第 十 三 回 七 章 全 体 



 恵みの増さんために続いて罪を犯す生涯に留まっておるべきかという問いに対して、既に、否、(一)罪を犯すことができぬ、また(二)罪を犯してはならぬという二つの方面より研究した。今回の研究はその第三方面、すなわち罪を犯したくないという点である。さらに繰り返していえば左のごとくである。
 第一、罪を犯すことができぬ  すなわち意志の問題(六・一〜十四)
 第二、罪を犯してはならぬ   すなわち良心の問題(六・十五〜二十三)
 第三、罪を犯したくない    すなわち願望の問題(七章)
 願望は意志の問題よりもさらに深い問題である。我らの願望が潔められているゆえ、もはや罪を犯すことを好まぬのである。それがこの七章の問題である。
 この七章の思想を開く鍵、すなわち鑰語は二つ、すなわち第一は律法、第二は罪という語である。
 七章を三つに区分すれば、
  一〜六節     面白き例話によりて聖潔の恵みを説明し、
  七〜十二節    律法とは何ぞや、またはその目的を述べ、
  十三〜二十五節  生得の罪につきて語る。
 六章の初めの第一段においてはキリストと偕に死にまた葬られ、また彼と偕に甦った信者の身分より説き、六章の終わりの第二段においては主人と僕の例をもって説いたが、この七章の初めには結婚の例をもって説いている。すなわち第一段においては自分の我が儘の意志が十字架に釘けられたこと、第二段においては良心の問題、すなわち僕たる者はその主人に仕えるはずであるということを述べたが、今この第三段においては願望の問題に及び、ただ仕えるはずであるというごとき義務的のことでなく、妻たる者は夫に従うことを願う、そのために罪を犯したくないという点についてである。

 『兄弟よ、我いま律法おきてを知れる者に言はん。律法は人の畢生いのちのかぎりその主たるを知らざるか。夫あるをんなは律法のために夫の生けるうちはそれに繋がるれど、夫しなばその律法よりゆるさる。されば夫の生ける間に他の人にかば淫婦と称ふべし。もし夫しなばその律法より釈さるゝが故に人に適くとも淫婦には非ず。しかればわが兄弟よ、爾曹なんぢらもキリストの身により律法について殺されしものなり。これ別人ほかのもの、すなはち死よりよみがへされ給ひし者に適きて神のためにを結ばんとなり。われら肉に在りし時は律法にれる罪の慾、われらの肢体にはたらきて死のために果を結べり。されども今われらを繋げる者において死にたれば律法より釈され、儀文の旧様ふるきに由らず霊の新様あたらしきに由りてつかふ。』── 一〜六節

 この例話の中に第一に妻、第二に夫、その次に邪魔する律法、なおまたキリストが出る。この四つのものを覚えておらねばならぬ。聖潔の恵みは何ぞやというに、例えていえば、妻が旧き夫に別れて新しき夫たるキリストに結婚することである。そして結婚した当然の結果として果を結ぶのである。さてその妻とは何を指すかと言うに、既に生まれかわった信者の霊魂を指す。すなわち罪を赦されて義とせられ、六章にあったごとくキリストと偕に死にて葬られ、また偕に甦った霊魂である。この救われたる霊魂が何故キリストと合一することができぬかというに、その邪魔をするものは二つ、すなわち一つは罪、今一つは律法である。さて律法によれば婦は旧き夫のある間は他の人に適くことはできない。前回の研究において述べたごとく、己と己の肢体とは異なるものである。己は既に生まれかわっていても肢体は以前のものである。そしてその中に伝来の罪、すなわち生得の罪があるので、これがある間は我らが他に適くことを律法が禁ずるのである。一体、いわゆる「己」とは要するに己が意志をいうに他ならぬ。その意志の下に願望がある。我らが様々のよくないことを願う時に、意志をもってかかることを願わぬように決定するが、なかなかその決定したように行かぬ。これは、己は生まれかわっていても、なお生得の罪が残っているからである。この罪という夫と未だ関係が断たれぬ間は、キリストと結婚して全く合致することができぬ。律法は夫が死なない間に他の者に適くことを禁ずる。
 しからば律法は我らがキリストと結婚することを邪魔するわけであるから、それでは律法は悪いものではないかと思われる。パウロは七節以下においてそれに答えている。

 『しからば我儕われら何を言ふべきか、律法は罪なるや。しからず。律法に由らざればわれ罪の罪たるを識ることなし。それ律法に貪るなかれと言はざれば、我貪慾むさぼりの罪たるを識らざるなり。しかして罪は誡めのをりに乗りてわがうち各様さまざまの貪慾を起せり。律法なければ罪は死ねるものなり。われ昔律法なくして生きたれど、誡命いましめ来りて罪は活きかへり、我は死ねり。かくて人を生かさんための誡めはかへつてこれ我を死なしむる者となれり。いかにとなれば、罪は誡めの機に乗りて我をまどはし、その誡めをもて我を殺せり。それ律法はきよし、誡めも聖く、公義ただしくかつ善なり。』── 七〜十二節

 律法は我ら信者がキリストと結婚することを妨げるが、さりとて律法は決して悪いものではない。十二節にあるごとく、聖く義しくかつ善なるものであるから、我らがキリストと結婚することを願うけれども、義しいものであるゆえ、旧き夫の生存中に他の夫に適くことを禁ずるのである。
 律法の目的は第一に罪を示すにある。『律法に由らざればわれ罪の罪たるを識ることなし』(七節)。この譬えにおける妻、すなわち生まれかわった真の信者たる者は、旧き夫、すなわち伝来の罪と偕に住んでおるべき者でない。されば律法はまずその罪の真相を示して、我らがそれと離別すべきものであることを暗示する。
 第二に、律法の目的は眠っている罪を活かす。『誡命来りて罪は活きかへり』(九節)。人の性質は本来極めて我が儘なるもので、或ることを命ぜられると却ってそれを行いたくないと思い、禁じられるとかえって反動してやってみたくなるものである。子供によくそれを見ることができる。この性質が律法のために起き上がるのである。蛇が冬、寒い時分に眠っていると、樹の枝と同じに見える。しかし春の温かい光が一度照らし出すとむくむくと頭を擡げて起き上がる。もしその蛇が、冬いまだ眠っている間に、綺麗な樹の枝のごとく思ってそれを懐中にしたらばいかがであろう。体温で眠りを醒まし頭を上げる。実に恐ろしきことである。律法は例えていえば、第一にそれが蛇であることを示し、第二にその蛇を刺戟して頭を上げしめるものである。これは我らにとってはずいぶん苦しいことではあるが、かえってそれによって罪の真相を知り、またその憎むべきものであることを悟ることができるので、そのために我らをしてその罪より離れるように仕向けるものであるゆえ、詮ずるところ幸いなることである。
 或る人は六章は罪より離れることで、七章は律法より離れることであると言うが、そうではない。律法は悪いものでない。これは罪や悪魔と同じように取り扱うべきものではない。律法は取り去られるのでないが、罪は取り去られるゆえ、マタイ伝十一章二十九節にあるごとく、キリストの軛を負うことが易くなるのである。三節に『夫死なばその律法より釈さる』とあるごとく、罪という厭な夫との関係が断たれたならば自由になる。ただしそれは律法の要求より釈されるという意味ではない。第一に、伝来の罪が残っている間は律法に責められるが、その責より免れること、第二に、伝来の罪が残っている間は律法があることを要求する時にそれに反動して行いたくないと思うが、その点について自由を得て、心より律法に従うようになる。第三に、律法の刑罰より免れることを言う。

 『さらば善なる者われを死なしむるか。しからず、死なしむる者は罪なり。罪は善なる者をもて我を死なしむれば、その罪たること現れ、また誡めに由りて罪の甚だしきこと現るゝなり。それ律法は霊なる者と我儕は知る。されど我は肉なる者にして罪の下に売られたり。そはわが行ふ所の者は我もこれをよしとせず、わが願ふ所のもの我これをさず、わがにくむ所のもの我これを行せばなり。もしわれ願はざる所の者を行ふ時は律法を善とす。しからば今よりこれを行ふ者は我にあらず、我にるところの罪なり。善なる者は我すなはちわが肉に居らざるを知る。そは願ふ所われに在れども善を行ふことを得ざればなり。われ願ふ所の善はこれを行はず、かへつて願はざる所の悪はこれを行へり。もしわれ願はざる所を行ふときは、これを行ふ者は我に非ず、我に居るところの罪なり。是故にわれ善を行はんとねがふ時に悪の我にをる、この一つののりあるを覚ゆ。そはわれ内なる人については神の律法を楽しめども、わが肢体に他の法ありてわが心の法と戦ひ、我をとりこにしてわが肢体の中にをる罪の法に従はするを悟れり。ああ、われ困苦人なやめるひとなるかな、この死の体より我を救はん者は誰ぞや。これわれらの主イエス・キリストなるがゆゑに神に感謝す。されば我みづから心にては神の法にしたがひ、肉にては罪の法に服ふなり。』── 十三〜二十五節

 この一段は生得の罪、または伝来の罪、すなわちこの章の譬えにおける旧き夫のことを述べたところである。律法が我らのキリストと結婚することを妨げるのはこの罪が未だあるからである。意志は既に十字架に釘けられていても、願望が残っていてそれが罪に傾く。これが罪の根である。この伝来の罪は第一に貪欲を起す。『罪は誡めの機に乗りてわがうちに各様の貪慾を起せり』(八節)。金を貪る、快楽を貪る、名誉を貪る、そのほか様々なものを貪る。意志においては神に従っているけれども、罪の根がこの貪欲を起すのである。第二に、伝来の罪は我を惑わすものである。『罪は誡めの機に乗りて我を惑はし』(十一節)。第三に、罪は我を死なしめる。『死なしむるものは罪なり。罪は……我を死なしむれば』(十三節)。せっかく生まれかわって神の子となって喜んでいるが、罪はそれを死なしめる。受けた恵みをも平安をも喜楽をもなくさせる。第四に、罪は我を擄にする。『わが肢体に他の法ありてわが心の法と戦い、我を擄にして』(二十三節)、その結果罪に従わせる。罪と我とは違うことを注意せよ。罪が我を虜にするのである。
 さてこの罪は何処におるかというに、十七節にあるごとくわが内におるのである。『しからば今よりこれを行ふ者は我に非ず、我に居る所の罪なり』、これは我ではなくして我の中にいるものである。生まれかわった信者が案外に罪を犯す。或いは短気などがあり、または古き習慣によって虚言を言うことなどがある。目を醒ましておらぬと案外な罪に陥ってもがくようになる。これは、我ではなく我の中にいる罪のためである。(これは未信者のことではなくして信者のことである。未信者は喜んで罪を犯すので、ここに言っている有様とは全然異なる。)罪が我に絡みついて深く染み込んでいるゆえ、我自身であるかのごとく思われるが、実は我ではなくして我におるところの罪がかくさせるのである。悪魔が我らを襲う手段に二通りある。我らが罪を犯した時に、おまえは駄目だ、かくかくの罪を犯したから駄目だ駄目だと言って我らを失望させ、生まれかわったことさえも疑わせんとする。ところがパウロはかかる場合に『我に非ず、我に居る所の罪なり』と言っている。しかるにその罪より潔められると、今度は悪魔は、おまえは偉い人だ、聖い人だと言ってくる。しかしパウロはかかる場合にも、我にあらず、わが内に在すキリストなりと言っている。失望させんとする時にも高ぶらせんとする時にも『我にあらず』の一点張りで行く。これがパウロの取った態度である。
 二十四節は信者の祈禱である。『ああ、われ困苦人なるかな、この死の体より我を救はん者は誰ぞや』、すなわちこれは未だ潔められておらぬ信者の歎願である。未信者の祈禱はルカ伝十八章十三節に記してあるが、これと大いに異なっている。『税吏は遙かに立ちて、天をも仰ぎ見ずその胸を打ちて、神よ罪人なる我を憐れみたまへと言へり』。すなわち未信者は『罪人なる我を』と言って祈る。けれども信者はかような祈禱をしない。既に生まれかわった者であるゆえ、もはや罪人ではない。二十四節は未だ潔められぬ信者の歎願を代表した言葉である。
  二十五節に三つのことがある。第一に『我みづから』、第二に『肉』、第三に『罪』すなわち伝来の罪。『我みづから』は救われ、生まれかわった神の子となっている自らで、これが『心にては神の法に従い、肉にては罪の法に従う』のである。或る人は肉と伝来の罪とを同一のもののように思うが、それは誤謬である。新約聖書の中に肉について三つの意味がある。すなわちこの言葉を用いてある場合が三通りで、この言葉は三つの意味に用いられてある。或る時には物質的のこの肉体を指す字として用いられている。今一つは所々にその人性と伝来の罪とを一緒にして用いてある場合もある。しかし肉と伝来の罪とは決して同じものではない。もしこれを同じものとすれば、十八節の『善なるものは我すなわちわが肉におらざるを知る』とある言葉を、肉という語を代えて伝来の罪として読んでみればどうであろう。全く無意味のものになる。またガラテア書三章三節に『あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか』とある言葉をも、肉の代わりに伝来の罪としたらばいかがであろう。この肉とは弱き人性で、伝来の罪の住居ではあるが、伝来の罪そのものではない。この弱き人性、すなわち欺かれやすく誘われやすい人性はいつまでも残っている。さてその中にある伝来の罪はいかにして潔められるかというに、そのことについては八章三節四節において出る。



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