第 二  恩寵の四奇蹟



 『わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。』(エゼキエル三十六・二十五〜二十七)

 ただいま読みましたエゼキエル書三十六章二十五節以下は大いなる驚くべき聖言であります。これは私の非常に好きな聖言の一つでありますが、この聖言を見れば神様は私共をいかに重んじていたもうかが解ります。
 私共の神は実に驚くべき神であります。周囲をご覧なさい。仰いで日月星辰をご覧なさい。自然界の聖工は驚くばかり偉大なるものであります。しかし神様は、同時に人間の霊魂の中に不思議なる驚くべきことをなしていたまいます。無よりこの世界を造り出したまいしことは実に奇しきばかりのことでありますが、罪人を聖徒となしたもうということは更に驚くべきことであります。これは恩寵の奇蹟であります。これはいま読んだ聖言の中に現れております。神は奇蹟を行いたもう。如何なる心の中においても瞬間にそれをなしたもう。会衆の一人一人の中になしたもう。神の恩寵の四つの奇蹟、これは今晩私の申し上げたい事柄であります。
 第一は、すべての罪より潔めたもう奇蹟であります。『すべての汚れから清め』、神様はここで罪を『汚れ』と呼んでいらっしゃる。その中に二つのことが含まれております。その一つは、すべての罪はあなたの霊魂を汚すものであるということです。皆様にとって貧しきは堪え難いことであるかも知れない。しかしそれはあなたの霊魂を汚すものではありません。また様々な不幸、種々な逆境も耐え難いものでありましょう。しかし、それらはあなたの霊魂を害なうものではありません。また愛する者を失うということも辛いことです。しかしそれも霊魂を汚すことはできません。ここにただ一つ、あなたの霊魂を汚すものがあります。それは罪であります。罪のみが霊魂に汚穢を残します。神はそれを最も憎みたもう。それは到底見るに堪えないものだと仰せたもう。しかして神はそれが誰の上にあるを見るをも好みたまわないが、特に聖旨を痛め悲しませ奉るものは、神の子供等の上にある罪であります。私は世間の子供等が呪いの言葉や汚い言葉を口にするのを聞けば心を憂えしめる、しかしそれが私自身の子供であったならば更に憂えざるを得ない次第であります。
 さて神様は如何なる風にこの罪を取り扱いたまいますか。もし神様が私共を打ち棄て置きたもうならば、私共は罪のために地獄の滅亡に往く外はありません。しかし神様は見捨てたまいません。『すべての汚れから清め』ると仰せたもうのであります。しかも神のみがこれをなし得る御方であります。実にあなたの霊魂は罪によってのみ汚される、しかしてただ血潮によってのみ潔められるのであります。
 『わたしは清い水をあなたがたに注いで』。清き水とは何でありますか。それは潔める力を持つところの水であります。たとえば、昔、一つの犠牲が屠られた。しかしてその体は焚かれ、その灰は聚められて一つのきれいな壺の中に蓄えられた。ここに一人の者があって罪を犯した時に、清い水がその灰の中に入れられ、罪を犯した者の上に灑がれる。しかして彼は清しと証しせられたのであります。犠牲は主イエスの雛形であり、水は聖霊の雛形です。すなわち流されしご宝血を聖霊が罪を犯せる霊魂に齎してその汚れを潔めるとの思想でありますが、すべての汚穢を潔める力は主の血潮の中にあり、しかもそれを霊魂に当て嵌めるは御聖霊であります。すなわち血潮と御霊の力とが用いられて、ここに初めて霊魂が罪より潔められるのであります。しかもその被聖たるや十分も要しない、否、十秒も要しません。貴き血潮が霊魂に触れる瞬間、その瞬間潔めるわざは成就するのであります。有馬で歌った歌のコーラス、
  主の血、ああ力ある主の血を受けよ
  主の血、ああ小羊のいと貴き血潮 何とも言えぬ感動を受けました。お集まりの皆様の中には、既にこの血を実地に経験されている御方もおりましょう。ゆえに私は一層心強くキリストの血は潔め得ると断言することができるのであります。
 かつて数年前、私は母に会いに参りました。母の部屋には美しい絨毯が敷いてありましたが、どうしたはずみか私はインク瓶を落として、母の愛しているその美しい絨毯を汚してしまいました。驚いてお詫びすると、よいよい心配しないでおいで、私が良いようにするからと言いながら、私はどうするかと思ってみていますと(皆さん、母はどうしたと思いますか)、母は牛乳の入っている瓶といくつかの白い布きれとを持って参りました。そして一つの布をミルクの中へ浸し、それをもって絨毯を拭い始めました。続けているうちにミルクが無くなったので、また新しいのと取り換えて拭いました。やがてもうこれでよいと言ってやめましたが、見ればまだ痕が残っています。しかし母はそれは蒸発しているミルクの蒸気だから、蒸発してしまえばあとは綺麗になると仰って平気です。私もそうあればいいがと願いましたが、そうはならないかも知れぬとも思いました。翌朝行ってみると、果たして何の痕もありません。ミルクが乾いて、汚点も綺麗に去ってしまっています。私の感じはどうだったでしょう。思わずハレルヤと叫びたい気持ちです。けれどもそれは更に大いなる歓喜を私の心に齎しました。主の血は私の心からすべての汚穢をこのごとく綺麗に清め拭い去りたもうたのであります。私は私の穢れた心を主イエスの御許に持って参りました。そして潔めていただくために主に依り頼みました。主は祈祷と信仰に答えてその血をもて心に臨みたまい、私の衷より汚穢と汚点とを除き去りたもうたのであります。大いなる歓喜が与えられました。汚穢は去って心は血潮に清められている、これは恩寵の奇蹟であって、神のみがなし得たもうところであります。
 第二は心をすべての偶像より潔めたもう奇蹟であります。偶像とは何であるか。たとえそれが何であっても、あなたの心中に第一を占めるもの、それはあなたの偶像であります。あなたの心中の第一位は主イエスであるはずであります。主イエス以外のものが、主イエスの在りたもうべき処にありますならば、それは偶像であります。たとえばそれはあなたの事業であるかも知れません。あなたは事業に携わっておいでなさる。神は私を伝道者として召したまいしごとく、あなたをその事業に携わる者としたもうたのであります。そしてあなたがその事業に忠実ならんことを期待していたもう。ローマ書十二章は献身した者の生涯の律法です。主にすべてを献げた人はどうあるべきかが示されてあります。そこにある注意すべき一句、あなたはそれをご存じでありましょう。『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え』、すなわち仕事の中に怠らずです。全く主に献げ切り、主を第一とする時に、その仕事も更にまさってできるはずであります。矛盾のようですけれども、仕事を第一として主を第二とする時にかえって能率は上がりません。しかも仕事はあなたの偶像であります。
 或いは愛する者について考えてもよい。私に四人の子供があります。私は主を愛すれば愛するほどその子供等を愛します。しかし彼らを愛することのために主に背くならば、換言すれば、主よりも子供等の方を重くするならば、子供は私にとって偶像であります。ゆえに正しいものでも清いものでも、また神聖なものでも、時にはまた神様から頂いたものでさえも、偶像となり得るのであります。
 時にはまたそれが神様から頂いた成功であるかも解りません。一人の牧師がムーディ氏のことを評しておられました。氏に導かれた多くの者は堕落した、しかし自分の回心者はみな留まったと。私はそれを聞いて、心刺されるごとくに感じました。栄えを取る者は神様でなくして人ではありませんか。
 神は偶像を憎みたもう。彼はあなたの心中の第一位たらんことを要求していたもう。あなたの心に第一位を占める者は彼でなくてはなりません。あなたは彼をいかに饗応し奉りますか。神はあなたが偶像を持っているのを憂えなさる。そして『すべての偶像から清める』と仰せたもう。あなたはご自分でその偶像を取り除くことはできない。それはなかなか根深いものです。それを取り除き得るはただ主イエスのみ、しかもこれは今あなたになされんとしている聖業の一つです。これは恩寵の奇蹟であります。
 第三に、これは新しき心を与えたもう奇蹟であります。一体古い心とは如何なるものですか。神は簡単な、しかも印象強い対象をもって語っておられます。すなわち古い心とは石の心であると。石とは冷たい、固い、何の感じもない、何らの印象も受けないものであります。あなたが悲哀を打ち明けても石は何も感じない。同情も寄せない。石の心とはそんな心であります。これに対してもう一つの心がある。それは肉の心であります。生きている人間の心です。柔らかい、温かい、冷たくない心です。古い心すなわち石の心、新しい心すなわち肉の心、この二つの間には非常な懸隔がある。神は私共の中にあるこの古い心を取り除いて、新しい心を与えてくださるのであります。私はこの新しい心の意味をどうしたならば最も善く言い表せるかと考えていましたが、もしこの世に善い母があるとすれば、私の母はその一人であろうと思います。私は小さい時に父を失いました。父は八人の子供を残してこの世を去りました。別に貯蓄もありません。このあとを引き受けなければならなかった母は驚くべき祈りの人でありました。彼女は子女らのために祈ろうと毎朝四時に起き出でました。今は四人の息子等は世界のあちらこちらに散って神の福音を宣伝いたしております。四人の娘等も同様であります。これは彼女の祈りに対する神の答えであります。彼女には深い広い愛がありました。彼女は自分のことを考えずに、悲しむ者は慰め、饑えたる者には食を与えました。或るとき飢饉がありました。彼女は自らの食を減じて饑えたる人々に食を与えていたことを記憶しております。彼女には深い、広い愛の心があった。主よどうか私にも母の心のごとき心を与えたまえと祈ったことがあります。
 しかし先に読んだ聖言の中にはそれ以上のことが記されてあります。それは主イエスご自身の心です。それこそ実に愛の心です。だから私共はこんなコーラスを歌う、
  主の心もて わが心とせん
   主よ力をもて汝が心を 持たしめたまえ これこそは新しい心、主の愛したもうを愛し、主の憎みたもうを憎む、この主の心を神は私共に与えたもうのであります。
 第四、新しい霊を与えたもう奇蹟。私共はすべての罪から、また偶像から潔められる奇蹟、および、新しい愛の心を賜う奇蹟について学んで参りましたが、第四は新しき霊を賜う奇蹟であります。これはどういう意味でありましょうか。一体、人が或る人の霊(spilit)を愛すると言う時は、どんな心持ちで言うのでありましょうか。それはその人の行う行為ではなく、また何かその人の語る言葉でもなく、ただその人から出てくる或る一つのものであります。私はときにこれを花によって考えます。すなわち花の香りのように思われるのです。花の香りは花の形にも花の色にもよりません。一体香りとはどんなものでしょう。それは誰も知らない。科学でも解らない。花の香りは、今のところ、まだ科学でも説明がつきません。その香りとは小さい花が自分から撒き散らす或る特殊のもの、それをその花の息、また霊とでも申しましょうか。それは高い塀があっても構わずそれを通り越して匂わせます。幾年か前、私は独り或る道を歩んでいました。通路に沿って園がある。それはなかなか高い園で、したがって中を見ることはできません。しかしその園の中から自分の好きな花の香りが匂ってきました。私は立ち止まって胸一杯吸いました。そして心中生き生きしてくるのを感じました。その香りの出ないように塀を作ることは不可能であったわけです。
 私は新しき霊とは、主イエスの霊、主の香りと申し上げたい。それは聖霊が吹き込んでくださる香りであると言いたい。如何なる偽善者も聖徒の語ることを語ることができる。如何なる偽善者も聖徒のなす所をなすことができる。しかし偽善者には聖徒の香りがない。神はあなたがすべての罪から潔くなり、偶像から離れ、愛の心を持ち、しかして主イエスの香りをもって香りづけられることを望んでいらっしゃる。さればあなたは行くところ居るところにてイエスを知るの香りを撒き散らすことができましょう。これは驚くべき恩寵の奇蹟です。しかもこれはすべての人のためのものであります。神は『わたしは‥‥‥汚れから清め‥‥‥偶像から清める。‥‥‥新しい心を与え、新しい霊を‥‥‥授け』ると仰せいたまいます。然り、神のみが私共の罪を潔め、偶像を除き得る御方であり、愛の心を与え、主イエスの香りを香らしめたまい得る御方であります。彼は今それをなさんとて我等に臨んで在したもう。彼はかくなさんとして熱中していたまいます。兄姉よ、あなたはいかがでありますか。あなたはこれに対して如何なる態度を取られるか。あなたのなすべきことはこの同じ章の三十七節に顕されております。すなわち『イスラエルの家は、わたしが次のことを彼らのためにするように、わたしに求めるべきである』と。この節を注意していただきたい。神は『おまえのためになすことができる。なすことを喜ぶ。おまえはまたこれがなされるべきことをわたしに求めるべきである、依り頼むべきはずである』と仰せたもうがごとくであります。私共は『主よ、あなたに頼ります。どうか諸々の汚れを除いてください、そのために信頼いたします。心の中よりすべての偶像を取り除いてください、このためにあなたに信頼いたします。新しい心、柔らかい心を与えてください、そのために信頼いたします。また芳しき香りある霊についての御約束を履行してください、わたしは信頼いたします』と答え申さなければなりません。然からば神は御約束に忠誠にて在したもう。その聖言のごとく必ずなしたまいます。今なしたまいます。お祈りいたしましょう。



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