第五回 宗教の始め



第 四 章  一〜十七


 既に見たように、第二章は人間の始めで、人間の造られた状態が記され、第三章は罪の始めで、人の堕落が記されていたが、この第四章は宗教の始めで、真の救いの道がしるされている。ここに多くの心に留むべき真理が書いてあるが、いま充分に述べ尽くすことはできぬ。たとえばここに非常に深い預言的意義が含まれている。すなわちアベルはキリストの型、カインはユダヤ人の型である。アベルが犠牲の血を流したる上、殉教者として自己の血を流したことは、キリストの贖いの二つの方面を指す。またカインがアベルを殺して詛われ、漂泊者となったごとくに、ユダヤ人はキリストを殺したために、それ以来二十世紀の間詛われて今なお漂泊者となっている。このような方面の意味を研究すればはなはだ興味有り、また利益あることではあるけれども、我らは今その代わりに我々に適用すべき霊的意味を味わうこととしよう。

 聖書において、何処でも、二つの互いに相反せるみちがある。すなわち二つの宗教がある。自然宗教と超自然宗教、砂上に建てられた家と巌上に建てられた家、滅亡に至る広き道と生命に至る細き道とである。また聖書の初めより終わりまで人物の二つの種類が相対照されている。すなわちアベルとカイン、アブラハムとロト、イサクとイシマエル、ヤコブとエサウ、税吏とパリサイ人、罪ある女とパリサイのシモン、ザアカイと若きつかさ、放蕩息子とその兄、十字架上で悔い改めた盗人ぬすびとと悔い改めなかった盗人等の類である。この実例において恩寵の道と人間の生来のままの道との相違が明らかに見える。さればこの第四章においてまず第一に恵みの道、すなわち救いの道を研究し、それより人間生来のみち、すなわち偽りの宗教、亡びの道を考えることとしよう。


一 恩寵の道 (すなわちアベルの宗教)

 一、アベルは罪を自覚していた。自ら神の聖前みまえに出るに堪えない者、直接に目を挙げて神に近づき奉ることのできない者で、カインがなしたように酬恩祭を献げる価値のない者と深く感じていたのである。疑いもなくアベルもカインも罪の由来、そのはなはだしきこと、その罪の重きことなどをアダムとエバから学び、その着ている皮衣を見、その意味を聞き、深く教えられていたことであろう。しかして聖霊によってこのことがアベルの心に透徹して真の悔改のを結ばしめたのである。

 二、アベルは神の義と愛を信じ、信仰によって身代わりの犠牲を献げたのである。さればヘブル書十一章四節に彼はカインよりもまされる犠牲を献げたとしるしてある。アベルの犠牲が火をもって焼きつくされた時に残るものはただ灰のみである。それに比べてカインの供え物は人間の眼の前にすぐれて立派に見えたに相違ないけれども、神はアベルの犠牲を悦びたもうた。何故なればその血を流した供え物を献げる彼の心の動機に神の義と愛を信ずる信仰が見えたからである。

 三、彼はこの犠牲を献げると共に自己を献げた。ヘブル十一章四節に『神その供物そなへものにつきて』云々とある『供物』は複数である。これは彼が犠牲と自己との二つの供え物を献げたということを意味している。これは我々にとっても学ぶべき点である。或る人はキリストの贖いの血を信じて神の御前みまえにこれを訴え奉るけれども、これと共に自己を献げることをせぬ。また或る人は熱心に自己を献げて奉仕を励もうとするけれども、キリストの血の御いさおしに訴えることをせぬ。これは両方とも間違いである。アベルはキリストの血に訴えると同時に、全く自己を神に献げたのである。

 四、アベルは神のあかしを得た。ヘブル書十一章四節にあるとおり、神はアベルの供え物につきて証したもうた。これは聖霊の証である。聖霊の証は二つのものについてである。すなわち第一にキリストの血について証し、次に信ずるところの我らが神に受け納れられているということを証したもうのである。これは真の救いの道である。我々が自己の罪を悟り、キリストの血に訴えて自己を神の祭壇の上に献げれば、必ず心中に、我はキリストの血によって罪赦され、神のものとなっているという幸いなる証を受けることができる。

 五、アベルは神より聖霊の証を受けたことをば公然と証し、カインの前にも発表したのである。四章八節に『カインその弟アベルにものがたり』云々とあるを見れば、疑いもなくアベルの平和と喜びを見てカインがその故を尋ねたので、アベルは大胆にカインの前に証をなしたのである(ロマ書十章十節)。

 六、アベルは信仰のために迫害され、殉教の死を遂げた。これは常に真の救いの道の順序であり、真の信者の通過すべき道程である。もちろん今我らはアベルのごとくに迫害され血を流さぬかも知れぬけれども、真の信者なれば迫害を受けるは当然である。

 七、アベルは信仰によって今なお我らに物語っている(ヘブル書十一章四節)。もちろんこれは創世記四章にあるごとく、神の耳に復讐を訴え求める声ではない。それはアベルの血の声であったが、ヘブル書十一章を見ればアベル自身が信仰によって語っていると録されている。しかり、実に彼は数千年前に殺されたけれども、彼の信仰の声は今なお我らに響いて驚くべき教訓を与えている。


二 人間生来の道 (すなわちカインの宗教)

 一、このカインの生まれたることにつきて、コリント前書十五章四十六節にあるとおり『血氣のものさきにありて靈のもののちにあり』ということを学ぶ。エバはカインの生まれた時に必ず約束の救い主であると思ったと見える。四章一節の原文は『彼はらみてカインを生みていひけるは我一個ひとりの人を得たり すなはちヱホバなり』である。カインという名の意味は『所有』である。エバはこれは必ず神の約束したもうた救い主であろうと思ったが、後で非常に失望した。そのことは弟アベルの生まれた時、彼に『むなし』と名づけたことによって判る。とにかく自然すなわち肉に属する者が先に出て来るということを記憶すべきである。

 二、カインは無宗教の人でなく、やはり宗教を信ずる者で、アベルのように神の御前みまえ祭物そなえものを持って来たが、その祭物は酬恩祭であった。レビ記を調べてみれば、燔祭はんさい或いは罪祭と共にでなければ酬恩祭は献げることのできないものである。けれどもカインは罪を自覚せず、贖罪の必要を悟らず、自己の義を立てて神に近づいて来たのである。これはいつでも肉につける道、自然宗教の道である。神より物を受けず、却って神に献げんとする。これがカインの道、自己の義を立てるみちである。根本的の誤謬である。

 三、カインは自ら無罪と思い、このままで神の御前に出る価値があると考えていたが、自己の献げ物について神の証を受けない時、すなわち神に受け納れられておらぬことが明らかになった時、直ちに怒りを発して自らその恐ろしき罪あることを表した。謙遜なく、悔改なく、神の思し召しを聞き神の判断を求めることをせず、却って神に叛く心が明瞭に現れて来たのである。

 四、これに加え、神は驚くべき愛をもって救いを提供したもうたけれども、彼はこれを拒んだ。この第七節には種々の翻訳があるが、そのうち主なるものは以下の二通りである。

 第一は『なんぢもし善を行はば受けれられざらんや。なんぢもし善を行はずば、罪は飛びかからんとて待ち伏せするけものの如く門戸かどぐちに伏す。罪はなんぢを慕ふ、されどなんぢは罪に勝つべきものなり』。
 第二は『もしなんぢ善を行はずともなほゆるし供物そなへものとして献ぐべき罪祭のものなんぢに近くあり。それのみならずなんぢの弟アベルは長子としてなんぢしたがひ、なんぢは彼の上にその権を行使すべし』。

 この第二の方が真理であれば、神は懇ろにカインの罪を示したもうのみならず、彼に贖罪の大切なことを示してこの救いを提供したもうたのであるが、哀しいかな、既に言えるごとく彼はこの矜恤あわれみの御提供をも拒んだのである。

 五、カインはただ神の証を聞いたのみでなく、アベルの証を聞いたのである。アベルは必ず自分の平和と確信をカインに語ったに相違ない。しかしてこの平和と喜びは神の御前に犠牲を献げた結果であると証したであろうが、カインはこれをも受け入れなかった。

 六、カインは既に見たとおり自ら無罪と思い、神の御前にきよいものと思って憚らずに神に近づいた。しかしてその時自分の心に恐るべき人殺しの罪の入っていることを覚えたにもかかわらず、その心が傲慢に満たされ、神の御警戒を受け納れず、神の矜恤を拒み、その弟の証をも受けず、ついに具体的に憎悪の心を表し、手を延ばして弟を殺したのである。

 七、それのみならずその心が全く頑固になり、暗黒になり、聖霊にも棄てられて、神の御前にじ畏れることなく、恐るべき罪の責任を拒み、その傲慢と憎悪と殺人の大罪の上に虚偽の罪を付け加えた。

 以上七項はカインのみちである。これは自然宗教の由来とその恐るべき結局である。


三 カインのみちの成果

 この第四章に今一つの研究すべきことがある。それはこの自然宗教すなわち偽りの道の進歩成果である。これはカインのその後の生涯によって明らかに見えている。ここに多くの学ぶべきことがある。けれども要点だけを学ぶこととする。あたかもキリストを受けれない罪人つみびとの実に憫然な恐ろしき生涯の状態であるから、これによりて警戒を受けたいものである。

 一、カインはアベルの血によって訴えられた(四章十節)。
 アベルの血は声を出して夜も昼も神の耳にカインを訴えた。これはちょうど未信者の今の状態である。不信者を神の御前みまえに訴えるものはキリストの流したもうた血である。罪人の罰せられるべき結局の理由は種々の道徳的罪悪を犯したということのためでなく、罪を赦すところの救いを踏みつけ、これを等閑に軽蔑することである。

 二、カインの命が助かったのは、神が驚くべきご慈愛をもって直ちに死罪を執行せず、却って悔い改めるべきおりを与えて天罰を延ばしたもうたのである。これはまた今、神が未信者を取り扱いたもう仕方である(ロマ書二章四、五節)。

 三、カインは神の選びたもうた者を殺したために詛われた。アダムが罪を犯してパラダイスから追い出された時に、地が彼のために詛われた(創世記三章十七節)が、今カインが神の選びたもうた者を殺したために彼は地より詛われた(四章十一節)。同じようにキリストの血を流し、キリストの血の声を聞かず、キリストの血の功績を拒むことのためにすべての人は詛われて悲哀苦痛煩悶のうちにあるのである。

 四、カイン自身が詛われたばかりでなく、カインの労するところもまた詛われた。カインの労苦に対して地は充分に果を結ぶことをせぬようになったのである(四章十二節)。

 五、カインは神より離れて神のかおを見ることができず、無論交通することができなくなったのである(四章十四節)。これは不信者の運命である。詛われて神より離れ、神の面を見ることができず、外の暗黒に住むのである。すなわち望みなく神なくキリストなく、御救みすくいに与るべき民の籍に与らないものである。

 六、カインは神より逃れて休む所なく一生涯彷徨さまようていたのである(四章十二節)。これもまた不信者の有様で、霊魂に真の平安なく、やすむ所もなく、行き着くべき所もなくして彷徨するのである。

 七、これにもかかわらず、カインは悔改の念なく、謙って神に立ち帰り罪赦され御救に与りたいという心もなく、却って傲慢にも立派なまちを建ててその子の名をこれに負わせた(四章十六、十七節)。この世にありては賓旅たびびとまた寄寓者であるはずであるのに、カインは実際にこの世を自分の天国となそうと願ったのである。実に彼はこの世のはかなきことを思わず、自己のために立派な邑を建て、偽りの安息を求め、自己を欺き、自己を忘却し、淪亡ほろびの暗黒に呑み込まれてしまったのである。

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 以上学びきたった教訓を考えて、我らは自己の立場の如何を厳かに顧みねばならぬ。我らはアベルのみちを踏みつつあるか、カインの途を歩んでいるか。砂の上に家を建てるか、巌の上に建てているか。自然宗教の道に従って自己の義を立てつつあるか、恵みによる救いの道に従っているか。深く考えねばならぬ。もちろん我らは皆知らずしてキリストの血を流したのであるが、その同じ宝血による救いをばなみし、これを等閑にしてはおらぬかを、神の御前みまえに自己の状態を反省すべきである。



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