第三章 平和と安全──小羊の血によれるあがな

出エジプト記十二章


 
 イスラエル人民はただにエジプトの力のもとに奴隷であったばかりでなく、彼らはまた神に向かって罪人つみびとであったのであります。エジプト人は神の聖前みまえに罪ある者でありましたから、その御怒おんいかりに触れるべき者でありましたが、イスラエル人民は神の光を受けていながら、それに逆らって罪を犯していましたから、更に罪深い者であったと思います。
 そうですから神の怒りがエジプト全地に臨み、そのいと大いなる審判さばきが近づいたときに、ただしく在したもうた神は、もし或るあがないがなかったならば、イスラエル人民の上にもエジプト人と同じ審判を下したまわねばなりません。けれども罪あるイスラエル人民のために調和やわらぎの道が開かれたことは、出エジプト記十二章に記してありますが、これは罪人が神と和らぎ得る道につき、神の聖言みことばの中に書いてある最も明瞭あきらかな絵の一つであります。
 罪人自らの故でなく、殺されたる小羊のゆえに、危険は除かれます。その小羊の死が初子ういごの殺される代わりを致したのであります。その小羊はきずのないもので、またそのことがあかしせられなければなりませんから、すべての人の眼の前に三日間『守り置かれ』ました。けれどもそれが罪人のために役に立つのは、完全であるからでもなく、また汚れがないからでもなく、その死であります。『霊魂たましいのために贖いをなすものは血』であります。すなわちその小羊が死なねばなりません。イスラエル人はその死を見て、自分の罪とその恐ろしい結果とを、深く感じたに相違ありません。すなわち自分の罪が如何に恐ろしいもので、その小羊の死のほかに何者も死の刑罰から自分を救い出すに足るものがないことを見たのであります。そのように罪人は十字架を見上げる時に、その罪の恐ろしいこと、並びにそれより救う驚くべき恵みを学びます。
 けれどもその小羊が死んでも、それだけではまだ充分でありません。イスラエル人が神の怒り、および今や至らんとしている恐ろしき打撃から逃れたいならば、なお必要なことがあります。すなわち各自その贖いを個人的に自分に当て嵌めねばなりません。その小羊の血がめいめいの門口にそそがれねばなりません。
 今日の罪人にとりても、キリストが死にたもうたということだけでは充分でありません。ただそれだけでは罪人は救われません。罪人は信仰によりてその救いを自分のために当て嵌めなければなりません。
 そのことを致しますれば、罪人は神と和らぎ、またそれを知ります。その人の救いは二つの変わること無きものの基礎の上に建っています。すなわちその救いは小羊の血の上に建っていますから、その人は安全であり、またその人は神の約束の上に建っていますから、自分は安全であることを知るのであります。
 既に安全でありますなれば、今度は二つの計るべからざる祝福が加えられます。第一は節筵いわいで、小羊を食することであります。それによりて能力ちからと満足と、また霊魂たましいの健康とを得ます。今や罪のエジプトを見棄てんとしており、また更にまされる国を熱心に求めていることを示すために、足には靴を穿き、手には杖を取りて、旅装束でそれを食します。第二には、自由に出られることを知ります。今まではその住んでいたエジプトと、またその奴隷たる身分より離れることができませなんだが、今やそれができるようになりました。そのためにみちは開かれています。ですから歌と讃美を唱いながら、『信仰によりてエジプトを離るる』ことを急ぐのであります。
 これが主イエスの貴き血によれる平和と安全の道であります。これがかの
  「ああ嬉しき日、嬉しき日
     わが罪咎つみとがを イエス君ぞ
       洗い去りたもう嬉しき日」
と歌にある、嬉しき日の筋書きであります。
 どうぞ私共は、ここに描いてあるすべてのことを実験により知るまでに、それを見たいものであります。殊に貴き血を私共各自めいめいに当て嵌め、また信仰によりて実際正直にエジプトを見棄てた者となりたいものであります。
 もしあなたが聖霊のバプテスマを求めておいでなさるのでありますれば、かように暗黒の国から救い出されて、新たに生まれたという明瞭あきらかな経験をつことが肝心であります。これは第一歩であります。もしまだそれがあなたにはっきりしていませんならば、あなたもまた小羊の血によりて永遠に安全であるということを知るまで、休んではなりません。


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