第 二 章



 第一章の大意は世を離れて赤心まごころをもって主に従うことでありました。まだ何の感情がありませんでも、断然身も魂も献げました。二章の大意はあがなぬしを発見することであります。そうですからこのとき初めて心のうちに感情が出て参ります。正直に世を離れまするならば、早速救主すくいぬしを発見して、救主すくいぬし恩恵めぐみを味わうことを得ます。

 一節『ナオミにそのおっと知己しるひとあり(知己しるひとでは意味が弱うございます。原語では親類です) すなはちエリメレクのやからにしておほいなる力の人なり その名をボアズといふ』

 ルツはボアズの事を少しも知りませなんだ。けれどもボアズと面会することを得ました。ボアズはこの人のあがないびとでありました。親類ということばにはあがないびとという意味があります。二十節の終わりを見ますと『その人は我等にちなみある者にして我等の贖業者あがなひびとの一人なり』とあります。それゆえにこの憐れむべきルツのために、力あるあがないびとがありました。このルツはたぶん寂しい心をもって、またたぶん心配してベツレヘムに参りましたでしょう。けれどもそこにあがないびとがあって、格別にルツを恵み、ルツを愛し、ルツのために働く力をっておりました。

 愛する兄弟姉妹よ、あなたが断然世を離れて、正直に身も魂も献げなさいましたならば、あなたの思う所にまされる恩恵めぐみ能力ちからっていたもうあがないびとがあります。あなたのために溢れるほどの恩恵めぐみを備えていたまいます。その人は『おほいなる力の人』であります。それゆえにあなたを助け、あなたを全く救い、あなたに恩恵めぐみを溢れしめたもう事ができます。私共はたびたび不信仰のために、私共のあがなぬしは力の弱い者のように思います。不信仰によりてしゅイエスの能力ちから恩恵めぐみの富を信じません。けれども聖書の黙示によりて心の眼が開かれますれば、私共のあがなぬしは力ある御方おかたでありますから、必ず私共を全く救い、真正ほんとうに溢れるほど恩恵めぐみを与えたもうことのできるのがわかります。詩篇八十九篇の十九節をご覧なさい。

 『そのとき異象まぼろしをもてなんぢの聖徒につげたまはく(すなわち神はこれを黙示したまいました) われ佑助たすけをちからあるものに委ねたり』

 おお、ハレルヤ。父なる神は、私共の救いと私共の助けを、力ある者すなわちイエスに委ねたまいました。また黙示録十九章十六節には、キリストを『王の王、しゅしゅ』と言うてあります。おお、目を挙げてあなたのあがなぬしをご覧なさい。私共のあがなぬしは実に王の王、しゅしゅでありますから、必ず私共に全き聖潔きよめを与え、全き満足と慰めを与えたもう事ができます。

 ここで注意すべき事は、エリメレクとナオミがカナンの地を去りました時にさえも、かかるあがなぬしがあったのであります。かかる恩恵めぐみに溢れたるあがなぬしがありましたのに、そのあがなぬしを信用せずして、恩恵めぐみを求めるためにモアブにきました。おお、堕落しておる人はあがなぬしの栄光を知りません。しゅイエスの栄光を信じません。自分の肉欲に従って喜楽よろこび能力ちからを求めます。おお、皆様のためにかかる能力ちからあるあがなぬしがあります。今日きょうそれをお信じなさい。ルツはだその人を知りませなんだが、その人は喜んでルツのためにあがないの力を伸ばしました。

 二節こゝにモアブのをんなルツ、ナオミにいひけるは ふ われをしてはたけにゆかしめよ われ何人なにびとかの目のまへにめぐみをうることあらばその人のうしろにしたがひて穗を拾はんと』

 既に世を捨てた者は、第一に霊のかてを慕うて、これを得んと願います。これは自然であります。今生まれし嬰児おさなごは自然に乳を慕います。そのように真正ほんとうにこの世を捨てて身も魂も献げた者は、第一に霊のかてを求めます。出エジプト記を見ますると、十四章において神はイスラエルびとを救いたまいまして、十五章において救われたイスラエルびとは救いの喜悦よろこびをもって神を讃美しますが、すぐそののち十六章においてこの救われた人々に神は毎日マナを与えたまいましたから、彼らはそれを拾い、それを食して、それによりて養われました。私共も新しい恩恵めぐみを得ましたならば、自然、聖書を開いて、聖書より霊のかてを求むるようになります。

 雅歌一章にも同じことを見ることができます。七節を見ますと

 『わが心の愛する者よ なんぢは何處いづくにてなんぢのむれやしな午時ひるどきいづこにてこれやすまするや……』

 八節

 『婦人をんないとうるはしき者よ なんぢもししらずばむれ足跡あしあとにしたがひていでゆき 牧羊者ひつじかひの天幕のかたはらにてなんぢ羔山羊こやぎへ』

 忠信にしゅに従う者の足跡に従えよ。忠信に主のために働く者のそばにおれば、必ず霊のかてを得ることができます。ちょうどそのようにルツは収穫かりいれに行った働きびとそばに養いを求めました。

 二節終『ナオミ彼に女子むすめゆくべしといひければ』
 三節すなはつひに至りて刈者かるものうしろにしたがひはたけにて穗を拾ふ 彼おもはずもエリメレクのやからなるボアズのはたけうちにいたれり』

 『おもはずも』自分のあがなぬしの地面に参りました。おもわずも恩恵めぐみを受けるところに参りました。必ず神がその足を導いて、恩恵めぐみいどに導きたもうたに相違ありません。私共わたくしどももそのようにおもわずもしゅに面会して、主の恩恵めぐみを頂戴します。熱心に霊のかてを求めますれば、聖書から光を与えることばを見出します。或いは偶然に主イエスを表す聖言みことばを受けます。或いはおもわずも主の表れたもう集会あつまりに導かれて参ります。ルツはそのようでありました。神に導かれて偶然にボアズの畑に参りました。

 ルツは養いを求めました。そうして自分の力で養いが得られると思いました。けれどもいま養いでなくして養いぬしご自身を見出し、その養いぬしの恵みによりて養いを得ました。ちょうどそのように私共はたびたび己を信用して霊の糧を求めます時に、偶然に主に出会って、その恵みの御手おんてより養いを受けることがあります。

 四節『時にボアズ、ベテレヘムよりきたり』

 英語ではこれは実に力あることばでありまして and behold すなわち『見よ』ということばがあります。この時にルツははじめてあがなぬしを見る事を得ました。その時にだボアズの恩恵めぐみ、ボアズの能力ちから、ボアズのあがないを知らなかったに相違ありませんが、ボアズを目をもって見る事を得ました。

 『その刈者等かるものどもに言ふ ねがはくはヱホバ汝等なんぢらとともにいませと』

 それゆえにルツはボアズの口より恩恵めぐみことばずるのを見ました。ボアズはほかの人を恵みたい人であると知りました。そうですから初めよりボアズの恩恵めぐみを見る事を得ました。もとよりルツはボアズが自分を恵むとは知りません。また自分のような者はボアズの恩恵めぐみを得ることはとてもできないと、心のうちに思ったに相違ありません。けれどもとにかくボアズは恩恵めぐみ深い人であると、初めより知る事を得ました。

 私共の収穫かりいれの主人は、喜んで収穫かりいれの働きびとのうちにご自分を表したまいます。収穫かりいれの働きびとに近づき、その人々に恩恵めぐみことばを語りたもうしゅであります。私共が真正ほんとう罪人つみびとを捜して、罪人つみびと霊魂たましい収穫かりいれるならば、主は必ずたびたびご自身を私共に表したまいます。伝道館が粗末なところであっても、主はたびたびそこでご自身を表し、その御栄光みさかえをもってそこを満たしたまいます。どんな粗末な説教所でありましても、収穫かりいれの主人はそこに御自身の御言みことばを照らし、恩恵めぐみを溢れしめたまいます。

 けれどもその時に収穫人かりいれびとばかりでなく、こののろわれし国の女も、その収穫かりいれの主人の恩恵めぐみを得ました。

 八節『ボアズ、ルツにいひけるは』

 そうですからルツはいま顔と顔を合わせてあがなぬしに面会する事を得ました。今まではただ遠い所からボアズを見る事を得たのみであります。また幾分かボアズの恩恵めぐみを悟ることを得たのでありますが、今はじめて自分に対する恩恵めぐみことばを聞くことを得ました。この二章においてボアズは二度ルツに面会し、その二度とも新しい恩恵めぐみを与えております。この八節より十三節までのところは第一の面会のところで、第二の面会は十四節であります。どうぞみたまに教えられて、よくこの聖言みことばの意味を味わいとうございます。しゅは第一に何を勧めたもうかならば、

 『女子むすめよ 聽け ほかはたけに穗をひろひにゆくなかれ 又こゝよりいづるなかれ わが婢等しもめらはなれずしてこゝにをるべし』

 『こゝにをるべし』、これはちょうどヨハネ伝十五章にある『われれ』という勧めと同じことであります。他処ほかに行かず、他処ほか彷徨わまよわず、どうぞここで養いを求めよ。われなんじに豊かなる養い、豊かなる富を与える事ができるゆえ他処ほか彷徨さまよわずにここに居よ。どうぞ断えずわれより恩恵めぐみ喜悦よろこび、また平安と能力ちからを求めよ。どうぞわが働きびとと共にわがそばにおりて、彼らと共にわが養いを受けよ。これは恩恵めぐみ深きあがなぬしの私共に対する勧めであります。

 またそれのみならず、九節をご覧なさい。ボアズはルツに保護を与える事を約束しました。

 九節『人々のかるところのはたけに目をとめてそのうしろにしたがひゆけ われ少者等わかものらなんぢにさはるなかれと命ぜしにあらずや なんぢ渴く時はうつはの所にゆきて少者わかものくめるを飮めと』

 そうですからルツはしゅの保護のもとに安全でありました。断えずボアズに守られて悪を去りて安心して働く事を得ました。またそれのみならず、渇く時には何時いつでも水を飲むことを許されました。私共の主人なるあがなぬしも、私共にこの二つの約束を与えたまいます。主の翼のもとに護られる事と生命いのちの水を飲む事であります。

 ルツはこのことばを聞きて、どんなにその心のうちに確信ができたことでありましょう。どんなに心に力があったことでしょう。今までもそこで穂を拾いましたが、異国人ことくにびととして遠慮しておりました。けれどもいま主人のことば、主人の約束を得ましたから、遠慮せず、確信してそこにとどまる事を得ました。また彼女の心のうちにどんなに安心ができたことでございましょうか。おお、愛する兄弟姉妹よ、私共もそのようにしゅと面会して主の言葉を得ますれば、心のうちに確信、喜悦よろこび及び安心ができます。ボアズは格別にこんな安心をルツにたせとうございました。

 また十節を見ますれば、ルツはどうしてそれを受け入れましたかが解ります。ルツはもがいて、精を出してボアズの約束を信じようといたしたでしょうか。いいえ、そうではありません。ルツは信用すべき人のことばを容易に信じました。少しももがかず、そのままそのことばを受け入れました。信仰とは何でありますかと言えば、それです。

 十節かれすなはちふして地に拜しこれにいひけるは われ如何いかにしてなんぢの目の前に恩惠めぐみを得たるか なんぢ異邦人ことくにびとなるわれを顧みると』

 これは信仰であります。しゅことばを聞き、主の前に跪伏ひれふしてそのことば真実まこととして主を崇める、これがまことの信仰であります。信仰は恩恵めぐみを知ります。また信仰は神に感謝します。信仰は神に礼拝します。信仰はおのれを低くします。けれども信仰は神がなぜ恩恵めぐみを与えたもうかそのわけを知りません。この十節に『われ如何いかにして』とあります。信仰はいつでもこの『如何いかにして』を尋ねます。いかにしてこのけがれたる者が、いかにしてこのいやしい者がきよき神の恩恵めぐみる事ができるか、信仰はそれを知りません。けれども信仰はあがなぬしを信用します。しかしてあがなぬし御言おんことばを受け入れますから感謝します。

 しゅは続いてその人に語りたまいます。

 十一節『ボアズこたへて彼にいひけるは なんぢをっとしにたるより已來このかたしうとめつくしたる事 なんぢがその父母ちゝはゝおよびうまれたる國を離れて見ずしらずのたみきたりし事 皆われにきこえたり』

 ボアズはルツの事をことごとく知っておりました。彼女がナオミに孝行である事、またモアブの地を離れた事などをみな知っておりました。十二節を見ますと、ルツが主にり頼んでいる事をも知っていました。

 十二節『ねがはくはヱホバなんぢ行爲わざに報いたまへ ねがはくはイスラエルの神ヱホバすなはなんぢがその翼の下に身をよせんとてきたれる者 なんぢに十分の報施むくいをたまはんことを』

 ボアズはこれを知っておりましたから、ルツに親切を表し、懇篤ねんごろに彼女に語りました。その次の節に、

 十三節の終『なんぢかくわれを慰めかく仕女つかへめ懇切ねんごろに語りたまふ』

 ルツはボアズにかように申しています。

 神はこれによりて私共にも教えたまいとうございます。私共を導き、私共に御自分を見せしめ、御自分に面会する事を教えたまいとうございます。おお、愛する兄弟姉妹よ、主はかようにあなたに懇ろに語りたまいとうございます。懇ろに御自分を表して、あなたの心を慰めたまいとうございます。これはルツの第一の面会であります。

 十四節より第二の面会であります。十四節の初めの方は少し翻訳を直した方がようございます。

 十四節『食事の時ボアズ彼にいひけるは……』

とした方がようございます(英語改正訳参照)。これはほかの面会で、二、三時間のちの事であります。ボアズはもう一度ルツを呼びて、彼女と語りました。ルツはもう一度ボアズの声を聞く事を得ました。またこの時ボアズはルツに前よりも一層まさりたる恩恵めぐみを示し、なおなお大いなる賜物を与えました。ルツは第一の面会のとき大いなる恩恵めぐみを得、そのために慰藉なぐさめをも確信をも得ましたが、今この第二の面会において愛を得、さらに親しい交際に進み、さらに大いなる確信を得ることができました。

 『こゝにきたりてこのパンをくらかつなんぢ食物くひものをこのひたせよと』

 ボアズは今ルツを自分に近づかせ、自分の台にすわらせ、自分と共に食事をさせました。おお、実に幸福さいわいであります。神はそのように私共をだんだん御自分に近づかせ、御自分と親しき交際まじわりに入れたまいとうございます。これはちょうど雅歌五章一節のようであります。

 『わがいもわがはなよめよ われはわがそのにいり わが沒藥もつやく薰物かをりものとを採り わが蜜房みつぶさと蜜とをくらひ わが酒とわがちゝとをのめり わが伴侶等ともだちくらへ わが愛する人々よ のみあけよ』

 ボアズはそのようにルツを招きました。しゅイエスはそのように私共を招き、御自分の天にける養いを与えたまいとうございます。私共は主イエス御自身と交わり、主御自身のテーブルにすわりて、主御自身と共に食事を頂戴することを得ます。

 またそれのみならず御自身の御手おんてより養いを受けます。十四節の中頃に

 『かれすなはち刈者かるものかたはらに坐しければボアズ烘麥やきむぎをかれにあたかれくらひて飽き』

 ボアズは自分の手をもってルツに養いを与えました。これは愛のしるしであります。主は私共に霊のかてを与えるばかりでなく、私共に愛を表してその養いを与えたまいます。主イエスが終わりの晩、弟子たちと共に食事をしたもうた時、格別にユダの心を引き、これを悔改くいあらために導きとうございましたから、格別に彼に愛のしるしを表して、一撮ひとつまみの食物を彼に与えたまいました。一撮ひとつまみの食物を与えたもうた事は、格別に愛を表すしるしでありました。ボアズは今ルツにその愛のしるしを表しました。私共の主はかように私共に愛のしるしを与えたまいます。そうですから詩篇二十三篇の終わりに『わが酒杯さかづきはあふるゝなり』とあります。実にそうであります。主の御手おんてより養いを得て『くらひて飽』く事を得ます。また

 『そののこりをさむ』

 十八節を見ますと、これをのちにナオミに与えました。『かつそのあきたるのちをさめおきたる者を取出とりいだしてこれにあたふ』。すなわちここでボアズの手より貰ったかてを、ほかの人にまで分け与える事を得ました。それによりてほかの人をも飽かせる事を得ました。おお、兄弟姉妹よ、私共が直接に主の御手おんてより聖言みことばを得まするならば、それによりて自分が満足するのみならず、またそれによりてほかの人々をも養う事ができます。ほかの人々もそれを受けて飽く事を得ます。

 けれどもそれのみではありません。十五節でルツはもう一度畑に出ましたが、その時ボアズはルツが去ったのち、ルツの聞かないに、働き人に命じてルツのために恩恵めぐみを備えしめました。

 十五節『かくて彼また穗をひろはんとておきあがりければボアズその少者わかものに命じていふ 彼をして禾束たばあひだにても穗をひろはしめよ かれをはぢしむるなかれ』
 十六節かつ手の穗をことさらに彼がために抽落ひきおとしおきて彼に拾はしめよ 叱るなかれ』

 ボアズはそのようにルツのために企てました。それゆえにこれよりルツは多くの穂を拾いました。これはボアズの恩恵めぐみでありました。ボアズがその働き人にそれを命じましたから、ルツは多くの穂を拾う事ができたのであります。ルツは或いは自分の熱心によりてそれを拾ったと思ったかも知れません。けれどもそうではありません。ボアズの恩恵めぐみ深き企図くわだてのためでありました。ボアズがことさらに穂を残し置けと命じたからであります。主はたびたび私共のためにそれを命じたまいます。私共はたびたび自分の熱心のために、或いは自分の祈禱いのりのために、大いなる恩恵めぐみを得たと思うかも知れませんが、そうではありません。主の御命令のためであります。主が与えたもうたのです。主がそれを働き人に命じたまいましたから、私共がそれを拾う事を得たのであります。

 詩篇四十二篇八節を見ますと、『しかはあれどひるはヱホバその憐憫あはれみをほどこしたまふ』とあります。この日本訳は少し弱うございます。この『ほどこしたまふ』は原語で『命じたまふ』という字であります。神は私共にその恩恵めぐみを得させるように、天使てんのつかいにそれを命じたもうのであります。また詩篇四十四篇の四節にも、『神よなんぢはわが王なり ねがはくはヤコブのためにすくひをほどこしたまえ』。これも『すくひを命じたまへ』であります。救いの恩恵めぐみは神の命令です。誰もそれを妨げることはできません。神はあなたのために全き救いを命じたまいます。そうですから心配はありません。ただあなたが正直に身も魂も献げますれば、必ず神はそのご命令によりて、あなたにその全き救いの大いなる賜物を与えたまいます。詩篇六十八篇二十八節『なんぢの神はなんぢの力をたてたまへり』。これも原語は『命じたまへり』であります。これは感謝すべきことばではありませんか。これは実に確信を与えることばであります。神はあなたがた御銘々ごめいめいのために、能力ちからをも、溢れるほどの恩恵めぐみをも命じたまいました。そうですから私共の方にさえ妨げるものがありませんならば、必ず神の御命令によりてそれを受けることができます。

 ルツはそのようにボアズの命令のために、ボアズの恩恵めぐみを得ました。ルツはそれを知りませなんだが、これはボアズの命令でありましたから、溢れるほどの恩恵めぐみと豊かなる養いを得ました。

 十七節かれかく薄暮よひまではたけにて穗をひろひてその拾ひし者をうちしに大麥おほむぎ一斗ばかりありき』

 ルツはそれほどたくさんの穂を拾う事を得て帰りました。

 十八節かれすなはちこれを携へてまちにいりしうとめにその拾ひし者をかつそのあきたるのちをさめおきたる者を取出とりいだしてこれにあたふ』
 十九節しうとめかれにいひけるは なんぢ今日けふ何處いづくにて穗をひろひしや いづれところにて工作はたらきしや』

 ナオミはこの多くの穂を見て驚きました。そのように私共も多くの恩恵めぐみを受けますならば、ほかの信者がそれを見て、何処いずくでそれを貰いしやと尋ねます。私共がこんな聖別会から帰りました時、或いはひとり静かに神を求めて帰りました時、或いは主の御前おんまえで静かに聖書を学んだのち恩恵めぐみの重荷を持って参りますれば、人々はそれを見て何処いずくにてそれを得しやと尋ねるはずです。

 ルツはだボアズのことを真正ほんとうに知りません。十九節の終わりの方を見ますれば、ただその人の名だけを知っております。その恩恵めぐみを知っておりました。その富をも知っておりました。けれども大切のことをまだ知りません。ボアズの真正ほんとうの栄光を知らず、またその愛をも知りません。ボアズがあがなぬしである事をだ知りません。多くの信者もその通りであります。幾分かしゅイエスの恩恵めぐみを知っております。またその恩恵めぐみを経験しました。その名とその能力ちから、またその御品性を知っております。けれども真正ほんとうにその栄光をだ知りません。真正ほんとうにその愛を知りません。ルツは今まで大いなる恩恵めぐみを得ましたが、さらにまされる恩恵めぐみを受けるはずでありました。おお、兄弟姉妹よ、あなたは今まで神より恩恵めぐみを得ましたでしょう。またそのために心のうちに溢れるほどの歓喜よろこびもありましたでしょうが、主はなおそれよりまされる恩恵めぐみをあなたのために備えていたまいます。

 ルツは二十節の終わりにそれを初めて知りました。

 二十節をはり『ナオミまた彼にいひけるは その人は我等にちなみある者にして我等の贖業者あがなひびとの一人なり』

 これは大いなる黙示であります。ルツはこれを聞いて必ずこういう望みが起こったと思います。すなわあがないびとがあれば死んだ夫の地面をまた得ることができ、あがないびとがあればそのためにもう一度富を取り返すことができる。ルツの心のうちにそのような新しい望みが起こりました。神は私共各自めいめいあがなぬしたるしゅイエスを見せたまいました。そのあがなぬしは私共が罪のために失った霊の富を返したまいます。アダムの失った富をしゅイエスはあがなって、それをことごとく取り返したまいます。それを聞いて私共はどんな望みが起こりますか。パウロはヘブル書のうちに、その信者たちにあがなぬしイエスのことを知らせとうございました。その信者たちがまだ肉にける者で、霊にける者でありませなんだから、彼らにさらに深い恩恵めぐみを受けさせるために、天に昇った祭司長たるイエスの事を示しました。ことばを換えて言えば、あがなぬしなるイエスの事を示したのであります。

 おお、兄弟姉妹よ、主はこういう救主すくいぬしであります。あがなぬしであります。私共のためにも、罪のために失った霊の富をことごとく取り返したもう御方おかたであります。私共を全く罪のうちより救いいだし、けがれとサタンの手より全く救いいだして、もう一度エデンの園の恩恵めぐみを与えたもう救主すくいぬしであります。『その人は我等にちなみある者にして我等の贖業者あがなひびとの一人なり』。おお、感謝します。目を挙げて天に昇りたもうたあがなぬしをご覧なさい。このしゅはあなたのために円満なる救いを備えたまいました。このしゅはその富に従って、あなたのために天にける富と天にける幸福さいわいをすでに備えていたまいます。



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