主は私共の祭司の長です。不断天国において、私共のために、禱告したまいます。この十七章は、主の禱告の祈りの摸型であります。私共はこれによりて、ご自分の弟子等に対する主の心の懇求が解ります。私共に対する主の聖旨が解ります。これを考えますならばこの十七章は至々聖なる言ではありませんか。私共は主の約束を聞きまするならば、幸いです。或いは神の律法を聞きまするならば幸いです。または神を示す言を聞きまするならば幸いです。けれども、主が至聖所に入りたもうて、神に祈りたもうことを聞きまするならば、これは何よりも厳かなる、何よりも幸いなることではありませんか。私共は人間の祈りを聞きまするならば、心が厳粛になります。けれども、神の聖子の祈りを聞きますることは、いかばかり厳粛に、また幸福でしょうか。これは測ることができぬと思います。どうぞ心を虚しくし、己を卑くしてこの言を聞きとうございます。これは聖書の中の至聖所であると思います。
一章より十二章までにおいて、主は公然の伝道をなしたまいました。十三章より十七章までにおいて、主はご自分の弟子を教えたまいました。いま四節において、『我なんぢの榮を世に顯し 爾の我に委し所の行は我これを成り』と言いたまいます。主は祈りをもってご自分の務めを終わりたまいました。十八章より以下、主は働きがありません。残るところは、ただ死のみです。主は祈りをもって、その生涯の務めを終わりたまいました。十四章より十六章までを見まするならば、自由に、また静かに弟子等に語りたまいました。いま十七・一に、天を仰ぎて言いたまいます。主はいま父に向かって語りたまいます。けれども弟子等に語りたまいましたごとく、自由に、静かに、また親しく語りたまいます。人間に対する談話と、神に対する談話とほぼ同じことです。
十四・十六をご覧なさい。『われ父に求ん 父かならず別に慰る者を爾曹に賜て窮なく爾曹と偕に在しむべし』。主はかく父に求むるように約束なしたまいました。主はその時から、今に至るまで、私共のために、聖霊を求めたまいます。けれども、この十七章に、格別にその約束を成就なしたまいます。これは主が約束したまいました祈りです。この十七章に、霊の降ることを願いたまいます。聖霊降臨の結果を願いたまいます。父なる神は、この祈りに応えたもうならば、ぜひ霊を注ぎたまわねばなりません。二十一節をご覧なさい。『此はみな一にならん爲なり』。この一つになることは、弟子が神と一つになること、また弟子相互に一つになることを指します。霊が降りませんならば、それが成就せられません。コリント前書十二・十三をご覧なさい。そうですから、今まで離れておりたる者でも、一つとなりました。或いは自主、或いは奴隷、或いはユダヤ人、或いはギリシャ人は、悉く一つとなりました。これは何のためですかならば、霊の感化です。使徒二・四十四〜四十七を見まするならば、弟子等は聖霊によりて皆一つとなりました。これは主の祈りの応えでありました。ヨハネ一書一・三をご覧なさい。それを見まして、ヨハネはその経験を得たと証しました。霊によりて神と一つになりました。また霊によりて兄弟と一つになりました。これはこの十七章の祈りの応えです。私共はそのように、一つとなりまするならば、主の祈りが応えられたものであります。すなわちこの十七章は、霊の降るための祈りであります。
今これを分かちまするならば、
一〜五は、ご自分のために祈りたまいます。
六〜十九は、弟子等のために祈りたまいます。
二十〜二十六は、教会のための祈りです。また悔い改めたる者のために祈りたまいます。
また主は神に向かって、如何に呼びたまいますか。五節に父よと呼びたまいます。十一節に聖父よと言いたまいます。二十五節に義き父よと言いたまいます。その区別をご覧なさい。ご自分のために祈りたまいます時には、ただ父よと言いたまいます。弟子のために祈りたもう時には、聖き父よと言いたまいます。これは何故ですかならば、弟子等が潔められることを願いたもうからであります。弟子をして聖なる者とならしめることを願いたまいますから、聖き父よと言いたまいます。聖き父は、ご自分の民を聖くなしたもうことができます。私共はそれを信ずることができますか。主はそれを信じたまいました。
また主はこの世に属ける者のために、祈りたもうたる時には、義しき父よと言いたまいました。神は義をもって人間に対したまいます。また義をもって人間を救いたまいます。私共は神の義なることを信じますか。いま私共は幾分か神の愛なることを信じましたかも知れません。けれども、神の義しきことを信じました者は、少ないと思います。神は義をもって人間に対したもうこと、義をもって罪人を罰したもうこと、義をもって罪人を救いたもうこと、神の聖為は悉く義しきことを信じますか。どうぞそれを明らかに信じとうございます。或る人は、神は人間を救いたもうならば、愛と憐憫とがあります、けれども、あまり公平ではありませんと申します。けれども、神は人間を救いたもうてもその聖為は義しくあります。『神は其血によりてイエスを立て信ずる者の挽回の祭物と爲給へり 蓋神忍て已往の罪を寬容に爲給ひし事につきて今其義を彰さんため 卽ちイエスを信ずる者を義とし尚みづから義たらんが爲なり』(ローマ三・二十五、二十六)。『かれら神の僕モーセの歌と羔の歌を謳て曰けるは 主 全能の神 なんぢの行爲は大なるかな 妙なるかな 萬民の王よ 爾の道は義なるかな 誠なる哉』(黙示録十五・三)。また黙示録十九・二をご覧なさい。『その審判は直かつ義なり 蓋神かの淫亂に因て世界を汚したる大淫婦を鞫き己が僕等の血の報を求て之を罰し給へば也』。罪人を罰したもうことも、正しくございます。罪人を救いたもうことも、正しくございます。二つながら公平でございます。そうですから、二十五節において、この世のために祈りたもうた時に、義しき父よと言いたまいます。
この十七章は、悉く祈りです。けれども、格別に願いたもうたる五つのことを見ます。
第一は、『爾の子の榮を顯し給へ』(一)。或いは『父よ 今我をして爾と偕に榮を得させ給へ』(五)。これはご自分のための祈りです。以下、弟子、或いは教会のための四つの願いを見ます。
第二は、『之を守て』(十一)
第三は、『潔め給へ』(十七)
第四は、『一にならん爲』(二十一)
第五は、『我と偕に在て我榮すなはち爾が我に賜し者を見んこと』(二十四)。
この四つの願いを深く考えまするならば、私共の経験の順序に従う願いであると思います。これは私共の聖き心の願いであります。私共はまだかかる願いを捧げません前に、主は私共のために既に祈りたまいました。私共は自分が守られ悪より救われること、潔められて主と偕におることを願いましたか。主は予め私共のために、そのことを願いたまいました。予め天の処において、父の前に私共のために願いたまいました。
『父よ 時いたりぬ』。初めから預言せられたる時、初めから罪人が待ち望みたる時、初めから種々の雛形において示されたる時、初めから天使も待ち望みたる時が、今いたりぬ。その時はいかなる時ですかならば、十字架の時です。永遠限りなき時から、永遠限りなき時まで、最も大切なる時です。必ず世の歴史の上に、最も大切なる時です。主はその時のために、栄光を捨てたまいました。その時のために、天国を去りたまいました。その時のために、人間となり、僕となりたまいました。その時のために、いま苦楚を受けたまいます。この時は、何人も注意を要すべき時であります。
或いは罪人でありまするならば、この時を注意しなければなりません。或いは神の子供でありますならば、この時を注意しなければなりません。或いは天の使でありましても、これは注意を要すべき時です。或いは救われて、もはや天国におる人間でも、この時を永遠紀念まして、その意味と力を研究なければなりません。今その『時いたりぬ』。すなわち十字架の時が参りました。
『なんぢの榮を顯さんが爲に爾の子の榮を顯し給へ』。主は何を願いたまいまするかならば、この杯を離ちたまえと願いたまわずして、十字架によりて爾の栄光を顕さんがために、爾の子の栄光を顕したまえと願いたまいます。私共は、或いは苦難に遇いましても、或いは迫害に遇いましても、或いは人より窘迫られましても、これらのことの取り除かれることを願いませずして、ただその時、『父よ …… なんぢの榮を顯さんが爲に爾の子の榮を顯し給へ』と祈りとうございます。いま迫害の中に、苦難の際に、どうぞ爾の栄光を顕したまえと祈りとうございます。主はご自分のために、栄光を求めたまいません。ただ神の栄光を顕わさんがために、栄光を求めたまいます。父が栄光を得たまわんがために、子は栄光を得とうございます。私共は神の子と称われますか。神の子たる者は、必ず自分の栄光を求めません。ただ父の栄光を求めます。けれども、そのために、天に属ける第一の恵みを求めましょう。主が求めたまいたる栄光は、如何なる栄光でありましたか。五節をご覧なさい。『父よ 今我をして爾と偕に榮を得させ給へ』。英語聖書には、爾と偕なることによりて(with thine own self)とあります。主は他の栄光を求めたまいません。ただ父と交わることの栄光のみを求めたまいます。帕子なくして、父と一つになりて交わることのみを求めたまいます。二十四節を見ますならば、同じことがあります。『父よ 爾の我に賜し者の我をる所に我と偕に在て我榮すなはち爾が我に賜し者を見んことを願 そは世基を置ざりし先に爾われを愛したれば也』。すなわちその栄光は父の愛でした。主はその栄光を求めたまいます。主は必ず他の栄光、他の権力を求めたまいません。ただ父の愛を求めたまいました。それは主の栄光でした。それはまた私共の栄光です。私共はそれを求めますか。私共の栄光は、父に愛せられることです。父の愛を経験することです。神は必ず何人でも愛したまいます。けれども、ご自分の聖旨に叶う者を格別に愛したまいます。神は必ず何人でも愛したまいます。けれども、何人も悉く神の愛を経験いたしません。私共の栄光は、他のことではありません。父の愛を経験することです。これは世におる間の最上の恩恵です。私共はたびたび伝道の力を求めます。或いは心の喜楽を求めます。或いは種々の成功を求めます。けれども、これらのことは真正の栄光ではありません。私共の求むべき栄光は、ただ父の愛のみです。
主はこの祈りによりて、聖霊の降ることを願いたまいました。またその願いは、ご自分が経験したもうたる愛と同じ愛を、弟子等が経験することでした。それはただいま求めたもう栄光であります。再びこの節をご覧なさい。『爾の子なんぢの榮を顯さんが爲に爾の子の榮を顯し給へ』。主はこの世に父の栄光を顕しとうございます。如何にしてそれができますかならば、天に昇りて聖霊をそそぎたもうことによってであります。聖霊が降りたまいまするならば、人間は父を愛し、父を識ることを得ます。そうですから、いま聖霊を降すために、ご自分の栄光を求めたまいます。私共は聖霊が降る時に、或いは主が聖霊を注ぎたもう時に、父なる神の栄光を顕したることがよく解ります。これはこの一節の祈りの応えであります。
またその時から、たびたび聖霊を注ぎ、たびたび父の栄光が顕れます。『爾の子の榮を顕し給へ』。十三・三十一、三十二をご覧なさい。以前に研究ましたとおり、この言は、十字架を指します。十字架によりて、主は栄光を受けたまいます。そうですから、ただいま『爾の子の榮を顯し給へ』という祈りは、語を換えますならば、十字架を負うことを願いたまいます。死ぬることによりて、その栄光を受けたまいます。
その時に、何人がこの言をいいたまいましたか。この言を発したる者は、表面から見まするならば、人間に軽んぜられて、人間の中で最も弱き者でありました。当夜捕らわれて、翌朝十字架に釘けられたる、実に弱き者でありました。けれども、ただいま静かに聖声をお聞きなさい。『凡の者を制る權威を我に賜たれば也』。主はご自分の権力、ご自分は人間の救い主なることを能く知りたまいました。その時から、十二時間を経たる後に、十字架に懸かりたまいました。けれども、ただいま確信をもって、ご自分の権能を能く解りたもうて、『凡の者を制る權威を我に賜たれば也』と言いたまいます。いま罪人の手に解されましたる者は、億兆の罪人を救う力を有っていたまいます。主はただいまこの権威を有っていたまいます。私共はこれを信じますか。罪人のために、血を流したもうたる主は、ただいま罪人を制むる権威を有っていたまいます。どうかそれを信じて、主イエスを宣べ伝えとうございます。それを信じませずして、主イエスを宣べ伝えまするならば、その結果が少のうございます。けれども、この信仰をもって、福音を宣べ伝えまするならば、主はその権威を用いたまいます。
主はすべての者を制むる権威を受けたまいました。マタイ十一・二十七をご覧なさい。『父は我に萬物を予たまへり』。マタイ二十八・十八をご覧なさい。『天のうち地の上の凡の權を我に賜れり』。主はその権威を有っていたまいました。けれども、その権威を顕すために、父に権威を願いたまいます。すなわち人間を救うために、霊が降りたもうことを願いたまいます。主は栄光を受けることによりて、満足を得たまいません。そのために、罪人を救うことができまするならば、それによりて満足を得たまいます。主はただ自分のために、栄光を得とうございません。けれどもそれによりて、罪人が救いを得まするならば、満足を得たまいます。
ただいま研究しましたることは、父なる神と、子なる神との交わりでした。また子なる神の心が、現れました。その心の願いは何でありますか。神の聖前に出でて、その心が現れたる時に、如何なることを願いたまいましたか。それはただいま研究したるところであります。ああ主は、私共各自のことを重荷となしたまいます。主は私共各自の栄光を求めたまいます。各自の聖潔と、福祉とを求めたまいます。
もう一度二節をご覧なさい。『これ爾われに賜し所の者に我永生を予んがため凡の者を制る權威を我に賜たれば也』。主は私共に、このように生命を与える権威を父なる神より、頂戴したまいました。二節において、主は私共に永生を与えたもうことを見ます。三節において、この永生とは、何でありますかならば、父を識り、子を識ることなることを見ます。そうですから、主は如何にして、罪人を救いますかならば、罪人に父なる神を示したもうことによりてであります。愛の繋ぎをもって、人間をご自分の足下に引き寄せたまいます。
主は私共に三つの賜物を与えたまいます。
第一は、永生です(二、三)。すなわち神を識ることです。
第二は、道です(十四)。この道は、生命を養う糧です。
第三は、栄光です(二十二)。
これは全き生命であります。主は私共をご自分に象らしめんがためにこの三つの賜物を与えたまいます。
『我なんぢの榮を世に顯し』。これは怪しむべきことです。神はいつでも天国に崇められたまいます。天国に神の栄光が顕れてあります。けれども、ただいまこの汚れたる世の中にその栄光が顕れました。サタンの国の中に、神の栄光が顕れました。神はその目的のために、イスラエル人を撰びたまいました。『なんぢの民はことごとく義者となりてとこしへに地を嗣ん、かれはわが植たる樹株 わが手の工 わが榮光をあらはす者となるべし』(イザヤ六十・二十一)。その栄光を顕すためです。『灰にかへ冠をたまひてシオンの中のかなしむ者にあたへ、悲哀にかへて歡喜のあぶらを予へ うれひの心にかへて讃美の衣をあたへしめたまふなり、かれらは義の樹 ヱホバの植たまふ者 その榮光をあらはす者とゝなへられん』(同六十一・三)。主はどうして、この世の中に、神の栄光を顕したまいましたかならば、苦しむ者に安慰を与え、饑え渇く者を満足せしめたもうことにより、神の栄光を顕したまいました。
『我なんぢの榮を世に顯し爾の我に委し所の行は我これを成り』。主はもはやそれを終わりたまいました。いま死ぬるより外に、何も行は残りてありません。ただ死ぬることのみが残りてあります。ヨハネ十九・三十をご覧なさい。『事竟ぬ』。主はそれを叫びたもうことができました。この十七・四の時より、十九・三十の時までは、ただ僅かに一日の間でした。主は事畢りぬと叫びたもうことができました。十七・四において、もはや外部の働きを終わりたまいました。そうですからこの時から、サタンはその心のままを行うことができました。黙示録十一・七をご覧なさい。『彼等が其證をなし畢んとき底なき坑より上る獸ありて之と戰をなし勝て之を殺さん』。これは今より未来のことであります。けれども、いま同じことがあります。主はもはやその証をなし終わりたまいました。そうですから、サタンは、直ちにこれと戦いをなし勝ちてこれを殺します。今まで主がその働きをなし終わりたまいません間は、サタンは何の力もありません。サタンは、初めから主を亡ぼしとうございます。けれども、主が未だ委ねられたる働きをなし終わりたまいません間は、サタンは、何もすることができません。けれども最早その働きを終わりたまいたる時に、サタンはこれを殺す権威を有ちます。
主はこの世に降りたもうて、この世の中に、神の栄光を顕したもうことができました。その働きをなし畢りたまいました。黙示録二十一・六をご覧なさい。『既に成り』。これは同じ意味であります。ヨハネ伝の終わり(十九・三十)に、『事竟ぬ』と叫びたまいました。けれども、いま天国において、働きたまいます。いま新天新地を造る働きを務めたまいます。未来において、その働きを『既に成り』と叫びたもうことができます。
『爾の我に委し所の行は我これを成り』。私共もこの世を去ります時に、同じことを叫びとうございますならば、いま毎日主と共に歩み、一日のわざをその日になし畢らねばなりません。
『創世より先に』。主は何故この世に降りしより先に、爾と偕に有ちし栄光と言いたまいませんか。それは何故ですかならば、旧約聖書において、すでに主の苦しみが始まりました。主は旧約時代より、最早己を卑くなしたまいました。罪がこの世に入りました時から、主は己を卑くし、自らを苦しめて罪人を救うことを務めたまいました。その時から、神と偕に全き栄えがありません。そうですから、『創世より先に爾と偕に有し所の榮』と言いたまいます。
『爾と偕に有し所の榮を得させ給へ』。ピリピ二・九、十において、神はこの祈りに応えたもうたることを見ます。またエペソ一・二十〜二十三をご覧なさい。主はこの世に王となる筈でした。けれども、人間はそれを拒みます。主はこの世に天国を造りたまいとうございました。けれども、人間はそれを拒みました。主は人間より追い出されたまいました。ただいま神はその主を受け入れたまいます。その主を栄めたまいます。以下六節より十九節までにおいて主は弟子のために祈りたまいます。
六〜十三は、弟子と父との関係です。
十四〜十九は、弟子とこの世との関係です。
六節に『我に賜ふ』という言を二度言いたまいます。この十七章に、弟子は主に賜りたるものであることを七度言いたまいます。
神が聖子に与えた最上の賜物は、聖子の愛の目的である人間の魂です。またその魂より愛を受けたもうことであります。私共は聖子に与えられたる最上の賜物です。これによりて人間一人の魂は、全世界よりも貴くあることが解ると思います。
主は他の賜物を慕いません。私共の魂を慕いたまいます。何のために、主がそれを慕いたまいますかならば、ご自分に象らしめんがためです。主は必ず罪人を要めたまいません。けれども、汚れたる罪人を変えて、輝ける聖徒とならしめることができると思いたまいましたから、私共を択びたまいました。私共の中に、隠れたるものが解りたまいました。私共をもって、神の尊貴き子供を造ることができると思いたまいました。未来において、私共がみな主の形を得ました時に、その選択は正しくあることを解りましょう。主はそれほどに、私共を貴びたまいます。私共を慕いたまいます。そうですから、私共は互いに貴ばなければなりません。それを覚えまして、兄弟を軽んずることはできません。私共は、未来において、神の聖子の大いなる働きの記念碑となります。この主に賜りたるものの特質は六、七両節によりて解ります。
主の弟子たる特質は二つあります。第一、主の言を受くることと、第二、主の言を知ることとであります。
その言を守り、その言を受け、その言を信ずることは、ほぼ同じ意味です。守り、受け、信ずることは、主の弟子たる者の特質です。兄弟よ、それは私共の特質でありますか。私共は主の言を受け入れまして、真実にそれに従うておりますか。少しも省きませずして、そのまま皆々主の言を受け入れますか。
次に知ることです。『皆爾より出しと知』(七)。『我爾より出し事を誠に知』(八)。格別に主が神たることを知ります。明らかにそれを知ります。
この知ることは、言を受け入れたる結果です。私共は言を受け入れまするならば、必ず続いて知ることを得ます。
『我なんぢの名を顯せり』(六)。汝の名とは汝の性質という意味です。汝の恵み、汝の愛、汝の性質、汝の心を彼等に顕せりという意味であります。出エジプト記三十四・五をご覧なさい。『ヱホバ雲の中にありて降り彼とゝもに其處に立ちてヱホバの名を宣たまふ』。いま主が汝の名を顕せりと言いたもうたる言は、同じ意味であります。当時エホバは、雲の中にモーセの眼の前に降りて、ご自分の名、ご自分の性質を顕したもうたるごとく、主はこの世に降りて、人間の眼の前に神の名を顕したまいました。神の性質、神の聖旨を人間に顕したまいました。私共は霊の眼をもって、四福音書を読みますならば、これは父なる神の黙示録であります。
八節に、弟子等に与えられる言は、父なる神の言です。ちょうど十四・十のごとくであります。『われ父にをり父の我に在ことを信ぜざる乎 われ爾曹に語し言は自ら語しに非ず 我にをる父その行をなせる也』。いま同じことを言いたまいます。その言は父の言です。またその言によりて、弟子等は、『爾の我を遣しゝこと』を信じました。その言によりて、また二十一節を見ますならば、『かつ世をして爾の我を遣しゝ事を信ぜしめん爲なり』。初めに弟子、次に世の中の人々は、主の神より出でたることを信じます。
これは私共の幸いではありませんか。『我かれらの爲に祈る』。このかれらは何人を指しますかならば、私共です。原語を見まするならばこの我(Ego)は非常に語勢の強き言です。その意味は、すべての権威を有つ我、神たる栄光を有つ我、彼らのために祈るという意味です。そのような祈りは、必ず応えられます。神たる主が祈りたもうならば、その祈りは必ず応えられます。
『我祈るは世の爲に非ず 爾の我に賜し者の爲なる耳 それ彼等は爾の屬なれば也』。主はこの貴き賜物の価値を分りたまいます。この活ける魂の価値を分りたまいます。父なる神より与えられたる賜物ですから、父の神のために、その賜物を守りとうございます。またその賜物を顧みとうございます。父なる神は私共をもって、その賜物を与えたまいましたとわかりますから、主はその賜物をいつまでも眷顧みとうございます。
また十節を見まするならば、『凡て我屬は爾の屬 なんぢの屬は我屬なり 且われ彼等に由て榮を受』と言いたまいます。これは主の神に願いたもうところであります。主が弟子の潔められることによりて、栄光を得たまいますから、父なる神は主を愛したもうためにその弟子を恵みたまいます。そうですからこの九、十節において、私共キリストの弟子たる者は、如何なるものなるかが分かります。
第一は、キリストに賜わりたるものです。
第二は、神の属です。
第三は、キリストの栄光です。
『われ今より世に在ず』。九・五をご覧なさい。『我世に在時は世の光なり』。けれども、今より世に在らずと言いたまいます。けれども『彼等は世にをり』。たとい主がこの世を去りたまいましても、弟子はこの世におります。そうですから、主がこの世を去りたまいましても、この世の損ではありません。却りてそれは神の恩を現すに、最も善き企てです。ご自分が天国におりたもうて、弟子が地の上におることは、神の栄光を顕す最上の方法です。天国において、主はすべての権威を有っていたまいますから、地の上に戦う者を助けることができます。また悪魔の国に在る弟子は、主の助けによりて、主のために戦うことができます。それを見まするならば、自分の責任の重きことが解ります。私共は主の代理人であります。
『彼等は世にをり』。十四節に『彼等も世の屬に非ざれば也』と言いたまいます。そうですから世におります。けれども世の属ではありません。全く世の中の人々とは違います。私共は果たしてそのような弟子でありますか。また十八節をご覧なさい。『我も彼等を世に遣せり』。私共は何のためにこの世におりますかならば、主に遣わされましたからです。私共は主の使者です。主はこの世に遣わされたもうたるがごとく、私共も遣わされたるものであります。私共はこの世において、他の用事はありません。ただ主がこの世に遣わされたもうたるごとく、主に遣わされたるものであります。
『聖父よ 爾の我に賜し者を爾の名に在しめ 之を守て我儕の如く彼等をも一になし給へ』。主はここで私共のために二つの願いをなしたまいます。『之を守て』。この弱き羊は狼の中におりますから、これを守りたまえ。この弱き者は汚れたる世の中におりますから、世に化せられぬように、父よ彼らを守りたまえと祈りたまいます。私共はこの祈りの力によりて、汚れたる境遇におりましても、父に守られて聖きものであります。
また第二の願いは、『我儕の如く彼等をも一になし給へ』。キリスト信者は、一つでありませんならば、必ず勝利を得ることはできません。キリスト信者の中に、或いは相互の隔障があり、或いは憎悪があり、或いは教派の隔障などがありまするならば、それは主の心の祈りを妨げます。また必ずそういうことがありまするほど、この世の中に弱きものです。たぶん世に負けましょう。けれども、この一つという言の中に、なおなお深き意味があると思います。神と一つになるという意味も含みてあります。今まで主が御在世中に、神と一つでありしごとく、今からのちにキリスト信者は、神と一つにおることができます。神と私共との間に隔てがなく、一つになるように守られます。これは実に幸いの事であります。神に守られることは、それほどの意味があります。
『爾の名に在しめ』。神の名は私共の上に録されまするならば、サタンは私共に触れることはできません。どうぞこれを確信して、心の中に不断自分は神の属であると思いたいものです。神の名は私共の上にあります。僕は主人の名を法被に録して用いますように、私共は不断神の名をもって、この世を歩まなければなりません。雅歌二・十六をご覧なさい。『わが愛する者は我につき我はかれにつく』。どうぞ不断心の中にそれを覚えとうございます。
イザヤ四十・二十六において、主の守りの力を見ます。『主のいきほひ大なり、その力のつよきがゆゑに一も缺ることなし』。このように『爾の我に賜し者を我守りしが其中一人だに亡たる者なし』。
今まで主がこれを守りたまいました。けれども、今からこれを去りたまいますから、その淋しきこと、また危うきことを覚えたまいます。今まで弟子は、危うき境遇の中におりました。けれども、主はこれを守りたまいました。今からこれを去りたまいますから、父なる神の守りを願いたまいます。
ただ喜楽を与えんがためのみにあらずして、充たしめんがためです。今まで極めて弱きものでありました。けれども、今から主の喜楽に充たされまして、強き者となることができます。ネヘミヤ八・十をご覧なさい。『ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし』。主はただいま弱き弟子等に力を与えたまいとうございます。また主は『我喜悦』と言いたまいます。十六・三十三において、主は平安を与えたまいます。またその平安は、十四・二十七を見まするならば、『我平安』と言いたまいます。主は艱難の中にわが平安を与えたまいます。危険き模様におる時に、わが喜楽を与えたまいます。また十七・二十六を見まするならば、わが愛も与えたまいます。今まで主が有っていたもう平安と、喜楽と、愛をこれから弟子等に与えたまいます。私共に与えたまいます。以下十四節から、主に与えられたるものは、どういうものであるかが録されてあります。
『われ爾の道を彼等に授たり』。これは第一のことであります。信仰をもって神の活ける言を受け入れました。またそのために、『世は彼等を惡む 蓋わが世の屬に非ざる如く彼等も世の屬に非ざれば也』。道のために世を離れたる者となります。天に属ける者となります。世を愛する愛が失せ、世に繫がれたる関係が切れます。弟子は世を離れたる全き者となります。またそのために、世に悪まれる者となります。これは第三の特質です。主の属はこの世より悪まれます。けれども、第四に、十五節をご覧なさい。
神に守られております。『かれらを守て惡に陷らす勿れと祈る』。ヨハネ一書五・十九をご覧なさい。『我儕は神につき 擧世は惡者に服するを我儕は知』。すべての世は悪しき者に服しております。そうですから、私共は守られて、この世に消光することができまするならば、奇跡です。この世に服しませずして、この世を歩むことができまするならば、奇跡です。神は私共のためにこの奇跡を行いたまいます。私共は毎日それを祈らなければなりません。マタイ六・十三をご覧なさい。『惡より拯出し給へ』。原語で同じ語です (『惡』は poneros = 「害するもの」の意) 。悪しきことより、救い出したまえと祈らなければなりません。
第五の特質は潔められました者です。私共は主の言によりて潔められます。癩病人が主の言によりて、潔められましたように、私共は同じ活ける言によりて、潔められておる筈です。私共はただ十六節のごとく、世を離れたるだけにては、主は満足したまいません。それと同時に潔められたる者とならなければなりません。どうぞコロサイ書三・十六のごとく、潔めを受けんがために、断えず主の言を受け入れて、生涯を送りとうございます。
私共は十六節のごとく、世を離れ、また十七節のごとく潔められまするならば、十八節のごとく、主の使者となることができます。これは第六の特質です。私共は全く主イエスの立場に立つことができます。私共は世の属にあらずして、潔められた者です。また主イエスのように、遣わされたる者です。また二十六節のごとく、主が父に愛せられたまいしごとく、私共も同じ愛を頂戴することができます。主はどういう法をもって、私共のこの六つの特質を成就したまいますかは、十九節に示されてあります。
『我彼等の爲に自己を潔む』。この意味は、何でありますか。主は固より聖なるものであります。けれども、この自己を潔むという意味は、他のことを離れて、ただ彼らの潔められることのみを務むという意味です。戦争に出ずる兵士は、ただ戦争のことばかりに力を尽くしまするように、主は他のこと、他の栄光、他の務めを捨てて、ただこの一事を務めたまいます。主はいかばかり私共の潔められることを願いたまいましたかならば、自己を潔めて、それを成就なしたもうほどでありました。
以下、主は悔い改めました者のために、祈りたまいます。
また格別に、後に悔い改めたる者のために、何を祈りたまいますかならば、一つになることを祈りたまいます。これは格別に主の心の願いです。主が父なる神と親しく交わりたもう時に、格別にこれを願いたまいます。どうかこの祈りに少しも妨げないように、気を付けとうございます。またその一つになることは、何程一つになることを願いたまいますかならば、『父よ 爾われに在われ亦なんぢに在』ごとく、一つにならんことを願いたまいます。私共はいかにして、互いに相愛することができますか。いかにして一つになることができますか。それは『彼等も我儕にをりて一にならん爲』。すなわち私共は主におりますならば、必ず弟子等の中に隔てがありません。
『かつ世をして爾の我を遣しゝ事を信ぜしめん爲なり』。そうですから、私共は一つでありますならば、この世は信じます。主はここにおいて私共に勝利の秘訣を悟らしめたまいます。私共はいかにして、この世に主を信ぜしめることができますか。熱心なる働きによりてでありますか。多数の働き人があることによりてでありますか。否そうではありません。ただ一つになることによりてであります。これは主を信ぜしめることの秘訣です、信者が一つになりまするならば、そのために、世は必ず主イエスを信じます。主が私共に勝利の秘訣を与えたまいます。私共はそれを信じて、それに従いますか。たびたび私共は、伝道について相談します。いかにして伝道を盛んにせんかと思います。けれども、ここに明らかにその秘訣が録されてあります。
兄弟と兄弟の間に隔てがありますか。或いは悪しき感情がありますか。伝道を致しとうございまするならば、第一にそれを取り除かなければなりません。伝道師は、いかに熱心に働きましても、いかに聖書の知識がありましても、いかに霊の経験や、伝道の経験がありましても、他の兄弟と一つにありませんならば、その人は伝道師として、欠けたるところがあります。却って伝道を妨げます。神は私共に、知識や経験などを求めたまいません。ただ愛のみを求めたまいます。愛をもって、兄弟と交わることを願いたまいます。これは伝道の秘訣です。或る人は、わたしは他の兄弟と別段隔てがありません、悪しき感情がありませんと申します。けれども、その人は、他の兄弟と一つになりましたか。真正の愛がありますか。主は兄弟と兄弟との間に、悪しき感情のないことのみを願いたまいません。真正に一つになることを願いたまいます。真正の愛が行われることを願いたまいます。心と心が一つになりて、どなたでも、祈りの友となることを願いたまいます。兄弟よ、私共はこのことによりて、神の御名を汚したことはありませんか。このことによりて、罪人の救われることを妨げたことはありませんか。このことのために主の栄光を隠したことはありませんか。
『爾の我に賜し榮を我かれらに授たり』。この栄光は何でありますかならば、霊です。霊は天国の栄光です。主がご自分に与えられたまいし栄光を、ペンテコステの日において、初めて弟子に授けたまいます。エペソ書一・十三、十四をご覧なさい。『爾曹も眞の道すなはち爾曹を救ふ福音を聞し後キリストを信じ我儕が業を嗣の質なる約束の聖靈を以て印せらる』。聖霊は業を嗣ぐの質です。そうですから、『爾の我に賜し榮』とは、聖霊を指します。それにより、『我儕の一なるが如く彼等も互に一とならん爲なり』。聖霊によりて一つになります。
私共は、神が私共を愛したもうことを、この世に知らしめますか。世に属ける者が、私共を見まして、私共によりて神の愛を知りますか。私共は自分の心の中に、神の愛をわかりますか。神が主イエスを愛したもうごとく、私共を愛したもうことを知りますか。『なんぢ我を愛する如く彼等をも愛することを知しめんと也』。これは実に怪しむべき言ではありませんか。おお、父はちょうど聖子を愛したもうごとく、私共をも愛したまいます。主は断えず神の慈愛の全き光の中にいたまいました。私共は幾分か父の愛を経験しました。けれども、このように父の全き愛の裡におりますか。神は主に授けたまいましたと同じ愛を私共に与えたまいます。十五・九をご覧なさい。『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す』。十三・三十四をご覧なさい。『われ新誡を爾曹に予ふ 即ち爾曹相愛すべしとの是なり 我なんぢらを愛する如く爾曹も相愛すべし』。そうですから、第一に、父は聖子を愛したもうごとく、また私共を愛したまいます。また第二に、父の聖子を愛したもうごとく、聖子は私共を愛したまいます。第三に、主が私共を愛したもうごとく、私共も互いに愛せねばなりません。そうですから、父の聖子に対する愛は、父が私共に対する愛と同じことです。父の聖子に対する愛は、聖子が私共に対する愛と同じことです。聖子が私共に対して有ちたもう愛と、私共が互いに愛する愛と同じことでなければなりません。
『我をる所に我と偕に在て』。主は何処にいたまいましたかならば、三・十三のごとく、『天より降り天にをり』たまいました。主は御在世中にも、天国におりたまいました。父の栄光の中におりたまいました。その栄光は、父の愛です。そうですから、この二十四節において、私共のために未来の栄光を願いたまいません。現在の恵みを願いたまいます。今この世におる間に、天の処におることを願いたまいます。エペソ書二・六をご覧なさい。『又イエスキリストに在われらを彼と偕に甦らせ共に天の處に坐せしめ給へり』。いま私共は、これを経験することができます。前に十一節に、『彼等は世にをり』と言いたまいました。今『我をる所に我と偕に在て』と言いたまいます。これは反対ではありません。私共の身体は、この世におります。けれども、心においては、天国におることができます。天国を経験しまするならば、主の栄光を見ることができます。コリント後書三・十八をご覧なさい。帕子なくして、主の栄光を見る処は、何処ですか。いま主と偕に天の処におることです。
『義き父よ 世は爾を識ず』。神は初めから黙示を与えたまいました。初めから人間の心の中に働きたまいました。けれども、『世は爾を識ず』。世は初めから宗教が行われました。宗教の儀式を務めました。けれども、『世は爾を識ず』。世は神を識ると思いました。けれども、主がこの世に来りたまいました時に、主が神について思いたもうところは、人間が神について思う所と反対でありましたことを見ます。主は父を識りたまいましたならば、世は父を識らざりしことを分かります。その思想は、全く反対でありました。私共は神を識りとうございまするならば、世に属ける思想を全く捨てて、主イエスの聖旨を受け入れなければなりません。
『我なんぢの名を彼等に示せり』。今まで言によりて、行いによりて、ご自分の生涯によりて、神の名を彼らに示したまいました。『復これを示さん』。これから後に聖霊によりて、なおなお明らかに『復これを示さん』。これから後に新約の聖書によりて、信者の心の中に、『復これを示さん』。そうですから、どうぞ主イエスが私共に新しく父を示したもうことを不断待ち望みとうございます。マタイ十一・二十七をご覧なさい。『子の顯す所の者の外に父を識者なし』。私共は今まで主によりて父を示されました。けれども、またこれを示さんと言いたまいます。どうぞ主は新たに、また明らかに、私共に父を顕したもうことを待ち望みとうございます。そうですから、漸次心の中に愛が生長いたします。『蓋なんぢの我を愛するの愛かれらに在 また我かれらに在ん爲なり』。そうですから、父の愛は私共の心の中にあり、またそれと同時に、主は私共の心の中におりたまいます。主はただ愛の中におりたまいます。私共は心の中に父の愛がありまするならば、主も心の中におりたもうことができます。
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