聖 潔きよめ の 生 涯



 ヨハネ伝十四章から十六章までは、主イエスが弟子たちを去りたまいます時の告別わかれことばです。主はここで聖霊を得た者の生涯は如何なるものであるかを示したまいました。主はもはや私共にも祈りにこたえて聖霊を注ぎたまいましたから、今これらの聖言みことばによって、これからどんな生涯を暮らすべきかを学びとうあります。ここで主イエスは弟子たちに、乳と蜜との流れるカナンの地を見させたまいました。弟子たちは、まだこれに入ることはできませんでしたけれども、ちょうどモーセがピスガの山の頂から眺めましたように、遙かに望むことができましたと思います。私共も信仰をもってこれらの言葉を受け入れ、これからこんな生涯を暮らすよう、主を信ずる信仰を起しとうあります。
 十四章によりまして、父なる神の与えたもう恵み、すなわち慰める者なる聖霊の遣わされる約束を見ます。十五章によりまして、子なる神の与えたもう恵み、すなわち葡萄の樹なる主イエスに連なるうるわしい生涯を見ます。十六章によりまして、聖霊なる神の与えたもう恵み、すなわち聖霊の力によって働く結果を見ます。
 神は既にその時まで、聖子みこを与えたまいました。けれども今はじめて慰める者を与えたまいます。ガラテヤ書四章四節以下をご覧なさい。

 ときすでに至るに及びて神その子をつかはし給へり……これ律法おきてしたにある者をあがな我儕われらをして子たることを得しめんがためなり(四、五節)

 これは第一の賜物です。

 かつ……神その子のみたま爾曹なんぢらの心におくりアバ父とよばしむ(六節)

 これは第二の賜物です。
 私共の経験によりましても、悔い改めて救われました時、遣わされし神の子を救い主として受け入れることができました。けれどもそればかりでなく、信仰の手を伸ばしまして、六節のように子の霊を受けることができます。またそれによって格別に祈りの霊を頂戴することができます。
 ヨハネ伝十四章は、この第二の賜物なる聖霊の与えられることです。私共はこれまで、神の約束に教えられまして、火のバプテスマを待ち望みました。けれどもこれは一時的の恵みではありません。私共は一度そのバプテスマを受けましたならば、それから引き続きまして、永遠に聖霊は宿りたまいます。私共はもはや聖霊のバプテスマを受けましたから、そのために感謝しております。けれどもそれよりも感謝すべきことは、聖霊が続いて私共のうちに宿りたもうことです。これはなおなお幸いな恵みではありませんか。どうぞこれから、慰める者があなたとともに、またあなたの衷においでなさることを、絶えず信じて生涯をお暮らしなさい。この集会で神は溢れるほどの喜びを与えたまいました。またかおかおとを合わせるばかりに御自身に近からせたまいましたが、この山をくだりましても、続いてこういう幸いな経験を保つことができましょうか。不信仰はそのことを気遣わせます。けれども、聖霊御自身が永くあなたと偕においでなさることを信じてご安心なさい。

 かくて彼そのところの名をマッサと呼び又メリバとよべり。はイスラエルの子孫ひとびとの爭ひしにり、又そのヱホバはわれらのうちいますやいないひてヱホバを試みしによるなり(出エジプト記十七章七節)

 イスラエルびとがこんな不信仰に陥りました。そのために神は憂えたまいました。どうぞ皆さんがこんな不信仰に陥りなさらぬようお願いいたします。感情がありましても、ありませんでも、聖霊が心の中に宿りたもうことを信ぜよ。あなたは信仰によって聖霊を宿し奉ることができます。ですからサタンは必ずその信仰を奪いとうあります。どうぞ、約束を堅く握って、聖霊の内住を信じて、安んじとうあります。
 またこの十四章によりまして、如何にして聖霊を宿し奉ることができるか、その道を学びます。十四、十五、十六節をご覧なさい。この三節は互いに密接の関係にあると思います。すなわち十四節のように祈りをもって、父にこの賜物を願いますことが必要です。また十五節のように、神のいましめを守ることも必要です。聖霊を宿しとうありますならば、祈禱いのりと服従とがなければなりません。けれどもそんな心の状態がありましても、そればかりで神は聖霊をおくりたまいません。一番大切なことは、十六節にある聖子みこの祈りです。『われ父にもとめん』。神は私共の祈りや献身のためでなく、聖子の祈りを聞きたまいて聖霊をおくりたもうのであります。ですから、私共は自分の祈りや自分の献身を当てにしませず、天にる祭司長の祈りによって、必ず聖霊のおくられることを信じとうあります。

 されどイエスはかぎりなくたもつゆゑに、かはることなき祭司のつとめもてり。是故このゆえに彼は己によりて神にきたる者のため懇求とりなさんとてつねいくれば、彼等を全く救ひうるなり(ヘブル書七章二十四、、二十五節)

 天にそんなける祭司のおさいましたまいますから、あなたはそのために、その仲保のつとめのために、全き救いを経験することができます。絶えず昇天の主を仰いで生涯を暮らしますならば、聖霊はいつも心の中に宿りたまいます。

 われ父にもとめん。父かならず別になぐさむる者を爾曹なんぢらたまひて、かぎりなく爾曹とともをらしむべし(ヨハネ伝十四章十六節)

 『かぎりなく』いつまでも聖霊はあなたとともいましたまいますから、今この山をおくだりなさいましても、少しもおそれるに及びません。
 聖霊はいたずらに宿りたまいません。聖霊は私共のうちに宿りたまいますならば、その結果として、三位一体の神を知ることができます。すなわち十六節の慰むる者なる聖霊を得ますならば、二十一節の終わりにある大いなる約束が成就されまして、主イエス御自身を知ることができます。そればかりでなく、二十三節のように、父なる神をも共に知ることができます。ペンテコステの恵みを受けますならば、喜びを得、力を得、平安を得、また愛を得ます。けれども最も幸いなことは、三位一体の神を得ることです。おお、この貴き約束を信じて、神とともなる生涯を暮らせよ。
 また、もう一度注意して本文を読みますならば、如何にして三位一体の神を宿し奉るべきかをわかります。すなわち、十五節の愛と服従によって、十六節のとおり慰むる者を、迎え奉ることができます。また二十一節と二十三節を見ますならば、やはり同じ愛と服従によって、子なる神をも、父なる神をも、宿し奉ることができます。
 愛はどういう心ですかならば、全くそのお方を信じ、喜んでそのお方を迎える心です。
 服従はどういうことですかならば、全く自分の意思を捨ててただそのお方にのみ従うことです。
 あなたにこの愛と、服従とがありますならば、絶えず絶えずペンテコステの恵みを頂戴することができます。あなたは必ず毎日、時を費やして神と交わり、また謙遜なる心をもってことごとに、その聖旨みむねにお従いなさいましょう。
 愛の心がありますならば、必ず、愛する者と交わりとうあります。格別に、密室の祈りは神を愛する者の楽しき務めであると思います。またそればかりでなく、愛する者の心をさとりとうあります。そのために、祈りのうちに繰り返し繰り返し聖書を読みまして、いよいよ神の愛の深さを味わうはずであります。
 今まで学びました通り、十四章は心のうちの経験、すなわち心の中に三位一体の神を宿し奉る光栄ある経験ですが、十五章は家庭における生涯、十六章は世における生涯です。
 これから十五章に移りまして、聖霊を得ました者は家庭においてどういう生涯を暮らすべきかを、学びとうあります。
 神は何故なにゆえあなたをきよめ、聖霊を与えたまいましたか。神はまず、それによってあなたの家庭を潔めたまいとうあります。あなたを全き夫、全き妻、或いは全き父母ちちはは、全き子供、全き主人、全き僕婢しもべ、全き友人とならしめたまいまして、家庭のうちに聖霊の栄えある力をあらわしたまいとうあります。或いはそのためにはげしい戦いがあるかも知れません。けれどもこれは引き続いて絶えず天にける平安と喜楽よろこびの生涯を暮らす道であります。或いは難しい家庭に帰りますならば、今まで受けました恵みを失いませんでしょうか。主はここに答えたまいました。

 爾曹なんぢらわれにをれ、さらば我また爾曹にをらん(四節)

 ですから私共が主におりますならばいつまでも、この恵みを保つことができます。おお、これは実に幸いなる秘密であります。
 十五章は、十四章よりもなおなお深いと思います。私共はよく十五章の譬喩たとえをわかりますから、もはやその経験を得ましたと思うかも知れません。けれども、まだ十四章の経験がありませんならば、十五章の経験に進むことはできません。あなたと主イエスとの間に少しでも隔てがありますならば、うるわしき葡萄の樹のたとえもあなたにとって空しいことです。
 けれども、もはや十四章のように聖霊のバプテスマを受けまして、神があなたのうちに宿りたまいましたならば、進んで主に対し、葡萄の樹とその枝とのような密接な生命いのちの関係を保つことができます。その時から絶えず絶えず聖霊の液汁を受けまして、きよめの生涯を続けることができます。また人間の目の前にを結ぶことができます。
 神は人間の目の前に、また天使てんのつかいの目の前に、その子供らのを見させたまいとうございます。善き果を結ぶことは、善い幹のある証拠です。他の人々は直接に主イエスの栄えを見ることができません。けれども、信者が善き果を結びますならば、それによりて人間も、天使も、主イエスの栄えを見ることができます。おお、この事を覚えて、厳粛に生涯を暮らし、神の前に果を結べよ。

 爾曹なんぢらわれにをれ、さらば我また爾曹にをらん(四節)

 これが実を結ぶ秘訣であります。第一、全く自己おのれの意思を捨てて、ただ主のむねに従うことです。すなわち主イエスにおるとは、全き献身を指します。また主イエスを心に宿すことは、信仰の働きです。エペソ書三章十七節をご覧なさい。

 又キリストをして信仰により爾曹なんぢらの心にをらしめ

 私共は、献身と信仰とによって聖霊のバプテスマを受けましたが、聖霊の内住によってを結ぶ生涯を送るにも、やはり献身と信仰とが必要です。

 爾曹なんぢらすでに主キリストイエスをうけたれば彼にありあゆむべし(コロサイ二章六節)

 聖霊の結ぶがここに七つあります。
  一、祈りの力(ヨハネ十五章七節)
  二、神に栄えを帰すること(八節)
  三、主イエスの弟子となること(同)
 すべての信者が主の弟子ではありません。弟子は絶えず主から直接に教えを聞くことを得るものです。
  四、主イエスの愛を経験すること(九節)
  五、全き喜び(十一節)
  六、兄弟を愛すること(十二節)
  七、主イエスの友となること(十四節)
 私共はこういう七つのしげく結ぶことができます。隠れた所でもこの果を結びますならば、父なる神はそれによりて栄えを受けたまいます。そのために必ずリバイバルが起ります。
 次に十六章に移りまして、聖霊を得ました者はこの世の中でどういう生涯を送りますか、またこの世にどういう結果を及ぼしますか。そのことについて学びとうあります。
 第一、迫害が起ります(一、二節)。世にける者は聖霊の光を好みません。神の聖子みこがこの世にくだって人間の生涯を暮らしたまいました時、世に属ける者は主イエスを憎んで十字架にけました。今でも、この世の中に主イエスの光があらわれますならば必ず迫害が起ります。
 四福音書を読みますならば、弟子たちは主とともに栄えの位に座することを願いました。けれどもそのとき主はいつでも十字架を示したまいました。私共も聖霊を受けますならば、必ず心のうちには天国の喜びと平和がありますけれども、表面うわべからは迫害を受けます。ですから愛と柔和と謙遜とをもってこれに向えよ。
 第二、この世の人々に罪をさとらせることができます(八節)。『かれきたらんとき……』、聖霊があなたの心に来りたまいます時、罪につき、ただしきにつき、審判さばきにつき、世の人をして罪ありと曉らせることができます。神はあなたの言葉、あなたの行いによって、罪人つみびとの心を刺してその罪を示したまいます。
 神は罪人つみびとを救うためにまず罪をさとらせたまいとうありますから、そのために聖霊をあなたの心に注ぎたまいます。おお、聖霊の力をりて他の人々に罪を示せよ。
 第三、絶えず新しい真理まことをさとりまして伝道の力を得ます(十二、十三節)。
 私共は兄弟の証詞あかしや、兄弟の霊による教えによって恵みを受けることができます。けれどもそれよりもまさりたることは聖霊によって教えられることです。おおまことの教師なる聖霊をち望めよ。神は聖霊によりていよいよ深い真理まことさとらせたまいとうあります。
 『きたらんとする事』(十三節)、再臨のこと、審判さばきのこと、天国、地獄の有様などを明らかに知らしめたまいます。あなたは伝道しとうありますならば、来らんとすることを聖霊の光のうちに学ばねばなりません。格別に天国と地獄のことを知らねばなりません。それを知りますならば必ず罪人つみびとのために重荷を負うて福音を宣べ伝えることができます。『またしばらくして我を見るべし』(十六節)。聖霊はまた主イエスの栄えを示したまいます。また十七節のように主は父にきたまいましたから父なる神の栄えをも示したまいます。
 今まで学びましたことはカナンの地のうるわしき経験です。どうかいつまでも、こういう恵みの地にとどまりまして神の栄えをあらわす生涯を送りとうあります。



心靈的講演集 第壹輯 終

明治四十一年十月十一日印刷
明治四十一年十月十六日發行             定價金十五錢

編輯者   高 田 集 藏
 大阪市南區下寺町四丁目番外二八二四番邸
  關西心靈的修養會代表者
發行者   河 邊 貞 吉
 大阪市南區高津町九番丁二五三番屋敷
印刷者   田 中 辰 之 助
 仝  上  二五二番屋敷
印刷所   龍  文  舎

發行所  大阪市南區下寺町四丁目
     下寺町傳道館


| 目次 || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |