第 二 十 七 回 十二章十三節より十三章七節まで 


 
 前回において、九節より十二節までにおいて愛の実質、すなわち愛の内部的方面を学んだ。十三節より二十一節までは愛の行為、すなわち愛の外部的方面である。前回において学んだ愛は、人に対する行為となって人々の前に表れる愛である。
 第一、この愛は聖徒すなわち信者に対して表れる。

 『聖徒の匱乏ともしき賑恤にぎはし、遠人たびゞと慇懃ねんごろにせよ。』── 十三節

 ただ感情においてのみならず、実際において助けをなし、愛を表すのである。
 第二、この愛は迫害者に対しても表れる。

 『爾曹なんぢらそこなふ者を祝し、これを祝してのろふべからず。』── 十四節

 これは山上の説教において詳しく述べられたところで、主ご自身が範を示したもうたことである。敵を愛する愛はひとり真のキリスト者のみの有するものである。
 第三、この愛は幸福なる人に対して表れる。

 『喜ぶ者と共に喜び』── 十五節前半

 これはなかなか難しいことである。悲しむ者と共に悲しむことは人情上かえって易いが、喜ぶ者と共に喜ぶことは易いようで難しいことである。これは些少にても嫉妬の心を持っている人にはとてもできぬことである。例えば自分の友が大いに成功した時、またはその人が伝道者同士であれば、一方の人が神に大いに用いられて喜んでいる時に、その人と共に赤心より純粋の喜びをもって喜ぶことができるならば、その人こそ『己』より全く脱却した人で、すなわち潔められた人である。
 第四、この愛は悲しむものに対して表れる。

 『かなしむ者と共に哀しむべし。』── 十五節後半

 『哀しむ』とは泣くという字である。泣く者と共に泣くのである。真の愛に満たされた者は優しき同情の念に溢れて、逆境にある者に同情を表し、これを慰める。主もラザロの墓辺において同情の涙を注ぎたもうた。
 第五、この愛は争い易き人に対して表れる。

 『相互ひにこゝろを同じうし、尊大志たかきおもひをなさず、かへりて卑微ひくきに附けよ。また自己みづからさとしとするなかれ。』── 十六節

 これは争い易き人に対する愛ある人の態度である。高き思いをなしまた自己を智しとするがゆえに争いを生ずるものである。
 第六、この愛は格別にまた弱者に対して表れる。
 十六節の『卑微に附けよ』とは卑き人に附けよとの意味もある。弱者を顧みこれをいたわるのは、真の愛ある人の一つの特徴である。今日、伝道者、牧師にして富める者、地位ある者になるべく接近したがり、社会における地位の低い人にあまり近づかぬ弊があるが、これは戒めるべきことである。主は格別に世人に捨てられて顧みられざる人々になるべく近づいて、これを救いたもうた。
 第七、この愛は悪人に対して表れる。

 『悪をもて悪に報ゆるなかれ。』── 十七節前半

 これはキリストが山上の説教において説きたもうたことで、自ら範を示したもうたところである(ペテロ前書二・二十二、二十三)。
 第八、この愛はすべての人に対して表れる。

 『衆人ひとびとの善しとする所を心にめてこれをなし、し得べき所は力をつくして人々と睦み親しむべし。』── 十七節後半、十八節

 十八節の『人々』とあるのも All men である。
 第九、この愛は怒り深き人に対して表れる。

 『わが愛する者よ、その仇を報ゆるなかれ。退きて怒りにまかせよ(英訳による)。そはしるして、主のひ給いけるは仇をかへすは我に在り、われ必ずこれを報いんとあればなり。』── 十九節

 日本語訳に『退きて主の怒りを待て』とあるのは、英訳には怒りに所を与えよ、すなわち怒りに任せよとあって、この方が原語の意をそのままに表しており、神の怒りとも取れるが、むしろここは敵または反対者の怒りを指す言葉である。怒り深き人に対して退くのは愛の行いである。
 第十、最後にこの愛は敵に対しても表れる。

 『このゆえに、なんぢの仇もし飢ゑなばこれにくらはせ、もし渇かばこれに飲ませよ。爾かくするは熱炭あつきひを彼のかうべに積むなり。なんじ悪に勝たるゝなかれ。善をもて悪に勝つべし。』── 二十、二十一節

 今までは争い易き人に対して、また悪人或いは怒り深き人に対して表れることを述べたが、これは全くの敵に対してである。ただ悪に敵さないというのみならず、積極的に罪を犯さぬこと、たとえば仇を返さずにこれを忍んでいることが、勝利であると思っているが、そうではない。もしかかる消極的の態度を維持しているだけであれば、或いは後に悪魔に誘われて復讐の心が起こることがあるかも知れぬ。積極的に愛の行いをもって勝ってこそ真の勝利ということができる。
 以上において、キリスト者の愛が種々なる人に対する行為となって表れること、すなわち愛の外部的方面を述べた。愛はただの感情ではない。必ず行為となって外部に表れるものである。

 次に十三章の研究に移る。十三章の主題は献身と公生涯、換言すれば献身的生涯と政府との関係である。これを区分すれば以下のごとくである。
 一〜七節    キリスト信者として政府に対する義務
 八〜十節    キリスト信者としての市民の義務
 十一〜十四節  この義務を全うする動機

 『かみに在りて権をてる者にすべての人々したがふべし。そは神より出でざる権なく、おほよそ有るところの権は神の立てたまふ所なればなり。このゆえに、権にさかふ者は神の定めにそむくなり。逆く者は自らその審判さばきをうくべし。有司つかさびとは善きわざの畏れにあらず、悪しき行の畏れなり。爾権を畏れざることをねがふか、たゞ善きを行へ。さらば彼よりほまれん。彼は爾を益せんための神の僕なり。もし悪をさば畏れよ。彼は徒らにやいばらず、神の僕たれば悪を行ふ者に怒りをもて報ゆる者なり。故にこれに服へ。ただ怒りにりてのみ服はず、良心によりて服ふべし。このゆえに爾曹みつぎを納めよ。彼等は神の用人つかひゞとにして常にこのことを司れり。なんぢら受くべき所の人にはこれにあたへよ。貢を受くべき者にはこれに貢し、税を受くべき者にはこれに税し、畏るべき者には畏れ、たふとぶべき者はこれを敬べ。』── 一〜七節

 パウロの時代のローマ政府は、一方よりは大いに善かったけれども、キリスト教に対しては大いに反対政策を取って、信者にとっては最も忌むべき政府であった。このことを覚えてこの章を見なければならぬ。一節に『凡ての人々』とある。キリスト信者はみな為政者に服従すべきものである。当時のユダヤ人は非常に難しい人民で、ローマにおいて党派を立て、ややもすれば官吏と衝突した。されば或る皇帝はユダヤ人を放逐したこともあった。そしてローマ人の中にはユダヤ人とキリスト信者を同じもののように思っている者も多くあった。さればパウロはここにキリスト信者としての服従を力言している。この教会の中にはユダヤ人の信者もあったが、汝らもキリスト信者なれば服従すべしと勧めている。当今、日本においてキリスト信者を無政府主義の社会主義者ででも有るかのごとく誤解している者もあることゆえ、我ら信者たる者は為政者に服従することにおいてその特徴を表すべきである。
 その理由として、一節後半及び二節に記してある。すなわち為政者の権威は神が立てたもうところであるからである。しかしここにその政府の種類の如何については何も言っていない。或いは民主政治あり、或いは立憲君主政治あり、また君主独裁政治などがあるが、当時のローマ政府は君主独裁政治であった。我らキリスト信者は、その戴くところの政府のいかなる種類の政体であるに拘わらず、これに服従しなければならぬ。
 またここに為政者が神に反対して信者を迫害する時、または正しき革命の起こった時、例えば英国のクロムウェルの時に起こった革命のごとき場合に、キリスト信者は如何にすべきかについては何も記していない。
 三節より五節までに、さらに他の方面より服従すべき二つの理由を記している。一つは、官吏は神の僕として悪人を罰する者なるゆえ、従わなければならぬ。すなわち威嚇の権を畏れて服すべきである。しかしこれは消極的である。今一つは積極的で、良心によって服するのである。倫理学上、二種類の論がある。一つは実利論で、何故我々は法律に従わねばならぬか、または道徳を守らねばならぬか、その理由は実利であるという。かのジョン・スチュアート・ミルが、人類に対する幸福であるゆえ道徳を守らねばならぬと言ったごときはそれである。今一つは純正論で、自分にとって損であるから悪事をしないというのではない、悪であるがゆえにせず、善であるからそれをなすのである。我らが為政者に服従するのも、利害関係からでなく、良心によってこれに服従しなければならぬ。従わなければ罰せられるからでもなく、従えば幸福を得るからでもない。神の立てたもうたものゆえ、従うべき筈であるから従うのである。パウロはローマの信者には、好ましからぬ時の政府にも従えと勧めている。
 以上を繰り返して言えば、キリスト信者が政府に従うべき理由が三つある。第一、神の立てたもうた権であるゆえ(一節後半及び二節)。第二、社会の益のために(三、四節)。第三、自身の良心のために(五節)である。
 六、七節はただ実例に過ぎない。『貢』とは営業税または所得税の類で、『税』とは輸入税輸出税のごときである。



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