神の前に權能ちからある事

バックストン敎師講演



 其夜そのよおきいでゝ二人の妻と二人の仕女つかへめおよび十一人の子を導きてヤボクのわたりをわたれり すなはち彼等をみちびきて川をわたらしめ又そのもてる物を渡せり しかしてヤコブ一人のこりしが人ありてあくるまでこれ角力ちからくらべそのおのれのヤコブにかたざるを見てヤコブのもゝ樞骨つがひふれしかばヤコブのもゝ樞骨つがひその人と角力ちからくらべする時挫離はづれたり そのあけんとすればわれをさらしめよといひければヤコブいふ なんぢわれをしゅくせずばさらしめずと こゝおいその人かれにいふ なんぢの名はなになるや かれいふ ヤコブなり その人いひけるは なんぢの名はかさねてヤコブとゝなふべからず イスラエルとゝなふべし なんぢ神と人とに力をあらそひてかちたればなりと ヤコブとふなんぢの名をつげよといひければその何故なにゆゑにわが名をとふやといひてすなは其處そこにてこれしゅくせり こゝてヤコブそのところの名をペニエル(神のかほ)となづけてわれかほかほをあはせて神とあひ見てわが生命いのちなほのこるなりと (創世記卅二章廿二より卅節)


 神は今日こんにち私共わたくしどもに近づき、私共に聖面みかおの光をあらわしたまいます。神はこの聖別会を私共のためにペニエルとならしめたまいとうございます。このところにおいて神とかおかおを合わせてあい見ることは神の望みたもうところです。神はいま帕子かおおおいなくして私共に愛の聖面みかおを示したまいとうございます。神はこの集会あつまりなかにその栄光とそのめぐみを豊かに示したまいとうございます。おお兄弟姉妹よ、どうぞいま心の目を開き、帕子かおおおいなくして神の栄光を見よ。もし私共が今日こんにちこのところにおいて神とかおを合わせてあい見、このところが私共のためにペニエルとなりますれば、神は私共に向かって『なんじの名はかさねてヤコブとゝなふべからず、イスラエルとゝなふべし』と命じたまいます。私共のふるき人は全く無くなり、ふるきヤコブ、ふるき失敗は全くせ、ふるき性質をことごとく去りて、新しきイスラエルとなることができます。神の霊、神のちからを宿すことができます。もし今まで私共のうちふるき人が残っておりますなれば、今日こんにちこの集会あつまりにおいて神とかおを合わせてあい見ますれば、そのふるき人は死にて新しき人がよみがえります。全く新しき人となりてこの集会あつまりより帰ることができます。これは実に私共のために幸いなることでございます。

 そこでヤコブは如何いかにしてこのめぐみを得ましたかと申しますれば、その晩ちょうどヤボクの渡しに参りまして、まずヤコブの愛する妻、愛する子、またつかおよびその所有もちものことごとく渡らせ、ただヤコブ一人にて残り、静かに神の聖前みまえでて聖声みこえを聞かんことを求めました。昼のあいだはヤコブは多くの者のかしらであり、金満家であり、またとうとぶべき人でありました。けれどもいま神の聖前みまえひざまずきたる時は、ヤコブは実に憐れむべき一人の罪人つみびとでございました。神の聖前みまえでました時は、そのかしらたる位もなくなり、また平素慕いたる宝の価値もせました。そうしてヤコブは実に憐れむべき罪人つみびとたるに過ぎませんでした。

 おお私共もその通り神の聖前みまえでなければなりません。私共がこの集会あつまりにおいて神とかおを合わせてあい見んことを願えば、すべての事物を全く棄てて、ただ一人にて神の聖前みまえでなければなりません。わが愛する者も、また愛する所有もちものも全く棄てて、ただいま一人びとりにて神の聖前みまえでなければなりません。おお神はあなたの価値ねうちを量りたまいとうございます。御自分の前にあなたの価値ねうちがどれほどあるか……あなたはこれまで人間からたっとまれ、また人間から愛せられておるかも知れん。けれども神の聖前みまえにはどういう者でありますか。ほかの者の量りによらず、ただ神の量りに従い、あなたはどれだけの価値ねうちがあるか、神はこれを知りたまいとうございます。おお今日こんにちこの多くの集会あつまりうちで、その通り一人びとりで神の聖前みまえずることができます。

 けれども私共の心のうちに少しでも罪を慕うねんあれば、また全く身もたまも神に任せませんなれば、決してかおかおを合わせて神とあい見ることはできません。またそういう人は神の聖前みまえずることを恐れます。なぜなれば、私共が神の聖前みまえずる時は、神は私共の心を探り、少しにても神に任せないところ、すなわちおのれがありますなれば、神は必ず私共と戦いたまいます。私共と角力ちからくらべを始めたまいます。神は今まで度々あなたと角力ちからくらべをなしたまいましたでしょう。また神は特にこの集会あつまりの初めよりあなたに身もたまも任せよと命じたまいますが、いまだその命令に従わない兄弟姉妹はありませんか。もしもそういう者があれば、その人は確かにこの集会あつまりの初めより今日こんにちまで心のうちに戦いがあります。今まで断えず神と角力ちからくらべがございます。神は愛をもってあなたのうちに働きたまいとうございます。けれどもあなたは神の働きを拒みます。神はあなたにめぐみを与えんと約束したまえど、あなたはその約束を信ずることができずしていつでもそれを断ります。おお今でもほかの兄弟姉妹は神のめぐみを豊かに受けて喜楽よろこびに満たされましても、あなたのうちにはただ失望と苦しみばかりがありますか。またの者は平安に満たされておるそのなかりて、あなたのうちにはただ戦いのみですか。おおそうでございましょう。神は洪大こうだいなる愛をもってあなたに近づきたまいます。愛をもってあなたと戦いたまいます。おお神がその戦いをやめたまいますなればあなたは実に大いなる災いでございます。おおどうぞ神が戦いをやめたまわざる前に、身もたまも全く神に任せてあなたの方から角力ちからくらべをやめなさい。

 ヤコブと神と間にはちょうどそういう戦いがありました。神は通夜よもすがらヤコブを導きたまいました。けれどもヤコブは神の導きを断りました。神はヤコブに身もたまも全く献げよと命じたまいます。けれどもヤコブはその命令を拒みました。そうですから神とやコブの間には通夜よもすがら戦いがございました。そしてヤコブは神に向かって強く戦いますから、神はついにヤコブのもものつがいに触れてそのつがいを挫離はずれしめたまいました。それゆえにヤコブはもはや神に逆らうことができません。実にヤコブは幸いでございました。おお今日こんにち神は御自分の聖手みてべて私共の心の高慢、頑固、我儘わがまま、不信にさわりてそれを打ち砕きたまわんことを。その時ヤコブはもはや神に逆らうことができません。ただ神の命令に従い、身もたまも全く神に任せるのほか何も仕方がありません。おおヤコブはかくのごとき有様になりました。けれどもこれはヤコブの勝利でございます。ヤコブはおのれの力をもって精を出すことによっては勝つことはできませんでしたが、身もたまも全く献ぐることによって神に勝つを得ました。おおハレルヤ、私共も同じように神にかちることができます。私共はヤコブと同じく、なんじわれを祝せずば去らしめずと神に向かいて言うことができます。私共はいて神に溢るるほどのめぐみを求めることができます。おお身もたまも全く神にまかするなれば必ずちからある祈禱いのりができます。信仰の祈りをなすことができます。ゆえに何を求めましても神はその求めに従いて答えを与えたまいます。おお祈禱いのりの恐ろしきちからは、実に身もたまも全く神に任せることでございます。ヤコブは実にそういうめぐみ、そういうちからを受けましたから、神はヤコブに向かって我を去らしめよと仰せたまいましたなれどもヤコブはこれを許さず、なんじわれを祝せずば去らしめずと申しました。おお兄弟姉妹よ、どうぞあなたもいま身もたまも全く神にお任せなさい。さればあなたはヤコブのごとく神にめぐみを求めまして、そのこたえを受けぬうちは神をつかまえることができます。そうしてあなたは確かに神より大いなるめぐみを受くることができます。おお今まで満足を得ざる兄弟姉妹よ、どうぞ今まずあなたの身とたまを全く神に任せ、そうしてあなたはヤコブのごとく、なんじわれを祝せずば去らしめずとお祈りなさい。その通り大胆なる祈禱いのり、信仰の祈禱いのりをいたしますれば神は必ずあなたを恵みたまいます。

 また神はヤコブにこのようなるめぐみを与えんために彼を一段ひくくなしたまいました。その人いいけるはなんじの名はなになるや、かれ言う、ヤコブなり。これはヤコブの懺悔でございます。ヤコブなり……これによってヤコブの履歴が全く分かりました。ヤコブなり……ヤコブの意味はだます者です。また惑わす者であります。ヤコブなり……すなわち私は憐れむべき罪人つみびとなり、私は人をだます者なり、私は時々罪を犯し失敗をなす者なりと申しました。おお神は今あなたに同じ問いをなしたまいます、なんじの名はなになるやと。あなたは人間の前には立派なる名があるかも知れん。けれども神の聖前みまえなにこたえができますか。或る人はこの問いに対して、私は実に憐れむべき罪人つみびとであると答えなければなりますまい。また或る人は私は偽り者でありますと答えなければなりますまい。また或る人は私は今までたびたび失敗したる者でありまた堕落したる者であると答えるのほかはありますまい。おおどうぞいま真心をもってこの神の問いに対しあなたの真実ほんとうの名、すなわち真実ほんとうの有様をお答えなさい。私は冷淡なる信者であります、私は今までただ偽善者ばかりでございますと。おおどうぞ真心をもってその事実を神に告げよ。

 けれども神はこの時ヤコブに何と仰せたまいましたかとなれば、『なんぢの名はかさねてヤコブとゝなふべからず イスラエルとゝなふべし』。おおヤコブは今までいろいろの罪を犯しました。今までたびたび失敗しました。今まで大いなる堕落をしました。けれどもただいま身もたまも全く神に献げましたから新しき生涯にり、その名をヤコブととなうべからず、イスラエルすなわち神のきみととなうべしと神は仰せたまいました。ふるきヤコブは全く死して、新しきイスラエルのみよみがえりました。ヤコブの今までのしき癖、今までの堕落、また今までの失敗は全く洗いきよめられて、新しきイスラエル、すなわち神の前に権能ちからある者となることができました。

 おお神は今日こんにちあなたにこのことを成就なさしめたまいとうございます。あなたのふるき人を全く死なしめ、ただ新しき人ばかりよみがえらしめたまいとうございます。おお神は今日こんにちこの経験をあなた方各自ごめいめいに与えたまいとうございます。パウロが、もはやわれ生けるにあらずキリスト我にりて生けるなりと申しました通り、ふるきあなたは全くせてただキリストばかりあなたのうちに生きたもうという経験を確かに受くることができます。おお兄弟姉妹よ、如何いかがですか。あなたは今まで神と戦いましたなれば今その戦いをやめましょうか。いま神の命令に従い全く身もたまも神に献げましょうか。そうすればあなたは今までのふるき人、すなわちふるき心、ふるき性質が全く死にて、新しきキリストばかりを得、清き生涯を送ることができます。どうぞこの幸いなる経験があなた方各位ごめいめいのものとならんことを祈ります。



|| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 目次 |