第十二章 偶 像 礼 拝


 
 『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない』(出エジプト記二十・三)

 異教諸国にあって人々を救いに導こうとする場合、偶像礼拝について知り、どうしてこれを導くべきかを学ぶことは極めて重要である。従ってこの一章を付け加えて研究を完備したいと思う。
 しかし異教諸国においてのさまざまの偽の宗教について論ずることは、わずか十数ページでは不可能なことである。ことにただ一カ国の経験をもって全般に当てはめることはもちろん不適当である。しかし一般的な二、三の注意は、何か参考ともなるであろう。日本のような国にあっては偶像礼拝は磨き立てられている一面、さまざまな罪悪がはびこっているので、その宗教のようなものは第二義的なもののように思われる。しかし決してそうではない。たとえすべての悪の根源でないにしても、とにかくこれはサタンの最も堅固なとりでの一つであって、幾千万の魂はその中に捕虜とされているのである。
 前世紀の大救霊者は、これを天地の神に反抗して立てられた反逆の大きな組織であると言っている。
 その中にはサタンからの害毒がひそんでいる。妥協を喜ぶ現代においてこのような言い方があまり受けがよくないことをわたしは知っている。もっと遠回しな熟語を用いて事実を飾り立てているのを常とする。
 偽りの信仰、また礼拝の中にはさまざまなものがある。物活論、多神教、汎神教、祖先崇拝、自然神教、マホメット教、ユニテリアン、ユダヤ教などはその中のいくつかである。そのうちのあるものは誤って宗教扱いにされている。たとえば汎神教のようなものは極めて空虚な哲学にほかならない。それは賢明に諷刺されているように、「盲人が暗い部屋で黒猫を捜しているようなもの」である。
 物活論も多神教の部類に属すべきものであろう。
 神のことばは偽の宗教を偶像礼拝と魔術の二つの項目に分類しているが、事実、異教国においてはこの二つのものがさまざまな形式のもとに現れているのである。近代主義者にとっては、多神教と言うほうが偶像礼拝と言うよりは耳触り良く聞こえ、真理研究と言えば、魔術と言うよりも学術的であり尊敬できるもののように響く。しかし偶像礼拝はあくまで偶像礼拝である。占いや魔法は、心霊術あるいは心霊現象などと言ってもその正体が変わるものではない。
 偶像礼拝は、人の手の所産を、大能の創造者の代わりに置くものである。祖先礼拝のようなものは、人々の心を生ける神から離れさせて、死んだ者の霊に向かわせるものである。一般的に言えば、こうしたものはあの全世界を惑わす大へびが、人の心を欺いて天におられる愛の父から離れさせる二大勢力である。
 偶像礼拝にいろいろな形式があるように、死者の霊に対する礼拝にも聖人礼拝、祖先礼拝、スピリチュアリズム等がある。それが何であるにせよ、神のみに帰しまつらなければならない栄光を奪い去る点においては同一である。神こそ人の子らを創造されたお方である。人類は彼にのみ、礼拝と感謝と讃美の祈りと誉れと栄光とを永遠に帰しまつらなければならない。
 したがってこれはすべての罪の中で至高の権威者に対する最も忌まわしい罪である。そのために神は人々をその欲に任せ、正しからぬ思いに任せられたとローマ人への手紙第一章に記されている。
 これらのことは陳腐に見えるであろうか。五十年前にはあるいはそうであったかも知れない。しかし今日においては、広い見解や同情ある見方などと称するものが、わたしの書いたところのすべてに対して疑問符をつけるのである。とにかく、自然宗教(異教の総称)は神の啓示に至るまでの大きな飛び石であるというのは、安楽椅子に座っている教授たちの見解である。すべてのサタンの働きも単なるおとぎ話ぐらいに認められている。
 異教諸国にあって救霊者が偶像礼拝との繋がりと悩みとより求道者を救い出すためになすべき仕事は以下の通りである。

 一 その罪悪性の暴露

 『あなたがこのすべての言葉をこの民に告げるとき、彼らがあなたに尋ねて、「主がわれわれにこの大きな災を宣告されるのはどうしてですか。われわれにどんな悪い所があるのですか。われわれの神、主にそむいて、われわれが犯した罪とはなんですか」と言うならば、あなたは彼らに答えなければならない。「主は仰せられる、それはあなたがたの先祖がわたしを捨てて、他の神々に従い、これに仕え、これを拝し、またわたしを捨て、わたしの律法を守らなかったからである」』(エレミヤ記十六・十、十一)。

 わたしは他の所で、異教諸国にあってきよい神に対する罪を自覚させることの極めて困難であることを述べた。犯罪や道徳的悪についての知識はあるであろうが、神に対する罪については全く無知である。求道者がこの点についておぼろな光を見いだす場合においても、偶像礼拝の罪に関しては十分教えられたあとでなければ容易に了解し得ないことを見せられた。すべての宗教は大同小異であって、何であっても真剣に信ずればよいと思い込んでいる。新神学の病毒がキリスト教牧師や宣教師にまで感染していることは悲しむべきことである。教会の講壇からさえこのような教えを述べられるのを聞くことはまれではない。しかし旧約聖書の言葉は(わたしたちはなおその神の言葉であることを信じている)、この偶像礼拝の罪に対して仮借するところのない厳粛な刑罰を宣告しているのである。
 異教の諸国において人々を導くためには十分の知恵と恵みとを必要とする。偶像礼拝の罪であることを説明する場合に、わたしたちは彼らがかつて聞いたことがなく、またその機会さえなくそのとりことなっているものであることをよく覚えていて、その愚かさを嘲るような口の利き方をせず、懇切に導かなければならない。アレオパゴスにおけるパウロは、伝道者のよい模範である。もしわたしたちが彼らを物を言わない偶像から離れさせて生ける神に向かわせようと欲するならば、笑うかわりに泣き、責めるかわりに心配しなければならない。
 神の言葉は、いかにわたしたちがこの仕事を成功できるかについて豊かな教訓を供給する。イザヤ書を読む者は、救うことのできない神に祈ることが悪であると共に、またどんなに愚かであるかに心を打たれるであろう。イザヤはたびたびきよい譬えを用いた。しかし彼は、真の神を知りつつこれに背く民に語っているのであるが、わたしたちは全く無知な民に語るのである。しかしとにかく真実な認罪を起すためには聖言を用いることが最も重要である。
 偶像礼拝について聖書は三つの明白な点を強調している。
 一、その命のないこと
 「物の言えない偶像」と使徒は言う。語ることのない神、また祈りに答えることのできない神、これがどうしてわたしたちの神と言うことができようか。見聞き、悟る能力のないことが生ける神と対照されている。「答える神を神としましょう」とエリヤはバアルの預言者に対して語った。
 求道者に真の生ける神の実在を悟らせるために議論や講義によらないで事実を確かめさせたらよいことをすでに勧めてきたが、彼らに直接神に祈らせることは早道である。生ける神ならば確かに答えられるはずである。なおまた他方、偶像礼拝が愚かで空しいことを同時に知らせることができる。
 二、その無能であること
 『木像をにない、救うことのできない神に祈る者は無知である。‥‥‥わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない』とイザヤは言う(イザヤ四十五・二十、二十一)。ここに強調すべき要点がある。「救いを施す力」である。もし神が罪と死の恐れより救うことができないとすれば、どうして依り頼むことのできる神と言うことができようか。これは最も大きな試金石である。自然宗教の中にはもちろんこの力はない。罪に対しては格別頓着しないのが普通である。確かに救いをなす神を神とすべきである。
 三、その罪であること
 ここに最も重要な事実がある。偶像礼拝はただ空虚というだけでなく、それは罪である。生ける水の源なる神を捨てて、水から水を保つことのできない水ためを掘る。その手の中にわたしたちの命を握っておられる頌むべき創造者の代わりに、造られた物を置こうとするのである。それは神の造られた世界から神を追い出して、自分の悪い心の欲に従ってその好むところの神をつくることであって、神の御前に最も忌まわしい罪である。
 これらは、わたしが偶像礼拝者に近づくために用いる単純な方法として暗示しようと欲しているものである。抽象的になったり議論に陥ったりすることを極力避けなければならない。実行させるように持ちかけ、その門口に押し進めなければならない。罪よりの救いを終極の試金石とせよ。幾度となくその点に立ち帰り、聖書に記されたように、その実によって試さなければならない。木は実によって知られる。東洋人はこの点において哲学者を気取ろうとする。哲学者は容易に神を発見することはできない。わたしたちはあくまでも実際的でなければならない。幼児の単純は、天の競争で罪人と永遠の宝を捜すことにおいて常に勝利者である。

 二 偶像よりの聖別

 『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである』(申命記七・二十五、二十六)

 すでに述べたように、回心者はキリスト者となったのちにおいてさえ、その偶像を打ち砕き全くその礼拝から離れることを好まない不思議な傾向があるのである。それは多くの場合、人を恐れるところから来ているようである。すなわちそのような場合、隣人に別物扱いにされ、迫害と嘲りの的とされることを好まないのである。しかしその背後に更に大きな理由があることを知らなければならない。『人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである』(第一コリント十・二十)と聖書に記されたように、偶像礼拝の背後には不思議なサタンの力があって、その帰依した者を捕らえているのである。旧約聖書の記事は実に峻烈である。引証した申命記の例などその一つに過ぎないが、ことにわたしの心に刻まれた一句である。わたしは若いころ、偶像や仏壇やきせるや酒杯などを、ある回心者より記念として送られたものを保存してきた。その中には四百年も前に刻まれた大きな仏像があって、それはその持ち主が先祖から受け継いだ家宝の一つであったのである。わたしは神の力の証拠として人々に示すために保存していた。ちょうどそのころ、ひとりの聖公会の宣教師が中国から来て、それを見て静かに言った。「あなたは申命記七章二十五、二十六節を注意して読みましたか」と。わたしは気付かなかったのである。それを読んでさっそく庭でそれらの物を焼いてしまった。
 キリスト者が自分自身が偶像を拝まなくなった場合においても、この憎むべき物を家の中から除き去ることをためらうことがしばしばある。祖父母や老父母が承知しないからと言う。時にはそこに正当な理由の存することもあるが、そうでないことも多い。それは使徒パウロのコリント人への第一の手紙に言っているように、必ずしも彼らが真に回心していないというわけではない。ただまだ低い霊的状態にあることを示すものである。このような落とし穴を除き去るように導くのは良い羊飼いの務めである。しばらく前、ひとりの金持ちの妾がわたしたちの伝道館においてみごとに救われた。彼女はいっさいの罪の関係を断ち、すべての偶像を捨てて、頑固な偶像信者であった姉に非常に迫害された。しかしその姉はほどなく大病にかかり、その死の床において悔い改め、終生救うことのできない神に祈っていた愚かさを初めて悟った。彼女はバプテスマを受けた。しかしその友人たちは仏葬にすべきことを主張する。彼女は高価な仏壇をその妹の手に残したのである。僧侶はお布施を受けるために時々読経に来る。悔い改めた妾であるH夫人は、自分では米も花も供えないが、その子どもにこれをやらせていた。ひとりの先輩の信者が、それが神の前に罪であることを告げて責めた。ちょうどその時牧師がそこを訪問した。そこでH夫人はその苦しみを訴えて教えを受け、これを売って教会に献げるのがよいかと言った。実は、その数日前にひとりの悔い改めた人が、その偶像を売って教会にお金を持って来たが、わたしたちは申命記七章二十五、二十六節の光に従って、これを受けることを拒み、何かほかの慈善事業に寄付するように勧めた。その次の日、もう一人の夫婦の信者がその偶像を打ち砕き、薪にして焼いた。こうしたことのあとであったので、牧師はその仏壇を伝道館に持って来るように告げた。その次の夜、彼女は言われたとおり持って来た。わたしたちは祈祷会のあとでそれを焼き払い、体も心も霊と共に温められる思いがした。
 わたしたちはこの点において深く考え、はっきりした光を持ち、率直に語り、そしていっさいの偶像を打ち砕くべきことを主張しなければならない。

 三 彼らを救い出すこと

 わたしたちは偶像礼拝がサタンの創始したもので、またその力によって与えられていることを悟ったであろうか。それならそのとりこを救い出すためにただ一つの道があることは明白である。それは聖霊による祈りである。人の言葉はここでは役に立たない。
 エペソ人への手紙の中に、信ずる者の心の中に働く神の力が何であるかが述べられている。すなわち、
 一 わたしたちを罪とわずらいと疑いと恐れから解き放って上に引き上げ、キリストと共に天の所に坐らせる力として。それは信仰の偉力である(エペソ一章)。
 二 キリストをわたしたちの心にもたらし、互いにまたすべての人に対する愛を満たす力として。それは愛の偉力である(エペソ三・十七)。
 三 このように引き上げられ、キリスト・イエスにある信仰と愛とによろわれて、権威と力とに対して戦う力として。それは彼の大能の力、すなわち聖霊による祈りの力である(エペソ六・十八)。
 ここにわたしたちの武器がある──わたしたちを満足させる昇天の主に対する信仰、主の民と滅びる魂に対する愛、及び祈りの力、こうしてサタンのとりことなっている者をつなぐ鎖を断ち切り、その強い手から彼らを救い出すことができる。これは戦いである。血肉と戦うのではなく霊界の戦いであって、全身全力をこめて戦うべき真の戦いである。
 ある田舎の教会で、毎年修養会が開かれていた。その牧師も霊的な人である。わたしは昨年招かれて行ったのであるが、何となく手応えがない。みな謹んで傾聴している。しかしこれと言って確実なわざがなされない。『見よ、あなたは彼らには、美しい声で愛の歌をうたう者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行おうとはしない』というエゼキエル書のみことば(三十三・三十二)がいつも心に浮かんできた。
 わたしは彼らに質問を試みたが、ほとんどすべての人の家に仏壇があるというのである(もちろん彼ら自身で拝むわけではないが)。そして祭礼の時などに僧侶にお包みをするのである。
 わたしはそれを聞いて、力を尽くしてそれが明白な間違いであることを告げた。しかし何の印象も与えたように思われない。その点で認罪があったように思われなかった。
 今年三人の聖霊に満たされた日本人の兄弟たちが秋の集会を持つために招かれた。彼らは集会前三日間、山の上の空き家に入って日夜熱心に祈り抜いた。四日目に集会が始まったが、聖霊は大いなる力をもって臨まれた。その第一の結果は、栄光ある偶像破壊であった。偶像は片端から引き下ろされて火に焼かれ、憎むべきものは破壊し尽くされた。彼らは言った。「昨年ウィルクス先生が見えて、えらい熱心さで偶像を破壊するように勧められたが、その時までは何のためかわからなかった。そう大した罪と感じていなかった」と。わたしははっきり真理を告げた。しかし聖霊だけが彼らに認罪を与えられるのである。『このたぐいは、祈と断食によらなければ、追い出すことはできない』。わたしたちの兄弟たちが信じまた確かめたとおりである。断食の祈りに答えて彼が来られる時、いかにすばやく真の認罪と悔改に至らせることであろうか。
 確かに偶像礼拝は最も堅固な悪魔のとりでの一つである。魂をその中から救い出すことは軽い気持ちではできない。
 『このたぐいは、祈と断食によらなければ、追い出すことはできない』。多くの伝道地において多くの結果を見ることができない原因はこのへんにあるのではあるまいか。もしわたしのしるしたことによって、伝道者を御前にひざまずかせるようになるならば、わたしの労は報いられて余りがあるのである。
 


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