第 十 三 章 



 十二章は、しゅが公然ご自分を現したまいましたことの終わりです。十三章よりは、ただ愛する弟子たちに語り合いたまいました。十三章において行いによりて、十四章より十六章までにおいてことばによりて、十七章において祈りによりて、弟子等を教えたまいました。

一  節

 その時主は始終天に昇ることを考えていたまいました。そうですから、十字架をあまり考えたまいませなんだ。ただそののちの栄光を見付けて、天に昇ることを深く考えていたまいました。けれども、この一節を見まするならば、その意は何処どこに注がれてありましたか。今この世を去る時が来ましたから、たぶん父の家、父の栄光、また父の家において受くべき喜楽よろこびについて、心を留めて考えていたまいましたか。いいえ、そうではありません。ただ弟子のことに意を注ぎたまいました。終わりに至るまで、この失敗と不信仰とに充たされたる、弟子たちを顧みたまいました。十一節を見まするならば、『イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた』とあります。そうですから主はこの弟子の心をよく知りたまいました。己をわたす者を知りたまいました。またご自分を知らずと言う者をも知りたまいました。十字架の時に、ご自分を捨てる弟子たちをも知りたまいました。またはご自分の復生よみがえりを信じません弟子をも知りたまいました。けれども、ご自分の受くべき栄光さかえを考えたまわずして、かえりてこの不信仰の弟子等を、いつまでも愛して顧みたまいました。それによりて、主の慈愛いつくしみと、眷顧かえりみを分かりませんか。私共わたくしどもの心は、天国にあるはずです。けれども、主はただいま天国にいたまいますが、そこにて満足をなしたまいません。主の心は地にあります。この地の上にある不信仰なる弟子等、たびたび過失あやまちに陥り易き私共を顧みて、私共を愛し、私共の徳を建てたまいとうございます。

 この十三章において、主の慈愛いつくしみは格別に輝きました。その時に格別に弟子を愛する愛に充たされたまいました。或いはことばをもって、或いは行いによりて、慈愛じあいを現したまいました。またその時に主はよく弟子たちを悟りたまいました。この一節知るという言を見ます。三節にも、知るの言があります。十一節にも十八節にも同じく知るという言があります。この四つの知るという言を味わいとうございます。それによりて、主はその時に明らかに弟子の心を悟りたまいました。またよくご自分の有様をわかりたまいました。この二つの理由わけすなわちいま申しました愛と、悟りのために、主はおのれひくくなしたまいました。

二、三節

 どうぞ、一節の愛と、二節にくみとを比べとうございます。どうぞ、二節のユダの模様、すなわち悪魔の下にあることと、三節の主の模様、即ちすべての権威をちたもうこととを比べとうございます。その時に、表面うわべを見まするならば、ユダは自由の者にして、イエスは自由を奪われたる者と見えました。ユダは自分の勝手に従いてイエスをわたし、イエスは人間の手に曳かれて、十字架にわたされたまいました。そうですから、ユダは自由の者にして、イエスは自由を奪われたまえるように見えます。けれども、事実はちょうど反対です。ユダは悪魔の奴隷でした。イエスは、三節のごとく、すべての権威と、権力をっていたまいました。この三節は、その時の主の経験を示します。主はその時に、ご自分が父と同一であることを覚えたまいました。また父のものは、すべてご自分のものであることを覚えたまいました。その時に経験によりて、ご自分の神たることを覚えたまいました。そうですからおのれひくくすることができました。どうぞ、この絵をご覧なさい。万物の王、栄光の神は、ご自分をひくくしたもうて、不信仰なる弟子たちけがれたる足を洗いたまいます。主の奇跡のうちに、これより高尚なることを見ませんと思います。ご自分の神たることを示す行いとしては、或いはラザロを復生よみがえらせたまいしよりも、この行いが高尚ですと思います。どうぞ、誠にこの説話はなしによりて、主の栄光を見とうございます。現今いまでも、主は同じようにご自分をひくくしたまいます。現今いまでも、主は私共を洗いきよめたまいます。また私共のけがれたる心、私共の罪を洗い潔めたまいます。私共の罪を洗い潔めることは、弟子の足を洗うと同じように、己をひくくすることであります。卑賤なる者の、けがれたる足を洗い潔めることは、実に煩労うるさいことです。ちょうどそのように王の王、栄光の主は、私共のけがれたる心を洗い潔めたもうことは、実にうるそうございます。けれども、主はいといたまわずして、ご自分をひくくして、私共を洗いたまいます。そうですから四、五両節の七つの行いをなしたまいます。

四、五節

 第一晩飯ゆうげの席をちて、第二、上衣をぬぎ、第三手巾てぬぐいを取りて、第四、手巾を腰にまとい、第五たらいに水を入れ、第六、弟子の足をあらい、第七、そのまといたる手巾にてきはじめ

 神の子は同じ七つの行いをもって、私共を洗いきよめたまいます。

『夕食の席から起ち上がって』。主は天の位を出立たちたまいました。
『上衣を脱ぎ』。ご自分の栄光を脱ぎたまいました。
『手ぬぐいを取って腰に巻き』。このいやしき人間の身体からだを取りたまいました。
『水をたらいに入れ』。聖血みちを流したまいました。
『弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められた』。いま私共にその贖罪あがないの結果を告げたまいます。

 そうですから、主は同じように、ただいま私共をきよめたまいます。今でも主は十字架を負いたまいます。今でもおのれひくくしたまいます。今でも主は私共の奴隷となりたまいます。この足を洗う働きは、奴隷を働きです。けれども、主は喜びて私共のために、奴隷の働きを取りたまいます。

六〜九節

 『ペテロが、「わたしの足など、決して洗わないで下さい」と言うと』(八節)。これは誠の謙遜ではありません。誠の謙遜は恵みを何程なにほどでも受け入れることです。ペテロは、いつわりの謙遜をちておりました。誠の謙遜を見とうございますならば、その時の主の手本を深く調べなければなりません。たびたび私共の道徳でも、偽りの道徳であります。

 この八節を見まするならば、ペテロは、自分の足のことを言います。主はペテロの霊魂にきて答えたまいます。ペテロはただ表面うわべのことを見ました。主はそれを顧みずして、内部うちのことを教えたまいました。主は毎日私共の身の上になくてならぬものを与えたまいます。その身の上のものにおいても、深き恵みを頂戴することができます。主はペテロの足を洗いたまいまするならば、その足を洗いたもうのみならず。それと同時にペテロ自身をも洗いたまいます。主はちょうどそのように、私共の身を顧みたまいまするならば、ただ身のことのみではなくして、霊なる恵みをも与えたまいます。

 『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』(八節)。私共は始終主の洗いを追い求めますか。この足を洗われるは、初めの悔い改めの洗いの意味ではありません。この十節をご覧なさい。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけを洗えばよい』。この弟子はもはや洗われたる者でありました。けれども、日々にちにちの旅行のために、足がけがれましたから、もう一度洗わなければなりません。私共も生まれ替わりの洗いによりて、神の聖前みまえきよきものであります。けれども毎日このけがれたる世間よのなかを歩みますから、毎日主にきよめを求めなければなりません。私共は潔められませんならば、この八節のように、主と干渉かかわりはありません。

 この七節を見まするならば、ここで深い意味があります。これは真正まことの聖典であります。そのばん、主は二つの聖典を施したまいました。一つは葡萄酒と、パンの聖典です。一つは足を洗う聖典です。葡萄酒と、パンの聖典は、ご自分の死と、その死の力の聖典です。この足を洗う聖典は、生命いのちの聖典です。すなわちいま天において生き、天においてその生命の働きをなしたまいまして、その生涯の働き、その生命の力をここで示したまいます。パンと、葡萄酒との聖典は、カルバリ山の聖典です。足を洗う聖典は、昇天の聖典です。けれども、ふたつながら同じ主意あるを見ます。すなわち自己みずからひくくし、いやしき者となりたもうことです。主は栄光さかえを捨ててこの世にくだり、生命を捨てたまいました。パンと、葡萄酒の聖典で、それを記憶いたします。足を洗う聖典で同じことを見ます。ここでも、私共に日々の洗いを与えたまわんがために、おのれひくくして、私共のために賤しき務めをなしたまいます。主は御在世中に、私共のために、奴隷を務めをなしたまいました。また十字架において、己をひくくして、私共のために、卑賤なる務めをなしたまいました。けれども、ただいま昇天ののちでも、やはり己をひくくして、私共のために務めたまいます。主は如何どうしてけがれたる信者に、霊の洗いを与えたまいますかならば、己をひくくして、この働きを務めたまいます。これは断えざる謙遜です。栄光えいこうの王は、私共のために不断たえずこの愛の働きを務めたまいます。母は子供のために、種々いろいろの卑賤なる務めをいたします。愛のために、子供の奴隷となります。いま栄光の王なる主は私共のために、日々この四、五両節のように卑賤なる務めをなしたまいます。ルカ十二・三十七をご覧なさい。『主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる』。これを見まするならば、私共の心は溶かされませんか。

十〜十二節

 『弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て』(十二節)。いま上着を取りて、その筵席ふるまいの貴きところに坐して、この行いを説明ときあかしたまいます。あとにて主は同じように、その栄光をまた取りたもうて、天の高き処に坐して、弟子たちにその十字架と、その苦しみを説明せつめいしたまいました。弟子等はその教えによりて、主の十字架をわかりました。その時まで弟子等は、全く十字架を解りませなんだ。けれども、その時から、すなわち昇天の時から、主に教えられまして、その意味を解りました。いま同じように、主はこの行いを説明したまいます。

十 三 節

 これは福祉さいわいではありませんか。『わたしはそうである』。賤しき罪人つみびとの師は誰方どなたですかならば、天の王であります。賤しき罪人の師は、すべて智慧と、悟りに富みたもう神であります。その賤しき罪人を愛したもう神であります。今まで罪人の主は誰方どなたでしたか。サタンが肉体上の主でありました。或いはこの世の生活がその主でありました。けれども、ただいまは『あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである』。わが師わが主は神の聖子みこです。実にこれはハレルヤです。実にこの十三節は福音です。どうぞそれを信じて、受け入れとうございます。

十四、十五節

 『互いに足を洗い合わなければならない』。私共はそういう心をちますか。私共は兄弟の足をあらうほどの愛と、謙遜がありますか。私共は兄弟よりも高く揚がりたき心がたびたびありませんか。自分を高くする心がありませんか。けれども、私共は主の恵みをよく悟りまするならば、かえって兄弟の足を濯いたき心が起こります。兄弟を軽んぜずして、却って兄弟のために、何事でもいたします。いかなる賤しき務めでありましても、喜んでそれをなします。またそれをしませんでも、心のうちにそういう精神があります。私共はたびたび兄弟のために、足を濯う務めをいたしますかも知れません。けれども、心のうちにそういう精神がありますか。或いはただ目で見ゆるために、それをいたしますか。真正ほんとうに主のために、兄弟を愛する心より、それをいたしますか。「兄弟の足を濯う」。その意味はいま説明しましたように、第一、兄弟のために、賤しき務めをいたすことです。けれども、それよりも深き意味もあります。兄弟につきて、悪しき評判を聞きまする時に、黙してそれを伝えませんのも、兄弟の足を洗うことです。或いはその兄弟のために、弁護するのもまたこれ兄弟の足を洗うことです。けれども、なおなお深き意味があります。キリストはただ表面うわべの行いばかりでなく、魂を洗いたまいました。私共はキリストのごとく、兄弟の心を洗わねばなりません。そのために主は私共にける水を与えたまいました。それは格別に伝道士の務めであります。「兄弟の心を洗う」。私共は如何どうして兄弟の心を洗いましょうか。たびたび何か肉体にけることによりて、兄弟を洗うと思います。肉に属ける知恵、肉に属ける経験によりて、或いは肉に属ける自分の職務上の位置から、兄弟を洗わんと思います。けれども、これは過誤あやまりです。兄弟を洗いとうございまするならば、主の手本に従うて、自分のことを全く捨て、己をひくくして兄弟の足下あしもとに近づかなければなりません。私共は今でも、他人より優れたる点から、その人をきよめようと思います。けれども、主のなされたることは、全く反対です。主は自己みずからひくくして、人の足下あしもときたりて、その人を潔めたまいます。

 私共はほかの人々をきよめとうございまするならば、前に申しましたるように、おのれひくくせなければなりません。けれども、如何どうして己を卑くすることができますか。謙遜は何処どこより起こりますか。この一節と、三節をご覧なさい。一節を見まするならば、から起こります。主はこの弟子を愛したまいますから、愛のために己を卑くすることができます。謙遜はいつでも、愛のです。また三節を見まするならば、神が自分に与えたまいました恵みに感じまする時に、また己は神のものであることを感じまする時に、己を卑くすることができます。これは謙遜の二つの根本もとです。

十 六 節

 主は何故なにゆえかく厳粛おごそかにこのことをべたまいましたか。誰人だれでもよくこれを知っております。何故に『誠にまことに』と神の聖声みこえのごとく、これを言いたまいましたか。これは容易なることのように聞こえます。けれども、真正まことに一番難しきことであります。信者は最も終わりにこれを学びます。私共の心のうちに、いつでも自分を高くする思想かんがえが起こります。主のごとくおのれひくくすることは、学び難きことです。主はその大いなる位を全く捨てたまいました。私共は自分の小さき位をいだきましょうか。主は全く御自分の大いなることをてたまいました。そうして自ら謙遜して、私共をきよめる役目を取りたまいました。私共は主に比べまするならば、小さきものであります。しかるにその小さきことによりて、高ぶりましょうか。しもべは自分が大いなる者であると言うて、自ら誇りましょうか。

 私共は現世このよける栄誉栄華えいがを捨てたる者であります。けれども教会の内に名誉を求めませんか。或いはほかの信者の眼の前に高くなりとうございませんか。しもべはその主より大いならず。他の弟子の足下あしもとに卑賤なる務めをいたしますることは、私共各自めいめいのおるべき地位です。

十 七 節

 さいわいの秘密はかくのごときことをなすことです。ただ心のうちに思い、或いは深くそのことを思念おもいめぐらすことのみではありません。実行することです。またかくのごときことを実行しまするならば、たぶんその謙遜の行いによりて兄弟たちをもきよめることができます。

十八、十九節

 主はこれを預言したまいました。ここには預言者なるキリストを見ます。十四章二十九節十六章四節をご覧なさい。『事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく』。『これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである』。主はことごとくその苦しみをも、そのほか万般いろいろのことをも、弟子たちの遭うべき迫害をも預言したまいました。けれども、弟子等はそれを悟りませなんだ。そうですから、時がもはやきたりました時に、悉く堕落しました。どうぞ主の預言を深く心に味わいとうございます。いま主の再臨は近づきますから、格別に主の預言を味わいまして、その時に至る用意を致さなければなりません。

二 十 節

 そうですから、主はこの世を去りたまいました。けれどもご自分の代表者をこの世に置きたまいます。十六節の『はっきり言っておく』ということを見まするならば、人間の眼の前に己を謙遜せねばなりません。この二十節の『はっきり言っておく』を見まするならば、神の聖前みまえに私共の大いなる位、大いなる栄光を見ます。主に遣わされたる者は、この十六節をも、二十節をも、共に味わわねばなりません。人間の眼の前に謙遜し、神より栄光を与えられましたることを、深く思わねばなりません。

 十五節をご覧なさい。『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするよう』。私共は主のしたまいしごとく、さねばなりません。また三十四節をご覧なさい。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』。私共は主が愛したもうごとく、あい愛せねばなりません。その主のおこないにも主の愛にも、従わねばなりません。私共は自分をひくくしまするならば、人より如何いかなる報いを得ましょうか。その謙遜が偽りの謙遜でありまするならば、そのために名誉を得ようという思想かんがえがありましょう。或いはいま謙遜しておけば、のちにその人が必ず私を愛しましょうと思いましょう。けれども、真正まことの謙遜はそういう報酬むくいを待ち望みません。主の謙遜をご覧なさい。いま十二弟子の足を洗いたまいました。そうして如何いかなる報いを得たまいますか。二十一節を見まするならば、その弟子の一人は主をわたします。三十八節を見まするならば、ほかの一人は主を知らずと言います。残余のこり十人は苦楚くるしみの時に、ことごとく主を捨てて逃げます。そうですから、謙遜と、愛はそういう報酬むくいを耐え忍ばねばなりません。時々人をきよめるために、或いは人々に福音を宣べ伝えまするために、おのれひくくします。またどういう報酬むくいを得ますかならば、或いは憎悪にくみ或いは迫害せめ或いはほか苦楚くるしみを得ます。私共はそれを耐え忍ぶことができますか。そういう時に、私共の愛と、謙遜は、真正まことであるか、否やを試すことができます。主の愛と、謙遜は、そういうことをも耐え忍ぶことができました。兄弟よ、これは真正まことの死です。私共はほかの人々のために、己をひくくしまするならば、これは謙遜の初めです。けれども、それは真正まことの謙遜であるか否や、或いは真正まことの死であるか否やは、まだ分かりません。その謙遜と愛とは、試みられました時に、真正まことであるか否やが分かります。どうか主と共に終わりまで十字架を負うて、死ぬる道を取りとうございます。すこしも愛の報酬むくいを得ませんでも、かえってほかの兄弟より憎悪にくみと、迫害せめを得ましても、どうぞ一節のごとく、終わりに至るまでこれを愛しとうございます。本章において、その事実を見ます。主は終わりに至るまでユダを愛し、ペテロを愛し、他の弟子たちを愛したまいました。

二十一節

 『心を騒がせ』。主はそういう、苦痛をく覚えたまいました。主はそういう苦痛を覚えたまわない者ではありません。深くそれを感じたまいました。『はっきり言っておく。あなたがたのうちのひとりが』。久しく私の愛したるなんじらのうちに、久しく父なる神を示したる爾曹なんじらうちに、久しく起臥おきふしともにしたる爾曹なんじらうちに、久しく私の心と、性質を明らかに見たる爾曹なんじらうちに、一人われをわたす者あり。またただいまこの筵席ふるまいにおいて格別の愛を現したる爾曹なんじらうちに、一人われをわたす者あり。

 それは主の心の憂い、心の悲しみでありました。必ずその時のみではありません。始めからその重荷を負いたまいました。けれども、それを隠していたまいましたが、ここに至りて始めて示したまいました。この時まで弟子たちは、主の心の重荷を知らずして、大抵たいてい主の心を知りしと思いました。けれども、実にこの大いなる憂いを知りませなんだ。幾分か主の栄光を見ました。けれども、主の悲しみがわかりませなんだ。弟子等は今まで鈍き心をっておりましたから、主はこういう憂いを示すことができませなんだ。今まで肉にける者でしたから、こういう悲しみを弟子等に示すことはできませなんだ。兄弟よ、私共も幾分か主の栄光を認めました。けれども、憂いはどうですか。主が罪人つみびとのために憂い悲しみたもうことを解りますか。今まで鈍い心でありましたから、主はそれを私共に示したもうことができませなんだかも解りません。けれども、もはや主にきよめられたる者は、そういうことを聞くことができます。

二十二節

 そうですから、ユダであることがわかりません。ユダは今まで、巧みにその善を装いました。他の弟子は、ユダの堕落を知りません。ユダの熱心、智慧を見ました。ユダの会計に巧みなることを見ましたから、ユダであることは解りません。けれども、ユダは心の中に堕落したる者です。兄弟よ、私共は表面うわべは熱心なる者でありましても、表面うわべは美しく神のことを言いましても、心の中に堕落して主をわたす者であることができます。外部そとのことは構いません。心の中はどうですか。外部そとを見まするならば、ユダはペテロやヨハネと同じように熱心なる弟子でした。けれども、心のうちを見まするならば、ユダは全く堕落しておりました。

 もう一度十八節をご覧なさい。主は、麦と稗子からすむぎとをく弁別したまいました。表面うわべは同じように見えます。けれども、主は私共の心を見透みとおしたまいます。私共も自分の心を知ることができます。ほかの兄弟は、私共の心を見透すことができんかも知れません。けれども、或いは主、或いは自分は、自分の心を知ることができます。誠に水と水晶のごとく、清き心でありますか、ありませんか。誠に主に従いとうございますか、或いはただ表面うわべばかり主に従いますか。主は私共の有様を弁別したまいます。またユダは永き間、主に伴いました。主のことばを聞きました。主の行いを見ました。主と共に食事を致しました。けれども、未だ身も、魂も、主に捧げませなんだ。そうですから、この恵みのためになおなお恐ろしき模様とりました。私共は受けました恵みに、身も、魂も、捧げませんならば、その受けました恵みによりて、かえって恐ろしい有様にちます。そうですから、始めから主に従いません方が却ってよろしうございます。光を受けまして、その光に従いませんならば、却って始めから光を受けません方がよろしいかもわかりません。

 主イエスは愛なり。ユダは三年間に全き愛の光線の中に、生涯を送りました。そのために心が溶かされましたか。その愛にかされましたか。そうではありません。今に至るまで、心が頑固でありました。それによりて、人間の生来うまれつきの恐ろしきことがわかりませんか。ユダは三年間神と交わることができました。けれども、神を慕いません。夜間よる黒白こくびゃくを分かつことができません。黒いものも、白いものも、同じように見えます。けれども、昼間ひるは太陽の全き光線の中に、よく物を分かつことができます。ユダは三年間輝ける太陽の中に、生涯を送りました。けれども、今に至るまで心が溶かされません。私共はそれによりて、警戒せねばならぬと思います。神は私共に各様さまざまの光を与えたまいます。私共のうち、或いは喜んでその光に従いまして、身も、魂も、捧げます。或いはその光を拒みます。例えば、或る信者はきよき心のこと、聖霊に充たされることをすこしも聞きません。そうですから、こういう信者の恵みを受けないことは、あまり大いなる罪ではありません。けれども、そういうことを教えられましたる信者にして、かえって心を頑固にして、それを受けませんならば、ユダの罪の萌芽はじめですと思います。光の中にりて、頑固なる心をもつことは、ユダの罪の根本もとだと思います。またそういう人々は、漸次だんだんユダの罪を犯すと思います。そういう人々は、やはり漸次だんだん主の教えを拒み、主の聖霊にける教えに反対し、ついには主を敵の手にわたします。

 主をわたすとはどういうことですか。私共はこの罪を犯すことができますか。犯すことができます。いまユダは三年の間主と共におりました。けれども、心がまだやわらぎませんから、主につきて失望しました。肉にける考えがありましたから、主は種々いろいろの恵みを与えたまいとうございます。けれども、ユダはそういうことを願いませんで失望いたしました。そうですから、敵の手にわたしました。またそのことによりて、ユダは敵の前に何を現しましたか。すなわちイエスは実際自らいいあらわしたもうような方ではなくて、イエスのいいあらわしたもうところは、全くいつわりであるということを現します。敵の手にわたすことは、それを現します。ユダは主がいいあらわしたもうたることを信じましたならば、いつまでも主をわたすことができませなんだ。けれども、主のことばいつわりと思いましたから、敵の手にわたしました。ユダは爾来これからのち主に従いとうございません。従来これまで種々いろいろなる教訓おしえを受けました。各様いろいろの経験を得ました。けれども、爾来これからのち主ご自身に従いとうございません。兄弟よ、どうぞ私共各自めいめいの心を判断致しとうございます。主は私共に各様いろいろの約束を与えたまいました。ご自分の能力ちからと、恵みとをいいあらわしたまいました。私共はその約束を受け入れませんならば、主が私共にその約束を成就したまいませんと思いまするならば、私共は多分たぶん失望致します。私共は主によりて、万殊いろいろなる恵みを得ようと思います。けれども、主の約束を拒みますから、心の中に失望が生じます。これはユダの罪の萌芽はじめです。そうですから、艱苦なやみに遭いました時に、その艱苦なやみいといました。もし私共は主の約束を受け入れまするならば、ほかの兄弟が喜びと恵みを受けまして、自己おのれ一人艱苦なやみに遭わなければなりませんでも、少しも構いません。けれども、主の約束を受け入れませんならば、そういう場合に、艱苦なやみに遭うことを厭います。

 ユダはいつまでも熱心でありました。この二十二節を見まするならば、ほかの弟子は主をわたす者は、ユダであることを知りません。ユダは表面うわべでは、少しも怠りませなんだ。他の弟子と同じように熱心でありました。けれども、心の中にこの失望がありましたから、主のことばを信じません。不信仰がありましたから、ついに敵の手に主をわたしました。

 私共は人間の眼の前に、どういうことを現しますか。主は誠実まことなる方であることを現しますか。主はご自分の約束を成就したもう方であることを現しますか。或いは顔の色や、行いによりて、心の中に幾分か主につきて失望があることを現しますか。もしそうでありまするならば、それは主を敵の手にわたす罪の始めです。ユダはほかの大いなる罪人つみびとともに主を十字架にけよとは叫びません。必ずそういう大いなる罪を恐れました。けれども、ユダの罪のために、敵は勢力を得ました。ユダの罪のために、主は十字架にきたまいました。そのために主は死にたまいました。兄弟よ、私共は主の約束を受け入れませんために、心の中に失望がありまするならば、それによりて主イエスを敵の手にわたすかも分かりません。何故なにゆえですかなれば、主の敵は私共の失望するのを見て、これは誠実まことでない証拠であると思いましょう。このパリサイびとと祭司のおさは、ユダのあかしを聞き、イエスは偽りであると思いました。ほかの人々がそういうことを申しましても信じません。けれども三年間主と共に親しく交わりました者が、こういうことを現しまするならば、敵はイエスの偽りであるということを信じましょう。兄弟よ、私共の品行によりて、主を信じません人々は、主についてどう思いましょうか。

 もう一度十九節をご覧なさい。さきに申したように十四章二十九節十六章四節にも同じことを見ます。主はご自分の苦楚くるしみを、ことごとく預言したまいました。弟子は主のことばを受け入れましたならば、悉く主の苦楚くるしみと、十字架と、復生よみがえりとを待ち望みましたでしょう。けれども、弟子はそれを受け入れません。二十節をご覧なさい。主はこの世に代表者を置きたまいます。ご自分はこの世を去りたまいますが、その代表者を置きたまいます。それによりて、弟子はその位の高きを悟りましょう。主が世を去りたまいまするならば、爾来これよりのち主の代表人でありますから、自分の重き責任と、高き位とをわかります。これは、私共の重き責任です。

 『心さわぎ』(二十一)。主は十二章二十七節のごとく、心に憂えたまいます。主は人間の心をっていたまいましたから、朋友ともに傷つけられました時に、必ず痛みを覚えたまいました。主は人間の心がありますから、私共に同情を表することができます。主はその時に憂いいたみたまいました。けれども、十四章一節のごとく、『あなたがたは、心を騒がせないがよい』と命じたまいます。主は憂いを有っていたまいました。けれども、心の中に平安がありました。

 『わたす者あり』(二十一)。このわたすことはただ今まで主と交わりたる者ばかり犯すことのできる罪です。主を信じません者は、この罪を犯すことはできません。主の敵は必ず主をわたすことはできません。わたすと申せば、必ず朋友ほうゆう、或いは知己のものです。この罪はまだ主を知りません者の罪ではありません。私共のように主を知り、主を信じ、主と交わりました者の罪です。

二十三〜二十六節

 『イエスは答えられた』(二十六)。これはただささやきでした。主イエスとヨハネのみの問答でした。私共は主の秘密を知りとうございまするならば、主の胸にらなければなりません。ほかの弟子は主の談話はなしを聞きました。けれども、主の心の秘密を知りました者は、ただヨハネ一人のみでありました。『パン切れを浸して取り』。これは愛と丁寧のしるしでした。創世記四十三・三十四、ルツ二・十四、サムエル後書十一・八(there followed him a mess of meat from the king: 欽定訳)をご覧なさい。そうですから、これは眷顧かえりみと、同情のしるしでした。格別に愛のしるしでした。主は一節のごとく、終わりに至るまでユダを愛したまいました。終わりに至るまでユダを救いたまいとうございました。終わりに至るまで格別に愛のしるしを与えたまいました。

 この晩に、その筵席ふるまいの時に、主の愛は格別に輝きました。主は始めにユダと、ほかの弟子たちの足を洗いたまいました。格別にことばをもって、行いをもって、愛を示したまいました。ユダはそれに負けませんか。ユダは終わりまで勝ちました。ユダは終始神の愛に勝利を得ました。これは恐ろしきことではありませんか。私共も神の円満なる愛を拒みまして、勝利を得ることができます。神の愛に負けませずして、終わりまで自分が勝つことができます。これは悪魔の勝利です。

二十七節

 『サタンが彼の中に入った』。神の愛を拒みましたから、サタンにところを与えました。神の愛に負けることは、私共の一番大いなる幸いです。二節を見まするならば、ユダはサタンの思想かんがえを心に受け入れました。今はそれから、漸次だんだん進みてサタン自身を心に受け入れました。私共は初めサタンの思想かんがえを受け入れまするならば、漸次だんだん進みてサタンを受け入れるかもわかりません。ちょうど反対に神の思想かんがえを心に受け入れまするならば、漸次だんだん進みて神自身を受け入れますかも解りません。

 『そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた』。戦慄おそろしき命令です。もはや仕方がありません。もはやあなたを救う望みがありません。この罪を犯せよ、神を十字架にけよという命令です。まこと戦慄おそろしき命令です。マタイ二十五・四十一の我を離れ去れよの命令と同じことです。主は私共を罪より救いたまいとうございます。けれども、私共が主の導きに従いませんならば、主は私共をその罪に任せたまいます。『なんぢなさんとする事は速かにせ』と命じたまいます。

二十八〜三十節

 『夜であった』(三十)。闇に出ました。その闇はなおなお暗き闇の雛形であります。もはやユダは暗闇に出ました。マタイ二十二・十三をご覧なさい。『外の暗闇にほうり出せ』。いま主はそれをユダに任せたまいました。この三十節は、うしないました魂です。主の聖貌みかおの光を捨てて、主ご自身を捨てて、悪魔に導かれまして、罪を犯すために暗きに出ます。これはすべての罪の小さき例話ですと思います。すべての罪は、主の恵みを捨てます。主の慈愛を拒みます。悪魔に導かれて罪人つみびとは闇に出ます。

三十一節

 私共は表面うわべから見まするならば、いま人の子は、はじを受くと思います。神また彼によりて、耻を受くると思います。けれども、信仰によりて、主の十字架の栄光を見ることができます。主は十字架のくるしみを耻と思い煩いたまいません。かえってその栄光を見付けたまいました。兄弟よ、私共は神に導かれて、耻とくるしみに会わねばなりませんならば、どうぞそれを念頭に掛けませずして、十字架の栄光ばかりを考えて進みとうございます。使徒五・四十一のごとく、『イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び』。どうぞその通りに十字架の栄光を見て、耻をいといませずして進みとうございます。

三十二節

 私共は神に導かれまして、十字架を負い、はじを受けまするならば、神もそのために耻辱ちじょくを受けたまいましょうか。たびたびサタンはそのような誘惑をもって、私共をさそいます。私共は十字架を負いまするならば、人間に辱められまするならば、神も辱めを受けたまいましょうと誘います。けれども、かえって神はそれによりて、さかえを受けたまいます。どうぞそれを心に留めて思いとうございます。『神もまたみづからのさかえうちに彼をさかえしむ、たゞちに彼をさかえしめん』。またなおなおそれによりて、私共に栄を与えたまいます。そうですから、人間に辱められることを大切に思いましょうか。人間に辱めを受けまするならば、そのために神より栄を受けます。人間に軽蔑せられまするならば、そのために神より尊ばれます。私共は人間の辱めを避けましょうか。十字架を逃れましょうか。否、どうぞ勇気をもって、人間の辱めをいといませずして、神の栄を得とうございます。神より尊ばれることを求めとうございます。

三十三節

 そうですから、主は弟子を慰めることを始めたまいます。ご自分の辱めを言いたまいました。またいつまでも、ご自分のことを思いたもうも、よろしいことでしょう。けれども主はご自分のことばかりを考えたまいません。今直ちに弟子を慰めたまいます。またここに『小子をさなごよ』と言いたまいます。実に親切なることばです。今までたびたび或いは兄弟、或いは弟子、或いは朋友ともと言いたまいました。けれども、今なおなお深き愛を現して、小子おさなごよと言いたまいます。『小子よ』。そうですから、弟子はことごとく青年であったと思います。二十歳ぐらいの青年であったと思います。

三十四節

 今ままで弟子は、幾分か肉によりて主を知ることができました。けれども、今から霊によりて主を知ることを学ばねばなりません。いま主は弟子を去りたまわねばなりません。主が弟子を去りたまいまするならば、主に断えず忠実に仕えるしるしなにでありますか。三十四節をご覧なさい。この意味は今私はなんぢらを去ります。汝らは常に忠実に私に仕えとうございましょう。どういう印をもって常に忠実であることを示すことができましょうか。相互あいたがいに愛することによりてであります。私共はいま主の眼の前に忠実であると示しとうございまするならば、兄弟を愛することによりてであります。『善かつ忠なるしもべぞ』(マタイ二十五・二十一)。終わりにそういう声を聞きとうございまするならば、いま兄弟を愛する愛によって善かつ忠なることを示さねばなりません。

三十五節

 真正まことの教会のしるしは、なにでありましょうか。私共の真正まことの教会は、どこであるかを尋ねまする時に、或る人は私共の教会は、かような政治上の印がありまするから、主の真正の教会であると申します。或る人はここにこういう聖典が行われてありまするから、主の真正の教会であると申します。或いはロマ教会は、使徒の時代から正統の按手式あんしゅしきを受けぎましたから、真正の教会であると申します。けれども、真正の教会の証拠は政治上でありません。聖典でありません。表面上うわべ形体かたちではありません。ただ愛です。『それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』。愛によって真正まことの教会がわかります。どうぞわが国でこの印を見とうございます。ここで真正の教会を見とうございます。

三十六〜三十八節

 『あなたのためなら命を捨てます』(三十七)。真正まごころをもってそれを言いました。のちにペテロは、単身ひとりにて多くのロマの兵卒と戦いました。喜びて生命いのちを賭けて、主を救いとうございました。

 『今ついて来ることはできない』(三十六)。ペテロは今は主に従うことはできません。けれども、できると思いました。またペテロの心は忠実でしたと思います。けれども、その時に十字架を負うことができません。『後でついてくることになる』。また二十一・十八に、のちに十字架を負うことができると言いたまいます。けれども、いま十字架を負うことができません。

 いま熱心もあります。忠実でもあります。けれども、そのために十字架を負うことができません。聖霊は死に至る道であります。何故なにゆえに私共に聖霊が与えられまするかならば、主の十字架を負うためです。死に至るまで、主に従うことのできるためです。何故なにゆえ私共にペンテコステの聖霊が与えられますかならば、溢れるほどの喜悦よろこびを与えるためではありません。十字架を負うことのできるためです。死に至るまで主に従う力を与えるためです。教会の名誉を受くるために、聖霊を与えられますか。いいえ、そうではありません。はじを受くるためです。私共が喜んで耻を受くるために、聖霊を与えられます。

 或る兄弟は、ペテロのごとく、今でも私は喜んで主イエスのためにはじを受けますと申します。いま死に至るまで忠実であると申します。いま死に至るまで主に従うと言います。また真心をもって、それを言います。けれども、まだ自分の弱きことを知りません、たぶん同じ晩に賤しきしもめの話のために、堕落するかもわかりません。賤しき婢の話のために、ペテロは自分の弱きことを知りました。また死に至るまで主に従う力と、熱心がないことを知りました。罪に陥りしことによりて、始めてそれを知りました。兄弟よ、死に至るまで、主に従う勇気がありますか。心の中にあると思いますか、どうですか。必ずその力がありません。自分の熱心をもって、主に従いまするならば、ただ失敗となります。けれども、『のちわれに從はん』という約束があります。十字架を与える約束があります。あなたに耻を授ける約束があります。あなたに死を与える約束があります。『後われに從はん』。そうですから、あなたは主に従いとうございまするならば、『われなんじに聖霊を与へん』と仰せたまいます。またそれによって耻と、十字架と、死とを堪え忍ぶことができます。一度真心をもって、主に従いとうございました時に、ペテロのごとく失敗しました。けれども、そのために望みを失うてはなりません。かえりて『後われに從はん』という主の約束を受け入れまして、失敗のために、自分の弱きことを知りまして、聖霊によりて、死のバプテスマを求めとうございます。また聖霊によりて、私共は耻にも、十字架にも、勝利を得まして、主に従うことができます。おお兄弟よ、主は『後われに從はん』と仰せたまいます。



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