第二章 人間の診察──その願い


 
 『悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている』(伝道の書八・十一)

 十九世紀のある偉大な救霊者について次のように記されている。
 「彼は本に書いてあることより、人間の性質そのものを学ぶことを始めた。彼は人間一般の性情、すなわちその弱さやその堕落の深さ、またその能力について知ることの必要を発見した。ことに罪人の心の傷つけられた点、また、どのようにして最も強い人間の熱情と偏見を捕らえることができるかについて熟知することを求めた。こうして彼は成功した救霊者となり、霊を救うというところまで行かない説教や牧会を顧みないようになった」。
 以下、章を追って人の心の診察について学びたい。多くの人は、すべての方面の研究において、注意深くかつ念入りな研究が成功の要素であることを心得ている。しかし、こと救霊の学問となると、ただ神学上の知識や、行き当たりばったりの散漫な研究によって習得できるかのように考えているようである。このような考え方では、もちろん失敗に終わるほかはない。
 しかし、これはきわめて難しい仕事である。ことに異邦人の中にあっては、どれほど罪についての経験があっても、底知れない堕落の深みに届くことはできない。これはほとんど不可能なことだと言ってよい。しかし神は、魂の完全な診断書を聖書の中に与えておいでになる。したがってわたしたちの職務は、人そのものの心について学ぶとともに、この偉大なる医者が診断されたところを勤勉に学ぶのである。
 ここにわたしたちは奉仕の材料を得ることができる。わたしたちの捕らえなければならない根拠地はどこにあるのか、わたしたちのしなければならない働きはどんな働きか、どこをどのようにして攻撃したらよいか。人々の思いと心と意志と良心の真の状態はどうだろうか。これはわたしたちの知らなければならないことである。わたしたちの働きが空を打つようなものでなく、手応えのあるようなものとなるためには、ぜひこのことをしなければならない。
 パウロの任命の第一の仕事は、人々の願いを覚醒させ、真実な朽ちることのない神的なものに向けさせることにあった。わたしたちがこの仕事を始める前に、生まれ変わらない魂の自然の状態、ことに彼らの神に向かう態度について考えたい。こうすることによって、これが悪の要塞であって、まずきよめられなければならないごみためであることを発見するであろう。
 人間について聖書に記された教理は、きわめて広い範囲に渡っている。わたしはただ読者がさらに学ぶための原則を暗示するに過ぎない。行き届いた研究を、この章でなす余地がない。伝道者がこの大切な題目について、さらに注意深く研究することをお勧めしたい。
 神のことばは、人間の生まれつきの願いと愛情の状態を、ものすごい描写をもってしている。「やみの方を愛し」(ヨハネ三・十九)、「快楽を愛する者」(第二テモテ三・四)、「自分を愛する者」(第二テモテ三・二)、「金銭を愛する」(第一テモテ六・十)、「人のほまれを好んだ」(ヨハネ十二・四十三)。また人の心については次のように言っている。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ十七・九)、「‥‥‥変えることができようか」(エレミヤ十三・二十三)、「自分の心を頼む者は愚かである」(箴言二十八・二十六)、「もっぱら悪を行う」(伝道の書八・十一)、「悪い思いが出て来る」(マルコ七・二十一、二十二)。
 わたしたちはこのようなことを信ずればこそ、人々を炎の中から取り出して、救いの奇蹟を行うことのできる神に立ち帰らせようと懸命になるのである。
 この章では、人の神に向かう曲がった態度についてただその根底となる四大項目を述べることにする。
 さて聖霊は「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」と言われる。したがって生まれ変わっていない人の心は、正しい判断をなすことができない。新生してキリストのかたちに化せられた者の判断だけが、人の心の生まれつきの状態について公平な評価をなすことができるのである。しかし最も有益なことは、わたしたちの教科書である聖書に行くことである。これによって、人の心の願いの真の状態について、誤ることのない知識を得ることができる。

 一 人は神を好まない

 『神を認めることを正しいとしなかった‥‥‥』(ローマ一・二十八)

 人々をキリストに立ち帰らせようとするとき、わたしたちはこの恐るべき事実から出発しなければならない。人々は、善悪のどちらであっても、ほかのことは求めるが、神を求めることはしない。近代の神学者が、この事実を否定することは知っている。しかし、わたしたちはすべての神学者を偽り者としても、神を真としなければならない。かしこで求めているのは牧羊者であって、羊が牧羊者を求めているのではない。もし人が神を求めているのに、なお見いだし得ないとすれば、その過失はどこにあるのであろうか。ただ神が悪いと言わなければならない。このような説は、神学と称えていても、実は不可知論の変形であって愚かな冒瀆にほかならない。フィッチェット博士は言う。
 「不可知論は宇宙の玉座に雲霧に包まれて座しているものを見ることを命ずる。その密雲を通して一条の光でも漏れては来ない。その暗黒の中心に隠れている何者かが、わたしたちの霊の父であると言うのだ。その彼が、彼を知ることを欲する願いをわたしたちの性質の一つとしてつくった、しかもそれはこれをもてあそぶために過ぎない。彼は自己を隠している。彼を拝そうとする本能など、一つのお笑いぐさに過ぎない。本能はそこにある、しかしそれは満たされることのない願いと本能に過ぎないのだ」。
 確かに、神はわたしたちの内に神を知る能力を植え付けられた。神を見いだすために、神を探求する本能はある。ああ、しかし人は神を求めない。その本能は麻痺しているのである。人の心の願望は、その根源において毒せられている。単なる教えや理解によって救済ができると考えてはならない。人の心の奥底には、神に対する反逆心と嫌悪がある。人は神を求めない。人は神を心に留めることを好まない。「神を求める人はいない‥‥‥ひとりもいない」。
 救われた者は、生まれ変わる前の自らの恥ずかしい状態を記憶しているので、この診断の誤りのないことを証明することができるであろう。人々は、平和を、救いを、その他さまざまな良いことを願うに違いない。しかし真実で忠信な証人の判断によれば『悟りのある人はいない。神を求める人はいない‥‥‥ひとりもいない」のである(ローマ三・十一、十二)。
 わたしは自分の同労者に、だれか他人に益を与えるという動機で救いを求めた者があったか、と質問したが、だれもなかった。それなら、その同労者たちの扱った求道者の中にそのような者を見いだしたであろうか。否、だれもそのような人はいなかったのである。
 神に対する嫌悪以上に、人間の性質の堕落の明白な証拠はない。日本のある大学の学生を導こうとして働いている宣教師は言った。「彼らが神の存在を否定するドイツ哲学を学んでこれを消化しようとする熱心は並大抵のことではない」と。
 この著しい人間の性質の事実には、何か恐るべき原因がなければならない。或る者は、神を父とする美しい思想を喜ぶのではないか、と想像する。ああしかし、事実はそうではない。人の心には神に対する苦きほえたける反抗心がある。そしてこの思いは、教育を受ければ受けるほど激しくなってくるのである。
 もちろん、中にはいかにも神を求めているように見える実例がないではない。ひとりの姉妹は次のようにあかししている。
 「わたしは十三歳のとき、兄が真の神について話すのを聞きました。兄は自分で信じていたのではなく、何かの書物を読んで、一つの理屈として話したに過ぎません。わたしはそのとき格別に気にも留めませんでした。しかし十五歳のとき、わたしの心を変えることのできる真の神を知りたいという願いが心に起こってまいりました。わたしは両親に連れられてお寺に行きましたが、それは本物でないと直感しました。どうしても祈りに答えて心を変えることのできる真の神がなければならないと考えて、熱心に求めました。しかし、だれも教えてくれる人がありません。このような時、あなたがこの町に来て、ただ神について教えて下さったばかりでなく、主イエスの十字架によって神を知る道を教えて下さったのです。そのときの喜びを想像して下さい。もちろん、わたしは平和も喜びも力も求めてはいましたが、最大の願いは神を知りたいということでした」。
 これは、いかにもわたしの述べていることと矛盾するように思われる。しかしその矛盾はただ表面だけのことであって、聖霊が、いかにどこの国においても魂を救うために働きかけておられるかを証明するものなのである。生まれつきのままの人は聖霊の働きなしに決して神を求めるものではない、という真理を覆すものではない。しかも、これはきわめて珍しい例で、それ以来このような魂には、ただのひとりも会ったことはない。

 二 人は聖潔を好まない

 『彼らは神に言う、「われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、何の益があるか」と』。(ヨブ記二十一・十四、十五)

 人は罪を愛する。ここにもう一つの恐るべき事実がある。人は神の道を知ることを好まない。彼らはすべての罪を愛するのではないだろう。だれもが捨てたいと思う不愉快な罪も少なくはない。しかし、人は生まれつき心の純潔を愛し、願うものではないことは事実である。彼らはある罪の奴隷とされている。しかし彼らはそれを願ったのである。ローマ人への手紙七章に「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが」とあるのは、新生していない魂の状態ではない。ここでもわたしたちの経験はこれを裏書きする。わたし自身の経験において最も悲しい、最も恐ろしい事実は、わたしが心の底から罪を愛したということである。わたしは神の道を知ることを願わなかった。わたしの願いも愛情も全く毒せられ、腐敗しきっていたのである。
 何度かわたしは聴衆に訴えた。人々はこれが事実であることを知っている。すなわち酔いどれは酒が好きである。放蕩者は情欲が好きである。世俗の子は金が好きである。虚栄の女は虚栄が好きである。生意気な者は高慢が好きである。これらのことは、新生していない魂にとって楽しくまた甘美なことなのである。
 日本においてしばしば社寺から社寺へと参拝してまわる無数の巡礼に会うが、その人たちは、一見非常に熱心な信心者のように思われる。しかし事実そこには道徳的意義もなければ霊的要素もない。その願うところは、ただ息災延命、家内安全、商売繁盛であり、彼らの行列は迷信をもって味付けられた一つの遊山というべきものである。
 彼らの職業が何であろうと問題ではない。高利貸しであろうと女郎屋であろうと、その商売の繁盛を願うのである。ある説教者が二人の祈願者の例をとって話すのを聞いた。一人は憐れな婦人で、その子の放蕩がやんで芸者狂いをしないように願っている。しかし一方には太った男がいて、「陰府へ去って行く」淫婦の商売の繁盛を祈っている。いったい神はどちらの祈りに答えればよいのか。聴衆はそのうがった話に大笑いした。
 異教徒が、罪の感覚に圧倒されているもののように考えるのは、とんでもない考え違いである。インドの行者は、後生に功徳を積むために身を傷つけたり、或いは恐るべき苦行を敢えてする。仏教ともまた同じ動機により、時には習慣や刺戟を求める心も手伝って苦行や巡礼をなし、念仏や題目を繰り返す。しかしそれさえも、罪の自覚から出発したものではない。この点について、悔い改めた教養人に質問したら、真の罪の自覚はイエスの弟子となって初めて来たのだと答えた。
 人々はキリスト者になろうとしてわたしのもとに来た。その理由を問えば、「罪から救われたい」と言う。私はこのように申し出たひとりの熱心な求道者を記憶している。彼は非常な短気者で、そのためにたびたび失敗をしていたので、それから救われたかったのである。しかしさらに質問して見れば、実はそのほかの楽しい罪は捨てたくなかった、つまりただ神を利用したかったのである。それから数週間してのち、また一人の求道者が来た。彼は体裁の悪い酔いどれから救われて、もっと見かけの良い罪人になりたかったのである。いっさいの罪を捨てることは好まなかったので、彼は空しく立ち去ったのである。
 「キリストを日本へ」とは、この国のキリスト者の多くが標榜する標語であると言ってよい。しかし決して「日本をキリストへ」ではない。国民も個人も同じように自分の便利のために神を信じ、その律法の幾分かを受ける必要があるように見える場合があろう。しかし真に罪を憎み聖を愛することは、東陽でも西洋でも、新生していない魂には全くないことなのである。
 確かに人は罪を愛する。多くの場合、上品にきれいに見えるかも知れない。しかし罪であることには変わりない。その現れ方は、必ずしも下品で露骨であるとは限らない。かえって美しく好ましく見えるかも知れない。しかしそのとげは更に鋭く、その苦さは更に甚だしく、死の値は更に確実である。

 三 人は神の支配を好まない

 『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』(ルカ福音書十九・十四)

 人は神の権威を憎む。彼らはきよい神を主人とすることを嫌う。ある田舎の町において、ひとりの最も熱心な偶像信者がわたしに会いに来た。長時間の会話のあと、私はこの事実を彼に突きつけた。彼ははばかることなく言った。「わたしは自分の造った神を愛する。あなたが説くようなそんな正しいきよい神はいやだ。わたしの神はわたしの好きにさせてくれる。しかしあなたの神は窮屈でいけない」と。つまり彼は神の支配を好まないのである。神の啓示の書である聖書は、今日よく言われるような「人間の尊厳」については一言も語らない。かえって人は反逆者であり、悪しきわざを行うことによって神の命に遠ざかったものであること、心でその敵となり、その願いも愛情も堕落し汚れ果てたものであることを大胆に宣言している。もしそうでないならば福音はない。神を求める善良な民だけが神を愛する、と告げても、それは何も福音ではない。福音とは、神が罪人を愛して下さるということである。神は反逆者のために死なれた。神は罪人のかしらのために愛を示そうとして待ちわびておられるのである。これこそすべてにまさる真の喜びのおとずれである。
 ただ異教諸国においてだけでなく、キリスト教国で十分の教育を受けた人の中から一つの実例を取ることは、この真理を確かめる助けとなるであろう。有名な聖徒で救霊者で、『われらの模範キリスト』の著者カロリン・フライは、解除の悔い改めの経験をあかしして、心の真の状態が神の前にどんなものであったかを語っている。彼女の献げた最初の祈り、その魂に天の門を開いた最初の求めは実に興味があり、また極めて正直なものである。美貌であり身分もあり、富もあり友人もあって、なおいっさいが空虚であることを語り、悲惨な心の状態をもって神を求めた。これが彼女の祈り方であり、またこの祈りが勝利を与えたのである。
 「おお神よ、あなたがもし神ならば、わたしはあなたを愛しません。またあなたを求めません。私の求めないものを与え、わたしの願わないものを与えて下さい。もしできることなら、わたしを幸いにならせて下さい。わたしは悲惨な状態にあります。この世に疲れ果ててしまいました。もし何かよりよいものがあるなら、それを与えて下さい」。
 これは神に対する人の心の態度の正直な告白である。その祈りが聞かれた。なんとなれば、求める者が神の前にありのままの姿で立ったからである。彼女は神に真を告げた。それが神の求められるものなのである。

 四 人は救い主キリストを好まない

 『あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに来ようともしない』(ヨハネ福音書五・四十)

 性質として、人はキリストを好まない。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」。ここにもう一つの驚くべき事実がある。そしてこれはおそらく最も異とすべき事実であろう。もし道徳的美の化身のようなお方がこの地上に現れなさったとするなら、人々はその傍らに集まり、悔い改め、信じ、従い、礼拝するもののように考えるのが普通である。しかし、事実はいかに異なっていることだろう。愛と憐れみと柔和と真において完全であったお方が、ただ受け入れられなかったというだけでなく、全く顧みられなかったというだけでなく、嘲られたというだけでない、愛し奉らなければならない神なる世の救い主、神の子イエスはのろわれ、十字架にくぎづけられたのである。
 人の心は今も少しも変わっていない。時は罪人の心を変化させない。人は命を得るためにキリストに来ることを好まない。かえって遠ざかって行き過ぎようとする。口先だけでも相手をしてくれれば、それで上出来である。もし彼のご要求である全き服従と奉仕とをもって迫れば、恐ろしく残忍な反抗心は炎のように燃え上がって、ただ彼に対してだけでなく、その使命とご要求とを携える者に立ち向かうのである。「あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」(ルカ十・十六)。
 数年前英国にいた時、わたしは著名な文学者と共に夕食をとっていた。たまたま同席の二人の婦人が退席したあとで、二人だけになった。そこで会話は宗教のことに及んだ。いろいろの語り合いのあと、その文学者は言った。「そうです。私は新約聖書を真のものとして受け入れ、それに記されているキリストの生涯の真実を信ずることもできるでしょう。しかしわたしにとって、キリストの生涯も教訓も死も一つのおとぎ話としか思われません。演劇を見たほうがはるかに感動を覚えます。しかしもしわたしが神の愛をほんとうに信じ、キリストの苦しみと死の事実とが、ただ歴史上の事実であったという以上の真の感動を与えるとするなら、わたしは自分の生涯を献げて、キリストのために懸命に奉仕する」と。そこでわたしは次のように答えた。
 「あなたの話には非常に興味があります。しかしそれがキリストのみ言葉の真実性を立証するものではないでしょうか。『だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』とあります。すなわち新しく生まれなければ、義と平和と聖霊による喜びである神の国を経験し味わい悟ることができないということです。もしあなたに神の愛が深く感じられ、キリストの苦難の力があなたの生まれつきのままの心に味わわれるなら、あなたには新生の必要はないのです。あなたの言われるようにあなたがこれを感じることができないとすれば、それはあなたがまだ新生していないし、断罪されなければならない立場にあられるという何よりの証拠ではありませんか。神があなたに求められることは、そのままの状態で、幼子のようにあなたの必要と無力と不信仰とを告白して彼のもとに来られることです。彼は確かにあなたの要求に答えて下さいます。あなたは新生するまで、これらのことについて感じたり悟ったりすることはできません。彼は、あなたではなく彼がこの石の心を取り去ると約束されました。こうしてあなたは彼の愛と憐れみと恵みを味わい経験することができるようになるのです。非常に簡単ではっきりしたことではないでしょうか。」
 半ば困惑し半ば失望してその人は会話を他の題目に逸らせた。わたしの心には、「あなたがたは命を得るためにわたしのもとに来ようともしない」とのみことばが響いていた。人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶようになる道にだけは降りて来ることを喜ばないのである。人の心は神を好まず、罪を愛して権威を憎み、キリストを拒むものであって、人の心の堕落は、神学的想像や宗教的仮定ではない。この事実は、わたしたちをひざまずかせて聖書に導き、滅ぶる者を救うために町に出て行かせるであろう。
 ぜひこのことをいつも記憶していたい。どれほど人情の愛や上品な社会的温和さや、頭脳と態度の洗練が幻惑のにせ工事を施していても、人の心の根底には、神とその愛と律法に対する反逆心が伏在しており、ひとたび神の至上要求がわがままな心に押しつけられると、すぐに炎のように爆発しようとしていることを忘れてはならない。これは人間性に対する恐るべき告訴である。わたしはあまりに露骨に描写しすぎたであろうか。この描写はあまりに酷であろうか。そうではないと思う。黒白を明白に描かなければものにならない。もちろんこのような描写が、受け入れやすいものではないことを十分承知している。
 限りない罪の深さを伝えることのできる者だけが、また限りない神の恵みを力強く語ることができる。人間性の破壊を涙をもって見たことのない者には、救い主を宣べ伝えることができない。霧や霞でおぼろになった黒白不明瞭な描写は、芸術や詩としてなら興味があるだろう。しかしわたしたちは死の谷に住んでいるので、その陰に住んでいるのではない。罪と悲惨とが地獄のように暗黒なところ、その恐ろしい背景のある所にだけキリストと十字架の力とは覚醒を与え、救う力を現すのである。
 わたしたちは、今これらのことを攻撃の材料として学んでいるのではない。これを心におさめて、救霊のわざを励ます刺戟としようとしているのである。わたしたちがこの事実を深く信ずるのでなければ、どうして地上の汚れに中に沈み堕落し果てた人の願いを引き上げて、輝く不朽の冠と永遠の幸いに導くこの仕事に着手することができようか。
 このことを悟ることのもう一つの理由は、魂の救いがいかに奇蹟的な超自然的な力に待たなければならないかを悟るようになるためである。人がもし救われようとするなら、それは生ける神のお働きに待つよりほかない。このことを深く自覚しない者は、人々を暗黒から、妙なる光の中に立ち帰らせる働きにおいて、成功することはできない。
 


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