第 二 章  素 祭



 この禮物そなへものは常に燔祭はんさいと共に献げましたから、燔祭はんさいの一部分と申されます。ほか禮物そなへものちがひまする點は、ほか禮物そなへものには常に血を流します。れどもこの禮物そなへもののみは血を流す事がありません。たゞ乳香にうかうと油のみです。燔祭はんさいは格別に神に身もたまも献げる事を指します。素祭そさいは格別に人のめに生涯を送る事を指します。又人の眼の前にきよき生涯を送る事を指します。まことに献身いたしますれば、必ずこの二つの事があります。度々たびたび私共わたくしどもは献身について誤りたる思想かんがへもっります。たゞ神に身もたまも献げる事であると思ひます。れども聖書全體をしらべまするならば、献身はたゞそれのみではありません。人のためにも身もたまも献げる事が必要です。燔祭はんさい素祭そさいとを一緖に献げましたやうに、神にも人にも身もたまも献げねばなりません。これは全き献身です。たゞ心をつくし精神を盡して神に愛するのみではありません。又おのれの如く隣人となりびとを愛せねばなりません。又隣人となりびとを愛しませねば、まことに神を愛する事は出來ません。聖餐式せいさんしきにもこの二つの事を見ます。すなはち血を流す事を表はす物と、血を流す徵證しるしなき物との二つです。さうですから聖餐の酒は燔祭はんさいの意味があります。パンは素祭そさいの意味があります。神のめに血を流してそれを献げ、人間のめに力を盡して働きます。

 さうせい四章のカインとアベルの話にも同じ事を見ます。アベルは血を流して神に献物さゝげものを献げました。カインはたゞ產物をもっその献物さゝげものと致しました。れども神は血を流さずして、献物さゝげものを受けれ給ふ事が出來ません。其儘そのまゝ最初はじめから素祭そさいを献げる事は出來ません。常に燔祭はんさいと共に献げます。すなはち血を流して又自己おのれほろぶべき罪人つみびとである事を認めて素祭そさいを献げねばなりません。さうですからしゅイエスの献物さゝげもの依頼よりたのみませずして、人間ひとめに事業ことをいたしましても、神に受けれらるべき献物さゝげものではありません。れども身もたまも神に献げて、人間ひとめに働きまするならば、これは神の前に馨香かうばしきにほひ献物さゝげものです(ピリピ四・十八哥後コリントご八・五)。

 しゅイエスの手本を見まするならば、何時いつおのれ燔祭はんさいとして、神に身もたまも献げ給うたるのみではありません。人間ひとめにも力を盡して働き、人間ひとしもべとなり給ひました。ピリピ二・五〜八を讀みますれば、主イエスの献げ給うたる素祭そさいを見ます。私共はその手本に從ひまして、謙遜をもっおのれひくくして、人のめに働かねばなりません。これは私共の献ぐべき素祭そさいです。又それを献ぐるめに、全く心中こゝろのうちにキリストの生命いのちを受けれねばなりません。さうですからキリストは心中こゝろのうちに働き給うて、御自分のやうな生涯を送る力を與へ給ひます。ガラテヤ二・廿西コロサイ三・三哥後コリントご四・十一を見ますると、私共の献ぐべき素祭そさいの有様がわかります。

 そうですから、素祭そさいくはしく硏究しらべますれば、主イエスがこの世において送り給うたる生涯の有樣を見る事が出來ます。又今主イエスが聖徒のうちやどり給うて、その聖徒をもって献げ給ふ素祭そさいの有樣を見る事が出來ます。

 素祭そさいに用ふる品物が三つあります。麥粉むぎこと油と乳香にうかうです。其中そのうち最も大切なる者は麥粉むぎこでした。麥粉むぎこは格別にやはらかなる者です。又これを入れたるうつはの形を取る者であります。さうですから格別におのれを棄てたる謙遜なる心を指します。これは全き人の性質であるはずです。主イエスは常にその通りでした。又平常つねにこの麥粉むぎこなにめに用ひますかならば、人間にんげんを養うめです。全き人は常にほかの人の德を建つるめに、生涯を送ります。ほかの人にまことやしなひまことの滿足をあたふるめに、生涯を送ります。麥粉むぎこは少しもかたまりがありません、常にやはらかにして又なめらかなる者であります。その通りに此樣このやうな人はくるしみの時にもさいはひの時にも、得意の時にも失望の時にも、常に同じやうに愛をもっおのれひくくします。主イエスの御生涯に格別に如此事このやうなことを見ます。成効せいかうの時にすべての榮光さかえを神にし給ひました。人間ひとと惡魔にくるしめられたる時にも、愛をもっおのれひくくして給ひました。これは神の前に馨香かうばしきにほひ素祭そさいでした。私共もキリストをやどしまするならば、又キリストの生命いのちあづかりまするならば、同じやうに神に素祭そさいを献ぐる事が出來ます。

 今一つは油でした。これは聖靈を指します。主イエスでも御自分の力にらずして聖靈によりて生涯を送り給ひました。マタイ一・二十を見ますと、聖靈の感化によりてうまれ給ひました。ルカ三・二十二を見ますれば、聖靈がくだりてその心にやどり給ひました。ルカ四・一を見ますれば、聖靈に導かれてき、聖靈のつるぎもって惡魔と戰ひ給ひました。ルカ四・十四を見ますれば、主は聖靈の力によりて傳道し給ひました。しとぎゃう一・二を見ますれば、よみがへり給ひしのちにも聖靈によりて弟子を敎へ給ひました。私共もその通りに聖靈の恩寵めぐみと聖靈の生命いのちを得て、きよ素祭そさいを献げねばなりません。

 を見ますれば、油を混ぜたる菓子があります。又油を塗りたる煎餅せんべいもありました。油を混ぜたる菓子は心の底まで聖靈に充たされたる人を指します。又そのめに品性も心も思想おもひも、皆聖靈の感化とあぢはひとがあります。それです。其樣そのやうな人はガラテア五・廿二やうを結びます。

 油を塗りたる煎餅は、上から聖靈を注がれたる信者を指します。これは格別に品性のめではありません。又品行のめでもありません。これは格別にあかしめです。私共は如斯このやうに聖靈に充たされ、又聖靈を注がれたる信者でなければなりません。

 第三は乳香にうかうでした。れは神のあぢはひにほひとを表します。乳香にうかうを得たる菓子は、常に斯樣このよう馨香かうばしきにほひしました。斯樣このような信者は大きい事にも小さい事にも、常に神のにほひします。又その傳道のうちにも、常に神と主イエスのにほひがあります。ヨハネ八・二十九、これは乳香にうかうの生涯です。常に神のあぢはひがあります。又常に神のめにわざを行います。さうですから必ずいのりの生涯です。必ず献身の生涯です。必ず信仰の生涯です。哥後コリントご二・十五をご覧なさい。『我儕われらはキリストの馨香かうばしきにほひなり』、これは意味の深きことばです。これエレミヤ廿三・三十二を御くらべなさい。英譯には『彼等の輕々かろがろしき事により』とあります。これは丁度ちゃうどこの反對です。或る信者は極めて輕卒に、輕々しき心をもって日を送ります。いのりの生涯を送りません。れども毎日のちひさい事ばかりを考へてります。これは乳香にうかうに反對する事です。ある人はまことに献身しました。れども或る事のめに、死にしはひ乳香にうかうなかに落ちて、馨香かうばしきにほひを放たぬやうになります(でんだう十・一)。一度いちど惠まれてまことに聖靈の油を受けました。れども死にしはひやうちひさき事のめに、馨香かうばしきにほひさぬやうになりました。愛の不足のめ、心中こころのうちに罪の種を抱くめ、その乳香にうかうけがして惡臭あしきにほひを放ちます。キリストの生涯を見ますれば、そのやうな事は少しも御座りません。何時いつでも何処どこでも馨香かうばしきにほひの生涯でありました。私共は格別にこの世の交際かうさいおいて又家族のうちにありて、如此このやう馨香かうばしきにほひけがさぬやうに注意せねばなりません。

 如何どうして素祭そさいを献げましたかならば、幾分を壇の上において燒き盡しました(二節をはり)。また幾分を食べました。燒き盡したる部分ところは、神に全く献げる意味をあらはします。食べました部分ところは、人間ひとめにする事を指します。きよき生涯を送るならば、その幾分を全く神に献げます。又その殘りを人間ひとのためにつひやします。献身の生涯は、たゞ神に献げる生涯のみではありません。又人間ひとめに盡す生涯であります。

 主イエスの生涯を見ますれば、これはあきらかです。主イエスはしんたゞ神のものでありました。れども人間ひとめに生命いのちのパンとなり給ひました。私共も自分の力に應じて人間ひとのパンになるべきはずです。主イエスは素祭そさいのやうな生涯を送り給ひましたから、その生涯は私共のれいかてとなるはずです。彼前ペテロぜん二・三を御覽なさい。『あぢはひて』、これは信仰の比喩たとへです。主をあぢはいて四福音を読むはずです。主によりてけるパンを受けれまして、主のわざも話も読むはずです。

 これは又至聖いときよかてです。このレビ二・三を見ますれば、『至聖物いときよきものたるなり』とあります。さうですから、主イエスの一代記を至聖いときよかてと思うて讀みたう御座ります。又自分も神の前に献身の生涯を送りて、素祭そさいやう献物さゝげものを献げますならば、れは神の前に至聖いときよき事です。神は天より望み給うて、其樣そのやうな人を見て、けがれたる世の中に神をよろこばせまつちひさ場所ところであるといひ給ひます。

 素祭そさい大槪たいがい火に當てられました(四、五、七節)。火の感化を受けました。私共は神にきよき生涯の献物さゝげものを献げとう御座りまするならば、必ず試みの火、くるしみの火に會はねばなりません。神は如此このやうくるしみをもって、私共を御自分の献物さゝげものとして献げしめ給ひます。心中こゝろのうちで身もたまも献げましても、如此このやうに火の感化を受けませんならば、いままことかたうせられたとは申されません。彼前ペテロぜん五・十をご覧なさい、『しばらくるしみを受け』。マコ九・四十九をご覧なさい。『火をもてせられ』、そのくるしみの時に、私共は最早くるしみを受け給うたる主イエスのたすけを得ます。ヘブル二・十八を御覽なさい。主御自身が試みられてくるしみ給ひましたから、くるしみの時にも神をよろこばする事が出來ます。度々たびたび如此このやうなくるしみの時に、信者は悅樂よろこびがありませんから、恩寵めぐみを失うたと思ひます。さうですから神をよろこばしませなんだと思ひます。けれどもくるしみを忍びて、信仰をもって神のめぐみ俟望まちのぞんでりまする者は、神に馨香かうばしきにほひ献物さゝげものを献げます。如此このやうな時に忍びまする事は、よろこんでる時よりもかへって神によろこばれるかも知れません(しへん六十六・十〜十二)。

 又素祭そさいたゞ火に當てられたるのみではありません。全く碎かれました(六節)。聖餐せいさんの時に同じ摸型ひながたを見ます。哥前コリントぜん十一・二十四、『さかるゝわがからだなり』。主のからだが碎かれましたやうに、私共も碎かれたる心を神に献げねばなりません。しへん五十一・十七その心はルカ十八・十三稅吏みつぎとりの心の通りです。神の前に又人の前に、自分の不足又自分の罪を考えておのれひくくする事です。

 神は時によりて、たゞ初穗はつほ其儘そのまゝ素祭そさいとして受けれ給ひました。麥が禾場うちばに打ちおとされ、にせられ、菓子につくられてまったい物となり、純粹なる献げ物となります。れども神は私共の幼稚なる信仰をも受けれ給ひます。信仰又献身は假令たとへ十分に熟しませんでも、正直でありまするならば、神は一層熟したる者と共に受けれ給ひます。

 をはりに素祭そさいを献げるに、三つの規則があります。

 第一は麪酵ぱんだねもちふる事を許しません(十一節)。麪酵ぱんだねの意味は哥前コリントぜん五・八に記してあります。すなは惡毒あしき暴很よこしまとです。又麪酵ぱんだねなき事は眞実しんじつ至誠まこととを指します。暴很よこしま麪酵ぱんだねやうに心をふくらせます。麪酵ぱんだねやうくします。神は必ず高慢なる心、くなりたる心を受けれる事は出來ません。ほかの事において献身がありましても、十字架を負ひましても、ふくれたり又くなりたる心はけがれたる心です。

 第二は蜜を用ひません(十一節)。蜜は甘い物です。れども火の感化を得たる時はくなります。これは常に蜜のやうに甘くありまして、まことうるはしき性質こゝろもっる信者と思はれます。れどもくるしみの時にはつぶやきます。神はかゝる信者を願ひ給ひません。これはたゞ肉にけるうるはしさです。神は此樣このやうあぢはひを願ひ給ひません。神のもとめ給ふところ乳香にうかうやうな者です。すなはち火に燒けてますます馨香かうばしきにほひします。る信者は蜜のやうに甘う御座ります。又る信者は乳香にうかうのやうに馨香かうばしきにほひします。神は第二の信者をよろこび給ひます。

 第三はしほもちふる事です(十三節)。西コロサイ四・六その說明を見ます。此樣このやうな人は不斷たえずその言葉に眞実しんじつあぢはひがあります。永遠のあぢはひもあります。

 何卒どうぞ祈禱いのりもっこの素祭そさいく御考へなさい。此處こゝきよき生涯は、如何どういふものであるかを學ぶ事が出來ます。種々いろいろなる點からきよき生涯を見ねばなりません。種々いろいろなる事において神の前にきよき生涯を送らねばなりません。れども主イエスの生涯を見ますれば、主イエスをれいかてとして心のやしなひとして生涯を神に献げまするならば、この通りに正しき献物さゝげものを神に献げる事が出來ます。これを害する者、妨ぐる者を皆棄てゝ、神の默示に從ひて、きよき生涯を送りなさるやうに願ひます。



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