ウィルクス師説教集第貳輯


パゼット・ウィルクス著
大  江  邦  治譯



内心における聖霊の御業みわざ



緒     言

 ルカ伝第二十四章を見れば、主イエスは御復活ののち、自ら弟子たちに近づきて共に歩み、御自身に関する聖言みことばを説き示し、彼らと共に宿り、パンをさきて与え、また再び彼らの中に顕れて御手みて御足みあしを見せ、彼らの心を開いて聖書を悟らせたもうたことがしるされてありますが、それはのちに次のごとき大いなる二つの命令を与えたもう前提であったのであります。

 (一)もろもろの国人くにびと悔改くいあらためと赦罪をべ伝うべきこと
 (二)上よりの能力ちからせられるまで都にとどまるべきこと

 申しましたごとく、弟子等は主の御顕現に接し、恵まれた経験を得ましたけれども、それだけではこの第一のご命令である福音宣伝の御用のために充分でありませんから、上より能力ちからせられるために待ち望む事が命ぜられたのであります。

 いかに明らかな顕現に接し、恵まれた経験を得ましても、聖霊がうちきたりたまわねば、それはやがて過ぎ去り、奉仕のための能力ちからとはなりません。例えば写真の乾板に写った映像を恒久的のものにするには焼き付けを要するごとく、主がめぐみ深く御自身を弟子等に顕したもうたところを確かめ、印し、固うするためには、聖霊の来臨を要したのであります。

聖 霊 の  わざ

 今この聖霊のみわざを学ぶために聖書から四つの所を引照したいと思います。すなわテサロニケ前書五・二十三同三・十一〜十三テサロニケ後書二・十六〜十七、およびペテロ前書五・十であります。しかしてこの四つの所に皆「みずから(autos =ギリシャ語原典)」ということばがあります。すなわち我らが何々の真理を悟り、信じまた保つからでなく、それは全く神御自身のみわざでなければならぬというのであります。しかもその神御自身のなしたもうところは永久にとどまるのであります。

一、 全 き 聖 め

 ねがはくは平和の神、みづからなんぢらを全くきよくし、なんぢらの靈と心とからだとを全く守りて、我らのしゅイエス・キリストのきたり給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を (テサロニケ前書五・二十三

 ここに我らの求める第一の恵み、霊と心と体の全ききよめの恵みがあります。聖霊の来りたもう事は、この第一のまた最初のわざすなわち内心の浄化、我らの一切の機能のきよめ、生来の罪の排除を意味します。

    わが目はなんぢきよきを見たてまつ
        きよめたまへ、おおわれ
    燃ゆるきよめのほのほを送り
        きよめたまへ、御名みなによりて

 私はこれが我らの叫びにてあらん事を願います。内部の悪からのこの救いは、我らの最深奥の必要であります。何となれば、この浄化が成し遂げられるまでは、キリストの我らの心に宿り全き支配をなしたもう事は、決してできないからであります。

 ここで強調したいことは、この浄化というのは単に自ら不快に感ずるところの過誤あやまりからの救い(それさえ多くの人は求めて容易に得ないが)だけでなく、「すべての罪」からの救いであります。すなわち我らの多くの困難の原因となる短気、嫉妬、傲慢などばかりでなく、我らに快く、心を惹くような悪もまた一切除去されるのであります。パウロはその除かれるべきものが悪の実体であることを強くあらわすために、これを『罪のからだ』或いは『肉のからだ』と呼んでおります。それは我らの苦労困難の本源であるのであります。

 さてパウロは、この全き浄化の祈禱いのりに加えて、「全く守られる」こと、すなわち全く保存されることを願っております。私が前に言ったところの、確かめ固うすることがここにあるのであります。多くの人は聖別会に出席して恵まれる。主はその昔弟子たちになしたもうたごとくに、ご自身を彼らにあらわしたまいます。されども悲しいかな、人々は聖霊の来臨によってそれがいんせられ、固うされ、確保されるまで留まらぬ。それゆえにその幻示まぼろしは消え、印象は過ぎ去り、恩恵めぐみはその効を奏さずして、やはりほかの人のごとくに弱いのであります。

二、 愛 の バ プ テ ス マ

 ねがはくは我らの父なる神みづからと我らのしゅなるイエスと……主(聖霊)、なんぢら相互あひたがひの愛およびすべての人に對する愛を增し、かつゆたかにして……なんぢらの心を堅うし……きよくして責むべき所なからしめ給はんことを (テサロニケ前書三・十一〜十三

 ここに聖霊のうちきたりたもうことの第二の結果があります。すなわち我らの心にそそがれて神の愛が人に対してあふいずることであります。ジョン・ウェスレーは常に「これがすべてまことの宗教の目的である。もし我らがこれよりほかのことを求めているならば、それはまとはずれである。一切の黙示も幻示まぼろしも経験もこれに比べては数うるに足らぬ」と申しておられます。

 しかしてまた注意すべき事は、このわざをなす者は神御自身、更に的確に言えば聖霊であるという事であります。我らは主の愛したもうごとくに愛する能力ちからもなく、またそのような願いさえもちません。それは神の賜物であります。我らの心を尽くして願い求めて受くべき賜物であります。

 今一つ諸君の注意をきたいことは、ここに『心を堅うし』とある事であります。これは前にも言った、写真の映像の焼き付けのごときことで、聖霊がきたりていんし固うしたもう事を指すのであります。これは主が命じたもうた今一つの大命令なる、全世界の福音宣伝の使命を成し遂げる前に、まず求め、まず見出し、まず獲得せねばならぬところの事であります。

三、 信 仰 の 慰 安なぐさめ

 我らの主イエス・キリスト(our Lord Jesus Christ himself)及び我らを愛し恩惠めぐみをもて永遠とこしへ慰安なぐさめのぞみとを與へ給ふ我らの父なる神、ねがはくはなんぢらの心を慰めて、すべてのわざことばとに堅う給はんことを (テサロニケ後書二・十六〜十七

 聖霊のうちきたりたもう事の第三の結果は、その慰めを与えたもう臨在りんざいであります。神は恩寵めぐみをもって、既に永遠の慰安なぐさめき望みとを我らに与えたもうた。すなわち神の愛子あいしによる永遠の生命いのちの賜物──キリスト・イエスにる赦罪と新創造は、確かに恩寵おんちょうによる永遠の慰安なぐさめまたき望みの本源であります。されどパウロは、かく我らの霊魂たましいを慰めたもうた神が、また我らの心を慰めたもうように、すなわち別の慰め主が来てうちに住みたもうように祈るのであります。さらば彼が言うところの心の慰めとはどんな慰安なぐさめかと言うに、私はそれを「信仰の慰安なぐさめ」と考えるのであります。我らのよく知る如くに、まことの信者にとっては不信仰から起こる苦しみほどに烈しい苦しみはありません。不信者、この世にける霊魂たましいは、そんな苦しみは感じないのであります。もちろん彼らはついにキリストなき永遠に沈み行き、不信仰の大颶風だいぐふうが限りなき苦痛の大渦巻きの中にその足をさらわんとする時、その苦痛は言語に絶するであろうとは言え、今は無頓着でありますが、基督キリスト者は今ここで「試みられて苦しむ」ことの何であるかをあじわい知るのであります。我らには疑惑と不信仰より起こるものほどに大いなる苦痛はありません。されどうちきたりたもう慰め主は信仰の確信を心に持ちきたり、不信仰の風波を鎮めたもうのであります。それは或る一時的の感動による慰めでなく、神の聖前みまえに確信をいだかしめるところの信仰の慰安なぐさめであります。

    ける信仰をば
        わが心に吹き入れ給へ
    そを受くる者
        たれもみな
    確証をうちにもち
        意識的に信ずるなり

 さてパウロのこの祈禱いのりにも、前に言える二つのことが気付かれます。

 第一に、このことを成し遂げたもうは主ご自身であるという事であります。慰めをもたらすは主であり、そのわざは主のなしたもうところであります。しかり、この慰安なぐさめは我ら自身の何らかの努力によって起こるものではありません。

 第二に、ここにも『堅う給はんことを』と言っている。これは前にも言った現像の焼き付けのごときことで、聖霊のなしたもう、永久不変の御工みわざであります。

 願わくば聖霊なる神が、とどまる恵みをもって我らをめぐみ、主のすべてのみちにて我らを堅くしたまわんことを。

四、 奉 仕 に 対 す る 装 備

 もろもろの恩惠めぐみの神、すなはち永遠とこしへの榮光を受けしめんとて、キリストによりてなんぢらを召し給へる神は、なんぢらが暫く苦難くるしみをうくるのち自ら(autos)なんぢらを全うし、堅うし、强くして、そのもとゐを定め給はん (ペテロ前書五・十=英譯参照)

 この章の初めから前後の聖句との関係を考えて、この祈禱いのりを注意深く読めば、ペテロは今、我らの奉仕、詳しく言えば我らが群れをうこと、霊魂たましいること、人々の間に役事することに関して祈っている事がわかります。彼の言うところの『全う』することは、奉仕のための装備を指すと言ってもよいと思います。この「全うする」という語の原語(katartisei)ははなはだ暗示に富んでおりまして、マルコ一・十九には『網をつくろふ』ことに用いられ、ガラテア六・一には『たゞす』と訳せられて、堕落した者を「回復」することに用いられておりますが、ペテロはここで、特別な働きまた奉仕のためにうつわを全うすることを言っております。すなわち我らの奉仕が「やむを得ずして」でなく、「利をむさぼるため」でなく、また「神の群羊むれしゅとなる」ためでないように「整調」することを言っているのであります。何となれば、彼がここで長老たる者に対しげんに警戒している三つのことは、基督キリスト教の教役者きょうえきしゃの陥り易いへいであるからであります。

 さてここにもまた『みづから』ということばがあります。すなわち我らをかく全うし得る御方おかたは神御自身のみであるのであります。しかして我らに聖霊を与えたもう神は、我らをして神の福音に忠実にしてまた有力なる役者えきしゃたらしめるために、知恵と恩寵めぐみと愛を賦与ふよしたもうのであります。

 もう一度ここでも『堅うする』という語に注意をびたいと思います。「全うする」ことの後にもまたいわゆる影像の焼き付けを要するのであります。我らが聖霊を待ち望みますならば、聖霊はこの恩寵においても我らを堅くし、強くし、もとを定めたもうのであります。

結  論

 私はこれまで、内心のきよめ、神の愛のバプテスマ、心の慰安なぐさめ、主の御奉仕のために装備の全うせられることなどが、みな神御自身の御業みわざであることを強調せんとつとめて来ました。これはいかに強調してもなお足らぬところであります。

 されどこれがために我らのなすべきところは何でありましょうか。我らは如何いかにしてこの神の豊かなる恩寵を受けることができましょうか。これらの問いの答はただ一つ、「信仰によって」であります。この点もまた如何いかに強調しても及ばぬを思う次第であります。

  聖潔きよめは、我らの力によらず
    たゞ主を信ずる信仰による
      罪の支配の破らるゝは
        たゞこれ恩寵めぐみの力による

 我らの主張するところは信仰、ただ信仰による聖潔きよめの真理であります。私は不充分ながら既に我らの求むべき恵みを述べてきましたから、これより結論として私が「信仰の運用」と称するところのものを簡単に記述することに致しましょう。

 ペテロ前書五・六〜九には信仰の道がはなはだ明らかに開示されておりますから、理解し易からんために、ここから信仰の四つの階程かいていを見ることに致しましょう。それは、一、信仰の働き、二、信仰の安息、三、信仰の戦い、四、信仰の確信であります。

一、 信 仰 の 働 き

 神の能力ちからある御手みてもとおのれひくうせよ (ペテロ前書五・六

 ここに信仰の第一階程かいていがあります。救いに至らしめる信仰はここから始まるのであります。多くの人はこの自己をひくうするという肝要なことに、献身をもって代えんとします。しかし献身はむしろ恵みを受けた結果で、その条件ではないのであります。ロマ書第十二章は第六〜八章の後に来るのであります。我らの心が心のきよめと聖霊内住の恵みを要するのは、これなくしては喜んで自己を神に献げ得ないからであります。私は今これを例証するために、私自身の経験を語る要はありません。聖言みことばで充分であります。主は微温なまぬるい自己満足の信者にむかって「自己を献げよ」とは仰せられず、かえって『はげみて悔改くいあらためよ』(黙示録三・十九)と仰せられました。もちろん悔い改めて自己の罪を言いあらわし、主の前に心を注ぎいだし、必要ならば他の人の前にも告白して、そのありのままにてしゅきたることは、安易やすいことではないでありましょう。けれどもこれは信仰の働きであります。真の信仰はかくしてたねを受ける準備としてその心の新地あらちを耕すのであります。

二、 信 仰 の 安 息

 又もろもろの心勞こゝろづかひを神にゆだねよ、神なんぢらのためおもんばかり給へばなり (ペテロ前書五・七

 我らが神の前に自己をひくくし、我らのそののたうち回り、疲れ果て、悩み抜き、硬化した心をそのままに、悔悟かいご悔改くいあらためをもって聖前みまえに持ちきたらすや否や、信仰は安息し得るのであります。かく我らは自らおのれの手を離して、すべて神の御手みてに委ねることができます。我らは神が何時いつ如何いかにしてそのわざをなしたもうかをも思い煩う必要はありませぬ。なぜなれば我等は自ら恵まれることを欲するに遙かにまさって、神は我らを恵まんことを欲し、またこれをおもんばかりたもうからであります。

 『神にきたる』(信仰の働き)者は『神のいます(すなわち赦しつつ、受けれつつ、恵みを与えつつ、きよめつつ、満たしつついます)ことを、必ず信ずべき』であります(ヘブル十一・六)。しかり、神はそれをなしつついます、今なしつついますと信ぜねばならぬのであります。そこに信仰の安息があります。

三、 信 仰 の 戦 い

 つゝしみて目をさましをれ、なんぢらのあたなる惡魔……むべきものを尋ぬ。なんぢら信仰を堅うして彼をふせげ (ペテロ前書五・八、九

 『試むる者きたりて言ふ「なんぢ……」』(マタイ四・三)これは悪魔のえびらにおさめおる、まっすぐな、最もはやい、最も鋭い、最も強いであります。これは彼が我らの救主すくいぬしを攻撃した仕方であり、また我らをつ仕方であります。されば我らが神の約束をり頼んで立とうとする時に、サタンの攻撃をふせぐために、彼に対してたてをさし上げ用いねばならぬのであります。しかしてそのたては主イエスの御血おんちであります。彼の射出いだす不信仰と恐怖の火箭ひやを消すために役立つものは、ただこの血潮のたてあるのみであります。

 そもそも神が我らの手に渡したもう武器は三つであります。神は我らを助けて自己おのれをその大能たいのう御手みてもとひくくせしめるために、助け主なるその御霊みたまを与えたまいました。御霊みたまのみがそれをなし得、また為すことを欲したまいます。されば我らは御霊みたまを期待し、そのご臨在とご助力に信頼すべきであります。次に神は我らがり頼んで安息しるために、その御約束なる御言みことばを与えたまいました。我らは神の御言みことばからの約束を通してでなければ、その他のものにり頼むことを求めてはなりませぬ。我らが全く信頼してやすんじるはこれ、ただこれのみであります。第三に神は我らの強敵を打ち破るために、御自身の貴い御血おんちを我らに与えたもうたのであります。

 何人なんぴとも神の恩寵めぐみを受くる方法となるこの三者、御霊みたま御言みことば御血おんちを充分に用いることなくして、霊的カナンへの入国、すなわち内住の聖霊を受ける事を夢想してはなりませぬ。

四、 信 仰 の 確 信

 もろもろの恩惠めぐみの神、すなはち……なんぢらを召し給へる神は、なんぢらが暫く苦難くるしみをうくるのち、なんぢらを全うし、堅うし、强くして、そのもとゐを定め給はん (ペテロ前書五・十

 ペテロがほかの所(ペテロ後書一・一)でとうとい信仰を『受けたる』と言っているのは、この信仰の確信を言っているのであります。彼は『たふとき』信仰と言っておりますが、実にその通りであります。それは御霊みたまあかしであります。これこそ我らの切に要するところの「全くされ、堅くされ、強くされ、もといを定められる」事であります。これは神の賜物でありまたその御業みわざであります。しかして信仰がその働きをなえたのち所謂いわゆる裸のまま神の約束にり頼んだのち、悪魔とその詭謀きぼう奸計かんけい係蹄けいてつ火箭ひやふせぎおおせたのちに与えられるものであります。すなわちこの御言みことばにあるごとく『なんぢらが暫く苦難くるしみを受くるのち』に、もろもろの恩恵めぐみの神御自身、その約束の賜物を与えたもうのであります。

 ルカ伝十七章六節において主イエスは信仰をたねと呼びたまいましたが、私がもしきのう園に植えた小さいたねと語ることを得、たねもまた私に語ることを得るとしますならば、たねは必ず「私は暫時苦難くるしみを忍びます。間もなくあなたは私が神の大能たいのう御手みてにより、上へ向けて芽を出し、天に向かって成長し、実を結ぶように、全うされ、堅うされ、強うされ、もといを定められるをご覧なさるでありましょう」と言うでありましょう。おお願わくは我らの信仰もかくあらんことを! 『ただ信ぜよ』『信ずる者にはすべての事なし得らるるなり』(マルコ五・三十六九・二十三)。アーメン



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