聖潔られたる者の行歩(承前)



 勝利は潔められたる霊魂の当然なる状態であります。ですからヨシュアは道々、常に勝利あることを期待いたしました。
 これはまた当然のことでありました。神の民に勝利が与えられなかったならば、それは不思議なことであります。が、それには彼らが常に神に忠誠でなければなりません。潔められた霊魂は、それを学ぶ必要があります。ヨシュアも、それを学ばなければなりませんでした。ヨシュア記の七章を読みますと『イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した』とあります(一節)。既に獲た勝利が一種の霊的傲慢と自負心とを彼らに与えたかも知れません。彼らは勝利をもって突き進み、全土を治めることを知りました。けれども彼らは、それがためには神に忠誠でなければならないとの必要条件を忘れました。
 このようにしてアイにおける敗北が参ります。アイは、たいへん小さいところでありましたから、イスラエル人は、容易にこれを取ることができると思いました。エリコにおいては、神の力によるほかに勝つ見込みはないと知りましたが、アイを取るには二千か三千の人しか要らないと考えました。それが自負心であります。そして敗北がそれに続きました。けれども、そこには隠れたる罪があったのです。こうしてイスラエルは、天幕の中の地に埋め隠してあった物のために、かの小さいアイの前に敗れました。それは衣服とか、金とか、バビロンの衣とかいうくらいの物でありましたが、それが敗北の原因となったのであります。悲しくもクリスチャンにとりましても、しばしばこれが事実でございます。お金をどう使ったとか、自分の他は誰も知る者のないくらいな事柄でありましょう。しかし、その密かなる事柄によって敗北が参ります。おお、既に神の潔めの力を味わったのちにおいての敗北の悲哀よ!
 ヨシュアが、神の聖前にひれ伏して、かく申したのも無理はありません。『ああ、主よ。‥‥‥わたしはまた何を言い得ましょう。‥‥‥あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか』(八、九)。また『われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです』(七)と。多くの人々がそう申しました。いっそ宿営の生涯で満足していたらよかったものを、今この敗北の始末であると。ああ、けれども望みがあります。それはヨシュアがへりくだって、恥辱を被り、顔を覆って参りました時に、神はすぐさま隠れたる妨げを指さして下さいまして、今一度、民を回復して勝利を与えて下さったからであります。しかも感謝すべきかな、彼は今日も変わっておられません。『わたしの子たちよ、これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである』(第一ヨハネ二・一)。これはクリスチャン生活の標準であります。『もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる』(同)。もし罪を犯したならば、私共は砕けた心と正直な罪の告白とをもって主に来ることができます。そうすれば罪は取り除いていただけます。『彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である』(二・二)。あなたは今一度、勝利を得なさることができます。あなたは、もう一度ヨルダンを渉る必要はありません。この地において失敗したならば、主はあなたの罪のために贖いの供え物となって下さり、また大祭司としてその冠の上に『もろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負う』て下さいます(出エジプト二十八・三十八)。こうしてあなたは新しく勝利をもって始めることができます。私共が失敗した後に悪魔はやって来て申します。「ははあ、だからそう言ったではないか。おまえが聖い生涯を送るなんて、信じたって何になるものか」と。おお、もし倒れましたならば、もう一度起き上がりなさい。大胆に神に依り頼みなさい。彼の恩寵は尽き果てることがありません。あなたのためにもなお恵みはあります。
 時に自動車から恐ろしい音が聞こえるでしょう。タイヤが破裂したのです。運転手は車を停めます。彼はどうすればよいか知っております。すぐに仕事に取りかかり、破れたタイヤを車輪と共に外し、ほかのタイヤを取り付けまして新しく走り出します。もしもあなたのタイヤが切れたならば、それで一切は終わりで、聖潔の道へのあなたの旅路もこれでおしまいであると考えてはなりません。悪魔は、そう信じさせようといたします。しかしそうではありません。もしも、敗北がありましたならば、それを正しく直しなさい。神様の前に長々しく説明している必要はありません。直ちにそれを改めなさい。そうすれば神は無限の恵みと優しさとをもってあなたに会い、無限の同情をもってあなたを遇して下さいます。彼はあなたに会い、新しいタイヤを下さり、神の力のうちにあなたを送り出して下さるでしょう。彼はそれらの咎を拭い去り、その罪を再び心に記憶されないのであります。
 それからヨシュア記九章に、もう一つの失敗があります。最初の失敗は神の言葉に従わないことから起こったことでしたが、第二の失敗は祈禱の怠慢からでありました。『人々は‥‥‥主のさしずを求めようとはしなかった』(十四節)。クリスチャンにおいてもそうであります。失敗の原因はいろいろであります。時には御言に従わないから、また時には祈りに失敗するからであります。ヨシュアにとっては、もうすべてが明白で、どうすればよいかがわかっており、祈ってみる必要もないかのように見えました。彼は神の御旨を求めませんでした。そして欺かれてしまいました。お互いが欺かれることは実にたやすいことであります。私共はそれを信じたいものです。肉の思いはそれを信じません。しかし聖められた神の子供は、そう信じます。サタンは賢い敵であります。おお、気をつけていただきたい。そしてよく祈って、主の口に問うことをしていただきとうございます。
 この後イスラエルの人々は勝利を得ました。三十一人の王は打ち平らげられております(十二章)。過去において私共を支配していた古い自己生活の三十一の異なった形から救い出されることは何と幸いなことでありましょう。仰ぎ頼って参ります時に、私共の主将、主イエスは、ことごとくこれに充全なる御方であります。
 けれども私共は常に『取るべき地は、なお多く残っている』(十三・一)ことを記憶したいものです。私は皆様の霊魂が常に生き生きとして励み、神があなたのためにと用意して下さっているすべての地、聖霊のすべての幸い、そのすべての恵み、そのすべての力を所有して自らのものとされることを祈ります。使徒パウロは書きました。『わたしは‥‥‥私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。‥‥‥何とかして‥‥‥達したいのである』と(ピリピ三・八〜十一)。それではパウロよ、あなたはまだ主を見出しなさいませんか。キリストはあなたの心に住んでいるのではないのですか。「おお!」パウロは答えます。「その意味ではありません。感謝いたします。私は既に彼を見出しております。主の恵み深きを味わっております。主は信仰によって私の心に住んでおられることを知っております。しかし、なお所有すべきはなはだ多くの地を私は見るのです。さらに深く主の愛を知りたいのです。人の悟りに超絶する平安をもっと悟りたい、なおなお彼の犠牲の御生涯を、衷なるキリストの優れたる力を、さらに御言葉の光を、内面の生活におけるより完全な不断の勝利を、霊魂に対するもっと熱い同情を、亡ぶる霊魂に対するより豊かな真の十字軍兵士の精神を、そして神の御救いにおけるさらに深い、さらに高い、更によきものに対して常に真剣であらんことを、わたしは願ってやまないのです」と。『取るべき地は、なお多く残っている』。愛する皆様、或いはあなたは、かつてない恵みを得て神を讃美しておられるかも知れません。或いは聖霊の力が、より豊かにあなたの上にとどまっているかも知れません。また、より深い神との交わりを持っているかも知れません。けれども、おお愛する皆様よ、『取るべき地は、なお多く残っている』。神に向かってたゆまず、だれず、保たれなさることを私は祈ります。なおもあなたの霊魂をして神を渇き慕わしめなさい。不満足ではない中にも、常に満足し切ることなくして彼にひたすら従いなさい。真に満足した、しかし満足していない。主の喜楽の河の水をさらに深く飲みたいと、常に憧れつつ、より親近な交わり、より真実な讃美、より進んだ真心からの犠牲の生涯、いまだかつて経験したことのないほどに豊かにこれらのものを得たいと、常に願いつつ進みなさい。
 私は皆様の目が前にのみ向けられ、今までに主が皆様のためになして下さったことを考えるよりも、むしろこれからなして下さろうとしておいでになることに眼を注ぎ、かくて皆様がこの全土を探り知って、その中に入り込み、皆様の盈ち溢るる大富豪たる救い主の富の中にあって、皆様が如何に富める豊かなる者であるかを、日々発見されることを祈ってやまない次第であります。



       神 と 偕 な る 歩 み


  1932年7月20日  初版発行
  1991年5月 1日  第4版(改訂版)
 著 者  バークレー・F・バックストン著
 印 刷  聖   愛   印   刷
 発行所  関 西 聖 書 神 学 校 出 版 部
  〒655 神戸市垂水区塩屋町6-32-15
   TEL 078−752−8112


              定価 600円



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