第三十四回 不従順の価



第 三 十 四 章


 もはや学んだ通り、ヤコブは大いに恵まれ故国に帰ってから直ちにベテルの方へ行き、誓いを果たし、それより親たちのいる所に行くはずであったけれども、自分の所有のためにむさぼりの心を起し、この世を慕い、神の道を外れてシケムに行き、そこに家を建て田地を買って安楽に暮らすようになった。これは実に不従順である。ペニエルの驚くべき経験にもかかわらず誠に悲しむべき堕落の状態である。かくのごとき不従順は必ずその結果をもたらさずには終わらない。この三十四章において、彼の不従順のはなはだ悲しむべき結果が明細にしるされてある。


一 目の慾 (一節

 ヤコブに十二人の男子があったが娘はただ一人であったから、この一人の娘デナは必ず特別に愛せられていたに相違ない。このデナが家より出てその国の婦女を見に行った。テトス二章五節には若き女は謹慎つつしみ貞操みさおとを守り、家のつとめをなすべきことが勧めてあるが、この娘は家を出て不信者の娘たちを見、その国の風俗や衣装の流行などを見に行った。これはごく小さいことであるが目の慾である。この小さい目の慾から大きな罪が出て来る。エバの罪も目の慾から来り(三章六節)、ロトの大いなる災いも目の慾に原因している(十三章十節)。イスラエルの全軍を煩わせたアカンの罪も目の慾から起こり(ヨシュア記七章二十一節)、ダビデの姦淫殺人の恐るべき罪もやはり目の慾から誘引されたのであった(サムエル後書十一章二節)。


二 肉体の慾 (二〜五節

 この目の慾から来るものはもちろん肉体の慾である。デナが親たちの許しによって不信者と交際するようになったのはヤコブの不注意の罪であった。だんだん不信者と交際するうちにそのまちのシケムという者が彼女を見て色情を起し、彼女を誘って姦淫罪を犯した。デナの方の間違いとしては何もしるされておらぬけれども、必ずシケムが無理に罪を犯させたのではなく、甘んじて承知したことであろう。このことは如何ほどヤコブの心を苦しめたことであろうか。五節にある通りヤコブはこれを聞いて黙していたが、必ず自分の不注意の結果と思ったに相違ない。またシケムより田地を買い、生業を営まんとしていたから、シケムの地位身分を思い、またデナが喜んで承知したことを考えれば、シケムに対して何も言われぬわけであった。彼は子等のから帰るまで黙していたが、心中はなはだ羞じたことであろう。不従順ははなはだ恐るべきこと、神の道から外れるのははなはだ不幸なことである。神の御旨みむねの道から離れてしまうことは常に煩悶悲哀の原因である。


三 傲慢と憎悪 (六〜十二節

 シケムはもちろん恐ろしき罪を犯した。けれども後からそのけがした娘を娶ることを申し出で、礼儀ある仕方をもってできるだけその恥を除きたいと考えたのである。また『いかにおほいなる聘物おくりもの禮物れいもつもとむるもなんぢらがわれに言ふごとくあたへん』と申し出て、どんなことをしてでもその罪の結末をつけたいという正しい心があった。無論この罪は弁解することはできぬけれども、不信者としてはヤコブの子等よりもたちのよい者であった。デナの兄弟等は非常に怒ったが、彼らは罪のはなはだしきことを感じたよりも、むしろ自分らの面目を失ったこと、その傲慢な心を辱められたことを憤ったのである。その動機ははなはだ卑劣であった。そしてはなはだしい憎悪をもって実に残酷な復讐をした。この男女の罪は相半ばしていると言ってもよいことであるから、かかる復讐は全く理由がない。ヤコブの罪の収穫はただにその娘の汚されたばかりでなく、その子等の忿怒ふんぬと復讐に燃ゆる恐ろしき事態を生ずるに至ったことである。


四 復讐と褻瀆せっとく (十三〜二十四節

 ヤコブの不従順のために恥辱と困難を惹起したことは既に学んだが、まだまだはなはだしい結果を生じた。デナの兄弟等は自分等の悪魔のごとき残酷なる目的を達するために実に悪い策略を考え、最も厳かに守るべき契約のしるしを害用した。すなわちシケムの人々が彼らと自由に交際し、デナがシケムと結婚することのできるため、神の最も厳かな契約の徴なる割礼を受けるように暗示した。これによって実にはなはだしく神の御名みなけがしたのである。

 一、彼らはあだを返すために神の契約の徴を用いた。

 二、彼らが結婚の条件として割礼を要求したのは偽善である。何となれば、彼らの父も彼等自身も既に割礼を受けざる人の娘、また姉妹と結婚したからである。しかるに今この場合に限りこれを要求すべき理由はないのである。

 三、ただ個人的なる楽しみのできるために神の神聖なる契約の徴を用いるのははなはだしいことである。シケムは真にアブラハムの契約の徴に与り真の神を信ずることでなく、ただ自分の好む女と結婚するため、自分の便利のためにこの厳かなる徴にあずかったのである(十九節)。

 四、ただシケムとその父ハモルの二人だけ割礼に与ることでなく、彼らはシケムのまちの人全体が割礼に与るように勧めたが、その動機は二十三節にある通り、かくすることによってヤコブの一切の所有はシケムびとのものとなるからと言うのである。これは一層はなはだしいことではないか。個人的利益のために神聖なる宗教の儀式を乱用することである(二十二、二十三節)。

 五、元来この割礼は神の恩寵と生命を与える手段であるべきはずであるのに、これをば殺人と残害の手段としたのである。これは実に戦慄すべきことである。シケムの人等が苦しめられつつ何の防禦も抵抗もなし得ずして死なんとする時にあたり、如何ほど神の御名を詛い、神の神聖なる契約の徴を詛ったか知れざることであろう。


五 殺人 (二十五、二十六節

 ヤコブの不従順のために最もはなはだしい罪が生じた。すなわち殺人である。ヤコブの子等はシケム人に割礼を施して動くことのできぬようにしておいて、デナを取り返し、それと同時に分捕りものとして彼らの財産を取る考えであったかも知れぬが、シメオンとレビ、すなわちデナの同母の兄弟たちがなかなかこれで満足せず、極端なる害を加えんと決心してこの残酷極まる復讐を敢えてしたのである。これによってどれほどにヤコブが苦しめられたか知れぬ。神の御名みながこれによってけがされたことは言うまでもないが、ヤコブの名もその国にて瀆され、憎まれるようになった。


六 掠奪 (二十七〜二十九節

 シケムびとを殺したのはシメオンとレビで、ほかの兄弟たちはそんなつもりでなかったかも知れぬけれども、シケム人の殺されるや、彼らは直ちにでて彼らの所有物を取った。これによって見ればただデナのために復讐するばかりでなく、自分等の心のむさぼりを満たす考えがあったに相違ないのである。


七 恐怖と恥辱 (三十、三十一節

 ヤコブの不従順はこんな恐ろしい収穫を作った。すなわち眼目の慾、肉体の慾、傲慢と憎悪と偽善と褻瀆せっとくと殺人と掠奪、これははなはだ恐ろしき収穫である。その後にこの老人が非常に迷惑してシメオンとレビを咎めた。しかしその恐ろしい罪を責めずして、ただ自分がこれによって迷惑を受けることを言っている。すなわちこの短い話の中に『我』という字が七度も出て来る。彼らのこの所業のために自分がカナンびとに憎まれ、これから迫害せられるであろう。この国の人々が攻撃して自分と自分の家を亡ぼしてしまうに相違ないと言っている。のち四十九章五〜七節にある通り、シメオンとレビの罪と残酷のはなはだしいことをよく覚えたけれども、このたびは彼らの罪を責めず、ただ自己の恐怖と恥辱を覚えて誠にあわれな心を顕している。ヤコブは自分のいつわり深い心と行いのために種々の苦い経験を通ってきたが、これは最も苦い経験であったに相違ない。光を受ければ受けるほど責任が重くなる。ヤコブがペニエルにおいてはなはだ大いなる恵みを受け、自分の今までの生涯の間違ったことを自覚し、かつてなきほどの新しき光を受けたのに、なお自己の工夫とはかりごとをめぐらし、この世のものをむさぼり、知りわきまえながら神の御旨みむねに背き、神の示したもうた道に外れ、冷ややかな頭の考えをもって不従順の道にしたがったのであるから、この苦い経験をばどうしてものがれることができぬようになったのである。これによって実に厳かなる警戒と教訓を受け、不従順というものは如何に恐ろしきものであるかを知るべきである。

 さてこの三十四章から今一つ学ぶべきことがある。この章の出来事がヤコブの掘った井戸の附近での出来事であることを思えば、ヨハネ伝第四章を思い出さずしてはおられぬ。こことヨハネ伝第四章に二人の罪を犯した人の話がある。これが面白い対照をなしている。創世記三十四章の女は漸くにしてその生命は助かったが、そのまちの人はみな亡ぼされた。ヨハネ伝四章の女は驚くべく救われたばかりでなく、スカルの邑の人々はその婦人のあかしを通してキリストによって救われた。昔のレビ、すなわち祭司の支派の先祖は、恐ろしく残酷な剣をもって人を亡ぼしたが、我等の祭司なる主イエスは、人を亡ぼすためでなく、かえって罪ある女もサマリヤの邑の人々をも救うためにここにきたりたもうたのである。これもまたしき対照である。



| 総目次 | 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 |
| 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 附録1 | 附録2 |