第一章 大いなる任命


 
 使徒パウロの壮大なる生涯の秘密を理解しようとするとき、わたしたちは通常その初めに帰る。ここにおいてわたしたちは、最も偉大な魂に対する最大の任命の声を聞くことが許される。これはさらに、ただパウロに対する任命だけでなく、「主よ、あなたはわたしがどうすることをお望みなのですか」と彼とともに叫ぶすべての真実のキリストのしもべに与えられる任命である。
 この任命は変わることはない。それはすべての時代を通じて同一である。以来多くの人々が、大いなる使徒が、よみがえって昇天されたあがない主の御口より受けたように、この任命の声を聞いて、これに応じ、行って語り、またこのために苦難を忍び、命をも捨てたのである。この任命の中に、すべての十字架の使者が果たすべき仕事が提示されている。

 『さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務(奉仕者──別訳)に、あなたを任じるためである‥‥‥あなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』(使徒行伝二六・一六〜一八)。


 一 このことの栄誉

 「奉仕者」ということばの中に豊かな意義がある。原語の中にある驚くべき意義についてはここに述べる余裕はないが、わたしたちは生ける神の霊の奉仕者である。わたしたちはただ説いたり教えたり諭したりするだけでなく、人々に神のいのちそのものを受けさせるために召されたのである。なんと驚くべき特権であろう。なんと心の躍る責任であろう。
 天使がコルネリオを訪れたときに、彼の祈りと施しが神のみ前にとどいておぼえられたことを告げることはできたが、彼に救いの道を示したり、永遠のいのちを取り次ぐことはできなかった。
 天使は罪のゆるしと新生の恵みについてはなんの体験も持たない。天使は、心に反逆の思いがないから和解の奥義を知ることができない。彼らは火の中から取り出された経験もなく、罪の沼から引き上げられたこともない。またその心に「アバ父」と呼ぶ霊の存在を感ずることもない。それならどうして、これらのことを人に語り、また死んでいる魂に永遠の生命を与えることができるだろうか。
 しかしわたしたちは神の恵みの奉仕者とされたのである。わたしの友はかつて「もし神がこの伝道の使命を天使に与えたとすれば、五分以内に天国はからになるだろう」と言った。ああ、しかし人の目は、この神々しい任命の栄光を見るためにまだ開かれていない。わたしたちは、この恵みを人々に受けさせるために召されているのである。さあ、この幸いなしかも厳粛な真理にわたしたちの心を捕らえていただこう。そして、「このような任務に、だれが耐え得ようか」と叫び、全心を傾けて、この驚くべき責任の秘密を探求しよう。

 二 この奉仕の条件

 『わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしていることをあかしし‥‥‥』(使徒行伝・二十六・十六)

 この奉仕者となり、神の恵みを人の魂に取り次ぐ力を持つためにまず必要なことは、その証人となることである。すなわち、それを見、聞き、知る者でなければならない。十九世紀初頭の偉大な神の人ジョン・スミスはかつて言った。
 「およそ自分の魂の価値を深く感じた者でなければ、他人の魂の価値を認めることはできない。自分の魂の中にある罪の苦さと恐ろしさを味わった者でなければ、この世の罪の凶悪なことを見破ることはできない。自ら滅亡に陥ることを思って戦慄した者でなければ、罪人の危険に目ざめることはできない。自らの良心にキリストの宝血を注がれた経験を持つ者でなければ、あがないの血の価値をほんとうに認めることはできない」と。
 ここに深い秘密があり、救霊のわざの最大の要件がある。つまりわたしたちの召されて果たすべき職分は、人々に罪を自覚せしめ、しかして、キリストにある神の愛を悟らせることであるが、もしこのようなことについての経験がなければ、この職分を果たすことはできないというのである。
 わたしたちは天使のように説教することができるかも知れない。しかし深い罪の自覚を自ら得たことがなければ、他人を悔い改めさせることはできない。わたしたちが愛の証人でなければ、くぎづけられた主の尊い遺産を飢え渇いている人々に伝達することはできないであろう。
 主イエスは、パウロを証人とさせるために、彼に現れなさった。わたしたちにも神である主がどういう形であっても現れ、わたしたちをちり灰の中にへりくだらせられなければ、わたしたちの奉仕には何の力もなく、多くの者に、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢のように感じさせるであろう。しかし、それにとどまることなく、わたしたちは人々を証人とすることができる。時にはわたしたちよりもまさる適当な福音の器を備えることのできるのは大きな特権である。しかし、証人のなんと少ないことであろう。わたしたちの伝道によって、どれだけの生きた証人ができているであろうか。自分の霊魂の救いすら経験しない者が奉仕者として按手されていることは、悲しいことであるが、しばしば見聞するところである。宣教師や牧師の中にさえ、福音の極めて単純な要点すらまだ経験していない者が決して少なくない。福音の奉仕者となろうとする者は、まずこの点から確かめてかからなければならない。

 三 職務(魂の覚醒)

 『彼らの目を開き‥‥‥』(使徒行伝二十六・十八)

 わたしたちはいま職務そのものに論究しなければならない。わたしたちが「回心」とか、「魂の救い」とかいう語を用いるときに、それがどのような意味かを確かにする必要がある。真実の回心は全人格の革新であって、人のすべての官能が変化し、新しく造られたものとなることである。聖パウロに与えられた任命の中に、この仕事が何であるかが示されている。その願望はよびさまされ、その理解は照らされ、その意志はひるがえされ、その良心はきよめられ、その愛情は新たにされなければならない。そしてその第一の職務は、まず願望をよびさますことである。しかしこれについて記す前に知らなければならないことは、新生していない魂の願望は、聖書に記されているように『罪過と罪とによって死んでいた者』であって、全く腐敗しきって無知の状態になっているということである。醜聞あさりをする人のように、彼らの上にある冠には気がつかない。彼らはただ肉の快楽と肉の喜びだけを求め、滅ぶべきこの世の棒切れとあらくずと瓦礫だけが価値のあるもののように見る。わたしたちの務めは、彼らの目を開いて、そのような物は豚の目には真珠と見えても、なんの価値もないものであることを悟らしめ、真実な朽つることのない神よりのものを慕わしめるに至ることである。
 霊魂はどの国においても全く眠り込んでいるが、異邦諸国においてこのわざをなすことは、キリスト教国においてなすよりさらに困難が多いのである。わたしはあとでさらに多くの問題について語りたいと願っているが、今はただわたしたちのなすべき職務の事実についてだけ語りたい。もしわたしたちが、人の必要について深く自分の心に印せられていないならば、伝道もただの兵隊ごっこのようなものとなってしまうであろう。
 キリスト教信仰についてのほとんどの異端や非聖書的な教えは、人の状態とその必要、そしてその危険とについての誤った見解に基づいていることは、いまさら言うまでもない。もし彼が反逆者でないならば和らぎの必要はない。奴隷でないならばあがないの必要はない。罪人でないならば救いの必要はない。腐敗したものでないならば聖潔の必要はない。もしそうなら神である救い主もそのあがないも、わたしたちとなんの関係もない無用の長物となってしまうであろう。
 わたしたちの信じているように、人の魂は悪い者の手の中に眠り込んでいる。ちょうど獄中に眠ったペテロのように、戸外に立てられた断頭台を知らないで甘い夢をむさぼっているのである。
 したがってわたしたちの第一の職務は、彼らにその罪と必要とを自覚させ、彼らがただならぬ熱心をもって追求しているこの世の富と偉大さとが、ごくつまらないものに過ぎないことを悟らしめることにある。しかしわたしたちはその点に止まってしまうことに警戒しなければならない。ただ人が目ざめたというだけで満足してしまい、罪の自覚をもって敬虔の最高の状態であるかのように思っている者の少なくないのは痛ましいことである。
 ひとりの忠実なキリストのしもべは、まる二年間、深い罪の自覚のために悩んでいた。彼は十分に目ざめていた。彼は苦しみのあまり、台湾のある牧師のもとに行って、救いの道を示してくれるように求めた。しかし、このような切実な質問に対して彼の得た返事はただ次のようなものであった。「あなたは、海にいる魚が水を求めているようなことをしている」。彼は驚きの目をみはって牧師に言った。「なんですって、わたしはもう救われていると言うのですか」。牧師が「そうです」と答えたので、「もしわたしが救われているのなら誰も彼も救われているでしょう」と、失望のうちに立ち去った。幸いにも神は彼をさらによい助言者に導かれていのちの道を見いださせられた。そして救い主なる神によって喜ぶことができるようになった。
 このような悲惨な実例が決して少なくないのは残念なことである。このような浅薄な宗教が説かれる時代にあって救霊者となろうとする若い伝道者は、真の覚醒と回心とを取り違えないようにしなければならない。

 四 職務(理解させること)

 『やみから光へ』(使徒行伝二十六・十八)

 わたしたちの次の職務は光を与えることである。多くの人々はその必要と危険とについて十分に目ざまされながらも、また再びすみやかに眠りに陥る。それはまだ光を受けていないからである。
 この仕事は、異教諸国にあっては容易なことではない。それらの国にあっては、神についてのなんの知識もなく、したがって罪の深い意義もわからない。道徳的また法律的な罪については知っているであろうが、きよい神に対する罪については全く無知である。罪のゆるし、義認などの語句は、単なるそらごとに過ぎない。彼らにとって、それらの語句には、何の内容もなければ何の意義もない。
 このような情況下にあっては、長い期間の予備教育が絶対に必要のように見える。しかし、哀れな酔っぱらいや自殺しようとしている者や犯罪者が、自分の必要を悟って救いを求めてくる時に、進学校で六か月も学んでつくり上げたような石のような理屈を、瞬時の救いというパンに代えて与えてよいだろうか。否、否、そこにはよりすぐれた道がなければならない。感謝すべきかな、覚醒した魂が瞬時に救いにあずかることのできるように、光を与えることができるのである。
 力ある説教家の特色は、自分が人の心を動かすてことして用いられる前にどれだけのことを求道者に悟らせたらよいか、知っていることである。換言すれば、覚醒した者の良心に光を与える秘密を知っていることである。牢に閉じ込められたペテロの時のように、光は魂を照らし、のがれる道を直ちに見いださせることができる。もし紙面が許すならば、こうした場合の多くの実例を示すことができる。「み言葉が開けると光を放って‥‥‥」(詩篇百十九・百三十)そのことばの真実なことを何度驚いて経験したかわからない。
 いま熱心に伝道しているひとりの兄弟があるが、彼はかつて一度もキリスト教の話を聞いたことがなかったと言う。ある夜、遊びに行こうとして出かける途中、ふと路傍伝道隊の歌の声に引きつけられた。取り巻く群衆の外に近づき、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(コリント前書一・十八)とのことばを聞いた。彼はそこで考えた。これはいかにもばかげた話だ。もしそうなら、自分は滅び行く者だというのだろうか。彼は神の霊によって覚醒され、そのままわたしたちのあとについて集会場まで来て、そこで救われたのである。彼は一時間あまりの間に覚醒され、照らされ、悔い改めて罪をゆるされ、キリストにあって新たに造られた者となった。

 五 職務(意思の転回)

 『悪魔の支配から神のみもとに帰らせ』(使徒行伝二十六・十八)

 救いにおける第三の段階は悔改である。このことばは、非常に漠然と使われているが、これには二つの単純なしかも確実な観念が与えられている。悔い改めは救いに絶対に欠くことのできないものであるが、もちろん、救いそのものではない。
  まず悪魔の支配から離れることと記されている。堕落した願望、くらまされた理解、しなびた良心、捕らわれた意思の背後には、人の魂の仇敵悪魔が立っている。わたしたちの取り扱わなければならないのは悪魔である。悪魔の存在を信ぜず、また悪魔について知らない者が救霊者になったというためしはない。使徒信条の一つの悲しむべき手抜かりは「われは悪魔を信ず」という項の脱落である。この信仰は欠くことのできない条件で、「われらの敵の手から助けてください」と叫ばせるようになるものである。雄弁も知恵も心理学の知識も透徹した思想も、深い感情も、まずわたしたちがひざまずいてこの敵を克服するのでなければ、魂を救うことはできない。人々はその意思の面で悪魔に捕らわれている。わたしたちはそれを信じているだろうか。この問題に直面したであろうか。もしそうしていれば、人々をこの強敵の手から救い出すものは神の子のカルバリの勝利と、その血の功績によるほかのないことを知るに至るであろう。このようにして、初めて魂を神に向かって悔い改めさせることができる。
 あとでこの大きな題目についてさらに詳細に考えたいが、ここではこれが大いなる任命の一部であることを力説しておくにとどめたい。
 もし悪魔が存在しないなら、説教と教訓と勧告と警戒とで魂を救うのに十分であろう。しかし、この悪賢い敵に欺かれとりこにされているため、ただ神だけが救うことがおできになる。神は、救いのため、人の側で祈り求めさせ、この戦いにおいて神と協力させられる。そして人の心に築かれたサタンのとりでを引き崩すために武具を備えられる。
  次に悔改の性質に関する第二の観念は、「神のみもとに帰らせる」ことである。パウロは他の場所で「神に対する悔改と、わたしたちの主イエスに対する信仰」(使徒行伝二十・二十一)と言っている。さてこの悔改の原意は心の転換である。日の下のいっさいの事についてその思いが変わることである。すなわち、神について、自己について、人生とその目的について、死とその後の生涯について、天国と地獄とについて、金銭、快楽、地位について、時のむなしさと永遠の事実についてその考え方が一変するのである。とにかくここに力説しなければならない一点がある。それは神に対する悔改である。
 悔改についての近代的な解釈は、表面的にはその原意と非常によく似ているが、しかしその内面では非常に隔たっている。放蕩息子が父に対して悔い改めなければ、それにはなんの価値もない。今日、ただ悔恨の思いを呼び起こすことだけの、罪の自覚ということが伝えられている。罪が、ただ人性の尊厳を冒すものであると考えられている。しかし、わたしたちはこのようなことのために召されたのではない。輝くものは必ずしも金だけとは限らない。悔改はただ罪を捨てることだけでなく、救うために待っておられる神のみもとに帰らせることである。わたしたちの任命は、人々を悪魔の権威から離れさせ、神に帰らせるためになされたものである。これはとうてい人間技でできることではない。ただわたしたちとともにおられる神だけがこのことをなされるのである。
 このようなことは、ご存じのように今さら語る必要もないことであろう。しかし、このように明白なことがしばしば閑却されているのである。一度悔い改めたと公表した者が、以前と少しも違わない神に遠い状態にあることは、しばしば見当たることである。悪魔は、神に対して悔い改めるのでなければ、どんなに熱心に悔い改めても特別気にかけない。今の時代にあって悪魔の権威から離れるということは、その似て非なる経験と、自らの義の欺きから救い出されることである。

 六 職務(良心のきよめ)

 『罪のゆるしを得』(使徒行伝二十六・十八)

 今まで学んだわたしたちの任命の仕事は、その消極面であった。覚醒され、照らされ、悔い改めた魂は、救いに近づいたとは言え、まだ救われて神の子となったのではない。そこになされなければならない大切な仕事がある。わたしたちは、人々に罪のゆるしを得させるべき者である。これが次になさなければならない光栄な職務である。しかしここにもまた近代神学の試金石がある。彼らは品性の建設向上を高調する。難行苦行を排斥すると同時に、一方では信仰による救いについて全く無知で、罪のゆるしなど、ほとんどその眼中にないのである。土台なしに品性の聖潔はあり得ない。完全な品性の三大要素である、自己に対する謙遜、神に対する感謝と愛、人に対する同情は、すべて罪のゆるしの深い自覚に根ざしている。
 キリストのために決心するということは、わたしたちが任命されて応えるべき職務ではない。ただ主の手により、あわれみと恵みと罪のゆるしを得させるために、ひとりの貧しく罪深いわがままな反逆者として、人々を主のみもとに携えることである。これこそ、わたしたちをへりくだらせ、柔和にならせ、また変貌させるものである。この自覚が深ければ深いほど、その魂は洗練され、主の御姿に変えられる。ただこのことのみが覚醒した良心の要求を満足させるものである。
 しかしわたしたちの働きは、ただその必要を説いたり教えたりするだけではない。信仰と祈りによって人々にこれを受けさせるために召されたのである。父なる神の観念さえ持たない異邦諸国にあっては、神に対する罪の何であるかを悟らせることや、続いて神のゆるしを受けるというような問題は全く了解しがたいことである。したがってこの職務を果たすことは容易なことではない。しかしすでに申し上げたように、ただこれを説くだけでなく、人々にこれを受けさせることは、言うことのできないわたしたちの特権である。

 七、職務(愛情の革新)

 『わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』(使徒行伝二十六・十八)

 わたしたちはいま、わたしたちの任命の最後の項目に来た。ここに、真実な最後の目的、すなわち神のなしてくださる根本的変革である新生がある。これは心と目的と思念と意志との変化である。人はキリスト・イエスにあって新たに造られたものとならなければならない。そしてわたしたちはこの恵みを受けさせるために召されたのである。注意しなければならないことは、これが賜物であり、受けるものであり、罪のゆるしと同様に奇蹟的にわたしたちのうちになされる神のわざだということである。神の賜物は永遠の生命である。「新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授ける」(エゼキエル三十六・二十六)。わたしたちはこの目標に対し、この目的物を獲得するまで休んではならない。わたしたちは、この目的を遂行するために神の用いてくださる器である。放蕩息子が覚醒され、その目を開かれて本心に立ち帰り、悔い改めてその父に立ち帰り、罪のゆるしの接吻を受けたことは、みな終極の目的に至る道程である。彼が父の家庭にあって、着せられ養われ、満足させられてその幸福を味わうようになるまでの段階である。
 どうか、もうしばらく立ち止まってこの驚くべき任命を見ていただきたい。神は、人々の心と良心を扱うこのおそるべき職務をわたしたちに託されるのである。わたしたちはこの深い秘密を取り扱う。わたしたちの不細工な手と冷淡な態度と誤った判断は、これを失敗に終わらせるのではないだろうか。どのようにして、わたしたちは成功することができるだろうか。しかし、もしキリストがわたしたちに現れなさったなら、もしわたしたちの目が開かれ、心が照らされ、弱くかつ捕らえられた意思が神に対して悔い改めさせられたならば、そしてもしわたしたちが罪をゆるされ、キリスト・イエスにあって新たに造られた者となっているならば、天使にではなく、わたしたちと同じ人々に救いを受けさせるため、救い主イエスがわたしたちに現れてくださったことをあかしすべきこの任命を与えられるのである。ハレルヤ!
 


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