第八回 救いの始め



第 七 章


大洪水の間

 第六章には洪水の前の状態が書き記されたのであったが、第七章には洪水中のことが書いてある。すなわち第一に世の人に対する神の態度とその取扱方、第二に神の選びたまえる民に対する神の態度と御取扱方が書いてある。さてこの神の態度と御取扱方は今日こんにちも同じことであるから、この方面から本章を研究すればはなはだ厳かな教訓を見出すことができる。


一 罪人に対する神の態度と御取扱

 一、神はその人々の悪しきことを見たもう(六章五節)。神は悪人に対して無頓着な冷淡な態度を取りたまわぬ。天より見下ろして人の道徳的状態を鑑みたもう(詩篇十四篇二、三節)。神は人間の罪に対して知らぬ顔をして黙したもうようであるけれども、実は深き憂いをもってこれを見、審判の日までに怒りと憤りを積みたもうのである。

 二、神は人を造りしことを悔いて憂えたもう(六章六節)。人を造らなかった方がよいと思いたもうかのごとく悔いたもうと記されてあるのは、神の御心みこころの実に極端なる表現である。今でも神はかく思し召すことではあるまいか。人間が神を棄てて罪を犯し、目的なく徒らに世を過ごし亡び行く有様ははなはだしく神の御心を痛ましめ奉ることである。

 三、神は一人の人、すなわちノアを見出し、彼を備えかつ遣わし、彼をしてこの亡びつつある人類を警戒したもうたのである(六章八節)。人間の罪のはなはだしきに拘わらず、その反逆の極端なるにも拘わらず、神は人を亡ぼしたまわざる前に、まず救われるべき機会を与え、忠実なるしもべを遣わして義を宣伝せしめ、きたらんとする怒りより遁れるように警戒したもうた。

 四、神は救いの方法を備えたもう(六章十四節)。神はただ義を宣べ伝え、来らんとする怒りを警戒せしめ、罪を悔い改めるように命令なさしめたもうばかりでなく、方舟はこぶねを造らしめ、命を助ける恵みを有形的に彼らの目の前に備えたもうたのである。今でも同じことである。神は人の罪を見、人を造りしことを悔いて心に憂えたもうばかりでなく、我らに十字架の救いを備えおりたもうのである。

 五、神は悔改くいあらための時とおりを延ばしたもうた。七章四節を見れば、ノアが方舟に入ってから七日の間、雨が降らなかった。すなわちノアが方舟を造り上げてからこの七日間に、彼自身と家族のもの、それからすべての家畜や種々の動物など、従順に方舟に入ることによって、その信仰の確実なることを不信者の前に表した。ノアとその家族は真の証人であった。疑いもなくこの七日間に雨も降らず、洪水の出そうな何の兆候もなかったであろう。不信者は嘲り笑ったに相違ない。方舟を造ることを助けた大工なども不信仰のためにノアを嘲り笑ったことと思う。それにもかかわらず神はその罰を七日間延ばして悔い改める機を備えたもうた。今もその通りに神は始終悔改の機会を与え、天罰を延ばし、落ちかかる審判を差し控え、恩恵をもって人を導きたもうのである。

 六、神は他のすべての逃れ道を絶ち切りたもうた。その世の人々が神の救いの道を拒絶し、不信仰をもって全くこれを断った時に、神は他の遁れ道を全く亡ぼしたもうた(七章十七〜二十節)。すなわちすべてのやすみ所、遁れ所がなくなった。すべての高山の絶頂までも洪水に掩われてしまった。これは我々にとっても極めて厳かな警戒である。『ほかの者によりてはすくひることなし、あめの下には我らの賴りて救はるべきほかの名を、人に賜ひし事なければなり』(使徒四章十二節)。富も身分も人の栄誉も人格も教育もすべての友も、すべての頼るべきものが空しくなる。救う者としては一切が空しくなる。もしイエス・キリストによる救を拒むならば、天下に何の頼むべき者もなくなるということを承知せねばならぬ。

 七、終わりに神は一切の生けるものを悉く亡ぼしたもう(七章二十一〜二十四節)。悲しいかな、長い間落ちかかっていた天罰がもはや留める由なくして臨んだのである。神は長く忍び、長く警戒し、救いの道を備えたもうたのに、人々は悔い改めることをせず、不信仰をもって神に叛き、神のあわれみの提供を拒絶したために、ついに恐るべき天罰が罪人つみびとの上にくだったのである。全世界は全く乱れ、暴虐に満たされ、絶望的に腐敗してしまったから、神はかく審判したもうよりほかの道がなかったのである。ちょうど医者が人の生命を助けるために極端なる手術を行い、手足でさえも切ってしまわねばならぬ場合があるように、神は人類を救い出すためにこの畏るべき天罰をもって人類を極端に取り扱いたまわねばならなかったのである。しかもこれは今一度繰り返されるのである。

 全世界は今一度ますます腐敗し、神より離れ、傲慢なる態度をもって神に叛き、恥じるところなくその道を乱し、暴虐に満たされてほとんど罪悪の絶頂にまで上った。されば神は必ず今一度、このたびは水をもってでなく、審判の火をもってこの世と世にある一切のものを焼き亡ぼしたもう時が来るのである。


二 神の選民に対する態度と取扱

 これより神の選びたまえる民に対したもう態度と御取扱を学ぼう。

一、 神 の 招 き (七章一節

 『方舟はこぶねるべし』との幸いなる招きである。『きたれ』という語は聖書のうちに六百度程度書いてある。『すべての人罪を犯したり』『よこれぞ神の羔羊こひつじ』『われにきたれ』の三聖句は福音のABCと称えられている(英語にてはこの三聖句の初めの字がA・B・Cである)が、実際これは福音のイロハである。いま神はノアにただ方舟を造るように命じたもうばかりでなく、懇ろに方舟の中へ入り来るように招きたもう。もちろんノアとその家族のほかにこの方舟を造るために多くの者が働いたに相違ない。多くの大工等もそこにともにあったであろう。神は彼らにも悔改を命じたもうた。けれども悔い改めなかったから、今ノアに対すると同じ懇ろなる招きをばその人々に与えたもうことができなかった。ただその選びたもうたたみノアとその家族に向かってのみ『方舟に入るべし』との招きが来たのである。

二、 神 の 観 察 (七章一節

 『我なんぢがこの世の人のうちにてわが前にただしきを視たればなり』と仰せられた。これは実に幸いである。既に学んだごとく神は人の悪の地に大いなるを見たもうた。神はこれを見過ごしたもうことができなかったのであるが、その悪しき社会の中にもノアの義しきことを見遁したまわなかった。英国に『枯れ草の塚の中に針一本を探す』という諺があるが、そのように人間がただ罪悪の大集団となれるその中に唯一の聖徒を見出すことは困難のようであるけれども、神は最も貴重なる宝玉のごとくに義人に目をつけたもうのである。『ヱホバは全世界をあまねく見そなはしおのれにむかひて心をまったうする者のために力をあらはしたまふ』(歴代誌下十六章九節)との御言みことばは幸いにもいずれの時代にも真実である。神の御目おんめの前にありて金剛石よりも、すべての宝玉よりもまさりて貴重なるものは、悪しき世の中に在りてけがされざる義人である。しかり、神はつねにこれを観察したもう。愛する兄弟よ、励まされよ。神は大いなる観察者である。神はこの悪しき世の中に御自身の教会に目を留め、その目の前に義とせられたる者と定めたもうのである。

三、 神 の 命 令

 神はノアに方舟を造ることを命じたもうたが、ノアはこれに従ったばかりでなく、五節にあるとおりすべて神の命じたもうたごとくに成し遂げた。また九節十六節にあるとおりノアもその家族もすべての動物も神の命じたもうたごとくに従順に方舟に入った。我々の救について神の懇ろなる招きは肝要なことである。しかしこれは招きであるばかりでなくまた命令であることを忘れてはならぬ。使徒行伝十七章三十節にあるとおり、神は何処の人にもみな悔い改めることを命じたもうのである。神は招きたもう。神は勧めたもう。神は警戒したもう。神は励ましたもう。しかし格別に神は悔い改めることを命じ、キリストを信じ、逃れのまちのように逃げ込むことを命じたもうのである。これはしてもしなくてもよいというようなことではない。神の御命令である。幸いにして我々は方舟を造る必要はない。我々のための救の方舟は既に出来上がっている。我々のなすべきことはただその出来上がっている方舟に乗り込むことである。

四、 神 の 備 え (七章二、三十四節

 神はキリストのうちに一切の必要物を備えたもうた。エペソ一章三節にあるとおり、神はキリストに在りてすべての霊の恵みを既に与えておいでなさる。食物も犠牲のものもみな方舟のうちに備わっていたごとく、キリストご自身のうちに我らの一切の必要物は既に豊かに備わっているのである。

五、 神 の 保 護 (七章十六節

 『ヱホバすなはち彼を閉置とぢこめたまへり』とあるごとく、神はノアとその家族を方舟に入らしめ、御自身にその戸を閉じたもうた。これには深い教訓が含まれている。すなわちヨハネ伝十章二十八、二十九節にあるとおり、我らがキリストのうちに閉じ込められている間は何者も入って来て我らを奪い出すことはできない。全く安全である。

六、 神 の 眷 念 (八章一節

 周囲のすべてのものはみな亡ぼされ、審判の水の怖るべき怒濤はなお方舟の周囲に逆巻いている。けれども神は方舟のうちにあるこの僅かの者に目を留めて『ノアおよび彼とゝもに方舟はこぶねにあるすべて生物いきものすべての家畜を眷念おもひたま』うたとしるされている。神は忘れたもうことなく、眠りたもうことなく、夜も昼も我々を憶えたもうのである。かくて必ず我らを閉じ込められたところから救い出して自由を得させ、広い場所に導きたもうのである。神の記憶は決して衰えることはないのである(イザヤ四十九章十五、十六節)。

七、 神 の 回 復 (八章一節

 神は風を地上に吹かしめたもうたから水が減じたとある。この洪水を退かしめ地を乾かす風は更生の霊である。原文では霊という字は風である。ちょうど風が地を乾かすごとくに天来の風、すなわち聖霊は神の聖前みまえよりきたりて全き回復をなさしめたもう。十字架の恵みは更生の恵みの端緒である。方舟に閉じ込められる恵みは一層広いところにずる恵みの準備である。同じように神は我らの霊魂をさらにまされる広きところに導きたもうのである。このことにつきては次の章においてなお詳しく学ぶことであろう。



| 総目次 | 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 |
| 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 附録1 | 附録2 |