聖 靈 の 働 き

バンコム敎師講演



 聖霊のおん導きによりてわたくしも兄弟と同じことを考えて参りました。それで私が今日お話しいたしたいと思うことは聖霊の働きについてでございます。ヨハネ伝十四章十七節

 これすなは眞理まことみたまなり 世これをうくることあたはそはこれを見ずまたしらざるによる されど爾曹なんぢらこれしる そはかれなんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり

 かつ爾曹なんじらうちればなりとのことばは、原書にれば、かつ爾曹なんじらうちらんとすればなりとございます。そうすれば主は聖霊と弟子たちとの関係を示して、聖霊は今なんじらとともにいたまえども、きたらんとする日においては爾曹なんじらうちに住みたもうようになるとおおせられたのでございます。

 また使徒行伝一章八節を見れば、

 されども聖靈なんぢらにのぞむによりのち爾曹なんぢら能力ちからうけヱルサレム、ユダヤ全國、サマリヤおよび地のはてにまで證人あかしびとなるべし

とのしゅ聖言みことばがございます。これによって見れば聖霊は我等信者とともにおり、また信者のうちに宿り、或いは信者の上に臨みたもうとの三つの事が明らかにわかります。しかしてこの三つの区別は我等の別々の経験でございますから、これをよくよく考えることは誠に大切でございます。

 そこでその第一は、聖霊がともにいたまいまして断えず聖霊の感化を受けている者にて、彼等は未だ聖霊の賜物を受くるには至りません。それから第二は一歩進めて聖霊をうちに受けます。そうしてそのうちに住みたもう聖霊はその者の心をきよめたまいますから、彼は聖別せられます。しかし彼等はいまだ上なる権能ちからを受けませんから、主イエス・キリストのために能力ちからあるあかしをすることができません。第三は今また一歩を進めて、聖霊がそのうちにいたもうのみならずまたその上に臨みたもうて、上なる能力ちから、すなわちあかし能力ちからを受けております。そうしてその人々は常に主のため熱心にあかしすることを勉めております。それでこのことは弟子たちの有様について考えますと誠に明らかに分かります。皆様も御存じの通り、主イエス・キリストが弟子たちにむかい聖霊のことについてくわしく教えたまいしは十字架にかかりたもう前の晩のことにして、それまではあまりくわしく教えたまいませんでした。しかしその晩に至りまして主はねんごろに聖霊のことを教え、かれきたりてなんじらにすべての真理まことを教え、またなんじらとともにわがためにあかしをなすべしと示し、なおその時弟子たちにむかいて、なんじらは聖霊をる、そはかれなんじらとともにおりと仰せたまいたることであります。ゆえに私はそのことについてしばらく考えたいと思うのでございます。

 そこで聖霊はどういう意味にて弟子たちとともりて弟子たちのうちにいたまいませぬかと申しますれば、すなわち皆様も御存じの通り、主イエス・キリストは三十歳になりてヨハネよりバプテスマを受け、同時に聖霊のバプテスマをも受け、その時初めて伝道に着手し、また弟子たちをも集めたまいました。そうして弟子たちは三年のあいだ主とともにおり、主はそのあいだ弟子たちにいろいろの教えを垂れたまいまして、弟子たちは漸々ぜんぜん確信を持つようになりました。しかして弟子たちがイエスを神の子と信ずるようになりしは何のちからるかというに、決してイエスの教えのちからではありません。実に聖霊のちからです。パウロがコリントに送りたる書簡てがみうちにも

 又ひと聖靈に感ぜざればイエスをしゅいふあたはず (コリントぜん十二・三

とございます。ゆえに弟子たちがイエスを主とるようになりたるは聖霊の感化によること誠に明らかでございます。しかしながら主イエス・キリストはその時なお弟子たちにむかい、聖霊はいまなんじらのうちにおらずと明らかに仰せられました。またヨハネ伝七章三十九節にもこのことが記されてございます。

 此如かくいへるは彼を信ずる者のうけんとするみたまさせるなり そはイエスいまあがめうけざるによりみたまいまだくだらざればなり

 かく言えるは彼を信ずる者の受けんとするみたまを指せるなり。そうすれば当時このとき弟子たちはいまだ聖霊を受けておりません。しかし聖霊の感化を受けてイエスを主と信じておりました。

 そこで聖霊は如何いかにして人々のうちに働きたもうたかと申しますれば、もちろん主イエス・キリストを通して働きたまいました。すなわち主イエス・キリストが聖霊に満たされて働きたまいまして、人々はイエスのうちに満ちたもう聖霊の感化を受けて信じ従うようになったのでございます。それから弟子たちは主の命令に従いまして伝道にでて種々の奇跡を行いましたが、その時も聖霊の賜物を受けてはおりませんでした。何となれば聖霊いまだ実際にくだらざればなり。

 そこでまた今日こんにちの多くの信者の有様を考えるに、ちょうど弟子たちが主とともりし時と同様であります。かの時、主イエス・キリストがもし弟子たちをそのままに差しきたまいしなれば如何いかなる結果を生じましょうか。必ず主を離れたる時、信仰を失うて元の通りになったに相違ありません。今日こんにちの信者の多くがそうです。教会にって、聖霊に満たされたる熱心なる牧師とともにおるときは、喜びて主に従い主の誡命いましめを守りますが、一度教会を離れ牧師に別れて遠方にきますなれば、だんだん信仰を失いてついには元の通りになります。これは実に今日こんにち多くの教会にしばしばあるところの事実です。しかしながら主イエス・キリストは弟子たちにむかい、いま聖霊はなんじらとともり、かつ近いうちになんじらのうちらんとすと仰せたまいました。またヨハネ伝二十章を見れば、主はよみがえりてのち弟子たちにあらわれ、なおこのことについて仰せられました。すなわち二十節より二十二節までに

 如此かくいひしのちその手とあばらを彼等に見す 弟子たち主を見て喜べり イエスまた彼等にいひけるは 爾曹なんぢらやすかれ 父のわれつかはしゝ如くわれ爾曹なんぢらつかはさん 此如かくいひしのちいきふきて彼等にいひけるは 聖靈をうけ

 息を吹きて彼等にいいけるは「聖霊をうけよ」……主イエス・キリストは三年間断えず弟子たちとともりて彼等を教えたまいましたが、この時に至るまでいまだ一回も弟子たちに向かって聖霊を受けよと仰せられたることはありません。しかしながら主は今やあがないの事業を成就して神と我等の間にある罪の隔てを取り除きたまいましたから、初めて弟子たちに聖霊を受けよと命じたもうことが出来るようになりました。そうすれば我等はイエスを信じたるのち聖霊を受くるはずでございます。けれども今日こんにちの多くの信者はこのことが分かりません。ただ私はバプテスマを受くる時に確かに信じて新たに生まれましたからたいてい聖霊を受けたであろうと考えております。もっともバプテスマを受くると同時に聖霊を受くることができぬとは申しませんが、しかしこれには順序がありて、第一に主イエス・キリストを信じて神の子等こらとなり、しかるのち聖霊の賜物を受くるのでございます。エペソ書一章を見ればこのことが明らかに教えられました。すなわち第十三節に……このところ翻訳を改めます。

 爾曹なんぢらまことことばすなはち爾曹なんぢらを救ふ福音をきゝのちキリストを信じ 又彼を信じたるのち我儕われらげふつぐかたなる約束の聖靈をもっいんせらる

 これによって見れば福音を聞きしのちキリストを信じ、またキリストを信じたるのち信者たちは聖霊を受けます。すなわち神は約束の聖霊をもっていんしたまいます。ああこれは我等がいま求むるところのめぐみではありませんか。今日こんにちこのところに集まりたる多くの兄弟姉妹はみなイエスを信ずる者です。しかしいまだ聖霊をもっていんせられてはおりますまい。これはあなた方各位ごめいめいによく分かっておることと思います。けれども誠に幸いなることは、イエスを信ずることをもって神に求むれば、確かにいま聖霊をもっていんせらるることができます。そしてパウロが聖霊をもっていんするとのことばをもって教えしはただこのエペソ書ばかりにして、ほかの所へはほかことばをもって教えました。またこのエペソ書に限りこのことばを用いしわけは、すなわちエペソには材木屋がたくさんありて、その材木屋は処々しょしょ方々ほうぼうまわりて材木を買いました。そうしてその材木を買うて代金を払うてその材木が全くわがものとなりたる時、いんして帰り、のちしもべを遣わしてその材木を取らせました。それですからこのことは信者のために誠に分かり易きたとえでございました。すなわち主イエス・キリストはとうと御血おんちをもって我等を買い取りたまいました。しかして我等が全く主のものとなりたる時、聖霊をもっていんしたもうのでございます。されば誠にイエスを信じ真実ほんとうに主のものとなりたる者は、必ず聖霊をもっておるはずです。我等は如何いかがでございましょうか。あなたはこれを承知して身もたまも全く神に任せましょうか、されば主はあなたが御自分のものであるというしるしに聖霊をもっていんし、悪魔や世がこれはわがものであると言うことのできぬようになしたまいます。そうしてそののち、材木屋がその買い受けし材木を集むるためにしもべを遣わしますごとく、主は再びきたりて御自分に属する者、すなわち聖霊のいんある者を集めたまいます。あなたはその日のため充分の備えができましたか。その日、その幸いにあずかる者はただ聖霊のいんある者ばかりでございます。ロマ書八章九節にも

 おほよそキリストのれいなき者はキリストにつかざる者なり

と記されてございます。そこで或る人は申します。キリストのれいらずしてキリストを信ずることはできないから、信者は必ずキリストのれいてる者であると。しかし私の考えるところによればこれは大いなる誤解であると思います。なぜなれば実際信者にしてキリストのれいを受けぬ者がたくさんにございます。皆様はマタイ伝二十五章に記されたる十人の娘のたとえを御存じでしょう。すなわち十人が十人とも新郎はなむこを迎えにでました。この点においては誰も変わりはありません。それですからこの十人は確かにみなキリストを信ずる者でございます。しかしながらそのうちの五人は賢くして聖霊の賜物を受けおれども、の五人はいまだこの賜物を受けず、ただ聖霊の感化ばかりを受けし者にございます。そうしてその結果如何いかがでありしかと申しますれば、聖霊を受けおりし五人は主の婚筵こんえんあずかることができましたが、残りの五人はその席へはいることができませんでした。しかのみならず彼等が油を整えて帰りきたりたる時は門は既に閉じられ、わがために開きたまえと求めたれども、主はなかより、われなんじらを知らずとてその求めに応じたまいませんでした。そこで私はこの残されし五人の娘が永遠の滅亡ほろびったとは申しません。しかし彼等は聖霊を受けておりませんでしたから、一番大いなる幸い、すなわち主の婚筵こんえんあずかることができませんでした。それですから我等聖霊をもっていんせらるるということは最も大切でございます。あなたは聖霊を受けましたが、聖霊をもっていんせられておりますか。またあなたはただ聖霊の感化ばかりを受けて満足してはおりませんか、如何いかがですか。どうかこのことをよくよくお考えなさらんことを願います。

 そこで我等聖霊を受くればどういう結果がありましょうかと申しますれば、第一、我等の心に全ききよめを受くることができます。主は私共のけがれたる心に宿りたもうことができませんから必ず心をきよめたまいます。エゼキエル書三十六章二十五節以下に

 淸き水を汝等なんぢらそゝぎて汝等なんぢらを淸くならしめ汝等なんぢらもろもろ汚穢けがれもろもろの偶像を除きてなんぢらを淸むべし われ新しき心を汝等なんぢらに賜ひ新しき靈魂たましひ汝等なんぢらうちさづ汝等なんぢらの肉より石の心を除きて肉の心をなんぢらにあたわがれいなんぢらのうちに置きなんぢらをして法度のりに步ましめわがおきてを守りてこれを行はしむべし

とございます。これによって見れば、聖霊が我等のうちに宿りたまえば第一に心がきよめられ、次に頑固かたくななる石のごとき心が取り除かれ、それから神の律法おきてを守るちからを与えられます。そうして我等聖霊の結ぶうるわしきをもって満たさるるようになります。どうかガラテヤ書五章二十二、三節をご覧なさい。

 みたまの結ぶ所の仁愛じんあい喜樂きらく・平和・忍耐・慈悲・良善りゃうぜん・忠信・温柔おんじう撙節そんせつ……

 我等は自分の霊力ちからにてはどうしてもかくのごときうるわしきの一つをもることはできません。ただ聖霊が我等の心に宿りたもうことによって自然じぜんにこの美果あらわれます。またそれのみならず我等喜楽よろこびに満たされて主に感謝するようになります。パウロはエペソ書五章十八節以下にそのことをくわしく教えました。

 よろしみたま滿みたさるべし たがひに詩と歌とれいに感じて作れるとをて語りあひ又うたひて爾曹なんぢらの心に主を讚美すべし すべての事につきてつね我儕われらの主イエス・キリストの名によりて神すなはち父にしゃすべし

 我等聖霊に満たさるればこのような結果があらわれます。それですから聖霊が信者の心に宿りたまえば、世の人々から彼はキリスト信者であるということをすぐ知られるようになります。決してこれをかくすことはできません。しかしながらいまだ聖霊を受けぬ者は、ほかの所にく時、長きあいだその者のキリスト信者であるということを世の人は知りません。これ実に聖霊を受けぬ証拠です。皆様は如何いかがでございますか。あなたの近隣となりの人々があなたは熱心なるキリスト信者であるということを知っておりますか。もしもこれを知りませんなれば、それはあなたがまだ聖霊の賜物を受けない証拠でございます。ああ聖霊をもっていんせられることは誠に大切でございます。そうしてこれをいんする者はたれであるかというに、これは申すまでもなく父なる神でございます。また聖霊は父なる神よりきたみたまでございまして、ことばを換えていえば聖霊は神のきよ御気おんきでございます。ゆえにその聖霊が我等の心に宿りたまえば我等は神と一体となります。ああ実に驚くべきめぐみではありませんか。どうか皆様諸共もろともにいま力を合わせてこの大いなるめぐみ、すなわち聖霊のいんをお求めなさることを願います。

 そこで今一歩を進めて、この大切なる聖霊のいんを受けんことを願うには如何いかなることが必要であるかとなれば、第一は前にもべたるごとく全く自分をしゅに任せることであります。もしそうでありませんなれば神は決してその者にいんを付けたもうことはできません。なぜなればそのいんを付けることは、この者はわがものなりというあかしなればなり。さればいまおのれを全く主に任せざる兄弟姉妹は神のものということができませんから、神はあなたに聖霊を与えたもうことができません。そうすれば、あなたは聖霊を受けたいなれば、まずおのれおのれける一切のものを全く主に献げなければなりません。ことばを換えていえばあなたは全く聖別せられなければなりません。そうしてあなたは全く主のものとなりたる時、神はあなたに御自分のものであるというしるしすなわち聖霊を与えたまいます。さればあなたは聖霊の働きがうちにあるからだんだんと進歩してついには満たされ、主の栄光をあらわすようになります。ああこれは誠に大切なることでございます。

 第二に申し上げたきことは、このうちには最早必ず聖霊の賜物を受けたと信じて感謝しつつある兄弟姉妹が多くあることと信じます。しかしてその兄弟姉妹に私が切に願うところは、上なる権能ちからを受くることでございます。聖霊臨むによりてのち爾曹なんじら能力ちからを受けと主が仰せたまいしことの成就せんことでございます。ルカ伝二十四章四十九節を見れば

 われわが父のちかひのものを爾曹なんぢらおくらん 爾曹なんぢら上よりちからさづけらるゝまではヱルサレムにとゞま

と記されてございますが、これは皆様の御存じの通り既に聖霊を受けておる弟子たちに向かって仰せられたる聖言みことばであります。すなわち同章四十五節

 こゝおいて聖書をさとらせんとてそのさとりひら

とございます。既に主イエス・キリストによりさとりひらかれたる者は必ず聖霊を受けております。またヨハネ伝二十章二十二節を見れば

 如此かくいひしのちいきふきて彼等にいひけるは 聖靈をうけ

と記されました。されば弟子たちはこの時既に聖霊を受け、聖霊はすでに彼等の心に宿りたまいしことは明らかでございます。しかるに主はその弟子たちにむかい『爾曹なんぢら上よりちからさづけらるゝまではヱルサレムにとゞまれ』と仰せられたるところを見れば、聖霊の賜物をうちに受くるということと、上なる能力ちから、すなわちあかし能力ちからを受くることとは全く別々のめぐみであるということが明らかに分かります。我等今日こんにちそのめぐみを受くれば、弟子たちの通り主のために能力ちからあるあかしをなすことができます。ゆえにもはや聖霊の賜物をうちに受けたる兄弟姉妹は、今日こんにちどうか神に求めてこの上なる能力ちからをお受けなさることを只管ひたすらに願います。またいまだ聖霊を受けざる兄弟姉妹はおのれを全く主に任せて、今……今聖霊をお受けなさい。これは一番大切のことです。そうして主は……今このところに立ちたもう主は喜びを得させたまいますから、どうか我等みなもろともに万事を全く主に任せて豊かに聖霊に満たされんことを只管ひたすらに願います。



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