ウィルクス師説教集第壹輯


パゼット・ウィルクス著
小  島  伊  助訳



新 し き 皿



 『新しき皿を……われに持ちきたれよ』(列王紀略下二・二十)

 皆様はしゅイエスが、預言者エリヤはバプテスマのヨハネの偉大なる型であると告げておられるのをご記憶でありましょう。すれば私共わたくしどもは自然に、エリヤに続いた預言者エリシャは主イエス御自身の型であったと云う事が出来ます。さすれば、列王紀略下の初め数章に記載せられている八つの奇蹟は、今日こんにち幾多の男、女の心にまた生涯に行われる救主すくいぬし御自身の奇蹟的御業みわざであります。今一通り、その八つの奇蹟の何であるか、その実際の場合を見ておくのもあなが徒爾とじではありますまい。

 一、その地の流産 (二章)
 二、戦場の水飢饉 (三章)
 三、家庭の負債  (四章)
 四、室内の死人  (四章)
 五、国中の飢饉  (四章)
 六、衆人しゅうじんの空腹  (四章)
 七、王宮内の癩病らいびょう (五章)
 八、奉仕中の損失と失敗(六章)

 さて、これらの各異なった出来事は預言者エリシャの奇蹟的なる能力ちからを呼び起こす機会となったのでありますが、これはまたいみじくも人の心の欠乏の種々相しゅじゅそうえがき出しております。基督者クリスチャンの生涯に起こる心霊的欠乏にしてこれらの物語の中に描き出されて来ないものはほとんどないと云ってもよいでしょう。

 注意して頂きたいことは、これらはみなこの一人の神の人を中心としてその周囲に集まっております。彼はすべての場合にあい応じ、すべての欠乏を満たすことが出来ました。これは申し上げるまでもなく、同じく私共のすべての欠乏を満たし、また私共の生涯のすべての困難なる場合と危機とにあい応じ下さり御一方おひとかた、唯一の御方様おかたさまなる主イエスに私共を導き至らしむる所のものであります。

 私共はこの記されておる出来事の第一について考えたい。すなわち『その地の流産』であります。私共はこの物語の教訓を取って愛する祖国の状態に当て嵌め、事実私共の只中ただなかにある教会の状態に当てむる事も出来ます。しかし、わたくしはそれよりも、むしろこれを基督者クリスチャン個々の経験の実例として考えてみたいのであります。

【一】ず第一に、事情そのものについて、エリコの人々の直面した絶望的な欠乏を表す三つのことが記されております。

 (一)まちの所在地はくあった。
 (二)水は豊富であったが不良、或いは有害であった。
 (三)その結果としてその地は流産を起し、不生産であった。

 如何いかにもよく今日こんにちの多くの基督者クリスチャンの生涯を描写している絵である!

 多くの人々の生涯は申し分のない状態であります。これ以上のことはあり得ますまい。奉仕の機会は豊富です。そこには何の迫害もない。時間もあれば、好機にも恵まれている。福音の真理には明るく、神のたみとの交際まじわりはある──受け持つべき日曜学校の組々──感化すべき若き人々──接触しキリストに導くべき個々の霊魂たましい等々とうとう

 しかし、悲しいかな、生涯にも奉仕にもほとんど、或いは全く、がありません!

 その理由はここに充分明らかにせられております。水が不良、または有害であったと記されております。豊富ではあったが、生気と甘美さとを欠いておりました。それは塩辛く、苦く、塩気づいておりました。それはその源が腐敗していた。泉はその本源において不潔であったのであります。

 神のことばは私共に三つの源泉みなもとを暗示しております。(一)罪と、(二)血と、(三)生命いのちとの源泉みなもとであります。しかしここでは、ただこの第一のみを論ずることに致しましょう。

 罪 の 源 泉みなもと 人の思念おもいは常に湧き出でてまぬ泉のごとく、絶えてなき『心の思念おもひ』であります(創世記六・五)。人の頭脳は考えずにはおれないように構造せられているのです。昼となく夜となく、脳髄はその活動を続け、心よりその思念おもいの奔流を注ぎ出しつつあります。『そはその心に思ふごとくその人となりもまたしかればなり』(箴言二十三・七)。悲しいかな! 私共はその性質をあまりにもよく識っております──空虚、虚飾、軽薄、愚鈍、我儘わがまま、頑固、批評、復讐心、好色、貪欲──。しかもこれらは多くの場合、単に「悪についての思念おもい」(思想的)ではなく、(心よりずる)『しきおもひ』(マルコ七・二十一)であって、言葉や行為や習慣として現実に現れるものであります。

 私共の思念おもいは私共のすべての行為の源泉みなもとであります。私は反復する、人は『その心に思ふごとくその人となりもまたしかればなり』。終日ただかねのことを考える男、また流行と快楽と放縦とを思う女と云えば、私共は直ちに彼らの人為ひととなりを知る事が出来ましょう。神は「その聖霊みたまの感動にって我らの心の思念おもいきよめ、我らをして完全に神を愛し、その聖名みなふさわしく崇めしめたまい」るや。これらの不信、恐怖、疑念、頑固、批評の思念おもいをもはや再び「我らの心に起こらざる」ようにきよめ得たもうや。しかり、事実真実しんじつに神はなし得たまいます。かれの救いは単に地獄よりだけの救いではありません。単にまとえる罪に対する勝利だけでさえもない。これは実に豊かなる汎濫的はんらんてきの救いであって、私共の思念おもいが常に『おほよまことなること、おほよそ尊ぶべきこと、おほよそ正しきこと、おほよいさぎよきこと、おほよそ愛すべきこと、おほよ令聞よきゝこえあること、如何いかなる德、いかなるほまれ』(ピリピ四・八)をおもうに至る程なのであります。かくてこそ初めて地は不生産より救われる。かくてこそ初めて私共もを祝福する事を得るに至ります。私共のはそのかないて麗しく、時外ときはずれののごとくむなしくすることがありますまい。私共の思念おもいと感情と願望との根源がうちきよめられ、そこより流れずる水が、救主すくいぬしおおせたまいしごとくける水となって渇ける人々の霊魂たましいを爽やかにし、祝福するに至る時、私共の周囲にある人々の生涯は私共の生涯からの感化を覚ゆることでありましょう。

【二】第二に、私共は進んでこの水の癒された方法について考えたいものであります。エリコの人々はこの絶望的な場面に対して如何いかが致しましたか。まず第一に、彼等は絶望しなかった。「我等のまちには呪詛のろいとどまっている。もはや手のくだすべきようもない」とは彼らは言わなかった。否、彼らは神の人エリシャの事を聞いて、早速、彼に信頼いたしました。私共においてもそうでなければなりません。ただ集会に出席し、聖言みことばに耳傾くるばかりではなりません。しんに私共自身をエリシャの偉大なる本体たる主イエス御自身に託したてまつらなければなりません。ただ主のみが恵みたもうことができ、奇蹟を行う事ができたまいます。ただ主のみが私共のなすべきことの何たるかを告げ得たもうのであります。いったい彼は何と仰せたまいましょうか。私共はそれをこの聖なる物語、救主すくいぬしのいみじき型より学ぶことができる次第であります。この荒れすたれたところの市民が悲哀と欠乏とを懐いて、しかり、はや神の恵みより突き放されて呪詛のろいもとにあるとの感をもって預言者のもとにきたった時に、彼は命じて三つのことをなさしめました。しかもこれは正に私共のなすべき三つの事柄であります。ゆえに私共はこれに耳を傾け、深く留意いたさなければなりません。

 (一)きて新しき皿を持ちきたるべきこと
 (二)それに少しの塩を盛るべきこと
 (三)それをに持ちきたり、《奇蹟はに一任すべきこと》

一、 新 し き 皿

 ロマ書第十二章を開かれるならば、皆様はそこにこの預言者の命令の深意を学ばれるでありましょう。使徒はかしこに、神の御旨みむねを行う事の幸福を語って、私共の身体をける犠牲いけにえとして献げなければならないと云っておりますが(一節)、更に進んでまた心の更新について語っております──考え方も新しい──ものの見方も新しい──思いの革新であります。『そは我等は自らにきては単に神の各自にわかち給いし信仰の量にしたがってのみ思うべきである』と彼は言っております(三節)。私共の自らについての前の考え方はすこぶる異なっております。自らを批判する標準はおおむね──『の人のごとくさほど悪くない』『別に誰にも迷惑を掛けた事はない』『かなりキリストのためにやってきた』『わが一切を神とその奉仕のために献げている』『かなり用いられた』『人々をキリストに導いた』等々、すべてこのような測定また標準は誤りであります。

 主は、私共が自らの霊的生涯と経験を判定すべき唯一の標準は『信仰の量』であるとおおせていたまいます。換言すれば、「私はどれだけ神様を信ずることができるか」、「生と死とのあらゆる出来事の中でどれだけご信頼申し上げてきたか」にあります。私共のうち或る者は、悲しいかな! しんに思いの革新を要します──私共の要するものは新しき皿であります。一方において自ら満足し、自らしとするていの考え方を持っているかと思えば、また一方には、絶望し落胆し不信にして何の希望も期待もないというような有様は全く除かれて、そこにはへりくだりて信じ期待する霊が新たに所を占めなければなりません。願わくは神、これを私共に与えたまわんことを。これなくしては私共は到達するところがないでしょう。さらば私共の心はこの一事に据えられたい──私は私の思いを革新して頂かなければならないと。かくあるまでむことなかれ。断乎だんことして、ついにへりくだりて信じ期待する思いに至るまで、堅くこれに向かわれん事を──かくてこそ皆様は初めて、神が皆様を恵みたもうことのできる位置にられることでありましょう。

二、皿 に 盛 ら れ た る 塩

 エリコの人々が単に新しき皿を預言者に持って来ただけであるならば、そこには別に何事も起らなかったでありましょう。これははなはだ大切な注意すべき点であります。新しき皿そのものには水をきよむる力はありませんでした。私共にとってもその通りであります──新しき思い或いは考え方、それは必要ではあるが、それだけでは思念おもいえることはできません。人々は少しの塩を盛れと言われたのであるが、ここに私共のためのたとえの深意は明瞭であります。歴代誌下十三・五に

 『なんぢしらずや イスラエルの神ヱホバ しほの契約をもてイスラエルの國を永くダビデとその子孫に賜へり』

またレビ記二・十三には、

 『なんぢ素祭そさいさゝぐるにはすべしほをもてこれあぢつくべし なんぢの神の契約のしほなんぢ素祭そさいかくことなかなんぢ禮物そなへものをなすにはすべしほをそなふべし』

 塩は神の契約の象徴シンボルであります。しからば私共の学ぶべき事は何でありますか。すなわち、このへりくだった信じ期待する思いの中に、私共は神御自身の約束の一つ──聖言みことばの一つ──を入れなければなりません。それ以外の何物も役には立ちません。この事について特に的確でありたいものです。神の約束を一般的にぼんやりと信じているという風では不可いけません。キリストの血による聖潔きよめに対する神の明瞭、的確な御約束が私共のいまやへりくだった期待する心に適当に固着せしめられなければなりません。『契約のしほ』が用いられなければならないのであります。私共は神のことばを探り、約束を見出さなければなりません。これはこの取引において私共の側のなすべき事柄であります。何か約束のことばが思いの中に漂い込んで来るのを無頓着にぼんやり待っておるべきではなく、いにしえのベレア人のように私共は聖言みことばを掘りたずねなければならない次第であります(使徒十七・十一)。

三、奇 蹟 は かれ聖 工みわざ

 私共は、いまや、この物語の最も大切なる部分に到達いたしました。まずこう想像するならば如何いかがでありましょう。すなわち、むらの人々は命ぜられたごとく、新しき皿を持ちきたり、貴重な塩をそれに盛り、しかして彼ら自らそれを水の源に携え行き、自ら塩をそこに投じたと。それで水はいやされたであろうと考える事は果たして合理的でありましょうか。決して左様ではありますまい。預言者の命令の第三の『われに持ちきたれよ』という所は最も大切な点であります。これが教訓は極めて明瞭であります。悲しいかな! 如何いかにしばしば私共は聖書にまできたってしかもキリスト御自身にまできたらないことでありましょう。主はおおせられた、『なんぢらは聖書を……しらぶ……しかるになんぢ生命いのちを得んためにわれきたるを欲せず』と(ヨハネ五・三十九、四十)。今日こんにち所謂いわゆる根本主義の多をもってしても結局、それは聖書を拝んでいるに過ぎぬのではありますまいか。人は神のことばにまでは来る、しかしことばを通して主イエス御自身にきたる事には失敗する。私共もまたこの関係において失敗のないよう、警戒いたしたいものであります。

 私共は聖言みことばしらべたい。『契約のしほ』を把握いたしたい。私共の思念おもいの中に何か的確なエホバの約束を植え付けたい。これを盛り入れる新しい皿、すなわへりくだり、期待し、信ずる思念おもいを持つ事に留意いたしたい。しかし私共はその思念おもいとその約束とを主イエス御自身のみもとに持ちきたり、しかして彼御自身にこう求めたてまつりたい。「私共の思念おもいの中にある聖言みことばを私共のの中に入れたまえ」と。しかして奇蹟は彼の聖工みわざであります! すべては主がなしたまわねばならぬ所なのであります。

 恵み深くもこの水のいやされた事について、一つの麗しい実例があります。マルコ福音書第一章に記されている癩病人のきよめの物語における同じたぐいのきよめであります。私共はこの癩病人の主のみもとに来たさまを読みますが、『みもとにきたり、ひざまづきひて言ふ「御意みこゝろならばわれきよくなし給ふを得ん」』と(四十節)。救主すくいぬしあわれみをもて動かされたもうた。しかしそれがきよめを彼にもたらしませんでした──主は手をのべ、彼につけたまいました。しかし、彼を全癒せしめたものは按手あんしゅではなかった。かくて次に、主は御言みことばいだしたもうた。しかしてその時であります。『……と言い給へば、直ちに癩病らいびゃうさりて、その人きよまれり』。

 この苦い水においても左様さようでありました。エリシャが契約の塩を水の源に投ずるや否や、直ちに水は癒えたのであります。

 私共はこの学課を学んだでありましょうか。主はおおせたもう。きて新しき皿を持ちきたれ、へりくだり期待する信仰をもってきたれ、きて約束をわれに持ちきたれ、われ自身のきよことばの一つ──契約の塩──それをわれに持ちきたれよ、われを仰ぎ望め、しからばわれはそれをなんじの心に入れん──わが律法おきてなんじの心に記さん──わが奇蹟を行わん、それをわれに託せよ──われ水をいやさん、なんじうちにおいて全くきよくせん、しかしてなんじうちにわがみたまを入れ、ついになんじよりける水の河々溢れずるに至り、地は重ねて死あるいは流産を起すことなく、なんじを結ばざる事なきに至らんと。

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 ただひとり、主と共に静まりなさい。今日きょう皆様自身のへやはいりなさい──主の語りたもうまで、聖顔みかおを求められんことを。

 私の経験(しかもこれは長いものでありますが)から云うならば、ただひとり神と共に静まらずして、深くはっきりと、また永続きのするようにめぐまれた方はほとんどありません。あってもそれははなはだ僅少であります。集会は皆様に光や自覚や霊感や激励を与えましょう。しかしとどのつまりは、皆様はご自分のへやにおいてただひとり主と共に静まって恩恵めぐみられるのであります。そしてかかる有様に主が皆様を恵みたまいました時には、その恩恵めぐみは永久に残る次第であります。



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