ愛せないならば、これよりまさって不自然な事はない。彼等が天の葡萄樹ぶだうのきより受くる命は愛にほかならない。これすべてに超えて彼が要求もとめ給ふ一事である。『爾曹なんぢらもしあひ愛せばこれよりて人々爾曹なんぢらわが弟子なることをしるべし』(約十三・三五)。特種の葡萄樹ぶだうのきはその結ぶによりて知らるゝ如く、天の葡萄樹ぶだうのきの性質は、その弟子等が相互あひたがひに持つところの愛によって判斷せらるゝものである。

 ねがはくばこのいましめに從へ。あなたしゅの愛にる道としてその兄弟達を愛せよ。あなたの服從のちかひ其處そこより始めよ。『たがひに愛すべし』と。あなたの家庭にある信者とのまじはりをしてきよく懇ろにキリストの如き愛をもってせよ。あなた周圍まはりにある信者を思ふ時はすべてにまさりてづキリストの愛の靈をもってせよ。あなたの生涯と行爲とを愛の犧牲となし、彼等の罪と缺乏とを思ひて彼等の爲に執成とりなし、彼等を助け、彼等につかへよ。キリストにる愛の團結としてあなたの敎會又その圏域くるわの中にれ。キリストがあなたうちに營み給ふ生活は愛である。あなたの營む生活もまた愛にてあらしめよ。しかある人は問ふであらうか、なんぢ是等これらの事が如何にも自然で、單純で、しかも容易であるやうに語るのであるが、はたしてくの如く生き、くの如く愛する事は出來得べき事であらうかと。これに答へるであらう。キリストはこの事を命じ給ふた。あなたこれに從はねばならぬ。しからずんばあなたはその愛にる事が出來ないであらう。

 しかし、これを試みて失敗した、にはキリストの如く生き得る見込みこみがないと云はるゝであらうか。ああそれはあなたこの比喩の最初はじめことばを了解する事を忘れたからである。我はまこと葡萄樹ぶだうのきと。彼はあなたが枝として要する一切を與へ、そのち給ふところことごとく與へ給ふのである。あなたに願ふ、過去の失敗と現在の荏弱よわきとの感覺をしてねがはくばあなたりて葡萄樹ぶだうのきに至らしめよ。彼はことごとく愛である。彼は與ふる事を愛し給ふ。彼は愛を與へ給ふ。彼は自ら愛し給ふ如くあなたにも愛することを敎へ給ふであらう。

 『たがひに愛すべし』と。愛するしゅイエスよ、なんぢことごとく愛にておはし、なんぢが我等に與へ給ふ生命いのちは愛なり。なんじの新しきいましめと、なんぢが弟子たるものに與へ給ふ徵象しるしとは、互ひにあひ愛することなり。我はなんぢが我を愛し給ふその愛によりて、この要求もとめ受納うけいれ奉り、かくてなんぢを愛し、又わが兄弟を愛せん。



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