第六章  信仰の運用



 私共が今考えようとするところは、すべての奥義中の最大の奥義なる、人の魂の中における信仰に対する私共の態度についてである。

一、私共はこの信仰を受けるべきである

 『なんぢらは恩惠めぐみにより、信仰によりて救はれたり、これおのれにるにあらず、神の賜物たまものなり』 エペソ書二章八節
 『我らの神、および救主すくひぬしイエス・キリストの義によりて我らと同じ貴き信仰を受けたる者』 ペテロ後書一章一節

 これらの聖句のいずれからも、信仰は神の賜物で、私共の受けるべきものであることが教えられる。そしてかく私共の受ける信仰は、本書においてすでに見たごとく、主の約束を裸のままに信じ、その信仰を働かす者に与えられるところの信仰の全き確信を言うのであり、これは「神の切におのれを求める者に与えたもうところの報い」である(ヘブル書十一章六節)。多くの人はそれを、御霊みたまあかしという別の名をもって呼んでいる。
 神の御言みことば喜びについて語るとともに『言ひがたく、かつ光榮ある喜悅よろこび』(ペテロ前書一章八節)について語り、平安を言うとともに『すべての人のおもひにすぐる神の平安』(ピリピ書四章七節)を言い、愛を啓示するがそれと同時に『測り知るからざる愛』(エペソ書三章十九節=元訳では十八節)を示し、望みについて語るとともに『全きのぞみ』(ヘブル書六章十一節)を語る。そのごとくに信仰についても『全き信仰』(ヘブル書十章二十二節)というものがあるのである。私共が神の特別な賜物として受けるべきものはこの全き信仰、すなわち信仰の全き確信で、私共をして意識的に信ずることを得しめるところのものである。されば私共はこの『貴き信仰』(ペテロ後書一章一節)を受けるために、これを期待しつつ、信じつつ、待ち設けつつ神を待望することを要する。

二、私共はこの信仰を堅く保つべきである

 『信仰とき良心とを保ちて』 テモテ前書一章十八節

 神の御言みことばは常に、信仰を一個の霊的実在物であるかのごとく言っているが、ここでもそうである。敵はいつもその堅い手を伸べて私共の神に対するこの確信を奪い去ろうとする。それゆえに私共はこれを認め、このきわめて貴重な賜物、すなわち全くキリストを信頼しうる能力を敵に奪い去られぬよう、堅く保ち、警戒せねばならない。あたかも器の裂孔より水の漏れるごとく、この賜物を流れ去らしめること(ヘブル書二章一節)、心の中のこの賜物をさかんにするを怠ること(テモテ後書一章六節)、約束の安息に達しないこと(ヘブル書四章一節)、獲るところの褒美の目当てなしに走ること(コリント前書九章二十六節)、何に対して、いかにしてかを弁えずして、空を撃つごとく拳闘すること(同前)は実に恐るべきことである。されば聖霊の私共のうちに植え付けたまえる、主イエスに対するこの単純な愛情ある信任を、きわめて価高き宝物として堅く保つことは、私共にとって安全なことであり、また喜びである。

三、私共はこの信仰を用いるべきである

 『神を信ぜよ(神に対する信仰をて)』 マルコ伝十一章二十二節

 私共の信仰の父祖たちの常に言えるごとく「信仰を行なう」べきである。ウィリアム・ブラムウェルは「信仰の繰り返しの行為を継続せよ」と言っている。私はこれを私共の信仰の能動的なるべきことを意味すると解する。魂にとって最も致命的な危険は、霊的恵みはおのずから来るもので、私共のなすべきことは、ベテスダの池の辺にいた病人のごとく、ただ水の動くを待つばかりであると想像することである。聖霊は私共をして一層深い交わりに入らしむべく、つねに私共を励まし動かそうとなしたもう。私共はただその有つところのものを堅く保つばかりでなく、主イエスの救い、またきよめるすべての力に対する信仰を積極的に働かせねばならない。
 私共の求めつつある恩恵が、私共自身の霊魂の聖められることであっても、あるいは神が私共の心に重荷を負わしめたもう罪人つみびとの救いであっても、あるいはまた私共の打ち勝たねばならぬ何かある困難な事件の解決であっても、それに対して私共は、昔のあるメソジスト信者が言ったように「よし悪魔がわれらの面前に石垣を築くとも、われらはそれを突き通して信じ抜かねばならぬのである。」「ただ信仰によってのみ受ける、それが困難である。神がそれをなしたもうと人を説き勧めて納得せしめる、これが容易でない。」されば私共は私共を愛したもう神に対する積極的な信仰を経験することを要する。すなわち、繰り返し繰り返して『汝われを祝せずばさらしめず』(創世記三十二章二十六節)と叫び、『我らと共にとゞまれ』(ルカ伝二十四章二十九節)と言いつつ強いて止めまつり、『主よわれ信ず、信仰なき我を助け給へ』(マルコ伝九章二十四節)と言うべきである。しかして神の植えたまわぬ樹はすべて抜きさられ、実を結ばぬ無花果いちじくは枯れると、神に対する信仰を、思念においても思想においても生活行為においても働かせねばならない。

四、私共はこの信仰を宣べ伝えるべきである

 『聖徒のひとたび傳へられたる信仰のために戰はんことを』 ユダ書三節

 信仰をべ伝える事は真の宣教の証拠であると言ってもよい。悔い改めを宣べ伝えることは、それが神に対する悔い改めであっても容易である。また、全き献身を勧めることも難しくない。けれどもすべて聖書的な宣教の結局の証拠は、信仰の道の単純さを宣べ、説明し、また強く主張しうるところにある。これなしには宣教は無効である。そして不幸にも、信仰の真の道でない、いわゆる神の道なるものが多く宣べられること、今日のごとくはなはだしき時はない。
 私共はこの真理を力説したいと思う。いずれの方面でも、私共は「神に向かいては悔い改め、私共の主イエス・キリストに向かいては信仰すべきこと」を宣べ伝える代わりに、単なる悔い改め、またいわゆる「キリストのため決心すること」を宣べ伝える人々を見るが、この二つの事の間には大いなる懸隔があり、さらに大いなる相違がある。前者は人間を謙らしめて救い主を高く崇め、後者は人間のいわゆる尊厳を崇めて神の愛よりその威厳を奪う。なんとなれば神の愛はそれが罪深い叛ける人間に向かう愛であるというこのことに顕れているからである。しかり、「ここに愛あり」である(ヨハネ一書四章十節)。
 もし人間が罪を好む者、神に対して反逆せる者でないならば、和らぎも贖いも新生も、必要ではない。けれども人間が罪人つみびとであり反逆者である以上、ただ憐れむべき失われたる罪人としてキリストにきたり、信仰によってただ赦免と恩恵を受けることのみが人間の必要を満たすのである。されば私共の必要とするところ、またキリストの要求したもうところは私共のキリストに信頼する信仰であって、キリストのために決心することではない。私共はキリストの私共を御自身に受けれたもうその幸いなるご決定に対し、愛情ある信任をもって信じまつるのであって、私共が御足みあしの跡に従わんとする私共自身の決定、快諾、決心などのことは忘れるほどに、これを喜ぶのである。
 詩篇五十一篇の作者が『あゝ神よ わがために淸き心をつくり……たまへ/さらばわれとがををかせる者になんぢのみちををしへん』(詩篇五十一篇十、十三節)と言ったときに、彼の心にかかる思いがあったのである。しかり、ここに『なんぢの途』と言っているその道こそ、主イエスに信頼する信仰の幸福な道で、誰もそれを自己の経験として知るのでなければ、また知るまでは、これを宣べ伝え得るものではない。
 しかしてまた信仰を宣べ伝える道は、信仰をもって宣べ伝えることである。ある有名な福音伝道者はまさに説教に立ち上がろうとするとき、「われは神を信じ、わが使信を信じ、われ自らを信ずる」と言った。彼はこの集会のために神の選びたまえる使者として彼自身を信じたのである。もしそうでなかったならば、彼は全然語る権利を持たないのである。かく彼は神たる主をち、神の使信を有ち、神の委任を有つがゆえに権威をもって語ったのである。そしてなお信仰を宣べ伝える道はもちろんこれだけではない。
 第二に私共の要するものは、私共の言葉が聖霊の論証の中にあるほどに、私共自ら信仰の道の甘美さと単純さをもって魂を満たされていることである。かくしてはじめて信仰の道の効果ある宣伝ができるのである。いかに多くの人々は悔い改めと献身、熱心努力と献身的熱誠の踏み車を踏んで疲れ果てることぞ。そして悲しいかな、彼らは罪悪、疑惑、恐怖、不信、猜疑からも悔い改めと献身を迫られることによって、未だ光を受けざる心に起こる難渋と憂慮から人々を自由にする道を知らないのである。

五、私共はこの信仰を追い求めるべきである

 『その信仰にならへ』 ヘブル書十三章七節
 『信仰……を追求おひもとめよ』 テモテ前書六章十一節

 私共はすでにこの貴い賜物なる信仰を受けていても、なおこれを追い求める必要がある。しかるに、悲しいかな、多くの神の子供たちに欠けているのはこの信仰の進歩である。さて私共が信仰を追い求めることを志すにあたって、私共の助けとなる多くのことがあるが、その最善の助けの一つは、『死ぬれども……今なほ語る』人々の声に耳を傾けること(ヘブル書十一章四節)、すなわち既に過ぎ去った人々の信仰を深く思い見ることである。
 ヘブル書第十一章は実にこの目的のために書かれたのであるが、聖書中において私共に示されているこれら信仰の勇者らに加えて、現代の聖徒たちの伝記もまた私共の魂に言うべからざる祝福となり得るのである。私が受けたところの最大の祝福はマデレーのフレッチャー、ウィリアム・カルボッソー、ロジャース夫人、ウィリアム・ブラムウェルなど、かかる聖徒らの伝記の精読からであった。恐らく信仰の途において絶えず進歩をなした最も顕著なる人はブラムウェルであろう。彼の伝記者は「彼は『神のそだてにて生長する』(コロサイ書二章十九節)ために、またこの地上においても、できる限り天の幸いをけるためにその全力を傾注した。……彼の信仰は強くありまた絶えず働いていた。彼は神のすべての約束を信じ、これを実現すべく間断なき祈りによって努力した」と言っている。
 されば私共もかかる人々の中にいませしキリストを深く思うことによって信仰を追い求めたい。彼らの喜びに満たされていたこと、祈りに力のあったこと、伝道に勝利のあったこと、ほかの人々を約束の地に導くに能力のあったことなどは、みな神を信ずる信仰の結果であったのである。おお願わくは、私共の信仰の導師、またこれを全うする者で在す主イエスをたえず仰ぎ見つつ信仰を追い求め得んことを!

六、私共はこの信仰にりて祈るべきである

 『このゆゑなんぢらに告ぐ、すべて祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ。らばべし』 マルコ伝十一章二十四節

 信仰に在りて祈るということは、祈りのうちに信ずるということと同じではない。『信仰のいのり』(ヤコブ書五章十五節)は元訳のごとく『信仰より出づる祈』である。願望の祈禱と信仰の祈禱との間には大いなる相違がある。もとより熱心なる願望は祈禱の真の要素であるが、願望の祈禱そのものからは何事も生ずるものではない。願望の祈りが進んで信仰の祈りとなるまでは、その求めるものを獲得することはない。『おこたる者はこゝろに慕へども得ることなし』(箴言十三章四節)とは実に厳かな戒めである。
 かつまた願望の祈りが進んで信仰の祈りとならない場合には、祈らんとする願望そのものすら次第にまた必然に衰退し去るは、厳かな経験の事実である。しかし祈りは信仰を励ます幸いな刺戟剤である。密室の祈り、また信じ待ち望む人々と共に祈る祈りは内心に信仰の空気を作るに役立つものである。けれども私共の祈禱会はいかに多くの場合に、信仰のきよき期待が欠けており、そのために何の成し遂げられることもなく、なす所もないことであろう。
 神が私共に新たなる力を得せしめたもうのは、私共のすでにもっている少しの信仰を用いて神を待ち望むところにおいてである。かくして私共は鷲のごとく信仰の翼を張って昇り、全世界とすべてその虚しきもののみならず、内心の疑惑、恐怖、暗黒、不安定の一切がはるか足下にあるを見るに至る。

七、私共はこの信仰の上に自己を建てるべきである

 『おのいときよき信仰の上に德を建てよ』 ユダ書二十節

 『汝等なんぢら己が最も潔き信仰(your most holy faith)の上に自己を建てよ』(英訳)。私共の万事、すなわち私共の歌も、祈りも、説教も、礼拝も、奉仕も、日々のわざも、生活の細事の一つ一つも、みなその基礎を信仰、すなわち私共の献げる一切を神が受け納れたもうと敢えて信ずるところの信仰におくべきである。私共が意識的に一切を祭壇の上に献げるときに、私共は神がこれを受け納れ、これを受け取りまたこれに印したもうと信ずるのである。神の恵みの喜びと確信をもたらすのはこの信仰である。
 神が認めまたこれにこたえたもうのはこの信仰であり、私共が神に讃美の供え物と礼拝を捧げんとするときに日ごとに要するものはこの信仰である。しかして私共の献げる犠牲を、神が見、聞き、受け納れ、喜びたもうと信じつつ生活することは、この地上に天を持ちきたる。もし日常の小さいことの一つ一つ、奉仕の小さい行為の一つ一つを意識的に献げ、意識的に神に受け納れられたことを認めるならば、私共は確かに天に生活するのであり、かく最も聖なる信仰の上に建てられる私共の行為はみな永遠に留まるのである。
 しばしば、日常の多くの細事における私共の生活の基礎が自己満足や利己的熱心や成功や名誉の欲望におかれ、私共の行為、祈り、説教、また忍苦の中にさえしばしばこれらの腐敗せる要素の混じっていることはいかにも多い。けれども潔める信仰、すなわち私共のなすすべてのことが神に受け納れられているという、私共の神に対する「愛情ある信任」が私共の霊的経験のいや先に立ち、私共の建徳の基礎となるときには、それは『おのおののわざ如何いかんためす』火(コリント前書三章十三節)にも耐えてとどまるであろう。
 さて現代に広く流行する、危険な神秘主義というものがある。神秘主義は私共の霊魂に対して祝福となり利益となる多くの点を持っていると同時に、危険な多くの点を持っている。その危険を簡単に言えば、私共の理解するところでは、神秘主義はほとんど信仰に所を与えないのである。神秘主義者は信仰によらず、彼らのいわゆる黙示や経験を待ち望むことによって恵みを受けるように期待する。これは危険であるとともに非聖書的である。
 かの月足らずして生まれたもののごとき聖パウロは、やがてキリスト・イエスの天より顕れたもうことによって、一日に生まれずるユダヤ人民の型であるから、信仰によらずしてキリストに来たのは事実である。彼はもちろんわざにはよらず恵みによって救われたのではあるけれども、直接の顕現によって神に立ち帰った。すなわちキリスト御自身ダマスコ途上において彼に顕れたもうたのである。そしてなおこのパウロその人が、後に信仰の大使徒となったのである。
 実にもし私共がパウロの書翰を除外するならば、新約聖書のほかの部分において信仰による称義の明瞭な記述を見出すことは難しいと言っても過言ではないと私は思う。彼はすべてのことにまさって信仰の使徒であり、彼の福音は信仰による救いの福音である。もちろん私共の言うところの信仰は、呑気ないわゆる「信仰主義」でないことは前の諸章の中に充分に言ったとおりである。しかしてまた私共の主張するところの、書きしるされた約束を信じ、流された血を信じ、けるキリストを信ずる信仰は、熱心と期待と忍耐をもって神の御前みまえに待ち望むことを排斥も無視もするものではない。
 私共はすべてを信仰の上に建てること、信仰によって受け、信仰によって生き、信仰によって歩み、信仰にあって祈ることに心を用いねばならない。何となればただこれのみが私共の魂のための神の道であり、私共に平安と喜び、かつまたそれとともに神の救いの実現と盈満えいまんを持ちきたらすものであるからである。



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