三、禱 告 の 祈 禱



 『9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった』(エゼキエル書三十七・九、十)

 リバイバルのために大切な第三のことは禱告の祈禱です。『人の子よ、息に預言せよ』、すなわち霊に祈れよ、『息に預言して言え……息よ、四方から吹いて来て……生かせ』。これは命令のような祈禱であります。来れ、生かせよ。ただ願いばかりでありません、命令です。信仰の祈禱はこんな祈禱です。この山に移れよとは、祈禱だけでなく命令であります。神は私共にこういう厳かな能力を与えたまいとうございます。私共は謹んで御霊にそのような祈禱を献げることができます。そうですから御霊なる神はその祈禱に答えて、降りたもうて御働きなさいます。『そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった』。この枯れた骨はさっそく軍人のような者となりました。その意味は、罪人が真正に更生すればさっそく強い信者となることです。その時から戦に出ることができ、また神の武具を着けることができる、兵卒らしい多くの群れとなりました。
 兄弟姉妹よ、私共の今までの祈禱はどうでしたか。熱心な祈禱でしたか。能力ある禱告の祈禱でありましたか。神の答えを受けることのできる祈禱でございましたか。或いは今までこんな働きを怠って冷淡でありましたから、亡び行く魂は新しい生命を得なかったのではありますまいか。エゼキエル書二十二章三十節をご覧なさい。これは記憶すべきところです。『わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ』(三十、三十一節)。神はその怒りを注ぎたまいたくございません。どうかしてその怒りを防ぎたまいとうございましたから、その国の中を探し、一人にても祈る者がありますならば、そのために怒りを止めたまいとうございましたが、そんな人が一人もありませなんだ。神はただいまもこういう祈る者を尋ねたまいます。神は罪人の中からは悔い改むべき失える羊を尋ねたまいます。また信者の中からは霊と真とをもってご自分を拝する者を尋ねたまいます。またここにありますように、神にこういう祈禱を捧げる者をもキリスト信者の中に尋ねたまいます。神は私共の中にこういう者を尋ねたまいます。ここにこういう人がおりますでしょうか。一人だけでもありますればそれによりて大勢の罪人を救いたまいます。兄弟姉妹よ、あなたがたもその一人とおなりなさい。
 『国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち』。主は義の石垣が崩れたと言いたまいました。そのためにだんだん大水のように審判が入って参ります。どうかしてその人々を悔い改めに導き、すなわち人間に対してその石垣を築き、また神に対しては破れ口に立って祈りますればそのために民は救われます。これは真正の祈禱であります。けれども神の怒りを防ぐために破れ口に立つ者は生命を賭けて働かねばなりません。ヨシュア記三章十四節を見ますれば、『祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが』、すなわち祭司たちは民に先立ちてヨルダン川に入りましたが、その時川の水が止まりました。この祭司たちは十七節にあるように民がことごとく渡り尽くすまで、そのヨルダンの底に立って水を防ぎました。『すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終わった』。そうですから生命を賭けてイスラエル人のために水を防ぎました。だんだんヨルダン川の上に水が増えましたが、この祭司たちは信仰をもって、死の地に立って水を防ぎ、民のために道を開きました。兄弟姉妹よ、これは真の祈禱者の有様であります。禱告の祈禱を献げる者は、死の地に留まって信仰をもって立ち、他の人のために途を開きます。そのような人が破れ口に立って神の怒りを防ぐことを得る人です。
 アブラハムの例をご覧なさい。創世記十八章十七節『時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」』。そのために神はアブラハムに来るべき滅亡を示したまいました。『主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」』(二十、二十一節)。ここでその秘密を語りたまいましたから、二十二節においてアブラハムは破れ口に立って神に祈ることを得ました。『アブラハムはなお、主の前に立っていた』。主が進みたもうのを防ぎ、ソドム、ゴモラが滅ぼされんとするのを防ぎとうございました。破れ口に立ち、神の聖前に立って神に禱告の祈禱を献げました。初めにソドムのために祈りましたが、そのためにソドムが救われませんから、また一度また一度、ついに六度神の聖前に祈りました。アブラハムはそのように神の聖前にありて破れ口に立つことを得ました。アブラハムがその時もしソドムが救われるという確かな答えを受けるまで、そこに立って祈りましたならば、或いはそのためにその汚れた町が救われたかも知れません。しかしアブラハムがそのように禱告の祈禱を献げましたことは決して無益のことではありませんでした。十九章二十九節をご覧なさい。『こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された』。すなわちアブラハムの祈禱のためにその愛する親類の家族が救われました。私共はたびたび愛する一人の人のために祈ります。それは善いことであります。けれどもアブラハムはなおなお広い心をもってその町とそこの民全体のために祈りました。その祈禱は答えられませなんだが、その祈禱のために神はアブラハムの親類を救出したまいました。私共もかように破れ口に立って禱告の祈禱を献げますれば神は必ずその祈禱に答えたまいます。
 モーセの例をご覧なさい。出エジプト記三十二章九節を見ますれば、イスラエル人が罪を犯しましたから、主はそれをモーセに示し、また来るべき滅亡をも示したまいました。『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう」』(九、十節)。モーセはこの恐ろしい言葉を聞きましてできるだけ石垣を築きました。またその後、神の聖前にあたりて破れ口に立ちました。『モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば──。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」』(三十一、三十二節)。砕けたる心をもってその民のために、自分の肩に重荷を負うて祈りました。『わたしの名を消し去ってください』。これは真正に破れ口に立つ祈禱でありました。これは真正の禱告の精神であります。モーセは来るべき贖いについて幾分か分かっておったでありましょう。すなわち十字架のことが幾分か分かりました。そうですからそのような犠牲の心をもって、人民が赦されるならば死んでもかまわないという心をもって祈りました。これは真の祈禱です。
 エステルのことを見ますれば、それによりても破れ口に立つことの例を見ます。これは祈禱ではありませんが祈禱の雛型であります。エステル書三章十三節にユダヤ人の滅亡の布告が発せられました。エステルはこの時どういたしましたか。四章十一節を見ますと、王に上奏いたしますればそのために或いは殺されねばならぬかも知れません。『王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています』。そうですから王の前に出るには生命を賭けねばなりません。けれどもその愛する親類とその愛する民がみな滅亡の布告を得ましたから、それを救うためにどうすればよいかと申しますれば、生命を賭けてでもぜひ王の前に出て願わなければなりません。或いはそのために殺されるかも知れませんが、これが唯一の途であります。イスラエル人はことごとく滅ぼされると決まりましたが、ただこの一人の十八、九の若い婦人ばかりが生命を賭けてそれを救うことができます。そうですからエステルは大決心をもって生命を賭けて王の前に出ましたが、王は金の笏を伸ばして恩恵を与え、祈禱の答えを与えたまいました。あなたも罪人がだんだん滅びつつあることをご覧なさいますれば、どうしてそれを防ぐことができるかと考えなさるはずです。或いは賤しい男でも、賤しい女でも、若い者でも、誰でも破れ口に立って生命を賭けて祈りますれば、そのために大勢が救われます。エステルはもし自分が女王であることを考えまして、自分は必ず助かると思ってそれをかまわずに何も致しませんでも、自分だけは安全で女王の位にいることができたに相違ありません。けれどもエステルはそれができません。自分が救われて民が滅ぼされるのを見るに忍びませんでした。
 百五十年前、名高いフレッチャーがこう申しました。安らかにキリスト信者の普通の生涯を暮らすよりも、わたしは喜んで生命を賭けて金の笏に触ることを願う、そのために滅びてもよいと申しました。そのために滅亡に行ってもかえってそれは幸いであるという、そんな禱告の祈禱を私共も献げるはずです。また神はそのような祈禱に必ず答えたまいます。神はそんな祈禱者が何処にあるかと尋ねたまいます。
 四百年前、スコットランドの国にメリーという女王がありました。この女王はカトリック教の信者でありましたから、大いなる迫害を起して新教の信者を苦しめました。そのために多くの聖徒は殺されました。そのために他の国からその国を攻めてきて滅ぼすかも知れぬという恐れがありました。その時、その国にジョン・ノックスという人がありまして、この人はたいへん能力ある説教者で、また力ある祈禱者でありました。女王が或る時、私はヨーロッパの国々の軍勢よりもジョン・ノックスの祈禱を恐れると申されましたが、それは当然のことです。ノックスはたびたびその国のために熱心に祈りましたが、或る時のこと、二、三人と一緒に小さい小屋の中で終夜祈りました。その時、彼はその真中に立って、「救いが来た」と申しました。そのわけは解りませなんだが、ただ神の光によって祈禱の答えが与えられるとわかりましたからそう言ったのであります。そして祈禱をやめましたが、その翌日、女王が俄に崩れられたということを聞きました。神はそのような禱告の祈禱を喜んで聞きたまいます。
 私共が罪人の罪を感じて重荷を負い、破れ口に立って熱心に祈りまして、どうかして罪人を神の怒りより守りとうございますならば、神はただご自分の怒りをとどめたもうばかりでなく、その罪人の上に大いなる恩恵を注いでリバイバルを与えたまいます。ただ罪を赦すのみならず大いなる恵みを下したまいます。イスラエル人の歴史を見ますれば、いつでもそうでありました。出エジプト記二章二十三節より二十五節をご覧なさい。
 『イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた』。
 そうですから神は祈禱に答えてイスラエル人をエジプトの国から救い出したまいました。またその後、バビロンに捕囚として行きました時にも、何のためにそれから救い出したまいましたかならばやはり祈禱のためでした。ダニエル書九章二、三節、またエレミヤ記二十九章十節より十四節までを見ますれば、神は祈禱に答えてイスラエル人をバビロンより救い出したまいましたことがわかります。その時より今に至るまで、リバイバルの起こりましたのはいつでも祈禱の答えでありました。ペンテコステも祈禱の答えでありました。ペンテコステの日に神が弟子等に聖霊を注ぎたまいましたのも、またその日に汚れたるエルサレムの町に大いなる恩恵を下したまいましたのも、みな祈禱の答えでありました。今に至るまで、神はいつでも禱告の祈禱のために聖霊を注いでリバイバルを与えたまいました。
 デビッド・ブレナードは長い間アフリカの土人のために働いた人です。その土人の間には迷信もあり、言うことのできない汚れた罪もありまして、初めは少しもブレナードの説教に耳を傾けませんでしたが、彼は熱心に祈りました。神が働きたまいませんならば、神が霊を注ぎたまいませんならばこの大勢の罪人はみな滅ぼされることを感じて、熱心に禱告の祈禱を献げました。自分は肺病になりましたがなおたびたび山に行って、雪の中に俯伏して熱心に祈りました。また家にいてもたびたび熱心に祈り、そのために汗で衣服を湿したこともたびたびありました。この人はいつも通弁で話しましたが、十二年の後、大リバイバルが起こりました。神は彼の祈禱に答えてリバイバルを起したもうたのであります。
 同志社において明治十七年にリバイバルの起こったことをデービス博士からたびたび聞きましたが、そのころは生徒が冷淡で仕方がなく、デービス博士ともう一人の人は熱心に祈られたそうであります。またアメリカの四十三箇所にも祈禱を頼んでおきました。三月十五日はアメリカで学校のために祈禱を献げる特別の日でありますから、そのとき格別に祈禱を願いました。その日までは何のこともありませなんだが、その十五日の晩、生徒が寄宿舎で眠っている時、何か意外の感化が降り、今まで祈ったことのない生徒がだんだん起きて祈り出し、だんだん祈りの声が起こりました。涙を流して祈る者も多くあり、その寄宿舎に大騒ぎが起こりまして、キリスト信者はもちろん、宣教師も砕けた者を助けに参りました。その夜、誰も眠った者はなかったそうであります。そして夜明けに至るまでに生徒はたいがい悔い改めましたそうです。またそれは真正に聖霊の働きでありました。その後、生徒らはその附近に出掛けて伝道いたしましたが、その結果は今も残っているということであります。神は祈禱に答えたもうたのです。格別にアメリカにおいて献げた祈禱に日本で答えたまいました。
 私共はそのように破れ口に立って祈りますれば必ずその答えを得てリバイバルが起こります。けれどもそのように格別の時ばかりでなく、毎日毎日務めて禱告の祈禱を献げねばなりません。エペソ書一章十六節『わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している』。パウロは絶えず祈りました。ただエペソ人のためばかりでなく、ピリピにある人々のためにも絶えず禱告の祈禱を献げました。ピリピ書一章三節四節『わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り』。またコロサイ書一章九節をご覧なさい。『そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めている』。パウロは未だコロサイ人の顔を見ません(二章一節を見ればそれがわかります)。そうですからただ愛する友のためばかりでなく未だ見ない人々のためにも祈りました。しかもその祈禱は普通の祈禱ではなく、心を労して祈ったのであります。テサロニケ前書一章二節を見ますれば『わたしたちは祈の時にあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝し』。そのようにパウロはいつもいつもその時のキリスト信者のために禱告の祈禱を献げました。
 どうぞ皆様もそのように禱告の祈禱をお務めなさい。毎日できるだけ定まったときに、禱告の祈禱を献げるようにした方がようございます。どうぞ手帳に祈るべき人々の名と所を書いてお祈りなさい。私共は人間ですから忘れ易うございますから、ぜひ人々のために祈りとうございますならばその名前を書いておくことは大切であります。そう致しますれば忘れずに祈禱を務めることができます。僕が主人から大切な用事を命ぜられますれば、それを忘れぬようにしなければなりません。そのために或いは手帳にそれを書き留めておきます。私共もこの大切な祈禱を命ぜられましたからそのように名前を書き留めておいて祈る方がよろしゅうございます。
 またただ定まった時ばかりでなく、たびたび格別の用事のない暇のできた時に禱告の祈禱を献げなさい。或いは運動の時、或いは散歩の時、また道を歩く時、これは良い祈りの折であります。或いはまた汽車の中で、これもよい祈りの時であります。或いはまた何かを待たねばならぬような時ができましたら、その暇を利用してどうぞお祈りなさい。ペテロは食事を待たなければならなかった時に祈りましたら、天が開けて幻を見ました(使徒行伝十章十節)。私共は食事を待つ時にたびたび時間を無駄に過ごします。どうぞ私共もそのように時間を利用して祈りとうございます。
 クリスマス・エバンズという人は百年前、ウェールズに成功ある伝道をした人でありました。或る時、山道を歩いているときに心の中に深く罪人の有様を感じ、また教会の有様を重荷として感じました。そうですからすぐさま山の中に入り、静かなところに跪いて禱告の祈禱を献げました。神はそのとき彼に近づいて、彼にその御栄光を見せたまいました。エバンズはそれより立ち上がって町に行きましたが、その伝道において大いに聖栄が表れ、またその時からウェールズにリバイバルが起こりました。(これは前のリバイバルであります。)そのように私共も旅する時にも祈りとうございます。
 格別神より罪人三、四人の名を受けてその人々のために格別に禱告の祈禱を献げなさい。あまり多くの名を持ち出して祈りますればそのために真正に力を尽くして祈ることができないかも知れません。けれども三、四人でもそのために熱心に力を尽くして祈りますれば、神は必ずその魂を与えたまいます。そうですからどうぞ祈るべき人の名前を神よりお受けなさい。ただ自分の心に浮かび出ずる人でなくして神より厳かにその名を受けることが肝心であります。そして力を尽くして確実に祈りますれば神は確実にその祈禱に答えたまいます。
 支那にシーという人がありまして、神はその人を大いに用いたまいましたが、その人はデビッド・ヒルという宣教師から導かれたのであります。このヒルのためには英国のある婦人が熱心に祈っておりまして、神がヒルを通して著しく働きたまわんことをいつでも祈っておりました。その婦人が死にましてからその日記を調べてみましたら、或る日格別に信仰の祈禱を献げることができたと書いてありました。それは十年前のことでありましたが、さらに調べてみますと、ちょうどその日はヒルがシーを導いた日でありました。そうですからシーが導かれましたのはその英国の婦人の祈禱の格別の答えでありました。私共もこのように熱心に祈りますれば必ずその答えを得ます。
 ヤコブ書にこの祈禱を見ます。第一は疑う人の祈禱です(一章六、七節)。あなたもそのためにたびたび祈っても何の益も得ないことがありませんでしたか。第二は四章三節、これは自分のことを考えておる者の祈禱です。『求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ』。そのためにいくら求めても得ません。第三は五章十六節に義しき人の熱心な祈禱が見えます。『義人の祈は、大いに力があり』。そのような祈禱を献げますれば必ず答えを頂戴します。その人はどんな人でありますかならば、義しい人、すなわち神の聖前に潔められた人であります。その祈禱はどういう祈禱でありますかならば、篤き祈禱であります。或いは義しい人でも時には冷淡な祈りを献げるかも知れません。けれどもその人の性質は義しく、その祈禱は篤き祈禱でありますれば、必ずその祈禱は能力があります。どうぞ祈る道をお悟りなさい。神はそんな祈禱者を求めたまいます。私共はそれによりて励まされて祈るはずです。
 また主イエス・キリストの手本を見てお祈りなさい。主イエス・キリストは祈りたまいました。すべての力をもっていたもう神の御子も、この貴い職務を務めたまいました。主イエスは祈りの力を知っていたまいました。主は罪人の滅亡のどんな恐ろしいものであるかを知っていたまいました。また主は父なる神の御心を悟り、また神は喜んで怒りを防ぎ、喜んで祈禱に答えたまいましたから、忙しい時も忙しければ忙しいほど、時を費やして祈りたまいました。この主は今でも私共の祭司の長として絶えず祈っていたまいます。出エジプト記二十八章に祭司の長のことを見ますが、主イエスはそのように私共のために祭司の長の職務を務めたまいます。この祭司の長は三箇所にイスラエル人の名前を記しました。第一は十二節『この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない』。すなわちアロンはその両の肩に二つの大いなる玉があり、その玉の上にイスラエルの聖徒の名前が書いてありまして、神の聖前に出ました時はその名前を神に見せました。第二は二十九節『アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当にあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前に常に覚えとしなければならない』。すなわち胸当の上にもイスラエルの聖徒の名を帯びました。その次に三十八節『これはアロンの額にあり、……これは主の前にそれらの受け入れられるため、常にアロンの額になければならない』。ここには名は書いてはありませんけれども、その額においても主の前にイスラエル人のことを表しました。肩に、胸に、額に、この三つ所にイスラエルを覚えます。肩は力のあるところで、すなわち力を尽くしてイスラエル人のために働くことです。胸は愛のあるところで、愛を尽くして働くことです。額は思いと考えのあるところで、すなわち思いを尽くして罪人のために働くことであります。力を尽くして愛を尽くして考えを尽くしてその人々のために思い煩います。祭司の長なるわれらの主はそのように私共のために神の聖前に出て祈禱を献げたまいます。主の御栄光をご覧なさい。またそれを見てその形になることをお受け入れなさい。聖霊の傾注によりてあなたも祭司となるはずです。あなたも、肩にも、心にも、額にも罪人のことを絶えず負うて、絶えず重荷として神の聖前に出るはずです。主イエスの心を心としてお祈りなさい。
 兄弟姉妹よ、神は怪しみたまいます。イザヤ書五十九章十六節をご覧なさい。『主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、……』。これは神の怪しみたもう所です。神は私共に大いなる能力を委ね、また私共に生命の道を開きたまいました。私共が手を下せば、かように大いなる恵みを下すことを得るのに、私共は祈禱を怠りました。これは怪しむべきこと、実に怪しむべきことであります。神は私共の性質を知りたまいます。私共の臆病を知りたまいます。けれどもこれは怪しむべきことであります。兄弟姉妹よ、神は今、己を励まして神の御力を握る者を求めたまいます。イザヤ書六十四章七節『あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない』。どうぞあなたは神を摑える者とおなりなさい。神はそのような人を求めたまいます。神はそのような人に格別に力と光を与えたまいます。神を摑えよ。そのような人は罪人の救いのために仲保となります。そのような人によって大勢の人々は恩恵を得ます。
 私はこのたび英国から参ります時に、船の中に無線電信がありましたから、一度その無線電信の小さい部屋に入りまして技師の話を聞き、またそれを見まして実に驚きました。その人は目に見えぬ者と相語ることを得ます。ボンベイで一千哩ほど離れたところから話を聞き、また先方へも話を致しました。船の客が電報を送りとうございましたから、まずそこの機械と自分の機械とを合わせなければなりませんでした。機械を合わせてからその電報を一語一語大切にして送りました。また或る人のためには電報を受けましたが、やはり大切に大切にそれを受けました。そのためには他のことから離れて、他の音を耳に入れず、大切にはるか遠方から来る音信を受けました。或る時にはその無線電信の技師は船の中で一番大切な者です。たびたびその技師は他の人々を救うことを得ます。一昨年、タイタニック号が沈没しました時、無線電信の技師はその部屋に戻ってC・Q・D(Come Quick Danger──早く来たれ危険なり)という信号をその周囲にある空気に打ちました。周囲の八十哩ほどあるところの船がみなそれを受けましたから、さっそく救助に参りました。船の中の小さい部屋におって、船の中の人の言を聞き、また遙か向こうにいる人に話をすることのできる人は、たびたび船長より大切であります。神は無線電信技師を求めたまいます。すなわち祈ることのできる人を求めたまいます。そのような人は大勢の人々を救うことができます。あなたは神の無線電信技師となりませんか。神の聖前に、他の人のために禱告の祈禱を献げる者は、神の無線電信技師であります。その人は神の聖声を聞き、神にその人々のために祈ることができます。兄弟姉妹よ、どうぞそんな神の無線電信技師とおなりなさい。



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