霊 魂たましい の 安 息

(ヘブル書第章)



 ヘブル書四章九節に『神のたみためになほ安息はのこれり』とありますが、この安息は、主イエスが『すべらうする者・重荷を負ふ者』(マタイ十一・二十八)の御自身にきたる時に彼らに与えたもう安息に加えて、ただに彼にきたるのみならず、そのくびきを負いて御自身に学ぶ者に得せしめたもうところの霊魂たましいの安息、すなわち第二の安息であります。

 しかしてこの安息がヘブル書の三章四章に取り扱ってありますから、私は今これに従ってこれを学びたいと思うのであります。しかしそれはこの安息そのものより、むしろこの安息に入る秘訣の研究であります。

 諸君のまず知り置くべきことは、今ここでるべく、我らのためにのこされあるところの安息という恩恵めぐみのあること、すなわちカナンの地の経験というものは今世こんせにおける我らの生涯中の経験で、死後を待ってるべきものでないということであります。

 さてヘブル書第三、四章を開けば、そこにこの約束の地にる四つの秘訣が示されております。すなわちキリストを思い見ること、聖霊の声を聞くこと、神の御言みことばに聴き従うこと、および恵みの座にきたることであります。私がこれより子供に語るごとく、望遠鏡、電話、蓄音機等の比喩を用いてこれを説明することを許されよ。

第 一  望 遠 鏡

ヘブル書三章一〜六節

 ヘブル書の記者が我らに示す、カナンの地に入る秘訣の第一は、我らの使徒たる、すなわち我らの生涯の旅路における指導者モーセとしての主イエスを観察することであります。英訳聖書のヘブル書に一様に consider と訳されている三つのギリシャ語があります。第一は三章一節(元訳では二節)にある語で「注意深く観察すること」を意味し、第二は七章四節にある語で、むしろ「感嘆して見ること」を意味し、第三は十二章三節にあって「比較する目的で観察する」意味であります。第一は主が如何いか忠実にいますかを思い見よと言い、第二は如何いか大いなるかを思えと言い、第三は如何いか忍耐深きかを思えと言うのであります。

 英訳語の consider について、多くの語源学者はこれはラテン語の sidus すなわち星座という語に関係していると言っておりまして、天文学者の観測を連想せしめます。されば私は諸君がこの第一の秘訣を学ぶために、天的天文台にりて望遠鏡を用いることをお勧めする次第であります。

 さてそのために用いる天的望遠鏡は神のことばであり、そのレンズは信仰のレンズであります。ついでに申しますが、ここに consider と訳されているその同じギリシャ語は、民数記三十二・八〜九の七十人訳に、約束の地を『』という所にも用いられています。そこでは約束の地を観ることが命ぜられ、ここでは約束の地に導きらしめたもう御方を思い見ることが命ぜられているのであります。

 ここでまた注意して頂きたい事は、いま我らをカナンに導く忠実なる指導者として主イエスを観察するは、福音書に描かれおるところにしたがうてでなく、旧約書において、モーセにより予表されおるところにしたがうてであるという事であります。諸君の記憶せられる如く、モーセの生涯を一貫する彼の熱望は、ただにそのたみをエジプトより導きいだすのみでなく、カナンの地に導き入れる事でありました。彼はこの一事のために、生き、労し、祈り、また苦を忍びました。されば今キリストを見るにあたりても、信仰のレンズを通してかくの如き御方として彼を拝しまつりたいと思うのであります。主イエスの御熱望、その唯一の御願望、その御禱告、またその現在の御働きは、そのとうと御血おんちによってエジプトより引きいだしたもうた御自身のたみちちと蜜の流れるカナンの地に導きらしめたもうことであります。我らがそこにることを願うに遙かにまさる熱心をもって、主は我らをそこに導き入れんことを願いたもうのであります。ハレルヤ!

 我らはモーセの生涯の多くの出来事を通して、キリストのこの幸いなる御願望を学ぶことができますが、おそらく最も顕著なるは、モーセの祈禱生涯とその多くの祈禱でありましょう。

 福音書は多くキリストの祈禱をしるしておりませぬ。もちろん主が祈禱に多くの時を費やしたもうたという事を学びますけれども、そこに幕がかかっています。我らに主が何を祈りたもうたかは示されておりませんが、ただヨハネ伝十七章における、主の最後の祈禱においてそのご嘆願があらわれておりますから、おりをもって諸君がこれをモーセの祈禱と比較して学びなさることを勧めます。されば諸君はそこに両者の間に、不思議なるまた驚くべき相似点のある事を見られるでありましょう。

 さて、モーセの祈禱生涯に二つの危機がありました。第一はイスラエルの民が偶像崇拝に陥った時(出エジプト記三十二・一〜六)、第二は彼らが不信仰によってカナンの地にはいり損なった時であります(民数記十四章)。

 私は今この第一の場合について考えましょう。出エジプト記第三十二章より三十四章までを見られよ。ここにモーセの六つの祈禱があります。しかして第七のものは申命記九章二十節に見られます。諸君はこの時における、かれの祈禱における苦闘の事情をよく知られるでありましょう。すなわち今、神は新しき事をなさんとしていたまいます。これまで雲の柱、火の柱、その他の方法をもってそのたみを導きつつありたもうた神は、シナイざんよりのちは、くだってそのたみうちに住まわんとしたもうのであります。かくて内住の神となりたもうというわけであります。モーセはために、かかる御奉仕の天の様式を授かるよう、山上に召されたのであります。かかる次第なれば、地獄に大騒動だいそうどうが起こり、悪魔がその奸計かんけいを尽くして反対運動を策するも決して怪しむに足らぬのであります。さればたみは彼にくらまされ欺かれて、彼らを導き出したのはエジプトのきんであると信ずるようになり、ついに彼らを導くために偶像を作り、誰にも見ゆるようにそのうちに立てたのであります。かく彼らは自ら内住の神を作ったのであります。しかしてその結果どうなったかは、今それを繰り返して語るを要しませぬ。

 この場合におけるモーセの祈禱の苦闘の詳細は出エジプト記に鮮やかにしるされております。モーセは七度ななたびエホバを求め、七度ななたび勝利を得て、ついに再びそのたみが神の嗣業しぎょうたみとして受けれられるまでに至ったのであります。七度ななたび、モーセは『神の全家ぜんかに忠實』(ヘブル三・五)でありました。おお願わくは、かくのごとき禱告者とうこくしゃとしてのキリストを見奉みたてまつらんことを! またかく見奉みたてまつりて、深く悔い改め、畏懼おそれをもって喜ばんことを!

 さればこれより、祈るモーセをば簡単に観察し、彼を通して祈禱のキリストを見奉みたてまつらんことを!

第 一 の 嘆 願 (三十二・七〜十四)

 モーセその神ヱホバのかほなだめていひけるは ヱホバよ なんぢなどておほいなる權能ちからと强き手をもてエジプトの國より導きいだしたまひしなんぢたみにむかひていかりを發したまふや 何ぞエジプトびとをしてかくいはしむべけんや いはかれわざはひをくだして彼等を山に殺し地のおもてよりほろぼつくさんとて彼等を導きいだせしなりと されなんぢはげしいかりなんぢたみにこのわざはひくださんとせしを思ひ直したまへ なんぢしもべアブラハム、イサク、イスラエルをおもひたまへ なんぢ自己みづからさして彼等に誓ひてわれ天の星のごとくに汝等なんぢらの子孫を增し又わが言ふところのこの地をことごとく汝等なんぢらの子孫にあたへてながくこれをたもたしめんと彼等にいひたまへりと (出エジプト三十二・十一〜十三)

 神はイスラエルの御自身のたみたることを拒否し、彼らをモーセのたみと呼び、彼らを導きいだしたるはモーセであると言い、彼らを全く亡ぼしてモーセに一つのたみおこさしめんと仰せたもうた。モーセはこれを聞くや、直ちに答えて、否、彼らはわがたみにあらず、彼らを導きいだせるはわれにあらず、彼らはなんじたみなんじの導きいだしたまえるところであると叫び、かくて、第一に神のあがないの御力みちから(十一節)、第二に神の御名みなの栄誉、すなわち敵等の御名みなけがさんことの恐れ(十二節)、第三に神の先祖等に対する御約束(十三節)に訴えて、彼らの赦罪を求めるのであります。何たる訴え、何たる大胆! 神の栄光に対する何たる熱心ぞ! されば神がこれに聴き、また答えたもうことを怪しむべきか、いな、『ヱホバこゝにおいてそのたみわざはひくださんとせしを思ひ直したまへり』としるしてあります。

第 二 の 嘆 願 (三十二・三十一〜三十二)

 モーセすなはちヱホバに歸りていひけるは 嗚呼あゝこのたみの罪はおほいなる罪なり 彼等は自己おのれのためにきんの神を作れり されどかなはゞ彼等の罪を赦したまへ しかせずばねがはくはなんぢかきしるしたまへるふみうちよりわが名をけしさりたまへ (出エジプト三十二・三十一、二)

 モーセは再びのぼき、ただに神の御怒おいかりを引き返すばかりでなく、充分かつ自由なる赦罪を求めましたが、神は再び彼に答えて、彼らをゆるし、約束の地に導きのぼるよしをおおせたもう。但しただ一つの厳かなる審判さばきことばを加え、神の彼らのうちに住みたもうという全計画を取り消すよしを宣言したもう。すなわち神は彼らのうちにありて行くことをせず、一人の天使を遣わして彼らの嚮導きょうどうとならしめんとおおせたもうたのであります(三十三・二)。

第 三 の 嘆 願 (三十三・十二〜十三)

 こゝにモーセ、ヱホバにいひけるは たまへ なんぢはこのたみを導きのぼれとわれいひたまひながらたれわれとともにつかはしたまふかをわれにしらしめたまはず なんぢかつていひたまひけらく われ名をもてなんぢを知る なんぢはまたわが前にめぐみを得たりと されわれもしまことなんぢの目の前にめぐみを得たらばねがはくはなんぢの道をわれに示してわれなんぢしらしめわれをしてなんぢの目の前にめぐみを得せしめたまへ 又なんぢこのたみなんぢものなるをおもひたまへ (出エジプト三十三・十二、十三)

 この御宣言はモーセの耐え得ざるところでありましたので、モーセはこの御仰おんおおせをお受け申し上げることを断り、再び訴え祈り、またお答えを得ました。神はめぐみ深くも、御自身の臨在のモーセとともきて、彼をして安泰ならしむべきよしおおせたもうた。断然たる信仰に何たる勝利のきたることぞ(十四節)。

第 四 の 嘆 願 (三十三・十五〜十六)

 モーセ、ヱホバにいひけるは なんぢもしみづからゆきたまはずば我等をこゝよりのぼらしまたまふなかわれなんぢたみとがなんぢの目の前にめぐみることは如何いかにして知るべきや これなんぢが我等とともにゆきたまひてわれなんぢたみとが地のもろもろたみことなる者となるによるにあらずや (出エジプト三十三・十五、十六)

 されどモーセはこれをもってさえも満足せぬ。彼は再びエホバに帰り、神が御自おんみずかともに行くとおおせられたその御恩恵を感謝すると共に、「いなが祈り求めるところは、単にご臨在のわれともなる事でなく、なんじ我らともきたまわねばならぬ」と祈り求めるのでありましたが、エホバはこれにも彼に聴き、答えて『なんぢいへるこの事をもわれさん』(三十三・十七)とおおせたもうたのであります。

第 五 の 嘆 願 (三十三・十八)

 モーセねがはくは なんぢ榮光さかえわれに示したまへといひければ (出エジプト三十三・十八)

 されど、この老族長モーセはなお進んで、『ねがはくはなんぢ榮光さかえわれに示したまへ』、なんじの栄光を示す事によって、この懇願にいんしたまえと祈りましたが、エホバはまたこれに答えて、その善をあらわしたもうた。しかも彼を全く圧倒するほどに、砕きかす仕方にてあらわしたもうたので、彼は急ぎ地にしてはいしたのでありました(三十四・五〜八)。実にエホバのかかる善と恩寵めぐみ憐憫あわれみとが、かくも頑固な、我儘わがままな、叛逆のたみのうちにとどまることができるとは! 実に信じられぬほどの事であります。

第 六 の 嘆 願 (三十四・九)

 ヱホバよ われもしなんぢの目の前にめぐみを得たらばねがはくはしゅ我等のうちにいましてゆきたまへ これうなじこはたみなればなり 我等の惡と罪をゆるし我等をなんぢ所有もちものとなしたまへ (出エジプト三十四・九)

 モーセは神の御前みまえに全くひれ伏しながら、なお祈りを続けるのであります。願わくはなお一つの事をなしたまえ、すなわち我らを取りてなんじ嗣業しぎょうたみとなしたまえ、我らをしてかつてありし地位にあらしめたまえ、この回復を完全まったからしめたまえと。しかして神はそれをも許して彼の要求するところを与えたもうた。たみは今、神の臨在と恩恵めぐみと特権にまで、全く回復したのであります。

 神の人モーセはかく祈禱に力あり、神の全家ぜんかにかくも忠実であったのであります。

 されば、失敗し、疲れ、しかもなお肉的であり世的である、愛する霊魂よ。この天的望遠鏡を通して君の信仰の導師みちびきなる主イエスを見よ。さらばここにこの天の大空に何たる幻示まぼろしの君の目に映ることであろうぞ! それは君が約束の地に進みり、そこに住み、避け所を得、保護まもられ、導かれ、ゆるされるように、君のために燃ゆる切願をもって満たされたる主イエスである。ハレルヤ! 更に言う、ハレルヤ!

 愛する友よ、私を信ぜよ。君がもし、君の信仰の使徒たる、君のモーセたる主イエスをば、かくのごとく見奉みたてまつるのでなければ、君は決してカナンに達し得ぬであろう。

 これは第一の秘訣である。願わくは天の天文台に入り、神の御言みことばの望遠鏡を用いよ。さらば君は必ずイエス御一人ごいちにん見奉みたてまつることが出来るであろう。

第 二  電 話

ヘブル書三章七〜十九節

 約束の地にる第二の秘訣は聖霊の御声みこえを聴くことであります。第三の秘訣は神の蓄音機に耳傾けることでありますが、ここで暫く天的電話を聞きたいと思います。

 諸君は新約に二つの声のあるのに気付かれたことでありましょうか。ヨハネ伝三章を見れば、そこに主イエスは繰り返して『われなんぢに告ぐ』とおおせられておりますが、十一節に至って突然と『我儕われらしりし事をいひ見し事をあかしするに爾曹なんぢら我儕われらあかしうけず』(元訳)と主格が複数に変わっているのは何故なぜでありましょうか。主とともあかしする今一人の証人あかしびとは誰でありましょうか。前の節を見れば、それが御霊みたまの声を指すという事がわかります。語りたもうは御霊みたまであります。しかしてその御声みこえを聞く者のみが上より生まれた者であるのであります。

 黙示録三章二十節に、復活の主は『人もしが聲を聞きて』云々と言い、そののち『耳ある者は御靈みたまの諸敎會に言ひ給ふことを聽くべし』(二十二)とおおせられています。願うは語りたもう御霊みたまに耳傾けんことであります。

 さればここに天的電話があります。英語の telephone(電話)は二つのギリシャ語からできています。phone は声を意味し、telephone は遠方から語る声、gramophone は記録した声でありますが、霊界においても、遠くより語られる声(telephone)と記録した声(gramophone)とあります。

 さて約束の地にる秘訣の第二は御霊みたまの声に耳傾けることであります。御霊みたまは今なお、その御声みこえを待ち望み、心を用いて聴かんとする者に語りたまいますが、その御使言しげんは何でありましょうか。『かれきたらんとき世をして罪につき……あやまてるを認めしめん。罪にきてとは、彼らわれを信ぜぬにりてなり』(ヨハネ十六・八、九)とおおせられました。私は、御霊みたまが彼を待ち望む者に『心せよ、恐らくは汝等なんぢらのうちける神を離れんとする不信仰のしき心をいだく者あらん』(ヘブル三・十二)とおおせられる事を信じて疑いませぬ。天的望遠鏡は我らのまなこを天にいますキリストに向かわしめ、御霊みたまの天の声は我らの内部を顧みさせます。しかしながら、その声の我らに思いいださしめるは、我らの多くの罪、霊的姦淫、偶像崇拝、俗化などでありませぬ。勿論もちろんこれらはみな内心のやまいの兆候でありますが、聖霊は我らの視線をその原因、すべての苦悩の根源に向けしめたもう。しかり、ただ御霊みたまのみがよく不信仰が罪である事を我らに見せしめたまいます。我らには容易にその真相がわからず、不信仰は罪であるにしても、多くの罪の中の一つであるか、或いは一種の妨害物くらいに見えるかも知れぬ。けれども御霊みたまのみよく、それがすべての悪の本源である事を明らかにしたもうのであります。

 しかして、我らは天の電話なる聖霊の御声みこえによって、不信仰のしき心を認めるまでは、決して約束の地にることはできないのであります。不信仰は一つの行為でなく心の有様であり、心の態度でなくしてその状態であります。それは例えば針で刺す痛みの如きものでなく、内部にあって痛みを起こす毒であります。それは単なる蛇のあざむきでなく、彼が注射した病毒であります。これこそ『世の罪』そのものであります。H・ボーナー氏は「この大真理を決して見逃すな。霊魂たましいのすべての苦痛を起こす根であるところの君のうちなる悪は、神に信頼せざることである」と言っている。

 不信仰は疑惑と同一でない。疑惑は知的であるが、不信仰は心の事である。信者の場合においてはその不信仰は意志にあるのでなく、意志よりも遙かに深いところにあるのであります。罪人つみびとは、最後の大敵なる死に直面するまでは、不信仰よりきたる苦しみというものを決して感ぜぬが、神の子等の場合は、それは霊魂たましいに痛切なる苦痛を感ぜしめるものであります。

 それはまさに地上の地獄であります。今日こんにち露国ロシアの惨状は人々の不信認、邪推、不信仰に原因しております。不信仰は人をかたくなにするものであり、すべての罪の罪で、最も恐るべきものであります。

 もし我らがただ聴くことさえするならば、天の電話は我らの霊に答えて『心せよ、心せよ、恐らくは汝等なんぢらのうちに……不信仰のしき心をいだく者あらん』と警告したもうでありましょう。

 願わくばいま我らに恩寵めぐみを施し、我らをして耳傾けて学び、神の大能たいのう御手みてもと自己おのれひくくし、我らの不信仰を皆、罪と汚穢けがれを清めるために開かれたる泉に持ちきたりて、まろばし終わらしめたまわんことを。アーメン。

第 三  蓄 音 機

ヘブル書四章一〜十二節

 約束の地にる秘訣の第三はヘブル書第四章に記してあって、それはしるされたる神の御言みことばに耳傾けることであります。されば私はこれを蓄音機と呼ぶのであります。

 反対論者は必ず、「カナン入国の話を我らの経験に当てめるは見当違いである。それは単なる歴史の一節で、今日こんにちの我らの関心事ではない。数千年前のイスラエル国の歴史が我らに何の関係があるか」と言うでありましょう。されどヘブル書の記者はかかる故障を見越して『そは彼等のごとく我らも音信おとづれを傳へられたり』(四・二)と言っております。我らはちょうどその反対に「我等のごとく彼らも音信おとずれを伝えられたり」と言ったらば善かろうと考えやすいのでありますが、もしこの物語が単なる歴史にとどまるならば、多くの世紀を経たる今日こんにち、ここに持ち出される理由はありません。それが既に不用に属する事ならば、なぜ聖霊が詩篇の作者ダビデを通じて、それについて再び語りたもうたでありましょうか。しかり、『しヨシュア既にやすみを彼らに得しめしならば、神はそののち、ほかの日につきて語り給はざりしならん』(四・八)であります。否、それは単なる歴史でない。聖書は、これが我らの教訓のためにしるされており、すべての約束はキリストのうちとなり、またアーメンとなるのであります。

 既に世をりたもうた我らの主の書きしるされたる御声みこえは、御霊みたまける声と精確に一致しております。すなわちこの蓄音機の使言は電話の告げるところと同じであるのであります。

 御言みことばには生命いのちあり、能力ちからあり、両刃もろはつるぎよりもくして、霊魂と霊、関節ふしぶしと骨髄とをとおわかち、心のおもい志望こころざしとをためすのであります。さればその刺しとお御声みこえのがれることはできませぬ。これを語った人の唇は、久しき前に既に墓にくだって沈黙すれども、その声は神の御言みことばページに記録せられて、ける声として聞こえるのであります。我らはこれに注意せねばなりませぬ。

 もし我らが心に語りたもう御霊みたまの声の響きだけを聞くならば、それがただ自己の心の想像また錯覚であると考えて、のがれることもできようが、かく考えおる者にも、しんに惑い苦しんでいる人にも、天の蓄音機は『二人のあかしまことなり』(ヨハネ八・十七)と告げたもうのであります。実に『我らおそるべし、その安息やすみるべき約束はなほのこれども、恐らくはなんぢらのうちこれに達せざる者あらん』(ヘブル四・一)。されば御言みことばに従いて心せよ。

第 四   結  論

ヘブル書四章十三〜十六節

 かく論じきたった、その結論は何であろうか。我らは既に天的望遠鏡をもって、如何いかにもして我らを約束の地に導き入れんと、我らのために訴えいのりつつありたもう、山上さんじょうのキリストを見ました。不信仰のしき心という恐るべき一物に心すべく、懇ろに勧めたもう天よりの御霊みたまの声に耳を傾けました。神の蓄音機に振り向き、久しき前に世をったきよき母の吹き込みのこせるレコードにてその懐かしき歌に聴き入る者のごとく、死してなお物言う人のことばに耳傾けました。おお彼らの語るところをいたずらに聞き過ごすことなからしめよ。

 さらば我らは今如何いかになすべきか。ヘブル書の記者は『このゆゑに我ら憐憫あはれみを受けんがため、またをりに合ふたすけとなるめぐみを得んがために、はゞからずしてめぐみ御座みざきたるべし』(四・十六)との幸いなる言葉をもってこれを結んでおります。

 もし我ら、神の命じたもうところにしたがいて求めるならば、我らの罪や失敗や恥辱のために大胆に近づくことを妨げられる要はありませぬ。

 して神の命じたもうところはと言えば、それは我らがまず『憐憫あはれみ』を求め、その上で『をりに合ふたすけとなるめぐみ』を求める事であります。悲しくも、多く人の求めが無益に終わるは、彼らが、その要するところはただ『たすけとなるめぐみ』であると思うからであります。けれども実際はそうでありませぬ。しかり、君はなお一層深い御声みこえを要する事を知らねばなりませぬ。その深い御声みこえをば、ジョン・ウェスレーは「信者の悔改くいあらため」と呼んでいます。実際において、我らは神の大能たいのうの手のもとに自らひくくして、神の恩恵めぐみよりもまずその憐憫あわれみを求むべきであります。しかしかく自らひくくして悔い改めることは、すべてを神に献げるよりも比較的に容易でないのであります。

 さればこの天の順序を無視せぬように心せよ。まず深い悔改くいあらためがあるべきであります。必要ならば人に対しても悔い改めねばなりませぬが、すべての場合、神に対して悔い改め、不信仰のしき心によってなお曠野あれのの生涯を送っていた事を、砕けたる心をもって神に告白すべきであります。その上で謙遜なる大胆をもってその要求を訴え迫るならば、確かに『をりに合ふたすけとなるめぐみ』を得るでありましょう。すなわち我らを約束の地にらしめる恩恵めぐみ、しかしてそののち我らがつねに神の永遠の栄光のうちに住み得るよう、その地のすべての敵をい払いたもうその恵みを受ける事ができるでありましょう。アーメン



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