金の燭臺 


 
 我に語(ものい)へる天の使また來りて我を呼醒せり。我は睡れる人の呼醒されしごとくなりき。彼我にむかひて汝何を見るやと言ければ我いえり 我觀るに惣金の燈臺一箇(ひとつ)ありてその頂に油を容る噐あり また燈臺の上に七箇(なゝつ)の燈盞(ともしびざら)あり その燈盞は燈臺の頂にありて之に各七本(なゝつ)づつの管あり。また燈臺の側に橄欖の樹二本(ふたもと)ありて一は油を容る噐の右にあり一はその左にあり。我答へて我と語ふ天の使に問言けるは我主よ是等は何ぞやと。我と語ふ天の使我に答へて汝是等の何なるを知ざるかと言しにより我主よ知ずとわれ言り。彼また答へて我に言けるはゼルバベルにヱホバの告たまふ言は是(かく)のごとし 萬軍のヱホバ宣ふ 是は權勢(いきおい)に由らず能力(ちから)に由らず我靈に由るなり。ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ 汝は平地(ひらち)とならん 彼は恩惠(めぐみ)あれ之に恩惠あれと呼はる聲をたてゝ頭石を曳いださん。ヱホバの言われに臨めり 云(いは)く ゼルバベルの手この室(いへ)の石礎(いしずゑ)を置(すゑ)たり 彼の手これを成終ん 汝しらん 萬軍のヱホバ我を汝等に遣したまひしと。誰か小き事の日を藐視(いやし)むる者ぞ 夫(か)の七の者は遍く全地に往來するヱホバの目なり 凖繩(さげふり)のゼルバベルの手にあるを見て喜ばん
 我また彼に問て燈臺の右左にある此二本の橄欖の樹は何なるやと言ひ 重ねてまた彼に問て此二本の金の管によりて金の油をその中より斟(そゝ)ぎ出す二枝の橄欖は何ぞやと言しに 彼われに答へて汝是等の何なるかを知ざるかと言ければ 我主よ知らずと言けるに 彼言らく 是等は油の二箇(ふたり)の子にして全地の主の前に立つ者なり ── ゼカリヤ書四章


 今晩は、聖霊に充たされたる者の生涯はいかなるものでありますか、またはいかにして続いて神の御恵みと神の御光を頂戴することができますかについて、お話し致したいと思います。
 『我に語へる天の使また來りて我を呼醒ませり。我は睡れる人の呼醒されしごとくなりき』(一節)。私共は眠れる者でありますならば神は今晩私共を呼び醒ましたもうことを願います。私共はただ眼に見ゆる表面のことのみに心を奪われまして、未だ真正の事実を見ることができませんならば、神は今晩私共を呼び醒ましたもうことを望みます。もしまた恰も夢を見ている者のごとく、その夢を事実と思っているようでありますならば、どうか神に呼び醒まされまして、真正の事実を見たいものです。現世とその栄華は皆早く過ぎ去るべきものであります。それに心を奪われて、眠れる者のごとくありますならば、ただいま神に呼び醒まされて真正の事実を見たいものであります。
 『彼我にむかひて汝何を見るやと言ければ我いへり。‥‥‥萬軍のヱホバ宣ふ 是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり』(二〜六節)。ゼカリヤは明らかにこのことを見ることができました。それを説明することができました。二節三節を見まするならば、彼は明らかにそれを見ました。けれどもその深い意味が解りませんから天の使いにそれを尋ねました。そして『我主よ知ず』と申しました。兄弟よ、私共はたびたび、神の真理を頭脳で暁りますならば、または口でそれを説明することができますならば、それによって満足をいたします。けれどもまだまだ深い意味を心の中に経験することができません。兄弟の教えを受けて聖書について明らかになります。けれども未だ真実に心の中に経験いたしません。潔き心について明らかなる教えがお解りになると思います。それについて聖書の引照ができましょう。けれども未だ心の中にそれを受け入れぬ兄弟はありませんか。誰でも皆、霊のことについて、霊のバプテスマについて、神の真理を知ることができると思います。けれどもそれを経験しました者は、どなたとどなたですか。今晩、謙遜をもって『我主よ知ず』と言うことができますか。私共は二節三節のごとくその絵画を見ることができます。他の兄弟にも言いあらわすことができます。けれども心の中に未だ真実に経験しませんと言うことができますか。たとい頭脳ではそれが分かり、聖書の引照もできましても、かくのごとき栄えある喜楽、思いに越えたる平安は、わが主よ、知らずと言うことができますか。今晩、謙遜をもって天の使の前にそれを言いあらわすことができますか。ゼカリヤは天の使の前にそれを言いあらわしました。そうですから天の使は明らかに霊によってそれを説明することができました。神の霊は私共にもこんなことを説明したもうことを信じます。神はゼルバベルにこの大いなる異象を与えたまいました。これは何故ですかならば、ゼルバベルを金の燭台とならしめたいからであります。燃やして光を与える者とならしめたいからであります。神はたびたびそのとおりになしたまいます。モーセをして燃えたる柴とならしめとうございますから、燃えたる柴を見せしめたまいました。そうですからモーセは霊によってそれを見まして、自分の心は燃えたる柴のごとくになりました。その時からモーセの心の中に絶えず火が燃えて消えません。たといどのようなことがありましても、いかなる時にも、その火はモーセの心の中に消えません。それはその火が活ける主であるからであります。ちょうどそのごとく、神はゼルバベルに霊の力、霊の光を与えたまいとうございますから、この大いなる異象を見せたまいました。ゼルバベルの眼の前に光れる灯を見せたまいました。神はたびたび私共にこういう絵画、こういう異象を示したまいます。それは私共をして同じ像とならしめたまいたいからであります。神は今晩もう一度、このところにおいて私共にこの大いなる異象を示したまいます。今晩私共を燃えて光れる灯とならしめたまいとうございます。
 第一に、二節を見ますならば惣金の燭台があります。私共はそのような性質を有っているべきはずであります。この燭台は聖い貴いものであります。私共は新生によって聖い貴い性質を受けました。天に属ける性質を神より頂戴いたしました。惣金は天に属けるものを指す言葉です。私共は黙示録の中に天国について読みまする時に、いつでも惣金のことを見ます。けれどもただ惣金の燭台のみにてはどんな光をも出すことはできません。私共新たに生まれた者はみな天に属ける者であります。けれども燃やされておりませんならば光を出すことはできません。
 兄弟よ、神は天に属ける者を取り上げたもうてそれに火をともしたまいます。ただ燭台ばかりでありまするならば闇を照らすことはできません。伝道者もただ天に属ける性質を得ましただけにて未だ霊の火が燃えませんならば、ペンテコステの火が点きませんならば、少しも周囲の闇を追い出すことはできません。たとい伝道の位置に留まりましても神の栄えではありません、全く無益です。私共は必ず自分の力で光を照らすことはできません。ただいま読みました六節のごとく、『是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり』。兄弟よ、あなたは権勢をもって、能力をもって、伝道を致そうと思いますならば、大いなる過失です。そういう伝道では罪人を救うことはできません。それは神の栄えを顕す伝道ではありません。ただあなたの名を顕す伝道であります。『是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり』。神は私共に絶えず霊を施したまいとうございます。私共は絶えず神より霊を頂戴することができます。たびたびこの教役者会に集まりまして私共は豊かに霊を頂戴いたしました。またそのために神に感謝いたしました。或いは各自窃かなるところにおいて霊のバプテスマを受けました。またそのために神に感謝いたしました。けれども神は啻にそういう機会ばかりではなく、絶えず私共に天の霊の膏を注ぎたまいとうございます。この燭台は絶えず金の油を受け入れました。『燈盞は燈臺の頂にありて之に各七本づつの管あり。また燈臺の側に橄欖の樹二本ありて‥‥‥』(二、三節)。また十二節をご覧なさい。『此二本の金の管によりて金の油をその中より斟ぎ出す‥‥‥』。そうですから、両側に橄欖の樹がありましたからその樹より油を注がれました。橄欖の樹より一番貴い油が造られます。油は橄欖の樹の一番善い元素です。そうですから絶えずこの燈火が養われます。生ける樹より油を注がれまして絶えず光を照らしております。兄弟よ、あなたがたの心の中に絶えず絶えず活ける霊を注ぎたもうことができます。あなたがたが主におる時にあなたがたの心の中に絶えず霊を注ぎたもうことができます。あなたがたは絶えず新しい恵みを受けまして光を照らすことができます。私共とともに在る主は私共の橄欖の樹です。私共は主より出ずる霊を絶えず頂戴することができます。油は橄欖の樹の元素であるごとく、霊は主の元素であります。そうですから主と共にある私共に霊が流れて入ります。私共はこの金の油を絶えず受けることができます。
 『なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそゝぎたまふ わが酒杯はあふるゝなり』(詩二十三・五)。神は私共に溢れるほどの恵みを与えたまいます。これは独り静かにおる時のみではありません。仇の前にも溢れるばかりに私共に恵みを与えたまいます。『河あり そのながれは神のみやこをよろこばしめ 至上者(いとたかきもの)のすみたまふ聖所をよろこばしむ』(詩四十六・四)。この河は霊の河であります。そうですから『たとひ地はかはり山はうみの中央(もなか)にうつるとも我儕(われら)はおそれじ よしその水はなりとゞろきてさわぐとも その溢れきたるによりて山はゆるぐとも何かあらん』(同二、三節)。すなわちどんなに擾乱がありましても、静かに神の河が流れておりますから絶えず心の中に神の恵みを頂戴することができます。『なんぢ地にのぞみて漑(みづそ)そぎおほいに之をゆたかにしたまへり 神のかはに水みちたり なんぢ如此(かく)そなへをなして穀物(たなつもの)をかれらにあたへたまえり』(詩六十五・九)。そうですからいつも溢れるほどの恵みを頂戴することができます。神の河に水満ちてあります。『うたふもの踊るもの皆いはん わがもろもろの泉はなんぢの中にありと』(詩八十七・七)。わが喜楽の泉は汝の中にあり、わが平安の泉は汝の中にあり、わが力の泉は神にあり、わが謙遜の泉は神にあり、わが諸々の泉は汝の中にあり、ハレルヤ、ハレルヤ。『我はあたらしき膏をそゝがれたり』(詩九十二・十)。感謝します。神の恵みを感謝します。詩篇を見まするならばどこにでも同じ恵みを見ることができます。神はご自分の聖徒に絶えず溢れるほどの恩恵を与えたもうように約束なしたまいます。絶えずご自分の燭台に新しき油を与えて、光れる燈火となしたもうことができます。私共は心の中に饑え渇きがあるならば、心の中に恵みが乏しくありまするならば、それは自分の過失です。心の中に喜びがなく、平安がなく、力がありませんならば、それは自分の過失です。おお神の河に水満ちたり。神は新しき膏を私共に注ぎたもうことを願いたまいます。いま譬話をもって同じことを見とうございます。レビ記二十四章一〜四節をご覧なさい。『絕ず燈火(ともしび)をともすべし』。これは誰人の責任かならば、アロンの責任でした。いま聖所の金の燭台を絶えずともすことは誰人の責任ですかならば、私共のアロンの責任です。私共の祭司の長なる主イエスであります。兄弟よ、あなたがたは神の殿の燭台であります。神の聖所に置かれたる主におる金の燭台であります。そうですから祭司の長なる主イエスは必ずその責任を怠りません。私共は絶えず新しき膏を頂戴することができます。
 けれどもこの二節を見まするならば、橄欖の樹より灯皿に至るまで七つの管があります。もしこの管が塞がりまするならば燈火は油を得ませんから必ず消えてしまいます。兄弟よ、主は忠実なる者であります。主は絶えず溢れるほどの恵みを与えたまいます。けれどもあなたと主との間の管がたびたび塞がっておりませんか。どうですか。私共と主との間に少しも隔てがありませんならば私共は豊かなる恵みを頂くことができます。けれども私共に罪がありまするならば、怠りがありまするならば、未だ赦されない罪がありまするならば、兄弟と兄弟との間に隔てがありまするならば、そのために神の恵みを受けることはできません。これらのことのために管が塞がっておりまするならば、神の新しい油は途中で止まっておりますから、新しい恵みを受けることはできません。絶えず光を照らすことはできません。兄弟よ、どうしてこの塞いでいる管を開くことができますか。またどうして絶えず開いていることができましょうか。
 一、聖別 マタイ伝三章十節をご覧なさい。『斧ははや樹の根に置かる。されば凡て善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げ入れらるべし』。イスラエル人は当時十分の一を神に献げませんから神の恵みが止まりました。けれどもそれを神に献げることによって神は溢れる恵みを与えることを約束したまいました。私共は今まで怠っておりました献納物を神に献げまするならば、神はその妨げを取り除きたもうて、もう一度溢れるほどの恵みを与えたもうことができます。あなたの魂は渇いておりますか。近頃少しも潤いがありませんか。どうぞその原因をお捜しなさい。あなたの主は誠に忠実なる御方であります。絶えず油を注ぎたまいつつあります。もしその油が途中で止まっておりまするならば、それは必ずあなたがたに罪があるからであります。或いはこのイスラエル人のごとく献納物を怠ったゆえですか。日々活ける供え物を神に献げぬゆえですか。どうか神の聖前に己を献げて全く聖別せられとうございます。
 二、信仰 ルカ伝十一章三十四節をご覧なさい。『汝の身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目正しき時は、全身明からん。されど惡しき時は、身もまた暗からん』。それを経験しましたか。明らかなることを経験しましたか。私共の目が暗くありますならば燈火は消えて全身暗くなります。けれども真心をもって身も魂も神に献げますならば全身明るくなります。燃えて光れる神の燈火となることができます。けれども罪がありまするならばその恵みの管が塞がります。私共は不信仰のために神の恵みを信じませんならば、神の愛を断りまするならば、神はご自分の言いたもうごとく恵みを与えたまいませんと信じまするならば、必ず神の恵みを塞ぎます。どうか信仰をもって心の目の明らかならんことを求めたいものです。
 三、祈禱 私共は祈禱を怠りまするならばそのために管が塞がります。絶えず管が開かれまして神の膏を始終受けとうございまするならば、祈禱を怠ってはなりません。絶えず神の聖前に祈らなければなりません。私共は祈禱を怠りまするならば、或いは祈禱が冷淡となりまするならば、或いは漠然たる想像のような祈禱に留まりまするならば、絶えず神の恵みを頂戴することができません。けれども真心をもって絶えず祈禱をいたしまするならば、必ず管が潔められまして、主とあなたの間に少しも隔てがありませんから絶えず新しき生ける膏を受けることができます。その燭台の真中にある灯皿はいつでも金の油に充たされてあります。
 またこの灯皿は私共の心を指します。私共はいま申したような状態におりまするならば、私共の心はいつでも充たされてあります。霊に充たされます。喜びに充たされます。神の恵みに充たされます。智慧と悟りに充たされます。絶えず新しき神の恵みを受けて私共の心は充たされます。けれども、この灯皿も潔められなければなりません。油を入れる器が汚れておりまするならば、必ず燈火を明らかにともすことはできません。この灯皿は絶えず潔められなければなりません。
 兄弟よ、どうぞあなたの心を守りなさい。悪魔があなたの心の中に悪しき考えを送りますならば必ずあなたの光は消えます。けれども管より絶えず油を注がれ、灯皿が潔くありまするならば、燈火は神のために絶えず光を放つことができます。機会がありましてもありませんでも、この暗黒の世の中に絶えず神の光を照らすことができます。黙示録四章五節をご覧なさい。『また御座(みくら)の前に燃えたる七つの燈火(ともしび)あり、これ神の七つの靈なり』。天国の光、天国の熱、天国の愛の源は何でありますかならば霊です。霊はまたこの暗い地の上にも宿ることを願いたまいます。霊は私共をしてこの地上の燈火とならしめたまいとうございます。あたかもご自分が天国の燈火であるごとく、私共をして地上の燈火とならしめたまいとうございます。
 兄弟よ、私共はこの貴き恵みを頂戴することができます。どうか霊を受けまして、この暗い地の上に絶えず天の光を照らしとうございます。イザヤ書六十一章一〜三節をご覧なさい。『主ヱホバの靈(みたま)われに臨めり‥‥‥その榮光をあらはす者ととなへられん』。私共は神の燈火をともすことができます。そんな働きができます。この世の中に喜楽、安慰、自由、救いを与える働きができます。兄弟よ、あなたは絶えず光を放つ神の金の燭台となることを願いませんか。
 けれども終わりに何人がこの燭台に火を点けたまいますかならば、祭司の長です。私共の祭司の長は、毎日毎日この金の燭台を顧みたもうて、すべて火を妨げるものを取り除き、新しき火を点けたまいます。兄弟よ、かのキリストの弟子等は金の燭台でありました。けれどもペンテコステの日まで少しも光を出すことができませなんだ。復活の主はその真中に立ちたもうて、『聖靈をうけよ』と命じたまいました。その時の燭台は油を受けることができました。けれども未だ何事もできません。未だ福音を宣べ伝えることはできません。未だ暗黒の中に光を照らすことはできません。金の燭台に油はもはや注がれました、けれども火はまだ点きません。ペンテコステの日に当たって初めて焔のごとき火が降りました。弟子等はみな焔の舌を受けまして神の燭台がともされました。兄弟よ、どうか今から絶えず絶えず、燃えて光れる燭台となりとうございます。私共はただ新たに生まれるのみではありません。霊の膏を受けるのみではありません。霊の火を受けなければなりません。いま祭司の長は金の燭台の真中に立ちたまいます。『また燈臺の間に人の子のごとき者ありて』(黙示録一・十三)。おお燭台の中に主は立ちたまいます。今晩私共の燈火を照らさんがために主はこの真中に立ちたまいます。民数記八章一〜三節をご覧なさい。『ヱホバまたモーセに告て言たまわく アロンに告て之に言へ 汝燈火(ともしび)を燃(とも)す時は七の燈盞をして均く燈臺の前を照らさしむべし アロンすなはち然なし燈火を燈臺の前の方にむけて燃せり ヱホバのモーセに命じたまへる如し』。今晩、祭司の長はもう一度金の燭台の真中に立ちたまいます。今晩、祭司の長は燈火をともしたまいとうございます。今晩私共にペンテコステの火を与え、焔の舌を与えたまいとうございます。今から闇を照らすために、福音を宣べ伝えるために、今から多くの人々に喜楽と慰安と救いを与えるために、あなたに火を点けたまいとうございます。私共は今晩聖霊の焔の舌を受けまするならば絶えず燃えていることができます。今晩から消えませずして絶えず光を照らすことができます。私共の祭司の長はいま私共の真中に立ちたまいます。どうかただいま火を受け入れなさい。ただいま信仰をもって身も魂も献げまして、火のバプテスマを受け入れなさい。
 


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