第二十六日  キリストの友情とその本源



 『人その友の爲におのれの命をすつるはこれよりおほいなる愛はなし』 (約十五・十三

 十三節以下三節において、しゅあらたなる方面よりその弟子との關係を語り給ふのである。かれの友たる事である。彼はかれの側として、その本源たる愛と(十三)、我等の側としてそれを維持すべき服從と(十四)、又それよりて到達すべききよ親交まじはり十五)とについて我等に敎へ給ふのである。キリストと我等との關係は、たゞ愛である。彼はさきに此事このことを語り給ふた時に、その愛の天的榮光を示して、父の彼を愛し給ふその愛と同一であることを示し給ふたが、此處こゝにはその地上にあらはされたさかえが記されてる。それはその命を我等の爲にて給ふことである。

 『人その友の爲におのれの命をすつるはこれよりおほいなる愛はなし』。キリストは實に彼が葡萄樹ぶだうのきとして、我等の爲になし給ふ事と、又その性格のかくれたる根と、力とが、ことごとく愛である事を我等が知る事を願って給ふのである。我等がこれを信ずることを學ぶ時に、たゞに考へ、又知ることを要するのみならず、又自らのうちに受けねばならぬける力と、神の命とがある事を感ずるであらう。キリストとその愛とは離すべからざる同一物である。神と、キリストと、その愛とは、我等のうちに働くその生命いのちと、力とをもつ事によってのみ知り得べきものである。『永生かぎりなきいのちとはなんぢを知ることなり』(約十七・三)。神の命をもつ事なくして、彼を知ることは出來ない。命が我等のうちに働いてのみ知識が與へられる。愛においてもまたかくの如く、我等がこれを知りいとならば、そのけるながれまねばならぬ。聖靈によりてこれを我等のうち灌漑そゝがれねばならぬ。

 『人その友の爲におのれの命をすつるはこれよりおほいなる愛はなし』。生命いのちは人のもつ物のうちもっとも貴重なるものである。生命いのちかれの全部である。生命いのちは彼自らである。これは愛の最高の計量にして、人が生命いのちを與へるならば、彼は何物をもをしまず、ことごとくを與へたのである。我等のしゅイエスがその葡萄樹ぶだうのきの秘密に關して我等に解明ときあかさんとし給ふ所はこれであって、彼はその一切をことごとく我等の管理のもとに置き給ふたのである。彼は我等が、彼を我自らと數へん事を願ひ給ふ。我等が全く彼に領有せられん爲に彼自ら我等のものとならん事を願ひ給ふ。彼はたゞに一時的の行爲でなく、彼自らを永遠に我等のものとなさんが爲にその生命を與へ給ふた。命と命、彼は我等の生命いのちを彼に捧げて領有もたしめ奉らんが爲に、その命を、我等のものとして與へたまふた。これはその可驚おどろくべき類似とそのまったき一致において、葡萄樹ぶだうのきとその枝の比喩たとへによりて敎へらるゝところである。

 我等がこれを理論や想像においてゞなく、心と命の奥底に深く知る時に、天の葡萄樹ぶだうのきの枝としてわが生涯が如何にあるべきかにいて悟り得るに至るであらう。彼は自らを與へて死にまでも至り、彼自らを失ひ給ふた。そは我等が彼にありて命を見出さんが爲である。たゞ我等のうちに生きんが爲にのみ生きたまふものはまこと葡萄樹ぶだうのきである。これはキリストが我等を招き給ふきよき友誼の元始はじめであり又根である。

 『敬虔の奥義はおほいなり』(提前三・十六)。ねがはくば我等をしてこれを了解し、これに到達せんとする自己の努力を止めしめ、たゞ我等のうちいましてこれを默示したまふ聖靈を俟望まちのぞましめよ。ねがはくば我等をして、その命を我等に與へ、我等を占領し全くおのれものとすることを喜びたまふかれの無限の愛に依賴よりたのましめよ。

 『その友の爲に命をつ』と。おどろくべきかな葡萄樹ぶだうのきの學課よ、葡萄樹ぶだうのきがその命を枝に與ふる如く、しゅイエスはその命をその友に與へたまへり。その愛によりておのれを彼等に與へ、彼等のうちに與ふ。わが天の葡萄樹ぶだうのきよ、なんぢ如何斗いかばかり全く我衷わがうちに生きん事を願ひ給ふかを我に敎へたまへ。



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