第 十 一 回 六章一節より十四節まで 



 第六章より第八章までは信仰によって潔められる教理について記してある。今まで義とせられることについて研究したが、未だ更生については研究しておらぬ。今よりまず更生に関する問題が出て来る。元来、更生は称義とは異なるものである。けれども生まれ変わることなくして義とせられることはできず、また義とせられることなくして生まれ変わることはできぬ。かように密着の関係がある。救いに二方面あり、称義と更生である。一は表で他は裏である。称義は換言すれば罪赦されることで、更生とは心と性質の変化である。誰それは救われていると言えば、その人は第一に罪赦され、第二に生まれ変わって新しき心を受けていることを意味する。研究する時にこの二つの恵みは別々に研究すべきものであるが、かようにこの二つのものは経験においては離すべからざるもので、同一の経験の表と裏である。教理においては異なるけれども経験においては一つである。義とせられるその時に生まれ変わり、生まれ変わるその時に義とせられるのである。コリント前書一章三十節に四つのことがある。『あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである』、すなわちキリストは我らの智慧であり、義であり、聖であり、また贖いである。この我らの智慧とは我らに神を表したもうこと、すなわち神の愛、憐憫、またそのご性質、御徳を表したもうことで、我らの義とは我らが義とせられること、我らの聖とは我らの聖められること、また贖いとはキリストの再臨の時に我らの身体の救われることである。さればここに更生の恵みについては記していないが、更生は聖の中に入っていると思う。更生は聖潔の恵みの初めで、聖潔の恵みは聖霊のバプテスマによりて成就せられるものである。コリント前書一章二節に『コリントにある神の教会、すなわち……キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ』とあるごとくに、すべての信者はみな潔められている者である。けれどもすべての信者が必ずしもそれを成就せられておらぬ。ゆえにウェスレーは全き聖潔なるものを主張した。テサロニケ前書五章二十三節に『全くきよめて』という言葉がある。真に生まれ変わって信者となった者はみな潔き者となったのであるが、全く潔き者ではない。全く潔められるのはそれが成就せられる時で、普通にいう聖潔の時である。されば更生は聖潔の初めで、全き聖潔はその成就である。それゆえに今この六章七章八章は聖潔の問題であるが、六章においてまず更生のことについて論じている。そして七、八章においていよいよ聖潔のことになって来る。

 『しからば我儕われら何を言はんや、めぐみの増さんために罪にるべきか。』── 一節

 三章より五章までにおいて見たるごとく、赦罪及び称義の恵みは驚くべき恵みであるが、我らが罪を犯すことによりてこの大いなる恵みが表れるとすれば、そしてまた五章二十節において読んだごとく『罪の増すところには恩もいや増せる』とすれば、恵みの増さんためになおも罪を犯した方がよいではなかろうか。これが本章劈頭の問題である。記者パウロはこの問題について六章七章八章において答えている。この三章は要するにこの一節の問いに対する答えと見るべきものである。そしてここに三通りに答えている。三節と十六節と七章一節とに『知らざるか』という言葉が三度記してあるが、この言葉によって三つに区分せられる。すなわち続いて罪を犯すべきかという問いに対して、第一に六章二節より十四節において、否、我らは罪を犯すことができないと答え、第二に六章十五節より二十三節において、我らは罪を犯してはならぬと答え、第三に七章全体において、我らは罪を犯したくない、すなわち犯すことを好まぬという方面より答えている。またパウロはここに第一の答え、すなわち罪を犯すことができないということについては、キリストと偕に死にまたキリストと偕に甦った身分をもって説明し、第二の答え、すなわち罪を犯してはならぬということについては、主人と僕の関係をもって論じ、第三の答え、すなわち罪を犯したくないということについては、結婚の例をもって説明している。なおついでに言っておかねばならぬことは、我らは罪を犯すことができぬと言ったのは、道徳上犯し得ないという意味である。もちろん一方面より見れば犯すことができる。すなわち犯す力はある。しかしまた犯すことができぬのである。あたかも母たる者は狂人の願いに従ってその子を二階より投げ落とすことができないのと同じである。母にその力がないわけではない。身体の力より言えばそれができないのではないが、愛の心よりかかることはできぬのである。罪を犯すことができぬというのはそのような意味である。
 第一の答え、すなわち二節より十四節までの一段を三つに区分することができる。すなわち、
  二〜五節    更生の恵みの経験を述べ、
  六〜十節    更生の経験の秘密を語り、
  十一〜十四節  いかにしてそれを経験せられるやを示す。

 『しからず、我儕罪において死にし者なるにいかでなほそのうちにおいて生きんや。イエス・キリストに合はんとてバプテスマを受けし者はすなはちその死に合はんとてこれを受けしなるを爾曹なんぢら知らざるか。故に我儕その死に合ふバプテスマに由りて彼とともに葬らるゝは、キリスト父の栄えに由りて死より甦らされし如く、我儕も新しき生命にあゆむべきためなり。もしわれら彼の死のさまに等しからば、また彼の復生よみがへりにも等しかるべし。』── 二〜五節

 この一段は更生の恵みの経験の陳述である。この中にある『死にし者』(二)、『葬らるる』(四)、『甦り』(五)、『行む』(四)の四つの言葉に注意せられよ。更生とは如何なる恵みであるかというに、第一に旧き人が死んだのである。そして第二に葬られたのである。これは死にしことの証拠である。キリストが十字架上において全く死にたもうたゆえ葬られたのである。葬られなかったならば、ただ気絶していたのであったろうと思われるかも知れぬ。しかし葬られたことはその死の確実なることを示す。かく我らの旧き人は全く死にて葬られるべきものである。バプテスマはそれを表す儀式である。(或る人は信仰さえしていればバプテスマは不必要であるというけれども、それは一理あるようであるが、バプテスマは聖書に制定してある儀式で、必要である)。旧き人が死にて葬られたのみならず、第三に我らはキリストと偕に甦らなければならぬ。その結果、歩む力を得て新しき生涯を送るのである。旧き人を改良せられるのではない。旧き人は死んでしまって、新しき人と創造せられて甦るのである。そしてこの経験はキリストと一致することによりて得られるのである。

 『我儕のふるき人、かれとともに十字架にけらるゝは、罪の身すたりて今より罪につかへざるがためなるを我儕は知る。そは死にし者は罪よりゆるさるればなり。我儕もしキリストとともに死なばまた彼と偕に生きん事を信ず。キリスト死より甦りてまた死なず、死もまた彼に主とならざるを知れり。これその死にしは罪について一次ひとたび死にしなり。その生くるは神について生くるなり。』── 六〜十節

 この一段は更生の恵みのできる秘密、すなわちその経験の秘密である。六節に、我らの旧き人が彼と偕に十字架に釘けられるとある。この『キリストと偕に』という語は大切なる語である。天主教の人々はなかなか熱心であるが、彼らの言うところによれば、罪の赦しは無論キリストの血によりて得られるのであるが、更生、聖潔、また善人になることは己の苦しみによりて得られるもの、すなわち十字架を負うことによりてかくなると説く。これは大いなる間違いである。もちろん我らは十字架を負わねばならぬが、一体キリストは何のために十字架を負いたもうたか、自分のためではなく他の人のために負いたもうたのである。そのように我らも十字架を負わねばならぬけれども、それは自分のためでなくて他の人のためでなければならぬ。もし我らが自分の苦しみによりて潔められるのであれば、キリストの苦しみは徒なることに過ぎないものとなる。キリストが我らのために苦しみを受けたもうたから、そのために我らは赦され、また潔められ、しかして後初めて他人のために十字架を負うに至るのである。或る牧師が、十字架を負うことについて深く感ずるところあり、礼拝説教においても祈禱会の感話にも、また聖書の講義においても始終そのことを述べたが、充分な光を持っておらなかったゆえその思想に混雑があり、己のために十字架を負わねばならぬと思うに至ったため、その結果その教会が引き立たず、すべての集会において暗雲に閉ざされたようになったことがある。我らは何故罪人となったか、己のためでない、己の決心によってではない。始祖アダムのため、彼の反逆の決心によりてその裔なる我らがみな罪人とせられたのである。あたかもそのごとく、彼らは己の行い、己の決心によりて義とせられまた潔きものとせられない。第二のアダムなるキリストの行為、キリストの決心によりて義とせられ、また潔められるのである。すなわち彼と偕に十字架に釘けられ、また彼と偕に葬られ、彼と偕に甦ることによりて、この経験を得ることができるのである。

 『如此かくなんぢららも我儕の主イエス・キリストにより罪については自ら死ぬる者、また神については生ける者なりとおもふべし。是故に爾曹罪を死ぬべき肉体に王たらしめてその慾にしたがふなかれ。また爾曹の肢体を不義の器となして罪に献ぐることなかれ。死より甦りし者の如く己を神に献げ、また肢体を義の器となして神につかふべし。そはなんぢら恩の下に在りて律法の下に在らざれば、罪は爾曹に主となること無ければなり。』── 十一〜十四節

 この一段はいかにして更生の恵みを経験せられるやについて述べてある。例えば西洋料理につき説明し、またそのご馳走は誰のご馳走であるかを話して聞かせても、次にいかにしてそれを食すべきかを教えなければならぬ。前二段において、更生の恵みを陳述し、またその秘密を語ったが、ここにいかにしてそれを経験するかについて教えている。第一に、十一節『我儕の主イエス・キリストにより罪については自ら死ぬる者、神については生ける者なりと意ふべし』。この『意ふ』とは勘定するという字で、すなわち数うべしの意である。自分も誰それの設けたその饗応に与る特権があると信ずることである。第二に、十二節に『死ぬべき肉体に王たらしめてその慾に徇ふなかれ』、我らの心は小さき王国であって、そこに王がある。罪が王であるか、はたキリストが王で在すかいずれかである。我らは罪を王位より引き下してキリストを王として戴かねばならぬ。第三に、十三節『死より甦りし者のごとく己を神に献げ』、この『献げ』とは英語のすなわち降参するまたは服従するの意である。思うべし、献ぐべし、この二つの命令は重要である。
 我らは続いて罪を犯してもよいか。否々、我らはキリストと偕に死に、またキリストと偕に葬られ、また彼と偕に甦らされた者であるゆえ、罪を犯すわけには行かぬ。犯すことができないのである。



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