第 五  イエスを王とせよ



 『門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。
  栄光の王がはいられる。』 (詩篇二十四篇七節)

 今から二十五年前、英国において、クリスチャン学生大会が開かれました。クリスチャンの学生は世界の各地からこの大会に集まって来た。また各地から電報も送られましたが、その中に日本の学生から送られた電報がありました。それは短いながら、誠に意味深長なもので、全大会に非常な印象を与えました。すなわち『イエスを王とせよ』というのでありました。『イエスを王とせよ!』今晩はこの題の下に申し上げたいと思いますが、これは万軍の主について言われていることであります。イザヤはこの王の栄光を見させられました。『わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから』(イザヤ書六章五節)と。また、ヨハネもこの王の栄えを見させられました。『わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。』(黙示録一章十七節)イザヤの見たのはこのイエスの栄光であったのであります。万軍の主! 栄光の王! 考えてもご覧なさい。彼の王としての稜威、思ってもご覧なさい。その権威、その富、みな彼に適わしきものであります。主は全地の王、天における王、地における王、天使たちの中において王、また人の子等の中において王、今も王、後も王、永遠に王、全世界において王の王にて在したまいます。また、彼は聖徒の族の王、強き者の王、実に王の王、主の主でありたまいます。
 ただいま読んだ聖言は王に関して語っていると同時に、その王の先駆者に関しても語っています。先駆者はまた王の先触れ、すなわち彼の来たりたもうことを触れ示す者であります。主は旧約時代においても多くの先触れを有したまいましたが、新約時代においてもまた多くの先触れを持っていたまいます。使徒たちはイエスについて語りました。彼らはイエスについて語るほか、他に語るべき何ものもなかったのであります。いつの世、いかなる時代にも、イエスの先駆者のなかったことはありません。現在においても彼のことを語るを喜ぶ多くの男女が全地にあります。或る者たちは殉教の壇上において彼の栄光を拝しました。私らも彼の栄光を見た者であり、私も彼の先触れの一人であります。いかなるわけか彼の栄光は私の上にあるを覚えます。彼は私のために多くのことをして下さいました。彼は私を満足せしめたもう。私は彼の栄光について語らざるを得ません。ここに立って彼について語るとき、彼の先触れであることを痛感する者であります。
 まず注意していただきたいことは、主の先触れを聞くことは厳粛であり、また正当であるという一事であります。あなたは彼を蔑ろにしているかも知れません。彼に治められるを嫌うかも知れない。しかし、果たしてそうならば、あなたの霊魂は破滅に至るのであります。彼はあなたのために十字架の上に死にたもうた。そしてその血潮によってあなたの罪を潔めて下さった。皆様の中には、彼を救い主とし、また教師とし、主とし、また友として知り奉りおる方がありましょう。しかし、なお、彼を王として知り申さなければ、彼を全く知り奉るとは言えないのであります。
 しからば第一に、彼が王であるとは如何なることを言うのでありましょうか。彼が王として私共に致す要求は如何なる性質のものでありましょうか。彼はあなたの上に絶対権を保たんことを要求したもうのであります。すなわちあなたの全存在の支配者たらんことを求めたもう。あなたの一切の行為の支配者、良心の支配者、意志の支配者、将来の計画に対する支配者、あなたの願望、時間、技量、事業、家庭、快楽等の支配者としてあなたを治めんことを期待したもうのであります。彼はその欲する所にあなたを置きたもう。また善としたまわば、あなたをその重荷の分担者たらしめたまいます。彼が王であるならば、これらはあなたに対して掟であり、またあなたは彼の忠信なる臣下であるべきであります。
 さらに、この要求は絶対的であって、彼は決して変更も、譲歩、妥協もしたまわず、その標準を下げたもうこともないのであります。彼は常に『汝の一切を、汝の全部、悉皆を』と要求したまい、これ以外をもって満足せしめ奉ることはできないのであります。かつて、今から約六十年前、かのアメリカ南北戦争の時、多くの生命を奪った流血の争闘二年にして、人々は平和を希望致しました。時の大統領リンカーンは、南方の代表者たちを引見して講和会議を開きました。一汽船の甲板上、大地図を広げたテーブルを囲んで、南北の委員たちは会議を進めたが、リンカーンは南方の代表者が平和のためにいかほどの用意をしてきたかを知るために、無言の中に彼らの言葉に耳を傾けていた。南方の代表者は広げられた地図を指しつつ、この要塞はあなたの方に譲りましょう、またこの土地は一部を北方に割譲致しましょうとその腹案の一部を語ったときに、沈黙の大統領はやおら立ち上がって、『北方の政府は全部を要求する』とただ一言をもって答えました。それで戦はなお二年継続した。その結果、南方政府はついに絶対の屈服を余儀なくせられたのであります。私はずいぶんアメリカを旅行致しました。北方のみならず南方の人々とも多く対談致しましたが、彼らの意見はいかがでありますか。リンカーンは正当である、我等は二つのアメリカを要しないとは、彼らすべての人々の通論であって、当時了解し得ぬ人々が多くあったにしても、今は悉く了解せられているのであります。
 主イエスもちょうどその通り仰せたもう。彼はあなたの全部を要求したもう。私共は言うでしょう。もう少し献げよう、しかし自分のためにももう少し取っておこうと。しかし主は仰せたもう、我は一切の主、すべての王でなければならぬ、汝は一切を献ぐべきであると。これは実に大いなる要求であります。しかし正当なる要求であります。ローマ書十二章においてパウロは、主にすべてを献げるは当然である、また主が一切を要求するは合理的である、彼は一切を要求する権利がある。創造の上から、また勝利の上から、彼はこの権利を持つ。汝のものは皆、当然彼のものであると言っております。あなたは自分のものだと言ってはならない。あなたは買われたものです。その代価は主の救贖であるのであります。
 或る人は言うかも知れない、イエスを王とするということはそんな意味であるか。彼をして一切を支配せしめるということを意味するとならば、私はそんな主を求めない。そんな宗教はほしくない。彼をして一切たらしめるならば、私は奴隷ではないか。私はそれはまさに奴隷に他ならないと断言する、云々と。悪魔もそう申します。しかしそれは間違っている。主イエスを王として彼に一切を明け渡さなければ、あなたにはほんとうの自由はありません。彼をあなたの王たらしめることは、あなたの霊魂に、真の自由と喜びを意味いたします。主は来って一切を新しくしたまいます。その時、あなたは彼の栄えを見るでしょう。
 私も、主イエスを私の王とし奉るまでは、真の自由を知らなかった。純潔の甘美なる喜悦も味わいませんでした。しかし、一度彼を王として受け入れ奉った時に、かつては味わわなかった自由と喜悦とが私の心を満たしました。心の中に主イエスを王とすることは、将来に能力と喜悦とを得ることであります。
 ここに皆様に注意していただきたい一つのことがある。他でもない、或る人々は聖潔について知ることを好まない。またその人々をも好まないと言う。しかし兄姉よ、決して聖潔を軽んじてはならない。それは審判を招くことです。あなたは聖くなりたいと願いませんか。時至らば、敬虔の貌を持ちながら、その実のなかったことを知るでありましょう。
 もう一つの注意があります。それは王は待ち侘びたもうということであります。王は門の外に待ちたもう。しかし門を押し開こうとはしたまわない。またかの先触れもその門を無理には開きません。門は内側から開かなければならないのであります。イエスを王として迎え入れるために、門を開くはあなた自身です。先触れは門を開く必要を訴える。そして開くことを勧める。またそのために祈ることもできますが、外から門を開くことはできません。ただ彼の栄光をして門の中に入らしめよと叫ぶのに過ぎません。開くはあなた自身です。王は待っていられる。門の外に待っていられる。或る人々のためには、かなり長い間、待ち侘びたもうたことでありましょう。また今も待っていられるのであります。どうか次の四つの質問に答えていただきたい。
 (一)あなたは、主が一切の支配権を執るべきであると認めますか。
 (二)あなたは、主が一切の支配権を求めておられると信じますか。
 (三)あなたは、主に一切を支配せしめ奉ることに同意せられるか。
 (四)ただいま、このところで彼を王として受け入れますか。 どうかこの四つの質問に応答していただきたい。彼ご自身に答えなさい。心を開いて彼をご歓迎申し上げなさい。『たかぶりが、楽しみが、サタンが、私を支配しておりました。しかし、主よ、今、王位をあなたにお譲りいたします。今、あなたを王として受け入れ奉ります』と、主にお答え申し上げなさい。主イエスはこれをあなたに要求していなさるのであります。祈りましょう。



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