第 二 回 (三月一日午後二時卅分開會)

信 者 の みつ立 塲たちば

バンコム敎師講演



 かくてイエスすべての事のすでをはれるをしり聖書にかなはせんためわれかわくといへり 此處このところ滿みちたる噐皿うつはありしかば兵卒ども海絨うみわたひた牛膝草ヒソプつけその口にあたふ イエスうけのちいひけるは 事をはりかうべたれれいわたせり
 この日は節筵いはひ備日そなへびなり この安息日あんそくにちおほいなる安息日あんそくにちなればしかばねを十字架の上におくことをこのまざるがゆゑにユダヤびとピラトにむかひかれらのあしをりそのしかばね取除とりのぞくことをねがへり こゝおいて兵卒どもイエスとともに十字架につけられし者の一人のあしを先にをり 次にまた一人のあしをり のちにイエスにきたりしにすでしにたるを見てそのあしをらざりき 一人の兵卒やりにてそのあばらつきければたゞちに血と水と流出ながれいでたり これを見し者あかしを立つ そのあかしまことなり 彼またみづかいふところのまことなるをしる 爾曹なんぢらをして信ぜしめんためなり この事なれしるしてその骨のひとつをもくだかざるべしとあるかなはせんためなり またほかふみに彼等のさしし者を彼等みるべしといへり (ヨハネ十九・廿八〜卅七


 わたくしが今このヨハネ伝十九章を読みましたわけは、決してほかではありません、すなわち我等神よりめぐみを受けんとおもわば、主イエス・キリストの十字架を基礎どだいとしなければならぬというに基づくものであります。

 それで今日こんにち、このところにかく多くの信者が集まっておることでございますが、私はこの多くの信者を区別すれば三組になると思います。

 そこでその第一の組は何であるかと申しますれば、これは主イエス・キリストはわがために十字架にかかりたまえり、私は実にその御贖おんあがないにりてすべての罪の赦しを得て神の子の一人とせられたということを信じて喜んでおる兄弟姉妹でございます。如何ですか、皆様は確かにこの信仰がございますか。

 また第二の組は何であるかと言えば、既に主の十字架を信じ、進みてかれよみがえりをも信じ、これと同時におのれもまた彼と共によみがえらされて新しき生命いのちを得、主イエス・キリストとける交わりをなして、喜楽よろこびに満たされておる者でございます。

 それから第三の組は何であるかと申せば、既に主の十字架とそのよみがえりを信じ、なお進みて、このよみがえりたまいし主は天に昇りて神の右に坐したもうことを信じ、おのれもそのイエス・キリストとともに天のところにおる者でございます。かかる信者は常に聖霊に満たされて主イエス・キリストのために働き、世の人の憐れなる有様を感じて絶えず主イエス・キリストとともに苦しみを忍ぶ者でございます。

 こういうように考えますと、この三階級は確かに信者の三つの立場でございます。すなわち第一の立場は主の十字架、第二の立場はよみがえりのイエス、第三の立場は天にる栄光の座でございます。エペソ書二章を見ればこのことが明らかに教えられてございます。すなわち四節より七節まで

 しかるに矜恤あはれみとめる神われらを愛する所のおほいなる愛により 罪にしにし時にすら我儕われらをキリストとともいかし(なんぢらめぐみよりすくはれしなり) 又イエス・キリストにあるわれらを彼とともよみがへらせ共に天のところに坐せしめ給へり これ今よりのちの世々キリスト・イエスのうちにて我儕われらに施す所の仁慈なさけをもてそのめぐみすぐれゆたかなる事をあらはさんためなり

とございます。そしてこの五節に『我儕われらをキリストとともいかし』とあるはこれ第一の立場にして、六節の初めに『又イエス・キリストにあるわれらを彼とともよみがへらせ』とあるは即ち第二の立場であって、また同節の終に『共に天のところに坐せしめ給へり』とあるはこれすなわち第三の立場でございます。

 さて信者の立場はかくのごとく三つの組に分かれますが、私が今日こんにち皆様と共に考えたいと思いますことは、私は果してどの組にはいりておるか、あなたの立場はどの組ですか、或いはあなたは未だ第一の組にもはいることができませんか、どうですかということを熟考したいのでございます。ああこれは実に大切のことであります。願わくは聖霊なる神、我等各自めいめいを導きて自らの有様を今明らかに知らしめたまわんことを。

 そこで第一の組は前にも申し上げるごとく主の十字架を立場とする者でございまして、彼らは皆その十字架の前に立つ者です。私は先刻、ヨハネ伝十九章を読みましたが、皆様も御存知の通り主イエス・キリストはこのところにおいて十字架にけられ、全く死にたまいました。その死については少しも疑いはありません。そしてこのことは誠に大切です。なぜなればもし主イエス・キリストが真実ほんとうに死にたまいませんでしたなれば我等は未だ罪のゆるしを得ざる者です。けれども主イエス・キリストは確かに全く死にたまいました。これはヨハネが明らかにあかしせしところであります。すなわち先刻読みましたヨハネ伝十九章三十五節

 これを見し者あかしを立つ そのあかしまことなり 彼またみづかいふところのまことなるをしる 爾曹なんぢらをして信ぜしめんがためなり

とございます。これによって見れば主イエス・キリストが十字架の上に全く死にたまいしことは確かなる事実です。さればイエス・キリストを信じると言う者よ、あなたは確かにイエス・キリストとともに十字架の上に死にし者です。如何いかんとなれば主イエス・キリストの死は全く我等のためなればなり、パウロはコリント後書五章二十一節にこのことを明らかに教えました。

 神罪をしらざる者を我儕われらかはり罪人つみびととなせり これ我儕われらをして彼にありて神の義となることを得しめんためなり

 ああ我等はこのことが明らかですか。あなたは如何いかがですか。これ実に大切なることでございます。もし我等確かに救われておりますなれば、主イエス・キリストと一体にして決して別の者ではありません。主はこのことをしばしば教えたまいました。ヨハネ伝十五章にある葡萄ぶどう仮例たとえのごとき、実に適例でございます。すなわちそのところに記されてあるごとく樹と枝とは確かに一つでございまして、決して別々のものではありません。そのごとく、主イエス・キリストと我等とは確かに一体でございます。もしそうでないなれば我等はいまだ全き信者ということは出来ません。されば我等キリストを信ずる者は確かにキリストと一体ですから、キリストが十字架にかかりて死にたまいたるにより我等もともに死にたる者です。如何いかがですか、あなたは確かにこのことを信じますか。しかしてあなたの心のなかにこのことを信ずるによりすべての罪が赦されたとの確信がございますか。これ実に大切の事にて、もしこの経験がありませんなれば、あなたはこの集会あつまりにおいて神よりめぐみを受くることが出来ません。ゆえに私はこの集会あつまりの始めにおいて皆様と共にこのことを深く考えたいと思うのでございます。どうか皆様各自ごめいめいに自分の有様をお考えなされ。すなわちあなたは主イエス・キリストの十字架のもときたり、仰いで十字架上のキリストを見、あなたのために死にたまいしキリストを信じ、あなたもともに死にましたか。死んで罪の全免を得ましたか。どうかこのことにつき今聖霊の光に照らされ、あなたの実際の有様をお悟りなさらんことを願います。

 私がこのことにつきかく繰り返して申しますわけは、一つの経験があるからです。すなわち昨年或る教会におきまして聖別会を開きました。そしてその時集まりたる信者は四十名ばかりでございましたが、その時私はその信者等に向かって確かに罪が赦されておるとの経験があるかなきかを尋ねました。しかるにそのうちのただ七、八名ばかりその経験を有する者にて、残りの信者はいまだその確信のなきことが分かり私は驚愕びっくりしました。ゆえに私は今日こんにちのこの集会あつまりうちにもそういう人がありはせんかと心配をいたします。もし今日きょう集会あつまりなかにそういうかたがございますなれば、今この十字架のもときたりあなたのために死にたまいし主イエス・キリストをお信じなさい。真実ほんとうに信じて、あなたもともに十字架に死して罪の赦しをお受けなさい。これ実にこの集会あつまりにおいてめぐみを受くる基礎どだいであります。パウロは今時いつでもこのことを基礎きそとしてすべての人々に教えました。どうかガラテヤ書二章二十節をご覧なされ。

 われキリストとともに十字架につけられたり もはやわれいけるにあらず キリストわれありいけるなり 今われ肉體にありいけるはわれを愛しためおのれすてし者すなはち神の子を信ずるによりいけるなり

 ああ皆様はかかる経験がございますか。あなたは今神の聖前みまえにおいてはばからずしてこのことばを読むことが出来ますか。またあなたはイエス・キリストを覚える時に我を愛してわがためにおのれを捨てし神の子と真実ほんとうに信ずることができますか。これ実に大切のことでございます。またガラテヤ書三章十三節を見れば

 キリスト既に我儕われらためのろはるゝ者となりて我儕われらあがな律法おきてのろひよりはなれしめ給へり そはすべて木にかゝる者はのろはれし者なりとしるされたればなり

とございます。皆様も御存じの通り、ガラテヤの信者たちはパウロのそのところにおりますあいだはキリストの福音を聞き、喜びて十字架にけられしキリストを信じ、罪の赦しを受けました。けれどもパウロがそのところを去りしのちは、漸くその道より迷いでて、自分の行いや儀式によりて罪を赦されまた義とせらるるというようなる考えをつようになりました。それゆえにパウロはその人々に向かって、本文ほんもんのごとく、キリスト既に我儕われらのためにのろわるる者となりて我等をあがない、律法おきてのろいよりはなれしめたまいしに、爾曹なんじらは再びその律法おきてしたに帰らんとするかと申しました。ああ皆様は如何いかがですか。あなたはこういう愚かなる考えを抱いてはおりませんか。これ実にこの集会あつまりにおいて大切なる問題であります。なぜなれば我等聖霊に満たされんとなれば是非とも本文ほんもんの事実の上に立ちて求めねばなりません。どうか次の十四節をご覧なさい。

 これアブラハムに約束し給ひし恩惠めぐみイエス・キリストによりて異邦人にまで及び我儕われらにも信仰によりて約束のみたまうけしめんためなり

 これによって見れば、イエス・キリストが我等のためにのろわるる者となり木にかかりたまいしは、ただ我等をして信仰にりて約束の聖霊を受けしめんがためなることが明らかでございます。されば我等聖霊の賜物を受けんことを願う者は、必ずず主イエス・キリストの十字架のもときたり、わがために死にたまいしキリストを見上げ、これを信じてその死にあずかり、律法おきてのろいよりはなるることが最も肝要でございます。

 しかしながら我等はただキリストとともに死にしことをもって満足すべきではありません。何となれば主イエス・キリストは死にていつまでも墓のなかにいたまいません。すなわち皆様が御存じの通り、三日目によみがえりたまいました。そうして主は先におおせられました、『われいくれば爾曹なんぢらいきん』と。さらば主イエス・キリストは今確かに生きたまいますから、我等主イエス・キリストとともに死にし者もまた確かに生きておるはずです。先刻読みましたエペソ書二章四、五節にも

 矜恤あはれみとめる神われらを愛する所のおほいなる愛により 罪にしにし時にすら我儕われらをキリストとともいか

とございます。されば我等神より大いなるめぐみを得んとなれば、このことすなわちキリストとともに死することとまたキリストとともに生くることの上に立たなければなりません。もしそうでございませんなれば、この集会あつまりに参りましてよし一時いちじ幾分いくぶんの感情が動きましても、それはただ感情ばかりにして、長くそのめぐみたもつことは出来ません。多くの信者はこういう集会あつまりに出席しまして大いなるめぐみを受けたと申して喜びます。けれどもそののち一週間もしくは一ヶ月もちましたなれば、漸々ぜんぜんそのめぐみを失うて、再び冷ややかなる信者となります。これ何がゆえかとなれば、すなわちめぐみを受くる基礎どだいが定まっていないからのことであります。しかしながら我等もし前申し上げるごとき確かなる基礎どだいの上に立ちてそのめぐみを受けますなれば、これはおのれらず主によって受けたのであるから、主が永遠に変わりたまわざるごとく、我等の経験も永く変わることはありません。さらば皆様、どうか今確かにこの基礎どだいをお据えなさい。主イエス・キリストはあなたのために十字架に死し、またあなたのためによみがえりたまいました。

 しかしてパウロはなおこのことにつきロマ書六章に大切なる教えをいたしました。すなわち七、八節

 そはしにし者は罪よりゆるさるればなり 我儕われらもしキリストとともしなば又彼とともいきん事を信ず

と。また同章十一節を見れば

 如此かくなんぢらも我儕われらの主イエス・キリストにより罪についてはみづかしぬる者また神についてはいける者なりとおもふべし

と記されてございます。されば我等キリストとともに死に、またキリストとともに生きし者は、確かに新しき生命いのちを得て新たなる生涯にはずです。しかして主イエス・キリストは罪のために再び死にたもうことはありません。如何いかんとなれば主は罪に向かって全く死し、ただ神にいてのみ生きたもうからであります。されば我等の主イエス・キリストを信じ彼と一体となりたる者はまたこれと同じ経験が必要であります。すなわちただいまも読みましたごとく、我等の主イエス・キリストにより罪については自ら死ぬる者、神については生くる者とならなければなりません。ヨハネ第一書四章十七節を見れば

 そは主の如く我儕われら世にあればなり

と記されてございます。けれども主はいま天にりて神の右に坐したまい、我等は地上に残っております。しかるにどうして主のごとくることが出来ましょうか。これいつの疑問でございます。しかしながら前にも申し上げるごとく、もし我等真実ほんとうにキリストを信じ、キリストと一体となりましたなれば、必ずキリストと同様の経験をつはずです。すなわち主イエス・キリストは罪にいて死にたまいましたから、我等もまた罪にいては自ら死ぬる者、また主は神にいて生きたまいましたから我等も同じく神にいて生くる者となり、また主は天にりて神の右に坐したまいますから、主と一体なる我等あたかも主が我等にりて地上に生きたもうごとく、我等も主にって天のところに坐する者でございます。何と大いなるめぐみではありませんか。ああ兄弟姉妹よ、あなたは確かにこの経験がございますか。あなたは如何いかがですか。どうか各自ごめいめいにこのことをお考えなさい。しかしてもしいまだこの経験がございませんなれば、心を静めて今このところにて主イエス・キリストをご覧なさい……このキリストをご覧なさい。もしあなたが明らかに主を見ることが出来ましたならば、あなたは決して疑うことが出来ないようになります。ああこの主は如何いかなる御方おかたでございますか。実に永遠より永遠にいます神のひとり子でございます。しかしてこの神のひとり子があなたのために人間となり、あなたの罪のために死に、あなたのためによみがえり、あなたのために今天のところりて神の右に坐したまいます。しかしてこの主キリストは今や我等各自めいめいけんために空中にまできたり、そののちまた死者と生者とを審判さばきせんために再び地上にきたりたもう御方おんかたでございます。もしあなたが今このイエスを真実ほんとうに信じ彼と一体になりますなれば、彼と同じ経験を得、しかしてあなたは永遠に彼と離るることはありません。どうかロマ書八章三十七節以下をご覧なさい。

 され我儕われらいつくしめる者によりすべて此等これらの事に勝得かちえあまりあり そはあるひは死あるひはいのちあるひは天使てんのつかひあるひは執政つかさあるひは有能ちからあるものあるひは今ある者あるひはのちあらん者 あるひは高きあるひふかきまたほか受造物つくられしもの我儕われらわが主イエスキリストによれる神のいつくしみよりはならすることあたはざる者なるをわれは信ぜり

と。ああこれ実に幸いなる経験ではありませんか。私は今日こんにちこの経験が皆様の経験とならんことを信じて祈ります。皆様はこれまで始終自分ばかりを見ましたでしょう。ああ私はこの罪を捨てることができぬ、ああ私にはこういうしき癖がある、ああ私は信仰が薄い、ああ私は愛が足らぬと、かように自分ばかりを見ましたでしょう。けれどもどうしても自分は自分を救うことが出来ませんから全き信者となることは出来ません。ああどうか今日こんにち主イエス・キリストをご覧なさい。今おのれを見ることをめてキリストばかりをご覧なさい。さればあなたは必ず主より能力ちからを受けて真実ほんとうの信者となり、この集会あつまりにおいて神より大いなる御恩おんめぐみを確かに頂戴することができます。



|| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 目次 |