第一章  信仰の性質



 『神を信ぜよ』 マルコ伝十一章二十二節
 『なんぢら信仰にるや否や、自ら試み、自らためしみよ』 コリント後書十三章五節

 私共キリスト者がすべての霊の恵みを神より受けるのは、みな信仰によるのである。けれども今日、福音的宗教のうちでも、多くの人は信仰によって恵みを受けるということの意義をわきまえず、信仰をほとんど無意義の常套語とするに至ったのは悲しむべきである。されば私は「神を信ぜよ」すなわち「神における信仰をて」(Have faith in God=英訳)という驚くべき言葉の意味を充分に説明したいと思うのである。信仰は新約聖書に特に強調力説されている。ゆえに、思慮ある読者は、直ちに信仰とは単に聖書の示すすべての真理に同意すること、もしくは当今流行するいわゆる「信仰主義」のごとき安価な気楽なことではなく、更に深いことであることに気付くであろう。
 元来、信仰はこれを受ける人の良心、信条、意志、思念、および生活に驚くべき結果を生ずる有力なけるものである。私がここに「これを受ける人」と言うのは信仰が神の賜物であるからである。このことについては後に詳述するけれども、まずこの始めの章において、新約聖書に示されている信仰の七つの方面を簡単に考えたいと思う。

一、 奥  義

 『きよき良心をもて信仰の奥義を保つものたるべし』 テモテ前書三章九節

 さてここに信仰は一つの奥義、神的奥義と呼ばれているが、確かにそのとおりである。ジョン・ウェスレーはこれについて常に、霊的事実を見またこれを識別するために「聖霊によって開かれる内心の眼」という言葉を用いたが、それは人の心になされる、静かではあるが力ある奇蹟を経験した者のみがよく理解する言葉である。実に信仰は聖霊によって啓示される魂の内における神的奥義である。されば私共の自らもつと思う自己の知恵をもって天国の奥義を把握し理解しようとすることをやめ、神を信ずる真の信仰の与えられるように神に祈り求め、深い謙遜と信頼の精神をもって神を待ち望むことはいかに必要なことであろう。
 『人は天よりあたへられずば、何をも受くることあたはず』(ヨハネ伝三章二十七節)。これは神の法則で、神は決してこれを変えることを欲したまわないけれども、人はとにかくこれに服することを好まない。私共は聖書や、注解書や、参考書を探り、それによって極めて明らかな神学的知識を得れば、「神の深き事」がきわめ得られると思いやすいのであるが(ヨブ記十一章七節)、その結果はついに疲労し、失望し、かくて漸く、聖父みちちの憐憫と愛とを知ることは、聖霊の示したもうごとく、ただ信仰の奥義を通してであることを、神の恩寵によって悟るに至るのである。

二、 種  子

 『芥種からしだね一粒ほどの信仰』 マタイ伝十七章二十節

 聖書にはほかに、神の言葉を種子と言われているところもある(ルカ伝八章十一節ペテロ前書一章二十三節)けれども、ここではこの比喩が信仰にあてはめてある。人の心の土壌に蒔かれた神の貴い約束の言葉の種粒と、これを捉え、これに密着し、その命と栄養を御言葉みことばより受けるこの信仰という驚くべき原則とを区別することはほとんど不可能で、この二者はほとんど同一物のごとく見える。元来種子には、活動も音もないけれども、生命の驚くべき動力がその中に潜在している。それが本来同質で、その性質に適応する土壌の中に埋められるときには、その潜勢力が活動し、鼓動し、作用し始めるのである。
 信仰もそのごとく、それが聖霊によって霊魂の中に植え付けられさえすれば、直ちに生命の力を顕して、排除し、摂取し、その不思議な力をもって動きまた作用を始める。かくのごとくにして私共の願望、愛情、感情、思想、想像が私欲の無感覚、死の眠りから覚醒され、あわれな罪深き人類を愛したもう神の愛の光線の中に萌芽発育するに至るのである。

三、 原  則

 『彼らには聞きし所のことば益なかりき。聞くものこれに信仰をまじへざりしにる』 ヘブル書四章二節

 ここで私共は聖書の中より、信仰は単に私共の神に対する態度でなく、一つの原則であるということを見出す。すなわち信仰は魂の中に植え付けられる神的原則である。もちろんこれは最高の形における信仰について言うのである。
 聖徒、改革者、殉教者にしてその不朽の記念物として英訳聖書を残したウィリアム・チンダルの言った言葉は、聖書以外に見出される、信仰の最良の定義の一つである。すなわち彼は言う、「正しき信仰は聖霊によってわれらのうちに作成される一物で、われらを変化せしめ、性質を新たにし、神によって新生せしめ、ヨハネの第一書において読むごとく、われらを神の子とならしめ、古きアダムを殺し、信条、思念、意志、願望、および魂の中のほかのすべての愛情能力において全く新しき者とならしめる──聖霊はこれに伴って心を支配したもう」と。
 さてここに信仰は私共の衷に作成される一物と定義されているが、真にそのとおりである。これは一つの神的原則、すなわち神が与えて衷に植え付けたもう幸いな能力である。ステパノは『信仰に滿ちて』いたと記されているが(使徒行伝六章五節)、それは彼が神に対する態度に満たされていたということではない。
 信仰は原則であって、私共を常に主にって喜ぶことを得させるところの魂の神的光明、完備、平穏に満たされるということは、確かにできることである。

四、実体また確信

 『信仰は望むところの事物の實體にして、いまだ見ざる事實の確信なり』 ヘブル書十一章一節(直訳)

 人あるいは「もし信仰が神の賜物であるならば、私共はいかにともすることはできない。神がそれを心の中に植え付けたもうまで、ただ待つほかない」と言うかも知れない。けれどもそれは皮相の見解である。ヘブル書第十一章の一節を見れば、そこに信仰の二つの段階、すなわち二つの形のあることが教えられている。すなわち望むところの事物の実体と、未だ見ざる事実の確信の二つである。ヘステル・アン・ロジャース夫人は霊的事実に対する驚くべき洞察力をもって、次のように言っている。「聖霊のあかし、すなわち聖霊の印(彼女は信仰の盈満えいまんを指して言う)は神の賜物で、わたしたちの行為ではない。それはイエスに対し、また彼によって与えられた約束に対する、信仰を働かすところのすべての人に与えられるもので、自ら信仰を働かすまでは与えられるものではない。もし悔い改めた者であるわたしたちが自ら信仰を働かす何らの力をもたぬ者であるとすれば、神が不信仰のゆえをもってわたしたちを罰したもうことはどうして正しかろうか。……神が御霊みたまの証を与えたもうのは信仰のこの行為のあとで、その前ではない」と。これは確かにそのとおりである。神が私共に信ずる事を命じたもうのは、私共が神の恩寵によって信じ得るからである。私共がかく信じて私共の心中の大敵なる不信仰に抵抗して神の側に立つときに、神はその神的事実に対するきよき確信を私共に与え、これを私共のうちに植え付けたもうのである。かくして私共の自発的信仰行為は、信じ続ける幸いな状態に至る。けれどもこの信仰の状態は信仰の行為に頼るものである。すなわち、私共は信ずる。そうして神は私共の信仰に確信の冠を授けたもうのである。されば私共自ら有つところの信仰の能力を用いながら、なおも信じつつかく歌うべきである。
   ける信仰を吹き入れたまえ
   これを受くる者は誰もみな
   その証詞あかしおのうちにもち
   意識的にぞ信ずるなれ。

五、 働  き

 『されば我等はこのやすみ〔神の安息〕にらんことを努むべし』 ヘブル書四章十一節
 『神のわざはそのつかはし給へる者を信ずるこれなり』 ヨハネ伝六章二十九節

 これらの聖句によって私共は信仰の更に進んだ見解に達する。私共には神を受動的に信ずる信仰のあるように、また能動的信仰もある。私共は「望むところの事物の実体」が「未だ見ざる事実の快美な確信」となるまで、怠りと高ぶりをしりぞけつつ私共のもつ信仰を用いる必要がある。しかしてこれは容易なことではない。多く祈りまた聖書をよく調べ、サタンが私共の冠を欺き取り私共の残れる日を悲しみをもって過ごさせることのないように、「残りのものを堅うするため」神に叫び求めねばならない。
 ジェームズ・コーヘーは「信仰」(普通に理解される)と「信じつつあること」との間に区別があると言っている。一つは静水のごとく、いま一つは流水のごとくである。舟を湖水そのほか澱んで動かぬ水上におけば、そのままにとどまっているが、一時間に十里も流れる河上におけば、すぐに動き出す。信仰もそのごとくである。
 聖霊によって衷に作られた真の信仰を有つ者には、必ず安息に入らんことを努め(ヘブル書四章十一節)、王の部屋に入らんと手を伸ばし(箴言三十章二十八節)、完全に進み(ヘブル書六章二節)、得んために走り(コリント前書九章二十四節)、上にあるものを求める(コロサイ書三章一節)。これは信仰の真の働きである。これは魂のきよい動力である。
 聖パウロはテサロニケの信者のために「我らの神の汝等なんぢらをして……能力ちからをもてなんぢらのすべて善にけるねがひと信仰のわざとを成就せしめ給はんことを」と祈っている(テサロニケ後書一章十一節)。しかして『神のわざはそのつかはし給へる者を信ずる』ことである。私共が『世にあらん限りヱホバの家にすまんとこそ願ひ』(詩篇二十七篇四節)、『靈のまことちゝを慕ひ』(ペテロ前書二章二節)、人々の救いを心の願いとなし(ローマ書十章一節)、パリサイびとの義にまさる義、すなわち実地に生きて愛する義に飢え渇き(マタイ伝六章五二十節)、『生くるにも死ぬるにもが身によりて、キリストの崇められ給はんことを切に願ひ』(ピリピ書一章二十、二十三節)、などきことを願い、聖き願望を持つことはまことに幸いである。
 されど私共の願いが単に願望にとどまり、それとともに信仰の働きがないならば、『こゝろに慕へどもることなき』おこたる者(箴言十三章四節)のごとくであろう。されば私共は、すべて信ずる者の手を満たしその業を成就しようと待ちたもう神より受けんと、その手を伸ばしつつ、信仰を働かすよう心掛けたいものである。

六、 戦  い

 『信仰の善き戰鬪たゝかひをたたかへ』 テモテ前書六章十二節

 ここに信仰の働きに極めて近似した信仰の戦いということがある。悲しいかな、私共は自己の愚かな心の懶惰らんだに対して戦わねばならぬばかりでなく、私共に対して神を信じさせないようにすることを基本業として活動する敵と戦わねばならぬのである。この敵は、私共の勝つ勝利は私共の信仰であることを知っているのである。さればむべき主が『なんぢもし信ずることを得ば信ずる者においてあたはざる事なし』(マルコ伝九章二十三節・英訳)と仰せられたのは不思議ではない。主が「汝もし信ぜば」とも「信ぜんと欲せば」とも仰せられず、「信ずることを得ば」と仰せられたことは注意すべきである。
 しかり、ここに戦いがある! 私共はいずれ後の章において、勝利を得ざらしめる信仰の妨害物について論ずることとする。しかし注意すべき事には、敵は、勝利の約束を或る将来に期し、或いは信仰の安息という敬虔な言辞を誤用して私共を惰眠に誘い、或いは信仰の進撃的動作による私共の心の活動的進取、すなわち信仰の戦いがなくても、知らず識らずのうちにキリストの御像みかたちにまで成長すると考えるように、私共の心を欺く。おお、願わくは、私共が目醒めて神の全武具をよろい、信仰によって進み戦い、信仰によって神の約束を捉え、信仰によって勇士の手より獲物を奪還し、信仰によって神を讃え、主の名によって敵に挑戦し得んことをこそ!

七、 安  息

 『されば我等はこのやすみらんことを努むべし』 ヘブル書四章十一節

 真の信仰は完全な安息であるとは、すべてにまさって心に留めるべきことである。信仰のすべての働きも敵との戦いも結局みなこの安息に導く過程にほかならない。ある人は信仰は「すべてを棄てて神を取ること」であると適切に言っているが、これは善い定義である。私共の棄てるべきこの「すべて」の中にいかに多くのことが含まれているかは、多くの聖徒もまだ学び尽さないところである。一切の罪は言うまでもなく、すべて私共の義、私共の自己満足、自己信頼、名誉、富貴、快楽に対する私共の願望、さてまた私共の疑惑、恐怖、不信仰、猜疑など、みなこのすべてのうちにあるのである。かく私共の一切を棄てて、信仰の休みに入り、神のみこころに沈み込み、私共に臨み来るところ、神の送り遣わしたもう一切のことを喜びをもって受ける。これが真の安息であり、私共が一切を神に引き渡し終わり、『よろづ具備そなはりて鞏固たしかなる契約』(サムエル後書二十三章五節)にて受けれられたと「意識的に信ずる」ことのできたとき、それがすなわち信仰の安息である。
 『我等この休に入らんことを努むべし』という一句のうちに「休み」すなわち安息と「努む」すなわち働きとの両極端の語が見える。幾ばくかの人は自己の義を棄て、なお多くの人は自己の罪を棄てる。けれども悲しいかな、私共の疑惑、恐怖、不信仰を棄てることはしばしば何たる努力を要することであろうぞ。
 『まとへる罪』(ヘブル書十二章一節)はいかに必死の勢いをもって私共のこの安息に入ることを妨げることか、しかも悲しいかな、多くの人は決してこの敵を実覚せず、またその恐ろしさも認識しない。しかし私共が信じ、堅く信じ貫くときに、まことに愛の天の父の賜物なる幸いな安息に進み入ることができるのである。
 詩篇第九十五篇に、聖霊は『わがわざ』、『わが道』、『わがいきどほり』、『わが安息(やすみ)』について語りたもう(九〜十一節)。昔のイスラエル人はマサとメリバ(一方はカルバリの撃たれたいわ〔出エジプト記十七章一節〕、他方はペンテコステの高められた磐〔民数記二十章〕)において神のわざを見たのである。彼らはかく神の御業みわざを見、「二重の流れ」からその水を飲んだ。けれども悲しいかな、神の安息に入り得なかった。しかして聖霊は、それは彼らが神の道を知らなかったためであると、その理由を説明したもう。
 神は『おのれのみちをモーセにしらしめ おのれの作爲しわざをイスラエルの子輩こらにしらしめ給へり』(詩篇百三篇七節)、すなわちモーセのみが神の道、すなわち神の不断の臨在と能力の深遠な道を示されたのである。私共は昔日のイスラエル人のごとくであるか、はたまたモーセのごとく神の道を学び、信仰の安息に入っているであろうか。



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