証 詞 会



 詩145篇による短い説教の後、バックストン師は以下のように語られました。──

 これは証詞会でございます。もしあなたが証詞をなさいますなら、それはここにいる私共の喜びであり、天にある神様の喜びでもあり、またあなた御自身にとっては霊魂の祝福であります。証詞は神様を讃美する全き心を意味します。神様は私共を讃美に満ちた心と生活へと生まれ更わらせたまいとうございます。それによりあなたにも私にも『ハレルヤ』と声を上げることを教えたまいます。今回の諸集会、またそればかりでなく神様の私共に対するすべてのお取り扱いの御目的は、私共が解き放たれた口と燃える心をもって『ハレルヤ』と声を上げることであります。
 詩篇は五つの巻に分けることができます。それぞれの巻の終わりにある言葉は、恵みの中を進む霊魂の歩みを示します。最初の巻は第1篇から41篇まででありまして、二つの『アーメン』という言葉で終っております。これは神様が最初に私共に声を上げるよう教えたもう言葉です。すなわち一つのアーメンを神様が仰るすべての事に対して、もう一つを神様の私共に対するすべての御目的に対してであります。創世記15章6節に『アブラム、ヱホバを信ず』とありますのは原語にては『アーメン』と同じ言葉です。第二と第三の巻も同じ言葉で終っております(72篇、89篇)。第四巻は『アーメン、ハレルヤ』で終ります(106篇)。これはさらに進んだ段階です。ここで私共は讃美を始めます。第五巻は『ハレルヤ、ハレルヤ』と終ります(150篇)。ここにおります幾人かの人々はこの二重のハレルヤをもう学ばれたことと思います。ハレルヤを言うことができますことは、あなたの霊魂の裡に天国が始まっていることです。天国にては神様への讃美ばかりでございます。地獄は讃美のない祈禱ばかりにてあります。地上には祈禱も讃美もございます。それ故にハレルヤは天国の始まりであります。地上にて『ハレルヤ』と声を上げることを学ばなかった霊魂には、天国に居場所がありません。
 詩136篇を見ますと、どのような困難も試練も、新しい讃美の記録を付け加えるためにあることを私共は学びます。
 私はイスラエルの子らが自ら進んで紅海を渡ったり、バシャンの王オグやアモリ人の王シホンと遭遇したとは思いません。けれどもこれらの出来事は彼らに『その憐憫はとこしへにたゆることなければなり』と言うことを教えました。そのように私共の困難も、私共の心が神様に献げる讃美の歌に新しい一行を書き加えるはずであります。私共は神様がいよいよ多くの『ハレルヤ』の声を上げることを教えたもうことを願いつつ、この集会からそれぞれの持ち場に赴きとうございます。さあ、今晩にも声を上げとうございます。必要なことは家にて静かに光を放つことではありません。大胆に声を上げることです──公に知らしめることです──神様に支配され、神様の愛に支配され、神様の救に支配されて、神様に満たされて自己を忘れることです。
 145篇4〜7節を御覧なさい。『かれらはなんぢの大なる惠の跡をいひいで』(大いにいひいで=英訳・7節)。これは行儀のよい言葉ではありません。しかし、ああ、今晩もこのとおりになりますように。解き放たれた口が神様の御恵みの跡を大いに言い出でますように。
 証詞に入ります前に、私はエジプト宣教会の会員の一人が書きました手紙の要点をご紹介したく思います。ちょうどその当時に開かれた集会に関して報告する中で、その人はこう申しております。「その月の初め以来、私共はあらゆる宣教地から次々に手紙を受け取りました。どの手紙も、主が一人ひとりに対すると同時に全員に対して、不思議な方法で顕れてくださったことを書いております。そのうちのいくつかをお伝えしてもよろしいでしょうか。
 或る者は次のように書いております:──『神様が私共の魂に天国を開いて下さった時、それは栄光の時でした。‥‥‥神様は言い表すことのできない不思議な力の中に降りたまいました。変貌された宣教師たちの一団の姿がそこにありました。』
 別の者は次のように申します:──『夕方になって主は来りたまい、私たちの上に手を按いて新しい任職の膏を灑いで下さいました。主は私に、私たちを一つに結び付けている絆はいと聖なる絆‥‥‥聖霊による聖き任職の膏であること、このいと聖きものをもって主は私たちに証印を捺して下さったことを教えたまいました。この一致を私たちは真剣に守りとうございます。それに敢えて手を出して毀とうとする者はありません。その時以来いつも、私は宣教会の兄弟姉妹一人ひとりに対して或る種の敬意を抱き続けています。』」

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証  詞

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 今回の諸集会の間、私にキリストと一つになる可能性が開かれました。このようなことは以前の私は考えたことがありませんでした。私はまだ自分が完全に砕かれたことはないと感じています。けれども神様が私のために用意して下さっているすべてのものに向かって真剣に迫ろうと決心しています。

 この週の間に主が私になして下さったことに「ハレルヤ!」と申し上げたいです。

 私は深い失望の中にあってこの集会に参りました。奉仕に力がないことを感じていたからです。或る程度の勝利はありました。けれども今、私は主が私の生涯においてこれから勝利を得ようとしていたもうことを深く確信しています。私は自分で自信を持ってしまうことを恐れています。しかし主の私を保って下さる力を祈り求め、また信じます。

 何週間も、いや何年もの間、私がそれを得ようと戦い苦しんできた勝利が、この集会の一時間の間に与えられました。このことのゆえに主をほめたたえます。

 いま私は早朝祈禱会のゆえに神を讃美したいと思います。それは私の魂にとってどんなにか祝福だったことでしょうか。祈禱会を通して私は恵みの高嶺に至ることができました。ハレルヤ!

 神に感謝します。私が長いあいだ祈り求めて来たものを、この聖会で受けることができたという、明らかな確信があります。神を讃めよ!

 昨年、或る御婦人が私のところに来て、小さな聖書講読会を一緒にやりませんかと申しました。私はその提案に特に心を惹かれませんでしたが、お断りすると彼女ががっかりしてしまうと思って承諾しました。彼女はこんな聖句を引用しました。『我なんぢに責むべき所あり、なんぢは初の愛を離れたり』(黙示録4章2節)。この言葉は私の心を刺しました。けれども私は『口唇の果』(ヘブル13章15節)を献げる気にはなれませんでした。それからしばらく私はきよめに抗い、他の人のことを批判的にさばきました。「私がたとえきよめを証するとしてもあんな風にはしないだろう」等々と心の中につぶやきました。二、三か月前になって主は私の偏見を取り除きたまいましたが、なお証詞をする気にはなりませんでした。先週の木曜日の朝、私は証詞をするべきであったことを教えられました。そしてこの聖会が終わりに近づいているにもかかわらずまだ祝福を受けていない自分を感じながら家に帰りました。次の日の朝は、小さな息子の具合が悪かったので集会に来ることができませんでした。けれども自室で祈りのうちに主を待ち望んでおりますと、主が顕れて下さいました。そしてその時、その場で、証詞ということにおいて主に服従いたしました。今晩、私は主をほめたたえたいと思います。

 この場所で神が私に出会って下さったこと、祝福をくださったことを証言したいと思います。私のメッセージは先ず第一に私自身の魂に用いられました。

 この度の諸集会において神様は私に、御座に座しておられる御方を啓示して下さいました。このことの故に今晩神様に感謝いたします。また神様の御栄光のために生きることができるようにして下さる神様の能力の賜物の故に感謝いたします。

 神様に対する、また奉仕に対する、私の怠慢と不熱心とを、主はとても深く気付かせて下さいました。何よりも、神様に祈り交わりを得るために朝早く起きるということを怠っていたことです。私のような体質の者にとって早起きはとても辛いことです。しかし神様は、私ができる限りの奉仕をしようと熱心に働いているとは言えないことを、明らかに示して下さいました。私にそれを気付かせて下さったこと、また長い間私ができないでいたことができるように私を強めて下さるという確信を与えた下さったことのゆえに、神様に感謝いたします。

 私は聖潔についてはずいぶん前から聞き知っておりました。しかし今回ほどその教理が明快に語られたのは、初めて聞きました。私はたいへん光を与えられ、また強められました。罪のからだが亡ぼされるであろうことをはっきり信じております。しかし、私の内なる罪のからだが滅ぼされているという確信がありません。

 私は「ハレルヤ」を叫びたい、一度ならず、三度も、百度でも叫びたい。神様はこの聖会の間に、この小さな者をいかなる恐れからも守って下さるとの確信を与えて下さいました。死は私を悩ませたことはありません。しかし生の故には悩まされてきました。「自分は罪のない生を生きることができるのだろうか」と問い続けてきました。いま私はキリスト我が内に在りて生くることを知っています。私の疑問は答えられました。私は聖霊の御導きと御守りに依り頼みます。ハレルヤ!

 神様は私の期待をはるかに超えて、期待を満たして下さいました。神様は私の信仰を新たにして下さいました。堅き岩の上に私の足を立たせて下さいました。いま私は戦いの場に下り、神の教えを飾りとうございます。

 私は神様のきよめを思い起して感謝する(詩97篇12節=欽定訳)ことはできますが、未来のきよめについて神様に感謝する勇気がありません。私の信仰はそこまで行きません。私は十字架ときよめと火のバプテスマについて新しい見方を学びました。火は傷つけますし、人の見目をそこないますが、その結果は善いということです。そうであれば私も喜んで火の中をでも通らせていただきたい。この聖会で三つの事柄が私の内に焼き付けられました──十字架上のキリスト、昇天されたキリスト、そして御座に在られるキリストです。

 私共は罪人に説教いたしますが、いま私は罪人だけでなくクリスチャンをもキリストは救うことがおできになることを、教えなければならないと了解いたしました。私はこの聖会のゆえに「ハレルヤ」と言うことができます。神様についての新しい見方を教えられ、また祈りの力を新しくいただいたからです。

 主はここで私にとても明確な経験を与えられました。私は深い失望を感じつつここに参りました。そして私が自分の仕事のために自分を捧げていたことを見出しました。今から私は私の主のために自分を捧げます。

──ここで求めに応じて以下の讃美歌が歌われました──

負いなやむ十字架も めぐみにしかず
吹きたけるあらしも 御顔かくさじ
わが負える十字架は めぐみより小さし
主はこころみに打ち克つ力 我にたまえり

みひかりを歩まば よろこび満ちて
十字架にたよらば 道をはずれじ
わが負える十字架は めぐみより小さし
主はこころみに打ち克つ力 我にたまえり
(救世軍歌集第277番)

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 この諸集会を通して罪を示されましたことを感謝します。聖霊は私が聖霊を悲しませていたことを明らかにして下さいました。いま私は『罪に定めらるることなし』と喜んで申し上げることができます。

 私はこれらの真理をかなり以前から聞き知っていました。何らかの試みを受ける時は、このように言うことがとても助けになります。「サタンよ、退け」、そして続けて「ハレルヤ!」と。

 私は宣教師ではなく、ここに来るまでどなたも存じ上げませんでした。ここで与えられた神の子どもたちとの交わりのゆえに、またあなたがた皆さんとお会いできた喜びのゆえに、神様に感謝したいと思います。ほんとうに祝福された日々でした。地上における天国の日々でありました。聖霊の愛がわたしたちすべてを包んでおりました。

 これらの集会で真理が明らかに示されましたことを神様に感謝いたします。或る兄弟は私に、「それがきよめであるとすれば、それこそ私が必要としているものだ」と申しました。また別の兄弟は、「私はその火がこわい、きよめがこわい、神様に自分を全く明け渡すことなどこわくてできない」と申しました。そしてなお私共は『御意のままに成し給へ』(マタイ26:42)と祈ります。これはきよめでなくて何でありましょうか。

 私ははっきりした祝福を得たいという目的を持ってここに参りました。神様が最高の祝福をくださらない限りは私はこの国で働きを続けていくことができないと感じていました。神様はここで私に顕れて下さいました。この経験から私は、日本人の言い方を借りれば、入学を認められたけれどもまだ卒業はできていないと感じています。私は恵みのうちに成長していけると信じています。神様の聖き御名の栄光のために生きたいと思います。

 私は主イエス・キリストご自身と一つであることをますます強く感じています。私は全きへりくだりと神様への感謝をもって、『この世の君きたる故なり。彼は我に對して何の權もなし』(ヨハネ14:30)と申し上げることができます。

 私はロマ書六章からの学びに深い印象を受けました。『われらの舊き人、キリストと共に十字架につけられたるは』と。それは私に全く新しい力と意味を伴って顕されました。神様を喜ばせまつることを志し、実行できるように、更に前進したいと思います。

今回、神様の聖言がはっきりと開示されましたことを感謝します。私は『罪に定めらるることなし』と確信をもって言うことが出来ます。

 この諸集会において神様にお会いすることができたことのゆえに、今晩神様を讃美いたします。ここに来るまで私はすっかり自信を失っており、主とのお交わりを失っておりました。主は恵み深くも私を御自分に連れ戻して下さいました。今晩私は「ハレルヤ!」と言うことができます。

 今回私はたくさんの恵みを頂きました。私はこの経験に入ったと思いましたが、それからあまりそれが確かだと感じなくなっていました。しかしここで皆様の証詞をお聞きして、私は今一度確信を感じています。そしてもっと勇気をもって主にお仕えしていきたいと思っています。

 私は今回の恵まれた聖書講読会を感謝いたします。聖言について大きな光を頂いたと感じております。

 私は神様はきよめ、保って下さることがおできになることがわかりました。

──ここで求めに応じて以下の讃美歌が歌われました──

望みも消えゆくまでに 世の嵐になやむとき
数えてみよ 主のめぐみ 汝が心は平安(やすき)を得ん
かぞえよ 主の恵み 数えよ 主のめぐみ
数えよ 一つずつ かぞえてみよ 主のめぐみ

主のたまいし十字架を 担いきれず沈むとき
かぞえてみよ 主の恵み つぶやきなど いかであらん
かぞえよ 主の恵み 数えよ 主のめぐみ
数えよ ひとつずつ かぞえてみよ 主のめぐみ
(福音連盟聖歌第604番)

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 いま歌いました聖歌は私のために要望されたもののように感じます。ほんとうにたくさんの恵みのために私は神様を讃美することができます。ここに参りました時、私はとても渴いておりました。神様は私を満ち足らせて下さいました。私を恐れから──実体のわからない不安から解放して下さいました。

 私は特に聖書講読会の故に感謝します。真理が深い愛のうちに取り次がれましたので、私の心に柔らかさがもたらされました。また私の人生に大きな変化をもたらすと思います。柔らかい心とはどういうものかについて啓示を与えられました。「融ける時」という表現の意味がわかるようになりました。

 ちょうどこの時に私をここ軽井沢に導いて下さった神様に感謝します。また神様が私に賜った恵みのゆえに感謝します。深く心を探られる時でしたが、神様は御自身を私に顕して下さいました。(一旅行者)

 私の眼が祝福から離れて、祝福を賜わる方に据えられているよう望みます。

 私は長い間求めて参りましたが、昨日の朝、聖言のうちに神をとらえ、神を信じました。今日はなお迷いの中にありますが、諦めるつもりはありません。

 祈りのうちに神を待ち望むことの大切さを私は強調したいと思います。

 私は頭の中ではこの経験を知っていましたが、いま「それが私の心にある」と申し上げることができます。『なんぢは初の愛を離れたり』という聖言により罪を自覚しました。私は自分が失敗したことを知っています。けれども神様は私の神様に対する愛を新たにして下さり、私をはじめの愛に引き戻して下さいました。聖書講読、特にロマ書6章の講読会はとても助けになりました。ロマ書6章6節について語っている時の話し手の顔に顕れていた愛と光が私の心を捉えました。以前私は『此の死の體より我を救はん』ものは何かと求めていましたが、今は『我を救はん者は』どなたかを知っています。私は中国人たちのところに戻り、神の御助けにより私の愛を彼らに示したいと思います。

 この聖会のために献げられてきた祈禱に神様が答えて下さったこと、また聖言を取り次いで下さる方々が私共の必要を満たすことができるように助けて下さったことのために、神様をほめたたえます。神様が偕に行ってくださるという意識を今一度明確に抱いて、私共は別れたいと思います。

 残された時間がなくなりましたので、機会があれば証詞をしたいと思っていた方々はその場に立つように求められました。およそ二十五名の方々が、この聖会の間に受けた恵みのゆえに神を讃美したいという意志を表明するために立ち上がりました。

 すべての方々の心にある言葉は、閉会の讃美として歌いましたこの歌の中に表されたと思います。『歌えどつきせぬ主のほまれ』(福音連盟聖歌468番)です。

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 非常に有益な一連の集会はこうして閉じられました。日本で働く多くの方々に、クリスチャン生活と奉仕との新しい時代がこの厳粛な聖会から始まりました。聖書の信仰において深刻な危機に直面していた方々には、聖書における主イエス・キリストの新しい視野が開かれました。御座の上に在られる方が、浅間山の麓の高原でのこの静粛な日々の間、私共に語りかけられ、主イエス・キリストを、窮みなきまで救いたもうその御力において新しく顕して下さいました。また新しい希望、信仰による新しい喜びと平安、新しい伝道への情熱、そして『その顯現(あらはれ)を慕』いつつ(テモテ後書4章8節)その御力のうちに霊魂の救のために働くことへのたくさんの新しい励ましを私共に与えて下さいました。すべての誉れと栄光がこの神に帰せられんことを。

『汝らの中に在すキリスト、榮光の望』

神をほめよ。



明治四十一年十二月十二日印刷
明治四十一年十二月十五日發行

編者兼發行者  ジョージ・ブレスウェート
     東京市赤坂區氷川町五番地

印刷者     村  岡  平  吉
     橫濱市太田町五丁目八十七番地

印刷所     福音印刷合資會社
     橫濱市山下町八十一番地

發行所     基督敎書類會社
     東京市麴町區有樂町二丁目三番地


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