第 二 十 日  わが 愛 に



 『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す 爾曹なんぢらわが愛にをれ』 (約十五・九

 『わが愛にをれ』。我等は家庭をその住居すまゐぶ。我等の住居すまゐ、我等の靈の家庭はキリストの愛であるべきである。我等は其處そこに生涯を送り、常に其處そこを家庭となすべきである。これキリストが我等の生涯に望み給ふところであって、又彼が形成つくらんとし給ふところのものである。葡萄樹ぶだうのきるとは彼の愛にる事である。

 おんみは恐らく更に高く更に深き生涯、更にゆたかなる充實せる充ちあふるゝ生涯ととなふるものについて、よみもし聞きもせられた事であらう。又ある者が驚くべき變化をなして、常に失敗と蹉躓さてつを續けてたのが、常に保たれ、力づけられ、はなはだ喜ばしきむべき經驗を得るに至った物語をあかしするのを聞かれた事であらう。おんみが如何にしてこのおほいなるめぐみを得たるかを問はるゝならば、多くの者は答へるであらう、彼等は單にキリストの愛にる事を事實として信じ、一切をなげうってキリストに依賴よりたのむ事を得るやうに導かれたことによると。父の子に對する愛は感情的でなく、神の命であり、無限の勢力であり、抵抗し難きちからである。これはキリストを携へて生と死と墓とを通過せしめた。父は彼を愛し、彼に住み、かれの爲にすべてをなし給ふた。我等に向ふキリストの愛も同樣であって、我等のうちその喜ぶところをなし給ふ、限りなき生ける力である。基督者クリスチャン生涯の纖弱せんじゃくなるは、神が如斯かくのごとき愛をもて我等を占領し、我等のうちに働く事を喜び給ふことを信ずる爲に時をついやさないからである。我等は葡萄樹ぶだうのきが全く枝を保ち、すべての事において完全にそのうちに働き給ふのを見る爲に時をついやさない。かへってキリストのみなし得給ふところ、彼がかくも懇ろになさんことを望み給ふところの事を自らなさんとて努力するのである。

 魂がこのすべてをなさんとし給ふ無限の愛を見て、これに一切を捧ぐる時に我等が云ふところの變化の秘密、新生涯の元始はじめはあるのである。『わが愛にをれ』と、時々刻々く生くるをべき事と、すべての困難と不可能はキリスト御自身によりて征服せらるべき事とを信じ、又この愛は眞實に自らを全く我等に與へ、我等を捨て給はざるべきを信じ、この信仰によりて我等自らをキリストに打任うちまかせてそのわざをなさしめ奉らねばならぬ。これこそ眞實なる基督者クリスチャン生涯の秘密である。

 さて如何にしてこの信仰をべきか。おんみし見えざるものを得んと欲せば見ゆるところのものより離れねばならぬ。イエスとともに更に多くの時をつひやし、自ら父の愛の中に生き、又おんみをしてその愛の中に生かしめんと待受まちうけ給ふ天の葡萄樹ぶだうのきとして彼を凝視みつめねばならぬ。おんみが彼とその愛の確證とにその心をみたさんとねがはゞ、おんみ自身とその努力とその信仰とより離れよ。るとはすべてのところより離れでゝひとつところを占有し其處そことゞまる事である。他のすべてのところよりきたりておんみの心をイエスとその愛とに定めよ。その愛はおんみの信仰を喚醒よびさまこれを力付くるであらう。この愛を默想し、これを拜み、これ俟望まちのぞめよ。この愛はおんみとらへてその中に宿らしめ、これをしておんみの住所となし又その家庭とならしむるであらう。

 『わが愛にをれ』と。しゅイエスよ、なんぢ聖父ちゝの愛に宿り給ふによりて、愛と祝福めぐみとに充てる葡萄樹ぶだうのきとなり給へり。おお我もまたかく枝としてなんぢの愛にり、自己の盈滿えいまんと他人に與ふる爲の豐かなる祝福めぐみとを得んことを。



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