『乃ち其處にて之を祝せり』

創世記32章9〜13節および22〜29節
パジェット・ウィルクス師



  9 ヤコブまた言ひけるは わが父アブラハムの神 わが父イサクの神ヱホバよ 汝甞て我につげて 汝の國にかへり汝の親族に到れ 我なんぢを善くせんといひたまへり 10 我はなんぢが僕にほどこしたまひし恩惠(めぐみ)と眞實(まこと)を一つも受くるにたらざるなり 我わが杖のみを持ちてこのヨルダンを濟りしが今は二隊(ふたくみ)とも成るにいたれり 11 願くはわが兄の手より エサウの手より我をすくひいだしたまへ 我彼をおそる 恐らくは彼きたりて我をうち母と子とに及ばん 12 汝は甞て我かならず汝を惠み汝の子孫を濱の沙(いさご)の多くして數ふべからざるが如くなさんといひたまへり
  13 彼その夜彼處に宿りその手にいりし物の中より兄エサウへの禮物(おくりもの)をえらべり‥‥‥
  22 其夜おきいでて二人の妻と二人の仕女および十一人の子を導きてヤボクの渡(わたり)をわたれり 23 即ち彼等をみちびきて川を涉らしめ又その有(もて)る物を渡せり 24 而してヤコブ一人遺りしが 人ありて夜の明くるまで之と角力(ちからくらべ)す 25 其人己のヤコブに勝たざるを見てヤコブの髀の樞骨(つがひ)に觸れしかば ヤコブの髀の樞骨其人と角力する時挫離(はづれ)たり 26 其人 夜明けんとすれば我をさらしめよといひければ ヤコブいふ 汝われを祝せずばさらしめずと 27 是に於て其人かれにいふ 汝の名は何なるや 彼いふ ヤコブなり 28 其人いひけるは 汝の名は重ねてヤコブととなふべからず イスラエルととなふべし 其は汝神と人とに力をあらそひて勝ちたればなりと 29 ヤコブ問ふて 請ふ汝の名を告げよといひければ 其人何故にわが名をとふやといひて 乃ち其處にて之を祝せり

──────

 『其處にて之を祝せり』、これは私の愛する聖句です。とても明確です。今晩この会場にいらっしゃる方々の多くは、過去のある時点、或る特定の建物や部屋の中で、または野外で、神が最初に私共にお出会いになった場所に立ち返りまして、『神はそこで私を祝された』ということが出来る、そういう経験をお持ちであろうと思います。今晩のこの場についても、誰か孤独な、悩める、重荷を負った霊魂が『神はそこで私を祝された』と言ってならない理由はありません。さて今晩、私が皆様に知って頂きたいことが三つだけございます:──
   (1) ヤコブが受けた祝福とは何であったか。
   (2) どのように、いかなる形でそれはやって来たのか。
   (3) 彼がそれを受けた場所。
 まず初めに、彼が求めていた祝福とはどのようなものでありましたろうか。創世記27章28, 29節まで戻ってみますと、それは祝福された満足と豊かさの経験であったと了解できます。『ねがはくは神 天の露と地の腴および饒多(おほく)の穀と酒を汝にたまへ』。
 さらにまた勝利と勢力の約束でもありました。『諸の民汝につかへ 諸の邦汝に躬を鞠(かゞめ)ん 汝兄弟等の主となり汝の母の子等汝に身をかゞめん』。『大(あに)は小(おとうと)に事へん』(25章23節)──生来の事柄は霊的な事柄に服属し、その支配下に入るでありましょう。しかし今晩私はこのことに時間を割くつもりはありません。この聖会の中の先だつ諸集会において、全き救の祝福とその本性と幸いとについて、すでに豊かに私共に啓示されております。
 そこで今は第二の問題に話を進めます。すなわち「どのように、いかなる形でその祝福はヤコブにもたらされたのか」という問題です。ヤコブの物語を思い起して下さい。神はまだ彼が母の胎にある時からこの栄光ある経験を約束したまいました。彼は母の口からこの栄光ある約束について聞いていたに相違ありません。彼が成長する間、このことが唯一の希望でした。彼にはよくできた立派な兄があり、人生においていつも先を越されていたからです。もしそれが神の約束によるのでないならば、彼は希望を失っていたと思います。彼はまるで普通の人でした。神の約束のほか今は何の希望もありません。彼はまた過ぎし日々に、約束された相続権をわがものにしようとたびたび試みたことを憶えておりました。一度は兄の弱みにつけ込んで長子の権を奪い、別の時には嘘と策略を弄して祝福を得ようと致しました。けれども噓をつくことと人を陥れること、或いはまた計画を立てて努力することが彼にもたらしたものは、悲しみと痛みのみでありましたから、この箇所で私共の目にするのはまだ祝福を得ることのできないヤコブの姿です。しかし神は彼のことを忘れていたもうわけはありません。幾年もの労苦に満ちたさすらいののち、いま彼はその嗣業の地に帰るように導かれました。ところがそこに入るのに大きな困難を見出します。それは生きるか死ぬかの問題であり、彼はそのことを認識しております。彼はひとり神とともにとどまります。神が彼の唯一の希望であります。今や他に何者もなくなりました時、神がその人自身と戦い、これを取り扱いたまいます。
 この物語を読んで印象を受けますことは、神が彼になされた二重の働きであります。
 第一──外面的に見ますと、神の触れたもうことは見目形を損ないます。かつてヤコブは走って逃げ去ることの名手でした。けれども最早それはできません。そうです、あなたはもはや逃げ去ることができませんでしょう。愛する皆さん、あなたが求めておられるこの祝福の経験は、あなたを人間の目に輝かしいものとなすようなものではありません。外面的にはあなたの見目を損ないます。あなたは「変な人」「変わり者」と呼ばれるようになるかも知れません。教会を自称する肉的な人々からは「かわいそうな仲間」と見られます。「見目形を損なう神の手」に触れていただく覚悟はございますか。『その面貌(おもつら)はそこなはれて人と異なり』(イザヤ52章14節)『われらがしたふべき艶色(みばえ)なき』(同53章2節)彼を神と認めることができますか。
第二──内面的に見ますと、神の触れたもうことは変貌をもたらします。幸いな名前と性質を賜ります。ヤコブという名前とその性質は、霊的な祝福を肉的な手段で手にする試みを意味しておりますが、神が触れたもうたことによりイスラエルとなりました。それは霊的な祝福を御座を通して求める者となることです。これが神が内的に触れたもうことです。あなたのヤコブの性質は去りまして、あなたはイスラエルとなります。あなたの手のわざをやめ、神を待ち望むようになります。これが神の祝福です。謙って子どものように神の依り頼むことです。
 潔められたクリスチャンは潔められていないクリスチャンには見られない何かを持っているということではありません。潔められたクリスチャンはむしろ或るものを失っているのです。古い邪悪な性質を、生まれながらの罪を、肉的な精神を──すなわち神が内に宿り内に働くことを妨げるかの旧来の敵を、失っております。私共はたびたび「おお主よ、私は取るに足らぬ者です」と申し上げることを好みます。しかし私共が真実に祝福を受ける前に、私共はこれよりももっと低くならねばなりません。私共はこのように認め、また言わなければなりません──「私は取るに足る者です、取るに足る悪です。そうです、私の名前はヤコブです」と。
 神はそこで彼を祝したまいました。しかり、その時その場で祝したまいました。けれども彼に何か不思議な我を忘れるような経験を与えたもうたのではありません。ヤコブの卑き望みなき魂に活ける言葉を語りたまいました。ちょうどそれはイエスがかつてペテロに『なんぢはヨハネの子シモンなり、汝ペテロと稱へらるべし』(ヨハネ1章42節)と語りたもうたことと同じです。これが祝福です。うなだれた魂よ、目を上げよ! 信仰の手を広げよ、耳を開けよ! この言葉を受けよ。信じて無条件に全く救われよ。『汝は』、しかり、『汝はヤコブなり、されど此時より汝神(と人と)に君たる者たるべし』(原語直訳)。
 今や私共は第三の問題、神が彼を祝福された場所の問題に参りました。『乃ち其處にて之を祝せり』。ああ、其處とはどこですか。私共はどこに行けば私共の必要を満たしていただけるのでしょうか。
 第一にそこは最も深き欠乏の場所です。ヤコブは最も深き欠乏の中におりました。彼にとってそこは生死の瀬戸際でした。皆様、私共が参らねばならないのはそこです。この経験を生命以上に願うようになる場所であります。ここにお集まりの皆様の中にはウガンダのピルキントンのことをご存じの方がありましょう。彼はケンブリッジ大学で栄誉ある学位を取り、輝かしい将来が約束されておりましたが、すべてを神に献げ、中央アフリカへと赴きました。そこでは未だ無数の危険と困難が差し迫っていた時代のことです。彼は精根を尽しましたが、幾年かの後、ついに希望を失い、彼自身が私に語ったところによると、辞表を提出して帰国する決心をしたということです。ちょうどその頃に彼はタミル・デイヴィッドの『いかにして私は改心し、潔められ、聖霊に満たされるに至ったか』という小冊子を受け取りました。彼はひとり山に登ってそれを読み、烈しい叫びと涙をもって生命そのもの以上にその経験を願い求めました。そこでその時、彼は求め、見出しました。よく知られているように、彼はその後メンゴに戻り、神が彼に賜った経験を、外国人にも地元民にも同様に、際立った単純さをもって証ししました。そしてその結果、ウガンダの大規模なリバイバルが起り、何千人もの人々が神に導かれたことは御存じの通りであります。
 聖霊はもう私共の欠乏を私共に示しましたか。この深い、苦い自覚が私共を捉えておりますか。ヤコブがかの夜に神を求めましたように最も深き欠乏の中より神を求めるまで、永遠の祝福を得ることは決してありません。
 第二に、それは一人だけの場所でした。
 私共は今回のような集会の目的を取り違えたり、誤った期待を抱いてはなりません。私はこのような集会の目的は私共の必要を示すことと、ここに坐っていて可能な限りで祝福の豊かさを明らかにすることにあると考えます。けれども神が祝福を授けたもう場所は、私共が一人になる場所です。私自身の経験によりますと、人々が集まっている場所で、深く、永久的な、徹底的な祝福を受けたという人を知りません。それはいつでもひとり神を待ち望む秘められた場所で起ります。おお、ひとり神と向き合いなさい。神が祝福したまい、また顕れたまい、また潔めたもうのはそこにおいてであります。悪魔は私共がひとり神を待ち望む場におることを妨げることで私共から祝福を奪おうと致します。そうさせてはなりません。一人におなりなさい。そして神をお求めなさい。祈り続けなさい。
 第三に──それは謙遜の場でした。この場所に来ることは何と困難でありましょうか。私共は生命そのものよりもこの祝福を願い求めるようになるまでは決してこの場所に来ることはできません。もしかすると伝道師くらい、祝福に与ることが難しい者はこの地球上にございません。それは彼が認可された教師であり、権威の内にある者だからです。しかし私共は神と人との前に、深き謙遜の裡に低く、低く、低く下らなければなりません。願わくは聖霊が私共をその場所にまで連れ来りたまいますように。
 何年か前に、一人の愛する日本人の兄弟が深い潔めの確信に満たされた時のことを私はよく憶えております。彼が潔めを求め始めますとすぐに、神は彼が神に会う前に通らなければならない三つの謙遜の踏み段を示したまいました。その一つはまことに徹底した試みでありました。彼はその心の衷に、彼が奉仕していた教会の牧師に対する苦い憎悪を匿しておりました。数日間の衷なる戦いの後、彼は神に服従しました。そして真っ直ぐに問題の牧師のもとへ行き、深い遜りをもって彼の心に懸かっているものを彼に告げ、赦しを請いました。おお、神はいかに彼を祝福されましたことか、そして彼の魂を憎悪から、嫉妬から、またあらゆる無慈悲から永遠に潔めたまいましたことか。願わくは私共も同じ幸いな謙遜の霊を受けることができますように。まさにその場所で、神は私共を祝したまいます。
 第四に──それは執拗さの場でした。神は信仰に基づく執拗さを愛せられます。神は私共に神にその手のわざを命じよと求めたまいましたことがあります(イザヤ書45章11節英訳)。私共がその執拗さを持っておりましたらと思います。ヤコブは御使が彼を祝福してしまうまでは御使を去らせようとしません、また去らせることができませんでした。そこでこのように書かれてあります。『乃ち其處にて之を祝せり』。
 第五に──それはイエス御自身が私共にお出会いになる場です。私自身の考えではこの御使は疑いもなく主イエス御自身です。けれどもヤコブはそれを知りません。このようなことは聖書の中で幾度も起ります。バプテスマのヨハネが主イエスに関して語った七つの説教の中の一つは、まさにこの大きな主題についてであります。『なんぢらの中に汝らの知らぬもの一人たてり』(ヨハネ1章26節)。イエスは確かにそこにおりました。そして愛する兄弟よ、ここにもおられます。信仰はイエスを見ます。そしてイエスにしがみつき、去らせません。
 これは私自身の経験ですが、何年も前のこと、とても深い霊的暗黒と苦悩の中を通っていた時のことです。一つの想念が急に私の心の中を照らし渡りました、「何故あなたはそれほど苦しむのだろうか」と。その時に聖霊が語りかけました、「それは神があなたと共におられる証拠ではありませんか。それはあなたを愛し、鍛えようとする神の手です。もし神があなたを取り扱われているのでないならば、あなたには自覚もなく、苦悩もなく、暗黒もありません。」私は神を讃美し、勇気を取り戻しました。勇気を喪っている心よ、勇気をお持ちなさい。今あなたと格闘しているお一方は、あなたを祝福しようと待っておられる、心優しい愛に満ちた、姿をやつしたイエスなのです。それは主であるという信仰に堅くお立ちなさい。アーメン。
 最後に──それは信仰の場であります。これは最も重要なる点です。私共は欠乏を自覚し、ひとり神と共にあり、深い遜りと執拗な執念をもって、いま私共と格闘しているのは主イエスであると理解するかも知れません。しかし信仰がないならばそれは無益なことです。『神に來る者は‥‥‥神の己を求むる者に報い給ふこととを、必ず信ずべければなり』(ヘブル書11章6節)。愛する友よ、この集会の間に私共が神がヤコブに出会いたもうことのできた場所に至りましたならば、すべて約束が成就されるまで、その場に信仰のうちに立ちとうございます。ヤコブは活ける言葉によって満足いたしました。『汝の名は重てヤコブととなふべからず イスラエルととなふべし』(創世記32章28節)。彼はその言葉を信じ、約束に安らい、下っていって勝利が保証されていることを見とめました。
 最後に一つの実例をお話しさせて頂きたい。私が前回イングランドに帰国しました時に、ちょうどこれと同じ様な聖会において一人の御婦人がされた証を聞き、深く心を打たれました。既に何年ものあいだ彼女はクリスチャンで、この上なく真面目な教会員でした。けれども二つの離れがたい罪に悩んでおりました。とても臆病でしたので、人前でキリストを証することはとてもできないと思っておりました。さらにまた彼女は自制できない怒りにとらわれることがありました。こうしたことを克服しようと無駄な努力を続けて参りました。ある日、二人の婦人伝道師が彼女の教会に参りまして一連の潔めの集いを行いました。その場で彼女は初めて、自分の真の敵は癇癪でも臆病でもないことを知りました。これらはいずれも生来の罪の症状にほかならなかったのです。聖霊は必要と罪とその治療法を啓示しました。彼女は深い遜りと単純な信仰によってイエスの貴い血潮に依り頼み、その中に罪を殺し潔めを与える栄光ある能力を見出しました。そして御約束の衷に休らいつつ、深い平和と静かな確信に満たされて帰りました。このような状態が三日間続きました。ところがその後、あの古い気質が火山のように突然噴き上がりました。彼女は辛い失望のうちに何もかも無駄だったと感じました。確信を投げ棄てました。ちょうどその時、かの伝道師の一人が、彼女を神のうちに留まるように励まそうと訪問に参りました。伝道師は話を聞いて、彼女に悪魔のやり口を説明しました。そして彼女は最初に悪魔の攻撃を受けた時に彼女の心の扉を悪魔のために開いてしまったことを指摘しました。その時には悪魔がもう中に入ってしまっているかのように思われされますが、それでもその攻擊に抵抗すべきだったのです。二人は俯伏して不信仰を告白し、信仰を祈り求めました。もう一度彼女は立ち上がりました。伝道師は彼女に、悪魔がもう中に入ってしまっているようにどんなに感じられても、この次はそこで立ち止まりなさいと告げました。そして神を見上げ、御使と悪魔との前で「私は確かに罪に死んでいます。そしてイエス・キリストを通して神に対して生きております」と表明するように勧めました。三、四日の後、あの邪悪な気質が再び噴き上がりました。しかし今度は彼女は身を震わせ、涙で満たされた目で神を見上げて言いました──「主よ、私は確かに、罪に対して死んでいます。そしてイエス・キリストを通してあなたに対して生きております」と。こうして勝利を得ました。けれども悪魔はそう簡単には彼女を離れません。三度彼女は信仰によって立ちます。その心全体と内的経験が彼女の信仰告白とまったく相反するように思われても、彼女は叫びました──「私は確かに罪に対して死んでいます。イエス・キリストを通して神に対して生きています」と。即座に完全な救いが参りました。彼女は申します、「その日から十二年以上になりますが、私は一度も魂をかき乱されたことがありません」。それのみではありません。その時から主は彼女をその臆病な心からも完全に解放いたしました。そして魂を獲得し、他の人々をこの偉大な幸いな救に導くために、彼女を大いに用いられました。
 おお、私共を信仰に堅く立たしめたまえ。神は来りたまい、私共を祝福し、潔め、神の永遠の栄光のうちに留めたまいます。

アーメン、アーメン。



| 注記 | 緒言 | 聖書講読会:| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
| 説教: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 証詞会 | 目次 |