出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


メ ラ よ り エ リ ム へ

──出エジプト記第十五章──



 『彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。……主は彼(モーセ)に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった』(出エジプト記十五・二十三、二十五

 しゅはその弟子たちに『わたしに従ってきなさい』と言いたまいました(マルコ八・三十四など)。これは弟子たちに主ご自身を教えるためで、神様は私共に教えんとされることを事実経験にまで得させようとなさいます。しかし私共はこれを学ぶ心が鈍く、少し苦しいことに遭うとすぐ「なぜ?」と言ってつぶやきます。けれどもこの時こそ、神様が何事かを教えんとしたもうのだと悟り、全く服従することは、何よりもまさる幸福な道であります。

 『さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野あらのに入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった』(十五・二十二

 酷暑炎天の荒野のただ中でイスラエルの民は水を得られずに苦しみました。けれどもその次にそれよりさらに悪いことに出会ったのです。

 『彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった』(十五・二十三

 渇きの頂上にある彼らが、求め求めた水はついに得ましたが、その水は苦くて飲めませんでした。これは得ないよりもさらに悪いことです。私共は時々苦難の自分の境遇を顧みて、「これ以上の悪い時はおそらく今後もなかろう、今が一番悪い時だ」と思って自ら耐え忍ばんとします。しかし事実はいつも反対で、日を重ね年を追うに従ってより以上悪くなることがあります。

 ある説教者が言いました。ある時エレミヤは、今までの自分の経て来た経験は実につらいとこぼしました。ところが神様はエレミヤを慰めるどころか、かえって「エレミヤよ、決して気を落すな、もっと悪いところへ導いてやるから」と言われました。

 私共の信仰の生涯に「ああ苦しい、このようなことは二度となかろう」と思いますが、より以上悪いことがあとからあとから押し寄せて来ます。これはなぜですか。すなわち、それは神様があなたを真の子としてお取り扱いになるからで、あなたをキリストのごとく形づくるためです。神様がご自身の民であるイスラエルをエジプトから引き出された理由は、神の子の栄光と安息を与えるためでした。イスラエルの民を導きたもうた神は、今も同じ方法をもって私共を導いていたまいます。ダビデがもしあの苦痛の経験を通らなければ、深刻なあの詩篇はできなかったでしょう。私共は、この神の教育のプログラムを卒業した時、初めて人を祝福するに足る者とされます。疑いより信仰へ、恐れより大胆へ、不信より信仰へ引き入れるために、さまざまな苦痛と経験の学校へ入るより他に方法がありません。出エジプト記十九章を読めばよく分りますが、イスラエルの民らは自己の真相を知りません。十誡という重いくびきを神がかぶせられた理由は、民らが神に向かって「あなたの命令は何でも聞きます」と自己を誇り、己を信頼しました。ですから彼らの自己の真相を悟らせるために、愛などは薬にしたくても無い厳格な教師につかしめて教育を施されました。ですからパウロは『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである』(ガラテヤ三・二十四)と言いました。これは神の鞭として彼らに与えずにはおかれませんでした。

 『ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」』(出エジプト記十五・二十四

 主イエスはマタイ伝六章の説教の時に、

 『何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな』(マタイ六・二十五

と言われたのは、この出エジプト記十五十六章にある問題で、現代においても私共の一大問題であります。神は私共の毎日の生活を通して私共の信仰を導かれます。私共が毎日衣食住のことに思いわずらいながら高い聖潔の生活を保ち得るということはおかしいではありませんか。これらのことについて全く神を信任し得ずしてどうしますか。神は私共を導くために一階、二階、三階と順序を立てて導きたまいます。一階二階を飛び越してすぐさま三階に引き上げたまいません。すなわち、何を食い、何を飲み、何を着るかという小さい問題より始められます。

 民らはここでモーセに向って「こんなところへわれわれを連れて来てどうするつもりだ、このにがい水、くさい水が飲まれますか」と呟き始めました。モーセこそかわいそうです。伝道者はしばしばこういう犠牲をもたらされます。モーセはこの時どうしましたか。私共はよくこれを学ばねばなりません。

 『モーセは主に叫んだ』(出エジプト記十五・二十五

 彼はこの時、民らと議論をしません。口答えをしません。ただ神ご自身に訴えました。牧師、伝道者の立場はいつでもこれです。信者を非難するのではありません。議論し鞭打つのでもありません。そこで主に交わることです。モーセはこの時どうしてよいか分らないので「神よ、私はどうしましょうか」と神のプログラムを尋ねました。

 『主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった』(十五・二十五

 神はこの時モーセにかく示したまいました。一本の木、しかもこれは特別の木です。渇き、渇き切った民らにいま必要なものは、説明ではありません。説教でもありません。ただ神の能力の実際のあかしです。神が民らをここに導かれたのは、彼らに新しい黙示を与えるためでした。けれども愚かなる羊たちにはそれが分りません。神が示したもうた一本の木、これこそ驚くべき神の黙示です。くすしい証しです。神の側にはいつでもこの超自然の備えが豊かにされています。ですから、もしあなたが苦しい困難なところに陥った時はまず神に向って叫びなさい。そうしてそこで信仰の学課を学ばなければなりません。一本の木を取ってにがい水の中に投げ込む。これは信仰をもってすることです。この木こそは十字架、主イエス・キリストの十字架です。キリストの十字架こそにがきを甘きに変える秘訣です。苦しみを喜びに変えます。私共の生涯にキリストの十字架を投げ込めば悲しみは喜悦に、永遠の滅亡は永遠の生命に、恐れと疑いは希望と平安に、闇は光に変えられます。これこそ神の超自然のわざです。

 『主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった』(

 ハレルヤ。エデンの園で人類の幸福を奪ったのは木です。にがきを甘きに変えたのもまたこの木です。水は人の生命になくてはならぬものです。十字架なき水(生涯)はにがきに満たされています。どれほど地位名誉があり、この世の喜悦に満たされていても、十字架なきこの世にはにがきが満ちています。このにがきを甘きに変える方法はただキリストの十字架よりほかにありません。神はここでこの驚くべき黙示を民らに教えたまいました。もしあなたがにがい水のところへ行けば決して呟きなさいますな。まずハレルヤと叫びなさい。そこは必ずキリストの力、十字架の新しい黙示を見せていただくところですから。

 『こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した』(十五・二十七

 民らがメラを出発してエリムに行った日にまことの喜びと安息を得ました。三日間水なき荒野を通り、次ににがい水の所に行きました。けれどもその次には新しい大いなる喜びの経験にたどり着きました。ここには十二の井戸があり、七十本の棕櫚の木がありました。これはイスラエルの十二の族に一つずつの井戸が与えられ、しかも十二の族の中にいた七十人の長老に一本ずつの棕櫚の木が与えられたのです。苦しい苦しい荒野の旅を続けた民らはここで大いなる安息を味わい、その井戸より湧き出る生命の水を飲んだ時、おそらく永遠にここに住まわんことを願ったでしょう。

 兄弟たちよ、確かに記憶していただきたい。私達の生涯は決して初めから終わりまでメラの生涯ではありません。必ずエリムに到着する時があります。しかしメラはエリムにはるかにまさる所です。すなわちエリムは自然的なところで、ここには黙示がありません。神の超自然な聖業みわざが見られません。メラで苦しんだ者がこの新しい黙示を見ることができ、メラの苦しみを通り過ぎなければエリムにあるほんとうの安息を味わい得ません。

 『イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し』(十六・一

 このエリムは肉体的にはよいところでありますが、その一面、霊的にはよくありません。ですから長い間ここにとどまることを神は許したまいませんでした。私共も同様に今しばらくここにとどまりたいと願いましても、神は速やかにここを出発せよと命じたまいます。それはさらに新しい黙示と神の恵みを学ぶために。



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