二、聖 言 の 宣 伝



 枯れたる骨に生命を与えるために三つのことが必要です。或いはリバイバルのため、或いは一人の魂を導くためにこの三つのことがなければなりません。昨日その第一について研究しました。今朝は第二のことについて研究いたしとうございます。

 『3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨とが相つらなった。8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった』(エゼキエル書三十七・三〜八)。

 そうですから神の言を宣べ伝えることによって大いなる変化が起こりました。その時に大いなる働きがありました。この七節に『わたしが預言した時、声があった』とあります。私共が神の聖言を宣べ伝えます時に神はその聖声を加えたまいます。あなたが説教なさいます時に、そのことを信じ、それを求めてお祈りなさい。
 枯れたる骨に神はどういう恩恵を与えたまいますかならば、五節六節『わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。……あなたがたのうちに息を与えて生かす』、すなわち神の救いによって生命を与えられることを宣べ伝えました。能力と恩恵を宣べ伝えました。格別にこの枯れたる骨に、その汚い有様、臭いことなどを宣べ伝えません。けれども神の恵み、すなわち神が何をなしたもうかを伝えました。枯れたる骨に神の言を宣べ伝えるのは、人間の眼から見ますれば馬鹿らしいことです。けれども信仰によって宣べ伝えますれば必ず大いなる結果が起こります。
 使徒行伝五章十九、二十節『ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」』。この命を与える言葉、死にし者を甦らす力ある言葉をことごとく民に語れ。この時に人間はこの説教者を止めとうございましたから、迫害を起してその人々を牢屋に入れました。どうかしてその人々の言葉を止めとうございました。また必ず世に属ける権力をもってこのような田舎の若い者を止めることができると思ったでしょう。けれども神は働きたまいまして、獄の門は開かれ、このような命令を使徒等に与えたまいました。人間はいつでも福音を伝えることを妨げとうございます。これは罪人の声です。必ず人間は私共に黙せよと申します。けれども神は戸を開き、伝道の門口を開きたまいまして、この言葉を人々に語れよと命じたまいます。どうぞ神の聖声に従って力を尽くして働きとうございます。どんな迫害がありましても、どんなに権威を持てる者が妨げましても、神の命に従って働きとうございます。
 聖書の Preaching(説教)という語は、いろいろの語が用いてありましていろいろの意味があります。第一に大使が王の権威をもって詔勅を布告するという意味があります。私共はそのような心をもってこの詔勅を宣べ伝えなければなりません。またもう一つは喜ばしい音信を宣べ伝えるという意味です。人間に同情を表して喜ばしき音信を宣べ伝えることは、牢屋に入れられている囚人にそれをゆるすということを宣べ伝えるのと同じことであります。第三に証しするという意味もあります。すなわち自分の得ました恩恵を証することです。私共は絶えずこの三つの意味にしたがって伝道しとうございます。また聖書にPreach(説教する)という字はただ集会で説教することばかりではありません。一人の霊魂に個人的に宣べ伝える意味も含んでおります。すなわち或いは一人に、或いは大勢の人々に主イエスを宣べ伝える、これが説教であります。それによって一人の霊魂に、または大勢の人々に生命を与えることを得ます。私共は聖言によって生命を与えるのであります。コリント後書三章六節『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす』。そうですからそのような役者は儀文を与えます。また八節『まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか』。これは、霊を分け与えることは栄えあらざらんやという意味であります。
 同書五章十八節『神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった』。これは私共の職務です。これは私共の説教の題目であります。またそればかりでなく十九節の終わりに『わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである』、すなわち力ある福音の言をも与えられます。そうですからどうぞ祈禱をもってその力ある言葉をお求めなさい。神は聖霊によってその言葉をあなたに与えたまいます。その神の聖言によって罪人は悔い改めて生命を得ます。私共は十八節の務めを得、また十九節の言葉を得ましたならば、二十節の終わりに参りまして『そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい』。この願うという字は Pray すなわち祈るという字であります。これは願うというよりもよほど強い意味であります。真の伝道者は神に祈りますが、ただそればかりでなく罪人に祈ります。己を謙らせて罪人の前に跪く心をもって、罪人に神に和らがんことを祈ります。これは真正の伝道者の精神であります。
 またこういう伝道者は心の中に何を考えておりますかならば、第一に罪人の状態を見て説教します。それは十六節『それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることをすまい』。その人の表面の有様を見ません。神の聖前でその人はどういう有様ですか、また神の審判の時に表れるその人の真の有様を見て説教します。エゼキエルが枯れた骨を見ましたとおりに伝道者は人々の真正の有様を見ます。また第二にその人は十字架を感じます。二十一節『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである』。これを感じて二十節のような祈禱の力をもって祈ります。十字架を感じて熱心に罪人に勧めます。もはや贖いが成就して救いの賜物が備えられてありますから、ただいまでも罪人が神に和らぐことができるのがわかります。第三に六章二節『見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である』。伝道者は格別にそれを感じます。今は救いの日、今あなたの心は汚れより潔められることを得ます。今あなたは生命の望みを受けることができます。今! 今! あなたが途上で罪人に遇いまして、救いの道を勧めますなれば、そこで即座に罪人は救われることができます。罪人はただいま悔い改めて神に立ち帰ることができます。ただいま罪の繋を断つことができます。普通の伝道者はをれを知らぬ人が多くあります。しかしあなたは、十字架の功績によってどんな罪人でも今でも即座に救われることができることを知っておらなければなりません。心の中にそれを感じますればぜひぜひ言葉を伝えなければなりません。
 コリント前書九章十六節『わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである』。これは真の伝道者の心であります。私共は福音を真正に悟ることを得まして、また自分の救われましたことを感じますれば、必ずそのように止むを得ずして福音を宣べ伝えます。伝道しなければなりません。罪人を導かなければなりません。私共は真正に福音を受け入れましたならばそのように必ず伝道します。またその理由は何のためですかならば、第一に自分の心に確信があるからです。使徒行伝四章二十節に『わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』。すなわち止むを得ぬのです。私は見ました、また聞きました。そうですから是非それを証しなければなりません。ヨハネ四章の女がイエス・キリストを見、また主イエスの聖言を聞きまして、主の恵みによって心の中に井が開けましたから、止むを得ませんので自分の村に帰って証しいたしました。確信がありましたからぜひぜひ他の人にそれを宣べ伝えなければなりませんでした。そのためにその村の人を導くことを得ました。その日に主の弟子等がその村に参りましたが一人の人をも導きませんでした。けれどもこの勢力のない女が自分の心に確信がありましたために村の人々を導くことを得ました。
 第二に神の命令でありますから止むを得ずして伝道します。私共は神の命令に従わなければなりません。『この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい』(使徒行伝五・二十)という命令がありますから、私共が神に従いますれば黙っているわけには行きません。旧約のヨナのことを見ますれば、彼は神の命令に従いニネベに行って神の聖言を宣べ伝えました。神の命令によりて参りましたから大リバイバルが起こりました。ヨナは格別に直接に神より和らがしめる職を得、また和らがしめる言葉をも得ましたから、神の命に従って彼処に参りました。
 第三に、伝道者が止むを得ざるのは他の人々のために大いなる心配をもっているからであります。そのために伝道しなければなりません。コリント後書五章十一節をご覧なさい。『このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める』。そのために神の恐ろしい審判を感じ、また人間の受くべき恐ろしい刑罰を感じますから、ぜひ止むを得ずして福音を宣べ伝えます。そのために説教します。そのために個人的に人を導きます。私共は崖の近くにうっかりしている人を見ますれば必ず大声を上げてその人に危ないことを知らせます。その人の生命が危ないからであります。ちょうどそのように、いま多数の人々は危ない有様におります。私共が真正の伝道者でありますれば主の恐るべきことを知っていますから、そんな危ない人々に向かって勧めます。また人々は私共の顔の色、また私共の動作によって、私共の中にある心配を知って私共の言葉に耳を傾けるようになります。或る人が、二、三度或る伝道者の説教を聞いただけで、それから来なくなりました。その人が後に何と申しましたかならば、私はあの人の説教を聞くことを好みません。あの人は地獄のことを厳かに言いましたから、その時から私の心の中にそれが離れませんと申しました。そのように厳かに罪人の心に神の聖言を打ち付けますなれば、その人は撃たれましてそのためについに悔い改めるようになるかも知れません。
 第四に、主を愛する愛がありますから止むを得ずに聖言を宣べ伝えます(コリント後書五・十四、十五)。そのためにパウロはいろいろ困難を忍んで伝道いたしました。生命を賭けて喜んで伝道いたしました。頑なな人に対しても忍耐して懇切に聖言を宣べ伝えました。私共の中にも愛が燃えていますならば止むを得ず伝道いたします。伝道せずにはおれぬのであります。主はただいまでもこの国の村々の人々のために心配していたまいます。ただいまでも主はその人々のために働き、彼らの中に囁きたまいます。主はただいまでも力を尽くして福音を宣べ伝えとうございます。そうですからこの主と交わりますならば、キリストの愛に励まされて伝道いたします。キリストは生命を捨ててこの救いの道を立てたまいました。その御宝血を流して罪人のために救いの御業を成就したまいました。またそれから天に昇って私共に和らがしめる職を委ねたまいました。主イエスは私共を信用してこの貴い職を私共に託したまいました。私共が忠実にこの職を尽くすと信用してこれを委ねたまいました。これは実に有難いことではありませんか。私共が真正にキリストの愛に励まされますならば、必ず止むを得ずして罪人に福音を宣べ伝えます。
 テモテ後書四章一節二節、パウロはその時もはや死に近づき、栄えの冠を得るときが近づいて参りました。その時この若い兵士にこれを勧めました。『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる』。これは一番熱心な求めであります。審判の日を望んでこれを求めました。それは何でありますかならば、『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい』。止むを得ずして伝道する者は必ずこのように時を得ざるも伝道いたします。
 三百年前にレナード・フェルという熱心な信者が英国におりました。その人が或る時旅行しました時、山賊に遭いました。山賊がレナード・フェルにピストルを向けて財布を出せと申しましたから、彼は何も言わずにすぐさま財布を出してやりました。山賊はこれは温和しい人だと思いまして、ピストルを向けて、おまえの乗っている馬も出せと申しました。レナード・フェルはまた黙って何も言わずに馬から下りてその馬を与えました。山賊は早速その馬に乗って逃げようとしました時に、レナード・フェルはその手綱を捕らえて山賊に申しますには、私も山賊です、私は霊魂を捕らえる山賊です、私は君の霊魂を頂戴したい、君がそんなことをしていれば君の霊魂は必ず亡びますと申しました。山賊はこれを聞いてたいへん怒り、ピストルを向けまして黙れと命じ、黙らねば撃ち殺すぞと申しました。その時、レナード・フェルは静かに愛をもって、柔和な顔をして、君が財布をくれよと言いましたから、わたしはそんなことで生命を捨てるのはつまらぬと思って財布をあげました、また君が馬をも与えよと申しましたから、そんなことのために生命を捨てるのはつまらぬと思い、馬をも差し出しました。けれども君の貴い霊魂を救うためならば、私は喜んでこの命を捨てますと申しました。これは真正の伝道者の心であります。
 その次に何を伝うべきかと申しますれば、和らがしめる言葉を宣べ伝えるのであります。戦争の時に、鉛の弾丸の代わりに綿の弾を鉄砲に入れたらどうでしょうか。或る伝道者は綿の弾丸を撃ちます。私共は真正の弾丸を撃たねばなりません。和らがしめる神の言こそ真正の弾丸であります。或る二人の大学生が外国伝道に志しましてから、互いに話し合いまして、支那に行ってから何を宣べ伝えねばならぬかを見ようと約束しまして、それから毎朝、和らがしめる言葉を調べ、どういう言葉、どういうメッセージを持って行くべきかを調べました。私共はどんなメッセージを持って罪人の所に参りましょうか。コリント前書一章二十三、二十四節をご覧なさい。『しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである』。これは鉛の弾丸です。十字架のキリストを宣べ伝えますれば必ず罪人は救われます。
 ヘンリー・リチャードがアフリカに参りまして七年間伝道しましたが、何の結果もありませんでした。土人が盗みを致しますから盗むなかれと教え、また虚偽を言いますから偽るなかれと戒めました。そういうふうにいつでも律法的に教えましたが何にも成功がありませなんだ。或る時そのことを悲しんで祈っておりました。そのとき今のコリント前書一章を読みましたから、それから土人に十字架のことを宣べ伝えました。ところがその時から多数の土人が悔い改めました。十字架は神の能力です。この世の智者や学者はそれを好みません。けれども信じてそれを宣べ伝えますれば必ず罪人は救われます。キリストは神の能力、また神の智慧です。これは活けるキリストであります。甦りたまいましたキリストです。パウロはいつでも十字架と甦りを伝えましたから人々はそのために神の力によって救われました。キリストはもはや甦って今も働いていたまいますから、十字架と甦りを宣べ伝えますれば必ずそれによって成功いたします。
 使徒行伝二十六章十七、十八節をご覧なさい。『わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。パウロは初め神の召しを蒙りました時に、主は何と言いたまいましたかならば、必ずパウロによりて罪人が救われると言いたまいました。パウロはその時から止むを得ずして伝道いたしました。ただ彼らを教えるばかりでなく、強いてその手を取って光に導くためでした。私共にも神は同じ召しを与えたまいました。ただ説教することばかりではありません。罪人を救うこと、罪人を導くことです。説教会は大切です。けれども第二の集会において個人伝道することはなおなお大切なことであります。『それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ』。あなたの言葉によりて罪人が救いの道を悟ることを得るはずです。懇切に説明し、懇切に教えて、明瞭にその罪人に神のご慈愛と救いの道とを示さなければなりません。或いはそのために主イエスのようにいろいろの例話やいろいろの実例を引いて、どうにかしてその人に救いの道を悟らせなければなりません。マタイ十三章十九節を見ますと、『だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く』とあります。どんな人の心から悪魔が聖言を奪いますかならば、その教えを悟らぬ人の心から奪います。そうですから私共は教えを悟らせるためにいろいろのことをもって懇切に忍耐して導かねばなりません。そうですから私共はまたなるべく平易のことを語らなければなりません。今まで成功した伝道者はみな心をとめて平易なことばかりを語りました。英国のチャールズ・スポルジョン、アメリカのムーディ等はみなそうでした。教育がありますれば平易な言葉を使うことはかえって難しいことです。難しい言葉を用いる方がかえってたやすうございます。けれどもどうかして平易のことをお話しなさい。
 また私共は罪人に強いて願わなければなりません。ルカ十四章に大いなる筵の譬えがありますが、そこに伝道者について三つのことがあります。第一が十七節『晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言わせた』。すなわち主人の権威をもって、また主人の言をもって走ってその人々のところに行って招きます。今来れよ、と権威をもって申します。自分は僕です。或いは奴隷であるかも知れません。けれども貴い主人の権威をもってこの言葉を語ります。第二は二十一節『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。同情をもって、愛をもってこの憐れな者の手を取ってこの筵に導けよ。今度は権威をもってではありません。愛と同情をもって懇切に導くのです。第三は二十三節『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』。今度は力をもって、力を尽くして、強いて罪人を導かなければなりません。兄弟姉妹よ、私共の伝道はこういう風でございましょうか。或る人は神の権威をもって伝道します。或る兄弟は愛をもって伝道します。また或る人は強いて人々を導きます。私共はこの三つの心をもっているはずです。この三つの心をもって罪人に神の言を宣べ伝えますれば、必ず大勢が王の筵に参ります。大勢が満足を得て、未だ経験しない楽を得て神に近づきます。これは私共の貴い職務であります。
 そのようにして私共は枯れた骨に福音を宣べ伝えなければなりません。兄弟姉妹よ、あなたがたはそれをお願いなさいますか、どうですか。そのように福音を宣べ伝えるには必ず困難があります。また生命を賭けて行かねばなりません。いま兄弟姉妹の中に熱心に聖霊のバプテスマを求めておいでなさる御方もありますが、ヨハネ二十章に主は誰に向かって聖霊を受けよと言いたまいましたかならば、『父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす』(二十一節)と言いたまいまして、弟子等が喜んでその命令に従いますならば、その召しを受けました者に主は『聖霊を受けよ』(二十二節)と言いたまいます。どんな困難があっても主の命に従って行く者に、主は聖霊のバプテスマを与えたまいます。兵卒は喜んで愛する王のためまた国のために戦争に出ます。今朝主イエス・キリストはもう一度、この聖書研究によって私共各自にも我汝を遣わさんと言いたまいます。
 或る人がこんな幻を見ました。天国において大勢の救われました全き者たちを見ることを得ました。その真中に神の御子が現れて大集会を命じたまいました。そうですから多数の人々が集まって参りました。また御子が、地上の聖徒が勝利を得ないから、汝らのうち一万人だけを地に遣わしたいが誰がそのために行くかと言いたまいました。そのときたいへん静かになりましたが、暫くしまして皆々地に下ることを願いました。天を捨てて汚れた暗黒のこの世に、愛する御子のために下ることを願いました。皆々身も魂も献げて、天国を捨ててこの貴い職務を務めとうございました。主はその身も魂も献げた人の中から一万人を選びたまいました。その一万人は喜んでその召しを蒙りました。また他の人々は彼らをめでたい者であると言って祝いました。主は私共の真中にも立って我汝らを遣わさんと言いたまいます。兄弟姉妹よ、私共はそれを断る精神がありますか。自分の平安のため、安逸のためにそれを断りますか。或いは今朝、すべてを献げて愛のために戦に出て、愛のために苦しみを得、愛のために恥辱を得ることを願いますか。兄弟姉妹よ、あなたがたは喜んで御子のために福音を宣べ伝えることをなさいますか。



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