一  交 わ り



 まず主の絶えることのない父なる神との親しい結合と交際を深く考えたいと思います。それは特別な時においての祈りの力は、日々に献げる祈りの生活のいかんにかかわります。常に、神と偕に歩んでいる者こそ、祈りに跪いても、親しく神にお近づきすることができるでしょう。
〔一〕 キリストは、私共も同様でありましょうが、神が共にいて下さらなければ、全く手も足も出ないほどに無能であることを認識しておられました。ヨハネによる福音書五章に二度、このことを繰り返しておられます。十九節『子は‥‥‥自分からは何事もすることができない』。また三十節に『わたしは、自分からは何事もすることができない』。
 どうぞ私共も、事実サタンは常にこれと反対に働きつつありますが、この真理を私共自身の場合において悟りたいものです。神の臨在なくして、我らは何事もなし得ずと。
 しかしまた一方で、キリストは、その臨在を絶えず衷にもっておられました。ヨハネによる福音書にはキリストのクリスチャンとしての生活の経験が多く語られています。彼の、神との交わりに関して特に多く見ることができます。十九節に彼は『父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである』と言われ、また『父は‥‥‥みずからなさることは、すべて子にお示しになる』(二十節)と言っておられます。このようにキリストの生涯は神の
     絶えざるビジョンとそのいきうつし
とでありました。彼は目には見えない御方を絶えず見、またその御方に従うことによって、ちょうど神が地上におられるがごとくに生きることができました。同じように神を見て神に見倣うことが、また私共の生涯の力でなければなりません。
 私共も、キリストがお知りになったように、神を知ることができます(ヨハネ十・十五)。『イエスを仰ぎ見つつ』生きとうございます(ヘブル十二・二)。『み顔の光のなかを歩み』とうございます(詩八十九篇十五)。『王の顔を見』つつ(エステル一・十四)、そして彼が私共のためにお備え下さったことがらを絶えず行いつつありとうございます。
 このように私共の経験も、ヨハネ八章二十九節にあるキリストの経験と常に等しくあることができましょう。『わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる』。また十六章三十二節『父がわたしと一緒におられるのである』。ここに、キリストがわざにも言葉にも力のあった秘密がありました。
〔二〕 しかし、キリストの経験はそれよりも、なお深いものでありました。ただ交わりがあったばかりでなく、神との結合がありました。十章三十節では主は『わたしと父とは一つである』と言われ、これは第一コリント六章十七節『主につく者は、主と一つの霊になるのである』の意味の実例にほかなりません。キリストと父とは心も一つ、願望も一つ、意志も一つ、目的も一つ、霊も一つ、このようにしてキリストは彼の生涯を送られたのであります。
 キリストの生涯は、私共に、私共の意志も願望も神のご意志と願望の中に呑み尽くされてしまって、ただ神のご意志と願望のみがなされるべきことを示します。私共はただこのことのために祈るだけではなりません。信仰をもってあなた自身を彼に明け渡しなさい。これは、ついに事実として成し遂げられてゆきます。
〔三〕 しかし、なお、もっと充実した経験があります。私共は、これをもキリストにあって、わがものとすることができます。ヨハネ十四章十節に『わたしが父におり、父がわたしにおられること』と彼は言っておられます。これは、ただ一つに結合するばかりでなく、所有せられていることであります。しかも主はなおも進んで、その所有せられている様は、はなはだ現実実際的で、彼の語られる言葉、彼のなされるわざはイエスご自身の御心によって暗示され、あるいはイエスご自身の能力によって成されるのではなく、実に神ご自身の直接の御行動によって、あるいは示され、あるいは遂行されるのであると語っておられます。主はご自身の思いも能力も死の状に保たれて
     神のみ、彼の中に生きられた
という限度まで神に所有され、占領されておられたのでありました。
 このように神との絶えることのない交わりの中に生活された御方がここにありました。彼は天に生活していると証言することができました。
 彼は常に神との接触の中にありました。彼は常に神と偕なる臨在の歓喜と平安とを持ちました。彼は常に神の御旨を知り、それに従う力を持っておられました。罪は彼に対して少しも力なく、ただの一瞬も彼を汚すことをしませんでした。
 このようにこのことにおいて彼は私共の模範であります。しかし、それはただ眼前に掲げて歎美ばかりしているような、到達することのできない単なる理想というのではありません。彼は、私共もその御足の跡に従って同じように結合され得る、私共の模範としておられるのであります。キリストが私共の模範であられるのはその霊的生涯においてであって、いたずらに彼の外面の生涯を細かく真似るように求めてはおられません。却って彼は、如何に人がこの世において神との交わりの中に生きることが可能であるかの模範を私共に与え、そしてそのことにおいて私共が充分に彼に従うことを期待しておられるのであります。私共はキリストが歩まれたように歩むことができます(第一ヨハネ二・六)。私共はキリストのごとく神の愛の経験の中にとどまることができるのです(ヨハネ十五・十)。
     キリストの経験は我らの経験!
彼がこの罪と誘いの真っ只中でさえ聖潔の大路を歩まれたように、私共も歩み得るのです。
 これは私共のために幸いなる可能事であります。心中からの何物も、ないしは外部からの何物も私共をこのような生涯において妨げる必要がないのです。私共もまた同様に、常に意識的に父と共にあり、父と一つに結合し、父によって内住せられていることができるのです。ここに一つの条件があります。
   『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、
      あなたに言ったではないか』。(ヨハネ十一・四十)



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