第三十二回 ヤコブのきよ



第 三 十 二 章


 ヤコブはラバンから離れてだんだんと故郷に向かって進んだが、もはや遠からずしてその恐れる兄と顔と顔を合わせて相会あいかいせねばならぬことを思って、彼の心は憂慮をもって充たされた。この三十二章において彼が如何に兄を怖れたか、如何にして兄に会う準備をなしたか、如何にして神に祝福され、守られ、導かれたかということがしるされている。


一 天使の異象 (一〜二節

 神はかく怖れを懐いているヤコブを励ますために、ちょうど適切なる時期において今一度異象をもって彼に顕れたもうた。神の時期は遅からず早からずちょうどよい間違いなき時期である。そしてこの異象は天使の顕れる異象であった。聖書を見れば、神は聖霊をもって人の霊を護りたもうごとく、天使をもって聖徒の身体を物質的に保護したもうようである(詩篇九十一篇十一、十二節、列王紀下六章十六節以下、マタイ四章十一節同二十六章五十三節ルカ二十二章四十三節)。このことについては聖書中に多くの実例がある。これは天使の御奉仕である。ヤコブの生涯において三つの大いなる示現があった。すなわち(一)二十八章十九節にある通り神の家の示現、すなわちベテル、(二)ここで神の陣営の示現、すなわちマハナイム、(三)本章三十節の神の顔、すなわちペニエルであった。この三つの示現は霊的経験である。すなわちベテルは真の救い、マハナイムは神の保護、ペニエルは神の交わり、顔と顔を合わせて神にまみえ奉る経験である。今ここでは彼は神の万軍が自分とともにあることを見て、神の陣営に守られ導かれおることを知って励まされ強められた。これは実に神の恵みで、特別に彼が励ましを要する時に天使のこの示現を与えたもうたのである。


二 ヤコブの僭越 (三〜五節

 ヤコブは神の示現に非常に励まされた。しかして兄エサウの方へ使いを送り、自分が故国に帰ることを言い送った。しかしながらその使者に告げた言葉を見れば、何ら謙遜なところがない。無論エサウに対する以前の罪を懺悔することをせず、かえって自分の所有の多いことを述べ、自分の事業の成功せしことを兄に感じさせんとしたのである。彼は天使の示現を見たから、必ずエサウは彼に負けて以前の怒りを忘れて歓迎するであろうと思ったであろう。彼がこの示現によって多いに励まされたのは当然であるが、そのために僭越な態度に出たのは間違いである。


三 ヤコブの恐怖 (六〜八節

 ヤコブが予期したところは裏切られた。使者等はエサウから帰って来たが、歓迎の一言も持ち帰らず、かえってエサウが四百人の家来を連れて迎えに来るということのみ知らせた(六節)。言うまでもなくエサウが非常に怒ってヤコブを殺すつもりで迎えに出たことは明らかである。これを聞くとすぐにヤコブは全く不信仰に陥り、神の約束も天使の示現も打ち忘れ、前の僭越も大胆も恐怖に変わってしまった。必ずエサウが怒りを発して自分を殺しに来ると心に決め、如何にして助かるべきやと憂えもだえ、やはり昔のヤコブの性質を顕してはかりごとを設けた。すなわち自分の所有物を二つに分かち、一隊を前に、一隊を後ろに置き、もし一隊が亡ぼされるとも一隊は遁れることができるように工夫した。彼はいま全く神を忘れ、不信仰のみが心に働いていたのである。


四 ヤコブの祈禱 (九〜十二節

 ヤコブは不信仰と恐怖に所を得られて苦しんだが、今は少しく信仰を起して祈る。或る信者は成功の時には祈らぬが、苦しくなると自然に祈り出す。今このヤコブの祈禱を調べてみれば、彼はまず神の御前みまえに謙り、神の約束を覚え、この帰国は神の御命令にしたがってであると祈っているが、この神をばアブラハムの神イサクの神と称えて自己の神と言わず、神の御約束を真実に自己に当て嵌める信仰がなかった。あまつさえ口では立派に祈っても、この祈りを終えると静かにその祈禱の答えを待ち望むことなく、直ちにまた工夫をめぐらし巧みな仕方をもってエサウをなだめんとした。


五 ヤコブの頼み (十三〜二十節

 ヤコブは速やかに神の約束を忘れ、祈禱を忘れ、賢い方法により立派な贈り物を作り、三つの隊に分かち、その隊と隊との間に隔てをおき、エサウに送り、この手厚い贈り物をもってエサウの怒りをなだめようと思ったのである。もし彼が静かにしてすべてを神に委ねて信じていたならば、神は必ずエサウの心を宥めてくださることを悟るはずであったが、ヤコブの信仰はまだそこまで徹底していなかった。やはり自己の工夫を頼みとしていたのである。


六 ヤコブの孤独 (二十一〜二十三節

 ヤコブは所有も子供等も妻等もみなヤボクの河を渡らしめ、自分一人残ってそこに夜を過ごさんとした。これは何故であったか明らかにはわからぬ。或いはエサウから人が来て自分のいるところを探して攻撃することを防ぐために高いところに立って見守るためであったかも知れぬ。恐らくは神に祈禱する考えはなかったであろう。彼は活発に事を行う人で、退いて深く神と交わるたちの人ではなかった。エサウに会うことは予期していたが、神に取り扱われるということは予期していなかった。何のためであったか知れぬけれどもともかくヤコブはヤボクの河の辺に独り残った。この時期は、神がこの人を取り扱いたもう好機会だったのである。


七 ヤコブのきよめ (二十四〜三十二節

 『人ありて夜のあくるまでこれ角力ちからくらべす』。注意すべきはヤコブがこの人と力比べしたのでなく、この人がヤコブと力比べしたということである。ヤコブはたぶん初めにこの人が誰であるかを知らなかったであろう。或いはエサウから来て自分の陣営を窺うものと思ったので、一生懸命敵対したことであろう。しかしよく気を付けてこの話を読めば、このヤコブと力比べした人は天使でなく、イエス・キリストであったということがわかる。この狡猾な、巧智な、倨傲な、不信仰で我が儘なヤコブをば砕いて根本的に恵むために、主イエス御自身が現れて彼と力比べしたもうたのである。神は幾度も彼が高慢を棄てて神に信頼する者となるように導かんとなしたもうた。すなわち第一に異象を示して(二十八章)、失望せしめることによって(二十九章)、困難なる境遇をもって(三十章)、反対を受けることによって(三十一章)、天使の異象を示して(三十二章一、二節)、神は彼の心を砕き御自身の幸いなる御目的を成さんとしたもうたけれども、ヤコブは容易に降参せず、服従しなかった。神は無論彼をして衷心から喜んで降参せしめる思し召しであったが、彼が承知せぬゆえ、神は今一層厳しく取り扱い、この頑固な人を砕きたもうのである。神は御自身の御手みてを伸ばしてヤコブの神に敵対する力を抜き、エサウから遁れようとする力を抜き、しかしてもはや彼が神に立ちむかうことを得ず、ひたすら待ち望み、もがきをやめてすがりつき、神を負かさんとすることをやめてただ神の恩寵を受け、神と争うことをやめてただ祝福されることを願うようにならしめたもうた。これははなはだ幸福な降参であったが、それだけではまだ祝福される態度でなかった。今一段くだって、それから祝福されたのである。勿論ヤコブはだんだんと自分に敵対するこの人はエサウからの使つかいでなく、かえって天使のような御方であると思い、自分の力が全く抜けたことを感じて、積極的に祝福されねば満足せぬ心を起した。或る人は潔めを求めるにあたり、ただいたく打ち砕かれ、力を失うようにせられたところに留まって、積極的に祝福を受けるところまで進まぬけれども、ヤコブは消極的の砕きによって決して満足せず、『われを祝せずばさらしめず』と大決心をもって熱心に積極的に神の恵みを求めたのである。天よりくだりたもうた使はこれを見て、恵まるべき最後の条件として、ヤコブの名を彼自身の唇をもって言い表すことを求めたもうた。ヤコブの名は彼の性質を代表している。そこでその淋しい所で静まりきった夜中に、ヤコブが声を出して自己一生涯の過失と罪悪と欠点失敗の大原因なるその性質を言い表した。『我はヤコブ、ける者であります』。かく彼は漸く根本的の罪悪を覚えて深く感じたのである。『もしおのれの罪を言ひあらはさば、神は眞實まことにして正しければ、我らの罪を赦し、すべての不義より我らをきよめ給はん』(ヨハネ一書一章九節)とあるごとく、ヤコブは極端の謙遜をもって深く祝福されるように最後の条件を果たした。彼は自分の名を言い顕すとともに、大胆にその天よりの使の名を聞かんことを求めた。神はアブラハムにもイサクにもまた他の旧約時代の聖徒等にもその名を示し、ヤコブにも後にその名を顕したもうたけれども、今はヤコブの信仰を試みたもうためにその名を告げずして行きたもうた。しかし『其處そこにてこれを祝せり』と書いてある通り祝せられた。その祝福は何であったか、その恵みは新しい名、すなわち新しい性質の創造であった。今まで人をけることによって自分の目的を達する性質であったが、これからイスラエルと名付けられて、神に対して力をもち、人に対して力をもつ者とせられた。すなわち信仰によって神を働かせ奉って目的を達する者となった。これが真の聖潔の特質である。神から新しい性質、すなわち祈り通す性質、神を働かせ奉る性質、神に働いて頂くことのできる性質、また神を通して神の御働きによって人を取り扱い人を制する驚くべき性質、これがヤコブの神より受けたる祝福であった。かくしてヤコブは、祝福したもうた天よりの使の名を聞かなかったけれども、信じて満足し、直ちに信仰をもって、自己と力を争いたもうたその御方は神であったと知って、そこをペニエルと名付け、神とかおと面を合わせて相会あいかいしたと言って神御自身を誇りとした。これは注意すべきことである。我は大いなる祝福を受けた、大いなる力を受けた、或いはかつてなきほどの経験を受けたとは言わず、神と面と面を合わせてまみえたと言った。ヤコブの心に意識的に現実に刻み込まれたことは、珍しい経験でなく、全能の神に会い面と面を合わせてまみえ奉ったということであった。これは実に祝福を判断すべき標準である。我らの誇りとするところは何であるか。力か、恵みか、珍しい経験であるか、さてはヤコブのごとくに主御自身を誇りとしているか。今もう一度彼が潔められた順序を繰り返してみると、次のごとくである。

(一)神は幾たびも彼を降参せしめんとなしたもうた。
(二)神は彼をして自ら進んで降参せしめんとしたもうたが、今は厳しい仕方を用いたもうた。
(三)神に敵対し、人より遁れんとする力をくだきたもうた。
(四)神は彼を全く弱くならしめ、ただすがりつき、待ち望み、祝福を求め、祝福を受けるようにならしめたもうた。
(五)自分の名を言い顕さしめたもうた。
(六)新しき名を与えたもうた。
(七)神の名をば聞くことを得なかったけれども、自分を取り扱いたまえる御方を神と信じ、かおと面を合わせてまみえたることを誇りとした。



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