緒 論  第 二 



 神は人世じんせいを新たにせんがために、各様いろいろに人を助けたまいました。種々いろいろ恩寵めぐみあらわしたまいました。洪水の時にも、罪人つみびとを亡ぼし、きよき民八人を残して世を新たになしたまいました。けれどもこれは成功いたしません、失敗でありました。人はまたけがれました。次に、多くの国民の中よりイスラエルびとを撰びたまいまして、幕屋を造らしめ、祭を示し、そのうちに顕れたもうて、彼らによりて世をきよめんとなしたまいました。けれどもこれも失敗でありました。一度ひとたび堕落した人間は回復する力はありません。世は暗黒くらきより暗黒くらきに、罪悪つみより罪悪つみに、汚濁けがれと腐敗はいよいよ深く染み渡りました。そうですから、神は最後おわりの方法として、全き主イエスを送りたまいました。神は、創世の時、アダムとエバが罪を犯すや否や救いの約束をなしたもうて、撰ばれたる民は喜んでこれをち望んでおりました。マタイ伝には、この俟ち望んだ神の約束の成就せられたることがしるされてあります。神は、この世に対して、確かなる目的と計画とを持ちたまいました。ここではいかにこれを成就なしたまいましたかを見ます。二章において、博士はその望みを成全まっとういたしました。彼らは人間の望みを代表した者であります。かくのごとく、神は約束のものを送りたまいましたにかかわらず、世はなお謀叛人むほんにんの世であります。創世記三章以後、人は神のめいに背き、世は神に逆らう者ばかりで充たされてあります。王なる救い主が顕れたまいましたが、人間はなお神に近づくことができません。そうですから、マルコ伝において神のしもべ、従順柔和なる神の使者つかいとしての主イエスを見ます。この世は、その堕落より救われるためには、人の僕となり働きたもう者がなければなりません。マルコ伝には、かくのごとく神の僕であり、また人の僕である救い主を示します。主は、神に使われ人に使われたもうて神の望みを成全まっとうし、人の命運を成就なしたまいました。また、ルカ伝に顕されたる方面は何でありますか。神はいかに人を助けたもうとも、人は常に失敗を重ねるのみでありました。そして、人の失敗は神の造化ぞうかの失敗であります。そうですから、神は天の衆軍しゅうぐんと悪魔のためにご自分の恥をそそがんがために企てたまいました。すなわち、神はサタンと天使の前にご自分の義を成全まっとうせんがために、いま栄光のくだしたまいました。人はけがれて神のかおに泥を塗りましたから、神は自ら『罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた……試練を受けている人たちを助けることがおできになる』(ヘブル書四・十五二・十八)模範的人間をここに示したもうて、天にあるすべての霊なる活物いきものの前に大いなることを成全まっとうしたまいました。第三福音書の使命は実にこれであります。第四福音書ヨハネ伝にはまたほかの方面を示します。この世は、あたかもエゼキエルの申しましたように(エゼキエル三十七章)、枯れたる骨の谷であります。創世記一・二のように、黒暗やみは世を覆うております。神は、この骨の谷に生命を送りたまいました。ヨハネ伝のうち生命いのちという字は三十五あります。この暗黒やみうちを与えたまいました。主イエスは、人に対しては生命とし、また光として送られたまいました。また神に対しては、産みたまえるひとり子として送られたまいました。すなわち神は独り子を遣わしたもうて、人の生命とし、人の光となしたもうたのであります。そうですから、ヨハネ伝には、神を父ととなえることは百十七に及びます。けれどもマタイ伝には四十四、マルコ伝には五、ルカ伝には十七あるのみであります。これを見ましてもヨハネ伝の目的はほぼ知られます。すなわちここには、神に向かってアバ父よと呼びたもう子なる霊を見ます。神の子主イエスは、この世では賓旅たびびとでありました。ご自分の国にきたりたまいましたのに、異邦人でありました。これは実に怪しむべきことではありませんか。ヨハネはこの不思議なる逆真理パラドックスを認めました。主イエスはおのれの国に来りたまいましたのに、その民がこれを受けませんから、ヨハネはいかにしても、彼が神の子、世のぬしいますことを人々に信ぜしめんがために、このふみしるしました。二十・三十一にこの理由が述べてあります。すなわち、イエスの神の子キリストたることを信ぜしめ、これを信じてその名によりて生命いのちを得させんがためであります。そうしてヨハネは、このふみ研究しらべまして、さらに一歩を進めて学ぶことのできますように、ヨハネ第一書を書きました。その目的は、第一ヨハネ五・十三のように、主を信ずる者はすでに生命を持っていることを示さんがためでありました。

 さて、ヨハネ伝には奇蹟を休徵しるしとして記されてあります。あるいはわざとしてあります。主の奇蹟は単に不思議なるものではありません。深遠なる意味が含まれてあります。ヨハネ伝に記されない多くの休徵があります。けれどもヨハネは、ここに記されたるだけにて、主の神性を信ぜしむるに充分なりといたしました。聖霊はそれを是認したまいました。私共は、これを信じて、明らかに神の子たることを知ることができます。もしこれにて未だ信ずることができませんならば、ほかにいかなる大いなることがありましても、決して信ずることはできませんでしょう。聖書全体もまた同じく神の子を示します。また、これを示すにはこれにて充分であります。これよりも多くのことを附加するには及びません。ヨハネはこの目的のために、主の多くの奇蹟のうちより、御在世中の七つの奇蹟を撰びました。ほかのふみにおいて、このほかに四十を見ることができます。けれどもヨハネは、この七つにてまったき証拠と致しました。この七つの奇蹟は、ただに奇蹟なるのみではありません。実に深遠な休徵であります。これにて主を悟ることができます。太陽の光は白うありまするけれども、三稜玻璃プリズムに通して見ますれば、七色しちしょくの光彩が知られます。この七つの休徵は輝ける七色であります。これを合一ひとつにして、主イエスの神の子たる完全まったき栄光を示します。

第一休徵(二・十一

 これは二十・三十一を示す第一であります。すなわち人間が失敗の時に詮方せんかた尽きる時に、主が働きたもうて神の力を示し、大いなる祝福を加えたもう休徵しるしであります。主がいつでも私共になしたもう第一の救いはこれであります。私共が全く自分の力を見捨てました時に、主は私共を強めたもうことであります。主の力は弱きにおいて全くなるのであります。けがれたる所にきよき所を造りたもうのであります。二・十九にありますのも同一の真理です。三・五もまた、おのれに死んで神に生きまする同じ休徵の説明であります。主は恩寵めぐみ深く、同一の真理をばかくのごとく三方面より私共に示したまいました。罪を変じて聖となしたまいます。

第二休徵(四・五十四

 まさに死なんとする者を救いたもう休徵であります。四・四十九はこれを示します。

第三休徴(五・五

 長い年月としつきの病を癒したまいました。すでにサタンの奴隷しもべとなりまして、自由になることのできません者をも、かくのごとく生かしめたまいます。これは癒しの栄光であります。

第四休徵(六・十四

 えたる人々を飽かしむる休徵であります。

第五休徵(六・十九

 救うべき者にどのような故障がありましても近づきたもう主の栄光であります。神と人との間には罪の海がありまして、人間はこれを渡ることはできません。神もこれを越ゆべきものではありません。けれども主は、人を救わんがために、これを越えて私共に近づきたまいました。これは第五の栄光であります。

第六休徵(九・七

 見えざる者に見ることを与え、暗黒やみに光を与えたもうた休徵であります。

第七休徵(十一・四十七

 死人を甦らしめたまいたる栄光であります。これは私共の前に始終あるべき主の力であります。死にし心に生命いのちを与え、悲しめる心に喜びを充たしめたもう主の力であります。

 以上の七休徴しちきゅうちょうを見まするときは、ことごとく私共に密接なる関係のあることがわかります。私共はすでにこの七つの栄光を感じましたか、この七つの栄光を経験しましたか。詮方尽きたる時に祝福を与えたもう主、死なんとする者を救いたもう主、罪のくびきより自由になしたもう主、飽かしめたもう主、罪を越えて近づきたもう主、眼を開きたもう主、甦らしめたもう主、これらはすべて私共の日常経験すべき主の栄光ではありませんか。私共はすでにこの栄光をことごとく見て讃美いたしましたか。『このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった』(十二・三十七)とは当時の有様でありましたが、これはまた私共今日いまの有様ではありませんか。私共は多くの栄光を見まするのに、なお信じません。実に信なきを助けたまえと祈らねばなりません。主は、私共の餓えて心の空しくなりましたときに、豊かなる霊のかてにて私共を満足みたしめたもうたではありませんか。暗黒やみに苦しんでおりましたときに、光明ひかりを与えたもうたではありませんか。そうですのに、私共はなお、求むべき時に主の前にひざまずきませずして、ほかの所に行かんといたしまするではありませんか。

 ヨハネ伝において、一章より十二章までは、主イエスの神の子たることを公然おおやけに示したるところであります。ユダヤ人の前に、信ずる者にも信じません者にも、賛成者にも反対者にも、一様に示したる場合であります。けれども十三章より二十一章までは、秘密の証言あかしであります。主は、その真理を公然人々にあかししたまいます。けれども人々がこれを受け入れませんならば、これを信じて受け入れました者に対して、個人的に秘密に、いよいよ深くその奥義を語りたまいます。一章より十二章までは三年半の事績わざであります。けれども十三章より十九章までは、ただ一日のわざであります。二十章二十一章はわずかに三週間の事であります。すなわちわずかに一日の間に、静かに隠密おんみつ懇篤こんとくに、如何ばかり豊富ゆたかなる教訓おしえを弟子たちは受けましたか。隠密に膝付き合わして示したまいまする時には、奇蹟を用いたまいません。親しき行為わざにより(十三章)、懇ろなる談話はなしにより(十四章十六章)、また荘厳おごそかなる祈禱いのりにより(十七章)、実に深遠なる聖旨みこころを弟子たちに教えたまいました。今でも主は変わりたもうことなく、信ぜざる者にはかくなしたまい、信ずる者にはかくなしたまいます。私共はこの恩寵めぐみ深き主に近づきまして、個人的に隠密に教えを受けとうございます。

 ヨハネは第一部に主の職務的栄光 (official glory)、第二部に主の品性的栄光 (personal glory) を与えました。私共はいま主の血によりてこの栄光の王に近づくことができます。実にハレルヤであります。私共はこの恩寵めぐみいたずらにしませずして、この至聖所いときよきところに立ち、靴を脱ぎて近づき学ばねばなりません。

 今このヨハネのしるせる三つのふみ比較くらべてみますれば、書簡の主意は愛であります。福音書の主意は信仰にして、黙示録の主意は望みを与えるためであるように見えます。



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