金銭に関する神の聖旨 


 
 この問題は最も肝要なことでありますが、熱心な信者であっても充分に考えないでおる人があります。私は今、このことについて少しばかりお話しいたしとうございます。どうぞあなたがたが神の聖前によくお考えなさるように願います。
 一体、このことは私共が心霊的の幸福を得て神と偕に歩むことに最も深い関係がありまして、聖別会のような集会においても論ずべき問題であります。金銭をどういう風に使っているかということによって、その人の霊魂の状態がよく解ります。他の点より見ますといろいろ見誤ることもありますが、この点より人を見ますと、その人が真正に神を信じまた人を愛している人であるかどうかがよく解ります。
 金銭は、一方においては神の恩恵でありますが、一方においては堕落に誘うものであります。もしこれを神に献げますならば、その人はこれによりて世と肉欲に勝つことができますが、これをただ利己のために費やしますならば、肉欲を満たすためか、そうでなければそれによりて驕るようになるものであります。私共は肉を十字架に釘けた者でありますから、決して己の肉を喜ばすために用いてはなりません。また他人に愛と同情を表すために実際これは必要でありますから、それを考えて他人のために己を制しなければなりません。
 私共は金銭によりて他人に大いなる幸福を与えることができます。失われたる霊魂はこれによりて救われ、弱っている人はこれによりて健康を与えられ、世の波風に打たれて失望に沈んでいる者はこれによりて歓楽を得ます。金銭はちょうど活ける種子のようなもので、それをどういう風に播き付けるかによって、他人の幸福のために三十倍、或いは六十倍、或いは百倍の実を結ぶことができます。どうか私共は深くこのことを注意し、かように他人に幸福を与えるものを妄りに使わないように致しとうございます。
 私共は金銭の使用法についてどういう主義を執るべきかと申しますに、ウェスレーがその有名なる説教の中に次の三つのことを教えております。
  第一 できるだけ儲けよ
  第二 できるだけ貯蓄せよ
  第三 できるだけ他人に与えよ
 私は、この三つの原則を実行する人は真正に智慧のある人であると思います。今その終わりの二箇条について暫く申し上げましょう。
 この第二の、できるだけ貯蓄せよということは、熱心なる信者であったらたびたび軽んずることがありますが、しかし、各自の生涯の中に収入以上の金銭の必要な場合があることを考えますれば、このことは当然せねばならぬことであります。かの速やかに準備をしました不義なる支配人はほめられました(ルカ十六・八)。私共は将来の必要のために現在の収入の中より貯蓄せねばならぬことを、蟻によりて学ばねばなりません(箴言六・六〜八)。エジプトに飢饉が来らんとしました時に、神は、充分なる準備をなさしめんがために、豊年の時にヨセフを送りたもうたのであります。かように、必要な場合は何人にも必ず参ります。
 ある人はこう言うかも知れません。私共は神を信じておりますならば、必要の場合が生じた時に、神は必ず同時に供給の道をも開いて、必要なものを与えて下さるに相違ない。それゆえにそういう時にはむしろ神を信頼する方がよろしいのではないかと言う人もありましょう。なるほどその通り、神は特別なる場合には特別の憐憫をもって与えたまいましょう。しかし、各自自分の必要なる負担を負わねばならぬことは神の聖旨であることを忘れてはなりません。久しく不必要なもののために金銭を使って貯蓄が全くなかった人が、己を制して来るべき必要のために貯蓄することは、決して信仰の薄いことを示すものでなく、かえって克己の力の大いなることを示すものであります。
 自ら制することを努めない人は、自分の得た金銭をみな費やします。されども、主義を立てて生涯を送る人は、予め現在のため費やす額と未来のために貯えるべき額と定めて、厳しくその主義によりて己に克ち、現在の欲望を制します。もしそのことを決心しない時は、力弱くして誘惑に負け、ことごとくみな使ってしまうようになります。
 殊に両親妻子などの繋累のある人はわけてこの貯蓄心がなければなりません。たとえばあなたの家族の一人が久しく病気に罹っているとしてご覧なさい。平生貯金をしなかったためにその病人のために必要物を買うことができなかったならばいかがでしょう。また子どものある人は、早晩学校に出すかまた職業に就かしめなければなりません。こういうことを処置するのは一家の長たる者の責任であります(コリント後書十二・十四)。もしそういう未来の必要のために平生から貯金をなさない人は、神の聖前に罪を犯しているのであります。『人もし其の親族、殊に己が家族を顧みずば、信仰を棄てたる者にて不信者よりも更に惡しきなり』(テモテ前書五・八)。どうか私共は『凡ての人のまへに善からんことを圖り』とうございます(ロマ書十二・十七)。
 私は、皆様が幾分か財産を所有なさるようになるまでは、収入の十分の一ずつを貯蓄なさることを、熱心に勧めとうございます。これはまた克己でありまして、品性を養うことであります。また貯蓄することは神の聖前に当然なすべきことであると思います。そうですから毎月その額を定め、給料を得ましたらさっそく銀行に預けるようにした方がよいと思います。もし月末に残っただけを貯蓄しようと思いますと、ついに一厘をも貯えることができなくなりましょう。そうですから予め神の聖前にこれを定めて、神の力によって成就するように決心したいものであります。
 その次に、できるだけ与えよということについて申し上げましょう。私共は、かりそめにも神の性質を有っておりますれば、人に与えねばならぬはずであります。神は与えることを喜び、私共のためにその御独り子をさえ与えたまいました。
 私共は、与えることによって主イエス・キリストの恵みを人々の前に顕すことができますが、またそれによりて自らも恵みに満たされることであります。もとより、潔められた人の金銭はことごとく神のものではありますが、特別に神のために人に与えなければなりません。ちょうど、私共のすべての時間は神のものでありますが、一週間のうち一日を格別に献げて、神を礼拝するために費やすようなものであります。同じように、聖書に、与えることについて明らかに教えてあります(コリント前書十六・二)。
 神はイスラエル人に収入の十分の一を献げることを求めたまいました。されども彼らは年々にほとんど収入の三分の一に当たるほど多くの献げものと初穂を献げました。私は、何人でも他人のためにその収入の十分の一の定額を神に献げることは至当であると、信ずる者であります。これは義務的のものでなくして、愛の自由の精神よりしなければなりません。私共の心は自ら欺きやすいものでありますから、一定の主義を立てて進むのでなければ、神の聖前に盗みの罪に陥るようになります。伝道者は自分で収入の十分の一を献げていなければ、どうしてその牧する信者にそのことを勧めることができましょうか。或る伝道者は、自分では収入の四十分の一をも献げずして、それで熱心に教会の自給を唱えたことがありました。これは偽善でありまして、その勧めの無益であったことは怪しむに足りません。もし十人の信者があるところで各自が給料の十分の一を献げますならば、その教会のために一人の伝道者を養うことができます。これは、日本人より遙かに貧しい人民の中にも現に行われていることでありますから、どうか私共も熱心に献金を努めたいものでございます。
 どうか皆様はいま私が申し上げましたことをよくお考え下さるようにお願いいたします。神はこのことに関して皆様に霊の悟りを与えたまいます。もし今まで金銭の使用方が悪かったことを発見なされたならば、今は悔い改むべき時であります。神は過去を咎めたまわずして、将来神の聖旨を行うことのできるように恩恵を与えたまいます。
 


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