第三十回 ヤコブの奉仕



第二十九三十章


 アブラハムの生涯の特質は信仰、イサクの生涯の特質は子たること、ヤコブの生涯の特質は奉仕である。さればアブラハムにおいて信仰の霊を見、イサクにおいて子たる霊を見たるごとく、ヤコブにおいて奉仕の霊を見ることである。二十九章一〜二十五節は妻を得るための奉仕、二十九章二十六節三十章二十四節は子を得るための奉仕、三十章二十五〜四十三節は所有を得るための奉仕であるが、更にこれを七つに区分して学ぼう。


一 神に選ばれたるしもべとしての奉仕 (一〜十四節

 ヤコブは欠点多き者であるけれども、また神の選びたもうた僕である。彼はユダヤ人の先祖たるべき子を生むべき妻を取らせんとて遣わされたのである。しかし同じ目的をもって遣わされたエリエゼルと比較して見よ。非常に多くの相違がある。二十四章を見よ。エリエゼルはまずその出発において著しく異なっているばかりでなく、彼は(一)祈禱深く、(二)神を拝し神を崇め、(三)成功した時にも神に感謝し讃美した。ヤコブも無意識的には導かれているけれども、祈禱も礼拝も感謝讃美もなかった。後に回顧して神の御導きであったことを認識するけれども、その当時においてはこれが神の導きであることを悟らず、全く無意識的に導かれて行ったのである。彼は信仰も極めて幼稚であったから、導かれる道も分からなかったのである。されども神は頌むべきかな。かかるヤコブをも御約束のごとく絶えず伴って導きたもうた。我等も同じことではなかろうか。今までの生涯において意識的に神に導かれていると覚えなかったことも、今よくよく回顧すれば過去十年二十年の生涯のごく細かいところまで実は主に導かれていたことを悟ることである。無論これは感謝すべきことではあるが、自ら神の御嚮導きょうどうを意識しないことは大いなる損失である。


二 求婚者としての奉仕 (十五〜二十節

 ここにおいてもエリエゼルの場合と大いに異なっている。リベカが迎えられた時に兄ラバンは直ちに与えたが、今はそうでない。ラバンははなはだ狡猾な者であり、またあまり富んでおらず、しもべもなかったから、ヤコブを使役して富を得ようと思った。それゆえに娘を与えるあたいとして仕えしめた。そしてそれによって大いなる富をなしたのである(三十章二十七〜三十節)。エリエゼルは賜物としてリベカを得たけれども、ヤコブは勤労の値として妻を得たのである。


三 罪を犯せし者としての奉仕 (二十一〜二十五節

 ヤコブは父を欺き、兄より家督の権を奪ったのであるが、今はラバンに欺かれた。彼は罪を犯せし者として、その播きし所を刈り入れるべくここに奉仕したのである。


四 夫としての奉仕 (二十六〜三十節

 ヤコブはラバンの欺瞞をば非常に怒ったけれども、彼はいま何をもたず、如何ともなすべき道がないから、止むを得ずしてその妻を得るためにさらにまた七年仕えたのである。これもやはりその罪の収穫である。


五 父としての奉仕 (家庭の生涯)(三十一、三十二節

 彼は人を欺き、また欺かれて、多妻主義の結婚をなした。さればその家庭には必ず嫉みと争いと苦痛と悲哀とがあったのである。この家庭の苦痛は子供の名に現れている。これを研究すればラケルとレアの心の中の有様が分かる。

 ○ルベン(見る) 三十一、三十二節
 レアの苦難は夫が真実に愛せぬというところにある。いま子が出来たからこれからは愛せられるであろうと言ったところにその悩みが顕れている。

 ○シメオン(聞く) 三十三節
 レアの心の中に真の信仰が見える。神は見、また聞きたもうと信じたのである。されども『今をっと我を愛せん』と期待せしになお『ヱホバわがきらはるゝを聞きたまひし』と言うところに何たる悲しみのあることぞ。

 ○レビ(結ぶ) 三十四節
 『をっと今よりは我に膠漆したしまん』。この言葉によりなお彼女の苦しみの存するを見よ。

 ○ユダ(讃美) 三十五節
 夫は我を愛せざれども我は神をめんと言った。彼女の信仰が讃美と変わったのである。ロマ書二章二十九節を見よ。

 ○ダン(審判さばき) 三十章一〜六節
 ラケルは苦しめられた。また子なきために嫉みを起したのである。前にも言ったようにハムラビイルの法典によれば、妻に子がなければ婢女しもめれて子を得べきことが定められていたから、彼女はこの方法を採った。しかしてその子に『審判』と名付けたのは、これを神の正しき審判によることとしたのである。(無論ダンの名につきては一層深い意味があった。四十九章十六〜十八節の所にある話を見よ。)

 ○ナフタリ(争い) 七、八節
 再び婢女しもめの子を生むにより、姉と争って勝ったと言っている。家庭に争いのあったことが明らかである。

 ○ガド(福) 十、十一節
 これはレアのこれまでの態度と違う。彼女は神与えたもうと言わずして幸運であると言った。或る人はこれはレアの堕落であると思うけれども、そうではない。これは婢女しもめの子であるから、神与えたもうとは言わなかったのであろう。

 ○アセル(楽しみ) 十二、十三節
 幸運によって神をめたのである。

 ○イッサカル(値) 十四〜十八節
 今一度ここに神の名が出て来る。ガド、アセルの生まれたる時にこれを神の賜物と言わなかったが、このたび自分の胎により子を与えられた時に神の名を言っている。彼女がなお神を信じているしるしである。

 ○ゼブルン(住む) 十九、二十節
 神をめ望みを起して、長い間離れた夫が今より我とともに住まんと言ったのである。

 ○ヨセフ(加えられる) 二十二〜二十五節
 これはラケルに生まれた初子ういごである。

 これらの命名の理由を見れば彼の家庭の有様が知られる。二人の女が何故に子を求めたか、自分に子がなければ婢女しもめれて子を生ましめたかと言うに、それは互いに夫の愛を得んとする争いである。これによって彼の家庭が如何に悲しむべき状態であったかを見ることが出来る。


六 しもべとしての奉仕 (二十六〜三十六節

 ヤコブは既に妻と多くの子をもったが何の所有もなかった。しかし今は帰国せんと言い出した。ラバンは自分には神を信じなかったけれども、ヤコブのために祝福せられたことをよく知っているから、彼の去ることを好まなかった。ヤコブは『我は何時いつ吾家わがいへなすにいたらんや』と言って留まることを拒んだが、ついに報酬を約して再びラバンに仕えることとなった。けれどもこのたびもまたヤコブを欺いた(三十五節を見よ)。ヤコブは妻のことについてと所有のことについてと二度ラバンに欺かれた。ちょうど彼が兄エサウを二度欺いたとおりである。


七 同じ古いヤコブとしての奉仕 (三十七〜四十三節

 ヤコブは『なんぢむれをゆきめぐりて其中そのうちよりすべぶちなる者まだらなる者を移し綿羊ひつじうちすべて黑き者を移し山羊のうちまだらなる者とぶちなる者を移さん これわがあたひなるべし』(三十二節)と言い、ラバンもこれを承諾したが、ラバンはヤコブを出し抜いてヤコブの分となるべき種類のものを他に移してしまったのである。されば白ばかりの綿羊、黒ばかりの山羊の中から黒の綿羊や斑や點のものが生ずるは普通に長い間を要するから、尋常の方法では容易に資産を作る望みがない。そこでヤコブは誠に賢い方法を設け、家畜の壮健なるもののはらむ時には特にぶちまだらなるものの生まれるように計画した。そのために『羸弱よわき者はラバンのとなり壯健つよき者はヤコブのと』なったのである(四十二節)。ヤコブは長い間牧畜をしていて、家畜の孕む時に見るところのものによって受ける感化力をよく知っていた。人間の目にも同様の、否むしろより強大なる力がある。他の感化力を全く絶縁して視力を働かせ、これをもってものを動かすことができるということが発見されたということである。外物に対してでさえそのような力が働くのであるから、自己に対しても非常な働きがある。妊娠中の婦人が残酷不潔な絵画を見、活動写真を見ることは、胎児の性質に非常な悪感化を及ぼすものであるから警戒せねばならぬ。さてヤコブはかかる自然の法則を利用して利己的な計画をなし、ラバンのはかりごとの裏をかいた。彼はなおその兄の軽率なるに乗じて家督の権を売らしめたと同じ、古い狡猾なる性質に従って事をなしたのである。彼が根底から悔い改めるまで、神が彼を様々の方法にて苦しめ懲らしめ教えたもうは当然であった。さりながらかかるヤコブを顧みてつねに守り、その約束をえたまわざる神の御忠信と御憐憫は讃美すべきである。



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