ペンテコステ前後の弟子 


 
 今日は自分の有様を知るために聖書を研究いたします。すなわちペンテコステ前後の弟子たちの状況を鏡としまして、これに照らして自分の現在の有様を知ろうと思うのであります。使徒等のペンテコステ以前の有様はいかがでありましたか。ヨハネ伝十五章三節、ルカ伝十章二十節によりますれば、弟子等は既に救われ、既にその名さえ天に録されてありました。ペテロのごときはルカ伝十八章二十八節に記してあるとおり、『わが物をすてて汝に從へり』と告白しました。しかるにその時、主はこの告白を偽りなりとは言いたまわずしてこれを承認したまいました。またヨハネ伝十三章三十七節、ルカ伝二十二章三十三節のごときはペテロの真面目の言葉と思われます。彼は既に身も魂も主に捧げ、死をさえ厭わぬ熱心と赤心がありました。けれどもこの熱心は、霊に属する熱心ではありません。ゆえにただちに躓きました。兄弟姉妹よ、この区別を知らねばなりません。ペテロは一切を捨てて主に従いました。けれども未だ聖霊を受けません。一切を捨てて主に従うことと、聖霊を受けることとは全く別問題であります。聖霊を受けし第一の徴候は何でありますか。焔の舌ですか。そうではありません。ペンテコステ以前にも既に預言する能力がありました。そうですからこれによりて定めることはできません。さらばいかなることでありますか。ほかではありません。自己に死することであります。聖霊を受けし第一の徴候は、すなわちこの「死ぬる」ということであります。
 ペンテコステ以前の弟子等は、赤心から真面目なる信仰であったにもかかわらず、いかにその「自己」が顕れていたかをご覧なさい。
 第一、排他の精神がありました。マタイ伝十五章二十三節を見ますと、弟子等は疲れましたから肉の安息を慕い、人を退けました。私共もかように、伝道上において自己に生きておりますゆえ疲れます。疲れるためにまた人を拒むようなことはありませんか。主イエスの御在世中は実に多忙なる御生涯でありましたけれども、疲労のために伝道を中止なさるなどのことは少しもありませなんだ。サマリヤの女に対する伝道のごときはその良き例であります。私共はいずれに属する者でありましょうか。
 第二、宗派心がありました。私共はマルコ伝九章三十八節にあるごとき精神を顕すことはありませんか。教派の異同を咎め、或いは伝道の異なるを蔑視するなどのことはありませんか。このような心は私共の受くべき恵みを妨げるものであります。ヨハネがこれを主に語りました時は、たぶんその熱誠、顔に溢れ、主のためには最も善き助言なりと考えたでありましょう。けれどもこれはやはりヨハネの「自己」を顕したところであります。私共はしばしばかかる過失に陥ることはないでしょうか。もしありますならば、この憎むべき「自己」を殺さねばなりません。
 第三、名誉心に充たされておりました。マタイ伝二十章二十一節をご覧なさい。この二人は名誉の奴隷でありました。彼らが主に参りましたのは、肉に属ける名誉を得んがためでありました。そしてほかの弟子等もこれを聞いて羨みました。確かにこの二人のみならず、一同の心にこの心があったと思います。私共もかかる心に誘われることはありますまいか。
 第四、野卑なる心がありました。マタイ伝二十六章八節にありますユダの心は、やはり私共の心として現れるものであります。かく罵りましたユダの眼中には理のみが充ちておりましたが、これと反対にマリアの心には、ただ主を愛するのほか何事をも考えませんでした。私共はユダのごとく主のために金を出すことを惜しむ心はありませんか。理論と実利をもって冷淡にことを考え過ごしは致しませんか。
 第五、復讐の心がありました。ルカ伝九章五十四節をご覧なさい。このヨハネの言葉は実に面白くあります。一方より見れば、篤き信仰をもって主の全能を信ずるようであります。主は天より火を呼び下すことができると思いました。けれどもこれはやはり敵に報いるという「自己」であります。この心は決して持つべきものではありません。しかるに私共も時として、嘲弄せられる時には、眼をもって眼を償うという風な言葉を吐くことはありませんでしょうか。主は辱めを受けたもうた時にも、黙して仇のために祈りたまいました。
 私共は常にこれらの罪に打ち勝たんとして悶え苦しみますが、以上の他を排する心、宗派心、名誉心、野卑なる心、復讐心などは、みな「自己」の本性でありまして、自分の力をもっては改めることのできないものであります。
 けれども弟子等はその後、全く大変化を受けました。全く変わりました。これは何によりてであるかと申しますと、ペンテコステの聖霊によりてであります。兄弟姉妹よ、私共は自分で打ち勝つことのできない罪も、聖霊によりて易々と勝つことができます。弟子等は聖霊を受けましたゆえにたやすくこの「自己」に死ぬることができました。
 ペンテコステ以後の彼らの有様はいかがでしたか。
 使徒行伝二章十四節以下の記事は、ほとんど二ヶ月以前においては或いは臆病、或いは名誉心に満たされておりましたペテロ、ヨハネの大胆なる証言であることは、実に驚くべきことではありませんか。彼らは聖霊を受けましたから、かくのごとき大変化を蒙りました。私共は何事よりも先に受けねばならぬものは聖霊であります。私共は常に外部の一致はありますが、真正の心の一致がありません。真正の一致和合は真に私共の願うところでありますが、これを得るには、まずその原因である一致の霊を求めることが肝要であります。一致の霊を求めずにただ一致を求めても、それはできません。ペンテコステ以前の弟子等はみな自分を高くせんとのみ心がけておりましたから、主はしばしば謙遜を教えたまいました。けれども霊を受けた後の言行は、使徒行伝二章四十二節より四十七節までのごとく、真正の愛の交わりの中にたやすく一致ができました。たとい傘に葡萄の房を結びつけましても、それで葡萄の樹とはなりません。私共が聖霊を受けずして一致その他の徳を求めるのは、実にこれと同じであります。そんな愚かなることを学ばずして、聖霊を受け、自ら葡萄の樹に連なりたるものとならねばなりません。
 次に、弟子等は聖霊を受けない間は主の言葉の真義を理解することができませんでした。ヨハネ伝四章三十二、三十三節のごとく、主は賤しきサマリアの女を救い、これによりて喜悦に満たされたまい、食物がなくとも食したかのごとく思っていたまいましたのに、弟子等は少しもこれに想い及びませんでした。彼らは肉により儀文にのみ拘泥しましたから、少しも主に同情を表することがありませんでした。主がラザロの死んだ時に言いたまいしヨハネ伝十一章十一節の言葉を悟ることができませんでした。主は実に弟子等にすら識られずに、ひとり孤独なる生涯を送らせたまいました。弟子等はかくのごとき有様でありましたから、マルコ伝八章十七節以下二十一節にあるごとくに主は彼らを戒めたまいました。今も私共に向かって『未だ悟らぬか』と言いたもうではありませんか。私共も当時の弟子等のようなことはありませんか。聖書を読むも、ほかの書物を読むがごとく軽々しく読みませんか。信者となりて久しくなっても聖書の深き意味を悟ることのできないのはこのゆえであります。或る人は、聖書の奥義を悟らんがために、聖霊に充たされたる記者の書物を求めます。これはもちろん信仰の助けとはなりますけれども、これによりて主の言葉を十分悟ることはできません。何よりもまず聖霊を受けることが必要であります。聖霊は年老いたる人にも、若い人にも、男にも、女にも、賢い人にも、愚かな人にも、誰の中にも来りて私共を宮殿として住みたもうて、明らかに聖書の奥義を悟らせたまいます。そのほかいかなる智慧能力があって世を動かし人を感動せしめましても、聖霊によれるものでなければ実に活力なきもので、ただ自ら力あると思うだけであります。ペンテコステの日に顕れたるこの霊の働きのいかに大いなりしかをご覧なさい。当時、パウロは旧約の深い意味を悟り、焔の舌をもって縦横無尽に、或いは詩篇を引き、或いは預言書に照らして、主のキリストなることとその復活を憚るところなく説明しました。彼は霊によりて霊の書を悟りました。子どもは力足らずして大人の剣を用いることができないように、霊なき私共は聖霊の利き剣を用いることができません。私共は時としてはこの聖霊の剣を引用しましても少しも力なきことがあります。聖霊の剣もこれを握るのみでは人を刺し殺すことはできません。聖霊はこの力を与えたまいます。
 また、聖霊を受ける前の弟子等は、主と共に苦しみに耐えることができませんでした。主はしばしばご自分の受けたもう苦しみを預言したまいましたが、ペテロのごときは『主よ、然あらざれ』などと申しました(マタイ十六・二十二)。英語にては Pity thyself すなわち主よ自らを憐れみたまえとあります。またルカ伝二十二章二十四節には、弟子等の中にて誰か大いならんと争いがありましたが、この時はしかも過越節の晩餐の席でありまして、主はパンを擘き、葡萄酒を酌み、『この酒杯は汝らの爲に流す我が血によりて立つる新しき契約なり』と仰せられた最も厳粛なる場合でありました。しかるに弟子等は少しも主の意を解せず、一片の同情もなく、この愚かなる肉の争いなどいたしておりました。私共にはこんな有様がありませんでしょうか。マタイ伝二十六章四十節においても同じく、霊なき彼らはかくのごとく弱くして、自分の醜態を顕しました。私共はまことにこの主を待ち望む力がありますか。主の昇天後、弟子等は主の約束を信じて十日間祈りました。私共は二、三時間の祈禱会にも疲労を感ずることはありませんか。主と偕に目を醒まして祈ることができますか。聖霊を受けなければ、私共にこの力はありません。またマタイ伝二十六章五十六節にあるごとく、私共もその時、弟子等と偕におりましたならば、必ず共に主を捨てて遁げたことと思います。かように臆病薄弱であった彼らも、ペンテコステの日に聖霊に充たされ、これによりて喜び勇んで主と共に困苦に耐える者となりました。しかして使徒行伝五章四十一節にありまするように、迫害を受けることを喜び、主と共に十字架を負うことを慕いました。コロサイ書一章二十四節の意味をもって歌った英語の讃美歌に、"It will make you love the Cross" という句がありますが、実にこの心を歌ったものであります。
 南アメリカに劣等なる土人がありまして、進化論者ダーウィンはこれを評して、人間なりやはた獣類なりや、その区別に苦しむと申されました。けれども神の恩寵に感じた熱心なる四人の兄弟は、この憫れなる人民のために身を犠牲に供しました。四人の中には、地位あり名望ある者もありましたが、みな喜んでこの蛮境に伝道いたしました。その結果、彼らの或る者は神を信ずるようになりました。それで不信者のダーウィンも驚きまして、この伝道のために金を寄附しました。ダーウィンの目には獣類とほとんど同じき人間も、霊に属ける兄弟の目からはやはり同じ兄弟であります。そのために死の蔭に住めるこの民等にも大いなる光を照らすことができました。しかし四人の兄弟は艱苦を嘗め尽くしまして、餓えと寒さのために死にました。彼らの殉教のために大いに励まされて、英国からはまたほかの兄弟らが出発しました。そしてさきの兄弟らの屍を探しましたが、医者であった一人の兄弟の日記を見出しました。寒さのために死のうとする間際に自分の心の経験を書いたものであります。その中に「肉体上の苦痛は非常であるけれど、私のこれまでの生涯の中に経験したことのない歓喜が心の中にある、いま明らかに天国と神とイエスを見て歓喜に堪えぬ、もうこのところより離れることを好まぬ、云々」とありました。霊を受けますならば患難にも歓喜があります。主のため、また霊魂を救うために、患難の中にも喜んで忍びます。兄弟よ、自分の肉に属ける勇気などをもって耐えることのできるものではありません。「自己」を頼めばペテロのごとく常に失敗であります。どうぞ霊を受けて大胆を与えられ、苦しき十字架をも喜びとうございます。私共はこの研究によりて自分の心を判断して、霊を受けたかどうかを知ることが大切であります。
 その次に大切なることは、弟子等は三年半も主に従っておりましたが主を識りませなんだことであります。主と生涯を全く共にしており、共に宿り、共に食し、迫害艱苦を共に受けました。或いは直接に話を聞き、或いは共に祈りましたけれども、未だ主を識りません(ヨハネ十四・九)。彼らはただ肉によりて主を識ったばかりでありました。けれども主は『我も之を愛し、之に己を顯すべし』(同二十一)と申され、そして二十三節において『我等その許に來りて住處を之とともに爲ん』と申されました。すなわちペンテコステの日のことを預言したまいました。霊を受けるならば、霊によりて心の中に主の栄光、主の能力、主の愛の深さ広さを悟ることができます。兄弟よ、私共も久しく主と共に在りましたが未だ主を識らぬではありませんか。私共はこれまで肉によりて主を識りました。これは幸福なることであります。これによりて救われました。けれどもそれよりなお一層深く、霊により熱心に主を識らねばなりません。そして、兄弟の中で聖書により、説教により、伝道によりて主を識ろうと致しますか。そのような心をもちましては、たとえ主ご自身が教師となりたもうとも、識ることができません。弟子等は私共のために良き鑑であります。三年半も直接に聞きましても悟られなかったのであります。私共は、いかにもしてペンテコステの聖霊を受け、主を各自の内に宿し奉らねばなりません。主を識らなかったその弟子等が、ペンテコステ以来には心の中に主を見、主の愛に励まされまして、人を恐れずエルサレムの群衆の中で説教しました。主が心の中に宿りたまいますれば恐れるところはありません。主は私共の中心となりたまいます。新郎となりたまいます。望みを一つにして、心を尽くしますれば、主は私共のすべてのすべてとなりたまいます。聖霊を受けなさい。兄弟よ、私共は肉の力をもってこの幸福を得んとするならば、ただ疲れるばかりであります。けれども霊によりてこれらを得るのはたやすいことであります。
 神は私共の思うところ、願うところよりも、いたく優れる恩恵を私共に与えたまいとうございます。けれどもこれを拒む時は受けることはできません。いま主は心の戸の外に在りて叩き、霊を受けよと叫びたまいます。心を静かにして大いなる恩恵を受け入れなさい。
 


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