五  主の献げられし祈禱への応答



 真の祈りは決して一方の側のことではありません。あなたが神にお近づきするならば、神は確かにあなたに近づかれます。あなたが聖霊によってお祈りするならば、あなたは幸いなる経験をなさいます。神が近づかれてお聞き下さったとの証を得ることができます。そしてあなた自身の霊的生涯にいつまでもとどまる結果があるでしょう。
 主においてもそうでありました。主は『願い求めるものは、なんでもいただける』(第一ヨハネ三・二十二)と言うことができました。そしてこの確信を持ちつつ、何事についても求める所を得られたのであります。主は病者の癒しにも、死人の甦りにも、神の能力の現れることを知られました。主はただ求めさえすれば、神は働いて下さいました。主はその敵の手にありました時にも、求めさえするならば十二軍団以上の天使たちを受けることができると言われました。『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである』(第一ヨハネ五・十四、十五)。
 主の求められたところがこのように真っ直ぐに答えられたばかりでなく、その祈りはご自身の上に即刻の結果を見ることもできました。主のバプテスマ、ご変貌、およびゲツセマネなどは主の御生涯中の大切な転機でありましたが、いずれも皆、特に祈りの間に起こった出来事として記されております。特別な祈りがありませんでしたならば、聖霊のバプテスマも、変貌山も、ゲツセマネの勝利もありませんでしたでしょう。ルカ三章二十一、二十二節『イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした』。もし私共がキリストの持たれましたように神との交わりを持ちますならば、私共にも同じ経験は与えられ、聖霊はその幸いな、いつまでも続く結果をもって降って下さるでしょう。罪人の救いのために、切に主にすがって祈る者の上には、聖霊が降って下さり、また神はそれを喜んでおられるとの証を与えて下さいます。
 ルカ九章二十八、二十九節『祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた』。これと同じことがモーセにも、彼が神との交わりの中にあった時に起こりました。神の栄光が主のみからだをさえも輝かしめられたのであります。しかも今でもそうであります。神に近づいていく者たちは、神の栄光のきらめきをその顔にまでも与えられます。そして彼らが神の栄光を見るごとにその心は変えられて同じかたちとなり、栄光より栄光へと進むのであります。
 ゲツセマネにおいてもそうでありました。『ひざまずいて、祈って言われた、‥‥‥ますます切に祈られた』(ルカ二十二・四十一、四十四)。戦いの始まる前に主が既に勝利を得られたのは、この所においてでありました。この所でこそ主はかの裁判にも、十字架にも、ないしは容赦なく襲いかかった人と悪魔との連合の攻撃にも、堂々勝利をもって貫き通されたあの能力を与えられたのであります。このように私共も神の聖前に出ますならば同じことでありましょう。そこにおいて私共は征服する力を得ることができます。そこにおいて私共は、悪しき日において立ち向かい、かつすべての事をなし遂げて立つことを得るために、力づけられることができます。



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