第五章 満ち足れる祝福


 
 罪に死ぬるということは、聖潔きよめの恵みのただ消極的方面だけであります。積極的方面は、聖霊を受けることであります。イスラエルの子らの話においては、その一つは紅海を渡ったことによって型の中に示してあります。そこでパロとその軍勢が滅ぼされたのです。もう一つはヨルダン川を渡ったことによって示してありまして、それによって彼らはカナンの地を占領し始めたのであります。
 霊的にはこの二つの事柄は一緒に起こるべきものであります。すなわち一度の聖霊のバプテスマによりて、罪に死に、また真正まことの聖潔を得られるのでありますが、事実においては多くの信者は、はじめに心を潔められ、次に能力ちからという風に、その間に時日を置いて二度経験いたします。とにかく私共は、神の聖言みことばによって自分の経験を吟味いたしとうございまする。もし父なる神の満ち足れる約束のものを受けたという証拠がないならば、それを受けている者のように決め込んでいてはなりません。
 イスラエル人民がエジプトの地、およびそのすべてのくびきから『導き出され』ましても、神の約束の全地に『導き入れられる』までは、満足がありませなんだ(申命記六・二十三、四・三十七、三十八)。この約束の地こそ、彼らの渇望のぞみを満たすところのものでありました。そしてこれは神が私共に約束したまえる満ち足れる恵みの型であります。この恵みはイスラエル人民にとってこのような恵みであったように、私共にとってもまたそうであります。すなわち
 (一)これは彷徨さまようことなく、かえって安息することです。『安息』という言葉は、特にカナンの地の恵みを言い表すために、申命記の中に繰り返し繰り返し用いてある言葉であります。またヘブル書三章および四章においても、私共に与えられる満ち足れる救いの恵みを、神の安息と言ってあります。神はご自身に従う者の心を、ご自分の休み所として、そこに休みたまいます(詩篇百三十二・十四)。そうですからその人は、神の安息を経験いたします。これはカナンの地がその型として表している恵みで、心のうちに真に深い安息を与えるものであります。聖霊を受けるということは、まず第一に、私共に与えられる安息を得ることであります。深い真の安息というものは、煩悶や心配、または心を乱すこと、その他何でも安息に矛盾するものに、反対のものであります。或る人は聖潔とは、骨の折れる生涯、すなわち難しい義務や、面白くもない奉仕をしなければならぬ生涯であると思っているようでありますが、聖潔とは実に、ちょうどその反対のものであります。これは安息で、また現実のことであります。私共は我らのヨシュアなる主が、私共を真の心の安息、すなわち日常の生活における実際的安息に導きたもうことを、世の人に示したいものであります。
 (二)これは彷徨うた後、家庭に帰ったようなものであります。肉にける信者の生涯は、彷徨いの生涯で、どこにも落ち着きません。その生涯に満足がありません。上がったり下がったり、いま進んでいるかと思えば、次に後戻りしているという有様です。けれども聖霊を受けた者は、その落ち着くべき家庭を見つけたようなものであります。その人は家庭生活の安息と自由とを得て喜びます。その人の霊的生涯は、けた恩恵めぐみを保つために骨を折って苦しむ生涯ではありません。神とともに住み、常に神のご臨在を慕い求めて生涯を暮らします。
 (三)これはその日暮らしの生涯を送った後、財産を得たようなものであります。イスラエル人は、曠野あれのにおいては土地をっておらず、また収獲を得ませなんだ。けれども今や各々その領地を得、カナンの地のふるき穀物を食します。肉に属ける信者は、決まった霊的所有を有ちませんが、霊的信者は、自分のくらより新しき物と古き物とを出します(マタイ十三・五十二)。その人は救いがあり、またきよきがあるところで『その産業を』ます(オバデヤ十七)。その人はただ将来、栄光のうちに自分の住まいがあるばかりでなく、いま至聖所いときよきところのうちに自分の住宅すまいがあることを知っております。また聖霊と、正義、喜び、および平和を有っていることをも知っています。また死に合わんとてバプテスマを受け、その旧き人はキリストと偕に十字架にけられていることを知っております。
 (四)これは貧しかった後、豊かな富を得たようなものであります。これは『乳と蜜の流れる』土地であります。曠野のように飢えるところではなくして(申命記八・三)、『小麦と大麦ある地、食物にくるところなき地』(同七〜九)、また所有もちもののみな殖え増す所であります(同十三)。これは主が与えたもうた聖霊の生涯の絵であります。これは詩篇二十三篇の生涯、また雅歌の生涯、或いはまたヨハネ伝十五章の生涯で、そこには常にたくさんの恵みがあり、また満足があります。これはまたその水湧き出でて永生かぎりなきいのちに至る泉の経験であります。また『万物はわが物なり』ということと、我は我らを愛する者により必ず勝利を得るということの確証であります。
 あなたはこれらのことをよく注意して考え、それを得るために祈りますか。曠野の生涯と、カナンの地の生涯との間には大いなる相違がありますから、誰でも神の聖言によりて自分を吟味して、曠野におるか、それともカナンにおるか、確かなことを知ることができます。あなたはどの生涯を暮らしていなさいますか、あなたは聖霊を受けなさいましたか。あなたは『主が我らに与えんと誓いたまいし地に至れり』(申命記二十六・三)ときょう申すことができますか。


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