第四十五回 ヨセフ自らを顕すこと



第 四 十 五 章


 いま我等は創世記中の最も美しい感傷的な物語に到達した。たぶんこれはしゅイエスの予表として旧約聖書中最も完全なものであろう。またこれほど美しい型はないであろう。言うまでもなくヨセフが兄弟等に自らを顕すというこの予表が最後に成就するはキリストの再臨の時である。すなわちキリストの兄弟たるユダヤ人が全体としてキリストを見て彼を信じ、全く回復せられることである。けれども我等は今、これから心霊的意味を学び、一箇一箇の霊魂の救いのことに当て嵌めたいと思う。


一 ヨセフ人を避けて兄弟と相会うこと (一、二節

 機会は既に熟した。この上時を延ばす必要はない。兄弟等の心に真の悔改くいあらためが結んだから、ヨセフはもはやその愛情を蔽い涙をとどめる必要がなくなった。今は真心を注ぎ出し、感情を露し、自分をその兄弟等に顕す時が来た。しかし彼がその兄弟等に自分を顕す時は人を避けてただひとりでありたかった。さればすべての異邦人すなわちエジプトびとを退出せしめ、ただ独り顔を合わせて自分を兄弟たちに顕した。ゼカリヤ十二章十二、十三節に書いてあることはちょうどこの通りである。そこにユダヤ国民全体の悔改が書いてあるが、彼らの嘆きは一人ひとりの嘆きである。同じように我々も主イエスに出会って救われる時にはただ独りで主を信じ、主を見奉り、主よりその愛を示されるのである。しかして未信者にはこのことが少しも分からぬ。ちょうどヨハネ十四章二十二、二十三節にある通りである。その時、弟子のユダが『主よ、何故なにゆゑおのれを我らにあらはして、世にあらははし給はぬか』と問うたのに答えて、主イエスは聖霊の奥義を示したもうた。霊魂が主イエスにまみえて生命の関係を結ぶには、必ず人を避けて独りでせねばならぬ。


二 ヨセフ自らを顕すこと (三、四節

 ヨセフは今『我はヨセフなり』『ふ我にちかよれ』『我はなんぢらの弟ヨセフなり』と言った。この三つの恵みの言葉は如何に幸いなることぞ。『我にきたれ』という語は福音の主眼である。これまでヨセフはその兄弟等に荒々しく語り、難しく取り扱って自分から遠く離れさせたけれども、今は全く変わって、我に近づき来れ、我は汝等の兄弟、ヨセフであるという。ただもう愛と恵みに充ち満ちているのである。ちょうど主イエスがサマリヤの女に向かって『なんぢと語る我はそれなり』(ヨハネ四章二十六節)と言い、また罪ある人に向かっては『すべて勞する者・重荷を負ふ者、われにきたれ』(マタイ十一章二十八節)と語り、御よみがえりの後マグダラのマリヤに向かって『きてが兄弟たちに……知らせよ』(マタイ二十八章十節)と仰せたもうた。(主は死より甦りたもうまでは弟子等を弟子、しもべ、或いは友とまで呼びたもうたが、甦りののち初めて兄弟と呼びたもうたことに注意せよ。)そのごとくヨセフも今この三つの短い言葉をもって自分の心を明らかに示して自身を顕した。かく懇ろに語られても、兄弟たちはただおどろき懼れて言うべきことを知らなかったと書いてある(三節)。これはちょうどキリストが浪風荒れる海の上に顕れ弟子等にまみえたもうた時に驚き懼れ(マタイ十四章二十六節)、また甦ってのち突然と集まれる弟子等の中に顕れたもうた時に彼らが怖じ懼れた(ルカ二十四章三十六、三十七節)のと同じことである。


三 ヨセフその兄弟等を慰む (五〜九節

 ヨセフはその兄弟等がおどろき懼れ困惑していることを見るや、『うれふるなかれ 身をうらむるなかれ』と言い、かつ彼らの罪を超越して働いた神の深い御計画を示して彼らを慰めた。すなわち彼の慰めの仕方は感情的な慰め方でなく、神の聖旨みむねの上に立ちての慰めであった。すなわち彼はここに神の四つの御目的を明らかに示している。神が自分をエジプトに遣わしたもうたのは、第一に生命を保たしめるため(五節)、第二はヤコブの子孫すなわちユダヤ人をこの地上に保存するため(七節)、第三は彼をパロの冢宰つかさとするため(八節)、第四は彼をエジプト全国のしゅたらしめるため(八節)であったと言うのである。使徒行伝四章二十五〜二十八節に同じことが書いてある。ヘロデとピラトと異邦人とユダヤ人とみな共に主イエスに逆らって十字架につけて殺したのであるが、実は天の父が定めたもうた御計画を成就したのであると言っている。人間の方面より見れば無論大いなる罪であったけれども、神はその大いなる罪をえて恵みの原因となしたもうたとは何たる美しい慰めの言葉ぞや。自分等の恐ろしい罪は神によりて変えられて世界中の救いと生命の原因になったとは!


四 ヨセフ彼らの安全と扶養と保護を約束すること (十、十一節

 ヨセフは涙をもってその愛を顕し、自身ヨセフであることを明かして彼らの良心の呵責を止め、また神の驚くべき御計画とその意味を説明して神の慰めを与えたばかりでなく、今一歩進んで、この上にも彼らの将来につき安全と扶養と保護を与えることを約束した。すなわち父も子供も孫も家畜も所有物もみな招きて彼自身の近くに置き、これよりなお五年の飢饉の間、十分に扶養保護すべきことを約束したのである。これは主イエスが罪人つみびとのために豊かに備えたもうた恩恵の備えの型ではあるまいか。ただ我等の罪が赦されるばかりでなく、現在将来にわたって実に豊かな恵みが備えられているのである。


五 ヨセフ顔と顔を合わせて兄弟等と語ること (十二〜十五節

 今までヨセフは通弁を通して語った(四十二章二十三節)。しかし今は通弁なしに直接に語るのである。すなわち十二節に『汝等なんぢらの目とわが弟ベニヤミンの目のるごとく汝等なんぢらにこれをいふ者はわが口なり』とある通りである。ヨハネ十六章二十五節を見よ。主イエスも『我これらの事をたとへにて語りたりしが、またたとへにて語らず、明白あらはに父のことをなんぢらに告ぐるとききたらん』と仰せられた。ヨセフもそのように自分を隠して語っていたけれども、今は直接に顔と顔を合わせて交わり、その涙と慰安の言葉と約束をば更に愛の接吻をもって印するのである。ちょうど放蕩息子の帰った時に父は和らぎの印として接吻をした通り、いま彼は溢れる心をもって涙と接吻を交えてゆたかに兄弟たちを赦し、その心に確信を与えた。ああこれは何たるキリストの型なるぞ。我らもこの話を通して信じ、感謝し、確信することができる。このヨセフの赦しは豊かなる赦しにて、心に何の苦い思いも残らない。その通りに神は我等を赦し、我らの罪を全く忘れたもう(イザヤ五十五章)。


六 ヨセフ自分の愛を一層豊かに証明すること (十六〜二十四節

 ヨセフは漸く何の故障もなくして兄弟等をカナンの地に帰らしめることができるようになった。もはや彼らは愛と恵みをもってヨセフの心に結びつけられているから、再びエジプトに帰って来ぬであろうというような恐れはないから、以前の時のように人質を取っておく必要もなくなった。兄弟等の心はもはやヨセフに奪われているから、無論カナンに行ってまたヨセフの許に帰りきたることは疑いもないことである。されど彼はなお自分の愛を深く証明するために七つの恵みを付け加えたのである。すなわち

 一、ヨセフは限りなき恵みの約束を与えた。すなわち父と子供等とすべての家族を招きて、エジプトの国の豊かなるき物を与えることを約束した(十八節)。
 二、父と兄弟等の妻子のために大いなる車を送って、これをもって父を連れきたるように供えた。ヤコブはもはや老年に達しているから、とても馬に乗ることはできないからかく車を備えたのである(十九節)。
 三、途中の食物を充分に備えた(二十一節)。
 四、彼ら各々に立派な衣服を与えた(二十二節)。
 五、ベニヤミンには銀をも付け加えて与えた(二十二節)。
 六、カナンからエジプトに来るみちのためにとてただにパンと肉を供給したばかりでなく、エジプトの豊富なる贅沢品をも与えた(二十三節)。
 七、しかして最後に極めて大切なる忠告を与えた。これは非常に親切な諷刺をもって、今一度昔の罪を思い出させ、自分をエジプトに売った時の争いを再びせぬように諭したのである(二十四節)。

 ヨセフはこの貴重なる恵みを与えて今は何の疑うところもなく父の許に彼らを遣わした。我等もこの数節の話によって如何に主イエスが我等の悔改くいあらための後に取り扱いたもうかを学ぶことができる。


七 ヤコブの喜び (二十五〜二十八節

 かくて兄弟たちはつつがなくカナンに帰りきたり、はなはだ謙遜なる喜びをもってこの驚くべき事実、夢よりも不思議なる物語を父に語った。ヨセフはまだ生きていてエジプト全国のつかさになっているという驚くべき幸福なる音信を語ったが、ヤコブはあまりのことになかなか信じない。彼らはヨセフの言ったことを告げ、彼の慰めの言葉、約束の言葉を聞かせ、その上にヨセフからの贈り物なる大きな車を見せたのである。ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見るや否、信ずる心が起こって精神も回復した。そこで『たれり わが子ヨセフなほいきをる われしなざるまへにゆきこれん』と言った。

 ここにも非常に学ぶべき教訓がある。彼らの話はその父ヤコブをして信ぜしめるに足らなかったが、具体的に恵みの証拠、すなわちヨセフのところに自分を運ぶところの車を見る時に初めて確信したことは、味わうべきことである。我々もその通りに、我等をキリストの許に連れきたり、御命令を実行せしめ、御約束を実現するところの力、すなわち聖霊なる車のあることを悟れば、漸くにして我等の怠れる、鈍い、信ずることの遅い心が回復して確信するようになるのである。今一つの学ぶべき点は、ヤコブの子等がその言葉に具体的の証拠を出して父を信ぜしめたごとく、我等も人を導く時に、ただ言葉のあかしのみでなく、必ず具体的の行いが伴わねば、人をして信ぜしめるに足らないということである。



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