第九章 真理の最小限


 
 『しかし、信仰による義は、こう言っている。「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である』(ローマ十・六〜八)

 福音について何の予備知識もない異教徒の間に伝道することは極めて困難である。旧約の物語の一つでも知らない。贖罪、和解、新生、聖霊などの熟語については全く初耳である。罪とか神とか救いとかいう言葉すら、そのキリスト教的意義については全く無知である。聖書の人物等についても全く不案内で、アベル、ノア、アブラハム、ダニエルなどの名を聞いても何のことやらわからず、時にはキリストご自身の名さえ、何の感興も与えないのである。
 ある宣教団体の幹部のひとりが日本を訪れたとき、大阪のある劇場で多くの未信者のために一場の説教を依頼された。彼は自分の国から得意の説教を携えて来た。彼はそこで開口一番「親愛なる皆さん、あなたがたは、イスラエルの子孫がエジプトの地から出て来たことを覚えておられるでしょう‥‥‥」と語り出した。彼の通訳は慌てて彼をとどめ、「あなたは、イスラエルが何であるかを説明するために少なくとも三十分かかるでしょう。また彼らがエジプトにいたことについて更に三十分かけなければ、今夜の聴衆にわからせることは困難でしょう」と。これは極端な例のようである。しかしわたし自身もこの種の説教の通訳をさせられたことがしばしばあった。
 したがって、十分な真理を土台としなければ真の信仰などあり得ない、救いの信仰を働かす前にキリスト教の真理を十分に教え込む教育が必要であるという意見が、極めて当然のことのように思われる。
 この章の目的は、わたしたちが求めている魂を救いの経験に導く前に提供しなければならない真理は、極めて少ないということを示すことにある。これは祈りと研究を最も要する問題である。わたし自身も、少しもキリスト教について知らない人々の心に有効に届くために、どのようにこの真理を示したらよいかについて、多くの時を費やして研究する必要があった。救霊のわざで成功しようとするなら、同じような努力が必要であると思う。
 この章でわたしたちが取り扱おうとする魂は、その必要についてか、罪についてか、目ざまされた真の求道者と仮定しておく。キリスト教については何も知らないが、困難や悲しみ、病や心配や、また罪の苦しい結果や、或いは説教を読みまた聞いて、自らの状態がどのようであるかを悟らないまでも、キリスト教によって心の平安か、罪の力よりの釈放か、来世の救いか、非常にぼんやりとした考えを持ってわたしたちの所に来た場合、どのように導いたらよいか。彼らに信仰による救いを握らせる前に知らせなければならない最小限の真理とは何であろうか。

 一 求道者の必要にふさわしい救いの方面を示す聖句を提示すること

 『もしあなたが神の賜物のことを知り、また「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』(ヨハネ福音書四・十)

 求道者がどんな筋道で目ざまされたのかを確かめたのちに、わたしたちがまずしなければならないことは、彼が要求しているものにちょうど適する救いの一方面を示すことである。わたしたちはその一点に集中しなければならない。その点を明瞭にし、確実にし、説明しなければならない。簡潔な言葉でこれを述べ、そして最後にみことばをもってこの真理を彼の心に打ち込まなければならない。言い換えれば、救いというものの性質と真理を述べなければならない。同時に、彼が目ざまされた筋道に従って彼を導くことに大いに注意しなければならない。たとえば、来らんとする審判について恐怖をもつ魂に対して、現在の喜びや罪に対する勝利などを語っても何の益もない。またその回心者が情欲に悩まされている青年だったとしたら、死後の生命についての教えを語っても効果がない。真理の提供は単純でしかも確実であることを要する。要するに、悔い改めた者が救いを神の賜物として即刻受け入れるものができるものであることを明らかに悟るように語らなければならない。
 伝道地において避けることにできない一つの傾向は、ほとんどすべての求道者が、だんだんわかって来て救いの経験を味わうようになりだんだん救われる、というように考えることである。このような考えは当初から捨ててかからなければならない。
 前章で、賜物としての救いを強調することの必要を指摘してきたが、この点ぐらい悪魔が巧妙に魂を朝むくことに成功する問題はない。人々は神の存在とその造り主なることと、その正義と全知について認めることができるとしても、それが讃美すべき与え主であることについては全く目をくらまされている。『もしあなたが神の賜物のことを知り‥‥‥』と救い主は仰った。確かに『もし‥‥‥知っていたならば』である。しかしこの一事こそ人々の知ることのできないもの、信ずるのに最も困難を感ずる点である。
 恐ろしいものは四つ、地震、雷、火事、おやじだということわざが日本にある。このように父という考え方が下落しているのであるから、父なる神についても了解することが難しいのは当然である。
 救いは賜物である。それが「心の安息」としてでも、「確信の光」としてでも、「束縛からの解放」としてでも、「永遠の生命」としてでも、これを繰り返し力説しなければならない。すなわち救いは確実なもの、受け取るべきもの、瞬間的に受けることのできるもの、いま受け取ることのできるものである。
 このように真理を提出する場合に、その真理を示す聖句を読ませ、できたら暗唱させればなお幸いである。こうすればこの真理は堅いところに打ったくぎのように、他のことは忘れてしまっても長くとどまるであろう。
 ある時、かつて一度も福音を聞いたことのないひとりの若い婦人が彼女の必要について説教を聞いたあとで、求道してあとに残ったのを取り扱ったことがあるが、彼女は心の不安に悩まされていることを知ったので、わたしは聖書を開いてマタイによる福音書十一章二十八節を示し、これを読んで暗唱するように勧めた。そしてわたしはていねいに説明を加え、この救いこそ今このところで受けることのできる神の賜物であることを告げたのである。

 二 神が父であり祈りに答えられる方であることについての簡単な教え

 『このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか』(マタイ福音書七・十一)

 わたしたちが賜物より、その与え主に移っていくのは自然である。この求道者に提示しなければならない真理の第二の方面がある。神の存在と力と、またすべてにまさって祈りに答え、賜物を与えようと待っておられることである。
 前に述べた求道者の場合、説教の中で神の父であることと、その与え主であることを聞いて求道したのであるが、彼女の心は不安と悩みとでいっぱいになり、彼女の叫びを聞いてその要するものを与えられる生ける神の存在と力とについては全くその心に入っていないのである。
 今まで何も知らない人々に対して、神のご存在、ご性質、ご要求などについて教えようとする場合は、できるだけさしあたり必要なこと以外は語らない方がよい。わたしたちは両極端を試みなければならない。一方においては感情的な観念、他方においては単なる知的学究的な見解である。現在の場合、わたしは求道者に「もし生ける人格的な神がおられるとすれば、必ず祈りに答えられるはずだ」ということを徹底せしめようと努めた。私はこのことを試験してみるように勧めた。神は果たして祈りに答えて下さるのか。マタイによる福音書七章十一節のような聖句を一緒に読んで、この言葉の中に含まれた真理に心を集中させる。そしてこの事実を試してみるように勧告する。単なる神についての説明ではいけない。実際的でなければ効果がない。神の属性についての神学的説明は無用である。悔い改めた者に、神は祈りに聞き答え、そして求めるものを与えられるとの一点を確実に握らせなければならない。
 この点は極めて重要であるから、ちょうどわたしの言おうとするところを説明する一つの実例を述べたいと思う。それはわたしが説明するよりははるかに有効であろう。それはわたしの知っている限り、最も美しい信者のひとりである。彼女は婦人であるが、恐ろしい病に悩まされていた。しかし神に対する美しい信頼に満たされ、数週前の日曜にそのあかしをすることを申し出た。彼女の声はやっと聞こえるくらいであったが、ほとんど男子ばかりの会衆を全く捕らえてしまった。そして四十五分もの間、話を続けた。そのあかしを簡単に記せば次のとおりである。

 「わたしは田舎の生まれで、神さまのことや救いのことについては全く聞く機会を与えられなかったのであります。二十歳のころでした。わたしは、婚約がととのってお嫁に行くことになりました。回りの人は祝ってくれるのですが、しかしわたしには少しもうれしくありませんでした。わたしは人生の空虚が深く感じられ、心は抑え付けられたようで、どこへ行って慰めを得てよいかわかりませんでした。わたしはよく裏の丘の墓地に行って町を眺めながら考えました。この墓には先祖たちが眠っている。現在この町で元気そうに働いて食ったり眠ったりしている人々もまたここに葬られる時が来るに違いない。そうしたらどこに行くのだろう。だれも知らない。また誰も教えてくれない。人生とは何と不思議な、そしてつまらないものだろう、と。
 何度となくわたしは自殺を思い立ちました。ひとりの友人がわたしの悩みを知って一冊の聖書をくれました。しかし開いてみたがさっぱりわからない。教えてくれる者もないので、そのままにしておきました。わたしの悲惨は増すばかり、わたしはまたまた自殺しようと思いました。
 こうしている間に、わたしは、日清戦争の時に捕虜になって広島の収容所に入れられたひとりの中国兵の物語を読んだことを思い出しました。ひとりの宣教師はその収容所を訪問することを許されていて、たびたびその中国兵をも訪ねた。彼は全く無関心であったが、ある重大な罪を犯し、軍法会議によって死刑を宣告された。苦しみの中にあって、彼は宣教師と彼の与えた本を思い起した。しかし自分では何もわからない。その時、彼は神さまがあると聞かされたことを思いだし、もし生ける神があるならわたしの祈りを聞いてくれるはずだ、ひとつ試してみようと決心し、所内にひざまずいて叫んだ。『おお神よ、もしあなたが真の生ける神であるならわたしの祈りを聞き、かつてここを訪問したあの人を遣わし、あなたとその救いについて教えて下さい。あなたが祈りを聞いてくださるなら、わたしはあなたを信じます』と。
 その夜、その宣教師は収容所へ行きたいとの願いがこみ上げてきてたまらないので、さっそく次の日彼を訪れた。彼は狂喜せんばかりにして即刻救い主に導かれた。その時以来彼の人物は一変した。そこで軍隊のほうではその処刑を延ばしたがついに赦され、戦争が終わったあとで本国に帰され、この福音を自分の国の人に伝えるようになったということでした。
 わたしはこの物語を思い返して自分自身に語った。これが事実ならわたしも同じようにやってみよう、わたしもひとつ試してみよう、そうして祈りました。『おお神さま。もしあなたが生ける神様なら、誰かを遣わしてわたしに平安の道を示させてください。もしこの祈りに答えて下さるなら、わたしはあなたを信じあなたに仕えます』と。ひとりの伝道者がかなり離れた所にいたのに、その夜ひとつの重荷を感じて、その夫人に話した。わたしはどうも某町に行って、娘さんを訪問しなければならないように感ずる、と。次の日彼は見えました。私は言うことのできない喜びと驚きとをもって彼を迎えました。そしてその場でわたしは救いを受けました。以来十五年、今に至るまでわたしはキリストを愛し彼に仕えています」と。

 ここに目ざめた魂を導く幸いな秘訣がある。こうして五分間に学ぶことのできるものは、五ヶ月の神学研究にはるかにまさるものである。わたしが導いた若い婦人においてもそうであった。
 このように彼女を導き、神とその賜物とについて単純に信じたことを見て、わたしは第三の点に進みたい。

 三 罪についての十分な教示

 『わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞き入れになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れて下さいます』(ヨハネ福音書九・三十一)

 そこには受けるべき幸いな賜物がある。また求める者に与えて下さる神がおいでになる。そこには彼が与えて下さらない何らかの理由があるだろうか。またわたしたちが受けることができない何らかの理由があるだろうか。このようにただすなら、十中の九までは、真心から求めさえするなら、何の妨げもないことを悟るのである。この点を十分確かめさせるがよい。そうすればこれから示そうとするところが力強く響くのである。このことがわかったなら、今度は罪の分離する力を示さなければならない。
 『見よ、主の手が短くて、
  救い得ないのではない。
  その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
  ただ、あなたがたの不義が
  あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
  またあなたがたの罪が
  主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ書五十九・一、二)
 ここにわたしたちはしばらくとどまる必要がある。彼らがどのような筋道で罪を悟ったか、注意深く探らなければならない。もちろん、それぞれ異なっているであろう。その罪の考え方が霊的でないにしても失望してはならない。神のみことばを遠慮なく憚ることなく使うとよい。了解しなくても心配する必要はない。そしてたびたび罪が分離するものであるという初めの点に帰って教えるとよい。悔い改めた者の知能の程度にも関係がある。またキリスト教の真理について、どれだけ予備知識があるかということも顧みなければならない。そして、どの聖句とどの例証がよく適合するかも考えなければならない。
 前に、罪という言葉を四重の意味に使うことを指摘した。すなわち、行い、習慣、性質、及び告発を受けるべきものとしての罪である。またもし求道者がキリスト教で言うような罪の意義がわからないとしても、自己と他人とを傷つけるものとしてこれを悟ることができることを示そうと努めてきた。もちろんこれははなはだ不適当な罪の見方である。しかしこの点について求道者を導こうとする場合、このような考え方を、より高い見解への飛び石として利用すべきである。あらゆる機会を捉えて彼らを引き上げていかなければならない。罪が神に対しその御心と律法を破るものであるという概念を捕らえさせるまで休んではならない。罪は単なる病気ではない。罪は神からわたしたちを引き離すものであって、この点が認められ、告白され、審かれ、大きな罪を負ってくださる主のみもとに行って解決されるまでは、きよい神との交わりから除外され、平和もきよめも力も受けることはできないのである。別の言葉で言えば、行いと習慣と性質についての罪の自覚は、神に対する罪の自覚を持たせる材料として利用しなければならない。異教徒は、罪が破壊的なものであり、また悪いものであることは悟っているにしても、神に対する罪の自覚は全くないのである。自己の必要とまた神がその求めに答えて下さるということについて目ざめた魂を取り扱う場合において、神に対する自覚にまで至らせるのがわたしたちの仕事である。もちろん各人各様の導き方をしなければならないということは言うまでもない。ここにひとりの教養ある人で、キリスト教の真理についてもある程度まで教えられた人の実例がある。

 数年前、有力なひとりの実業家がわたしを訪ねて来た。彼の妻は熱心なキリスト者であって、数年間彼の救いのために祈っていた。彼はこの市にある大きな商社の支払いのために中国に行くところであった。彼は必要に目ざめさせられた。わたしは彼がどんな必要を感じているのか知ろうとした。彼は罪からの救いを求めていたのである。彼は人の信頼と尊敬を受けるにふさわしい堅実な品性を得たいと願っているのであった。これは半ば真実、半ばパリサイ的な願いであるが、それが彼の持っていた光の全部で、神の霊は確かに彼の中に働いておられることを認めた。わたしは真実な品性の要素は、謙遜と感謝と同情であることを示した。すなわち自己に対しては謙遜、神に対しては感謝、人に対しては実行的な無我の同情であって、結局は愛の三方面であって、これを得る道は天下にただ一つしかないことを告げた。
 わたしたちはルカによる福音書七章を開いた。そこで主は「‥‥‥多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」と言っておいでになる。したがって罪の赦しこそすべての真実の品性の源泉である。この罪の赦しの恵みがどんなに大きいものであるかを悟った者こそ、真に謙遜であり、ゆるして下さるお方に対して感謝に溢れ、自分自身に対するように罪人である人に対して同情深くあることができるのである。
 彼はよくこの点がわかって、砕けた心をもって神の前に打ち伏した。そしてひとりの罪人として罪の赦しを受けるために十字架のもとに来たのである。ちょうど一週間前に、彼は価の高い真珠を見いだしたその日、すなわち主イエスの血を信ずることによって罪の力から釈放された記念の日を思い返しながら、感謝の手紙をわたしに送ってくれた。

 この人はもちろんかなりよくキリスト教の真理を知っていた。したがって、彼のように教えられていない者を、同じような方法で導くわけにはいかないであろう。求道者が犯した罪と、心の中に存在する罪(すべての犯罪の原因)との区別をはっきりと了解するのは必要なことである。この両方とも、わたしたちを神の御前より除外するものである。しかし天の宮殿に至るのに二重の障害があるとは言え、神に対する罪を最大なものとして求道者に知らせることが必要である。まず罪の赦しの道があることについて何らの暗示も与えないうちに、罪は義なる天の父にわたしたちが近づき受け入れられる時に越えることのできない障壁であることを示す必要がある。
 わたしは何度となく、どのようにしてその障害を除くことができるか質問したが、その答えは、祈り、善行、誠実、悔改など、であった。それらのものがみな空しいものであることを示したあとで、彼らを悔改と信仰とに導く前に、わたしたちは最も大きな、最も重要な第四の真理に移っていくのである。

 四 キリストの十字架を教え示すこと

 『一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた‥‥‥』(ヘブル九・二十七、二十八)
 『われわれはみな羊のように迷って、
  おのおの自分の道に向かって行った。
  主はわれわれすべての者の不義を、
  彼の上におかれた』(イザヤ書五十三・六)

 罪の深い自覚に悩まされていたひとりの人のことが伝えられている。彼はどうしても平安を得ることができず、ひとりの熱心な信者の友人を訪ねた。その友人は非常に忙しい身で、ゆっくり話す暇がなかったので、だいたいの事情を聞いてから次のように言った。「家に帰ってイザヤ書五十三章を開いて、第一のすべてから入って、第二のすべてから出なさい」と。
 彼は別れを告げて家に帰った。めんどうなことを押しつけられた彼は、はじめ冗談だと思い、いささか立腹しながら帰った。しかしとにかく聖書を開いて指定されたところを読んだ。
 『われわれはみな(すべて)羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った』と彼は声を出して読んだ。なるほどそれは事実だ。わたしは確かにこのすべての中に入るべき者だ。『主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』。うむ、これがほんとうなら、わたしもまた第二のすべてから出ることができる。わたしは救われたのだ。信仰は勝利を得、自由となったのだ。
 これはキリスト教国に生まれ、その教えを熟知している者には極めて容易なことであるが、しかしキリストの生涯も死もよみがえりも知らない人にとってはどうだろう。わずかの時間のうちに、救い主に対して、十分な生きた信仰を働かすことができるように教えられることができるであろうか。これに対してわたしは答える。できる、もしその心が聖霊によって備えられているならば確かにできる、と。わたしたちは、キリストの生と死とよみがえりとを詳しく初めから教える必要がないことを教えられなければならない。その贖罪の死の事実とその真実の目的と値打ちだけが最も必要なことである。わたしは、キリストの贖罪の死の歴史的事実というふうに言う。なぜなら、たとえば仏教の阿弥陀如来などは、架空の人物の想像から作り出した救い主であって、歴史的実在ではないのである。神秘的な救い主ではなく、歴史的キリストと歴史的よみがえりとを伝えるとは、いかに光栄ある幸いな仕事ではないか。救い主の血に対する信仰は、わたしたちの救いの大きな秘訣である。これがなければ、わたしたちの宣べ伝えるところに何の力もない。目ざめさせられることも、照らされることも、悔い改めることも、最大の終極の一歩であるくぎづけられた救い主に対する信仰までの道程に過ぎない。魂の敵である悪魔がすべてにまさってこの点において人々を惑わそうとする。神の御子の贖いのわざに対する信仰さえ奪いことができるなら、悪魔は悔い改めた者がどんなことを信じても敢えて気にしない。
 多くの熱心な魂が、自分たちの足の踏むべきこの岩を知らないで、決心や献身や頼ることのできないものに頼りながら、泥沼の中に沈んでいくのを見るのは最も悲惨な光景である。
 次に紹介する若い婦人からの手紙は、たとえすでに洗礼を受け教会に属していても暗黒と失望の中にもだえている多くの人々の、一つの見本に過ぎない。この手紙の主は、極めて善良な品性の持ち主で、平安の道を見いだそうとして一生懸命に求めた人である。

 「神の恵みに導くためにこのようにおほねおり下さったご親切に対して、何と感謝してよいかわかりません。すべて信仰の欠乏であったということをかつてないほどにはっきりと見せられました。わたしの祈りは全く利己的で、知らず識らずに神さまに嘘を言っていました。今ほどカルバリに現された神の愛に対して心から感謝をささげたことはかつてありませんでした。
 私は神の前に喜ばれる奉仕をなしていると考えていました。しかし事実は、自己の義をもって自らを救おうと試みていたのです。そこで自分の罪を悲しむたびに、わたしは結局救われているのだろうかという疑問が、心の中に起きて来るのでした。何度か神の御前に泣きました。しかしわたしのうちに真の信仰がありませんでしたから、その祈りが神さまの御耳に届こうとは思えませんでした。だれもこの疑問を解いてくれる者がありませんでしたから、わたしの心は常に失望の状態にありました。そしてついには、わたしがあまり罪に対して過敏なために苦しむのであろうかと考えるようになり、世の一般の人々が罪を犯しても平気でいる状態がうらやましくなり、神さまのことなど聞かなければよかった、そうすればあの人たちのようにこの世を楽しむことができるのにと思いました。わたしは祈りをもって神様に近づくことさえいやになりました。しかし不思議なことに、神を信ずる生涯を送りたいという願いは、何としても捨てることができませんでした。そしてその願いはますます強くなり、たまりかねてわたしの先生のもとに行っていろいろな質問を持ち出しました。先生はわたしが少し気が変になったと思われたようです。そして親切にいろいろなことを教えて下さいましたが、やはり神さまに受け入れられたかどうかはっきりしませんでした。
 あなたがおいで下さったときのわたしの状態はこのようでした。そしてこの小さな部屋で聖書を開いて下さったとき、初めて真の救いとは何であるかを悟りました。次の朝の祈り会の時にも『わたしたちはイエスの血によってのみ救われる』という言葉を繰り返されました。それがわたしの心に届きました。ああついに、生ける事実を認識して、確信をもたらす活ける信仰がわたしの心の中から湧き上がってきました。初めて主イエスがわたしのために死んで下さったことがわかり、わたしの過去のいっさいが血によってぬぐい去られたことを知りました。そうです。愛する先生、今こそ神さまがわたしを受け入れて下さったことをはっきり知ることができました。この尊い真理を教えて下さったことに永遠の感謝をささげます。ただありがとうとくり返しくり返し申し上げるばかりです。今後もどうかお導き下さい。」

 最も重要なこの点において人々を導く場合、単純な例証を用いる必要がある。もちろん例証の選び方は、導かれる人々の知識の程度や意見の相違によってそれぞれ異なるのは自然である。或る者に対しては罪の汚れをぬぐい去るものとして血を示すことができるだろう。或る者に対しては、身代わりの死としての十字架を提示することができるだろう。また或る者には、わたしたちの罪を負う神の小羊としてのキリストを示すことができるだろう。また或る者には罪の毒を抜き取る銅の蛇として、また或る者には血による贖いとして、更に或る者にはわたしたちが聖霊を与えられる代償としての贖いの死を示すことができるだろう。
 わたしは、若い伝道者がこの点を強調力説するように熱心に勧めたい。ヨセフとマリアが主イエスが道連れの中にいるだろうと思ったように不確実な態度を取ってはならない。悔い改めた者が確実に贖いの血に依り頼んで平安を得るのを見届けるまでは安んじてはいけない。
 わたしは長い間のさまざまな経験から、罪や悩みの中に聖霊によって備えられた魂にとっては、神とその賜物、罪とその癒しとの四つの事実を、単純にかつ明快に示すことが、救いを与える者の光として必要ないっさいであることを確認してきた。
 終わりに臨んで特に強調しなければならない一点がある。まだ福音に接したことのない人々の中に、ほとんど罪の自覚を持たない者のあるのを見ても失望してはいけない。彼らがもし求めているとしても、神とその賜物という二つの真理だけしか認めておらない。このような者に対して「あす」と言ってはならない。恩寵と信仰は常に「きょう」と言う。聖霊も言う、「きょう」と。聖言も言う、「きょう」と。今は救いの日である。
 このように半ば備えられた人々のためにも道は開かれている。神はわたしたちにこのような人々を助けて天国に入らしめる特権を与えておられる。もしわたしたちが信仰の確信を持ってそれを用いるならば、「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ十八・十八)という驚くべきみことばは、わたしたちのためでありその働き人たちのためであることがわかるであろう。
 わたしが、しばしば罪人の傍らにひざまずいて、彼らの受けた光の筋道にしたがって罪よりの解放を祈り求めるとき、わたしはキリストの血に訴え、そしてその咎よりの赦しを彼のために求めるのである。彼はおぼろげながら、賜物とその与え主とを認めている。しかしまだ、自分の罪とそれを負って下さるお方を見ていない。彼はただ釈放されればよいと思っている。しかし彼の必要は罪の赦しである。
 この筋道に従うことによって、この章の初めに紹介した若い婦人を救い主に導くことができた。三日後、彼女はわたしのもとに来て、いかにその心が神よりの平安に満たされているかを告げた。彼女はまだその喜びの原因と秘密について十分に知らないが、「わたしは‥‥‥ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」(ヨハネ九・二十五)と言うことができた。
 これらのことが目ざめた魂に提示すべき最小限の真理であると思う。これを示し適用するためには、多くの知恵と多くの祈りと多くの注意深い聖書研究と、多くの忍耐と、すべてにまさって多くの信仰とを必要とするであろう。失敗によって失望することのないようにしなさい。失望や意気阻喪するようなことはしばしばあるであろう。明確な理解と真実な願いと、救い主に対する真の信仰をもつ者に出会うかも知れない。或る者は一時よく走るが、中途で堕落して滅びに行くような者であるかも知れない。しかしまた、少なくない人たちがこのわずかの真理に導かれて信仰に進み、命と健康と喜びとを与えられる救い主としてキリストを証ししながら生活し、主が、暗黒に住む罪人の思うところ、願うところよりはるかにまさったことをなされるお方であることを、証明するであろう。
 


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