第 十 七 章 



 しゅ私共わたくしどもの祭司のおさです。不断たえず天国において、私共のために、禱告とりなしたまいます。この十七章は、主の禱告とりなしの祈りの摸型てほんであります。私共はこれによりて、ご自分の弟子等に対する主の心の懇求ねがいわかります。私共に対する主の聖旨みこころが解ります。これを考えますならばこの十七章至々いといと聖なることばではありませんか。私共は主の約束を聞きまするならば、幸いです。或いは神の律法おきてを聞きまするならば幸いです。または神を示す言を聞きまするならば幸いです。けれども、主が至聖所いときよきところりたもうて、神に祈りたもうことを聞きまするならば、これは何よりも厳かなる、何よりも幸いなることではありませんか。私共は人間の祈りを聞きまするならば、心が厳粛になります。けれども、神の聖子みこの祈りを聞きますることは、いかばかり厳粛に、また幸福でしょうか。これは測ることができぬと思います。どうぞ心を虚しくし、おのれひくくしてこの言を聞きとうございます。これは聖書の中の至聖所いときよきところであると思います。

 一章より十二章までにおいて、主は公然の伝道をなしたまいました。十三章より十七章までにおいて、主はご自分の弟子を教えたまいました。いま四節において、『われなんぢのさかえを世にあらはなんぢわれゆだねし所のわざわれこれをなせり』と言いたまいます。主は祈りをもってご自分の務めを終わりたまいました。十八章より以下、主は働きがありません。残るところは、ただ死のみです。主は祈りをもって、その生涯の務めを終わりたまいました。十四章より十六章までを見まするならば、自由に、また静かに弟子たちに語りたまいました。いま十七・一に、天を仰ぎて言いたまいます。主はいま父に向かって語りたまいます。けれども弟子等に語りたまいましたごとく、自由に、静かに、また親しく語りたまいます。人間に対する談話と、神に対する談話とほぼ同じことです。

 十四・十六をご覧なさい。『われ父にもとめん 父かならず別になぐさむる者を爾曹なんぢらたまひかぎりなく爾曹なんぢらともをらしむべし』。主はかく父に求むるように約束なしたまいました。主はその時から、今に至るまで、私共のために、聖霊を求めたまいます。けれども、この十七章に、格別にその約束を成就なしたまいます。これは主が約束したまいました祈りです。この十七章に、みたまくだることを願いたまいます。聖霊降臨の結果を願いたまいます。父なる神は、この祈りにこたえたもうならば、ぜひみたまを注ぎたまわねばなりません。二十一節をご覧なさい。『はみなひとつにならんためなり』。この一つになることは、弟子が神と一つになること、また弟子相互あいたがいに一つになることを指します。みたまくだりませんならば、それが成就せられません。コリント前書十二・十三をご覧なさい。そうですから、今まで離れておりたる者でも、一つとなりました。或いは自主、或いは奴隷、或いはユダヤびと、或いはギリシャびとは、ことごとく一つとなりました。これは何のためですかならば、みたまの感化です。使徒二・四十四〜四十七を見まするならば、弟子等は聖霊によりて皆一つとなりました。これは主の祈りのこたえでありました。ヨハネ一書一・三をご覧なさい。それを見まして、ヨハネはその経験を得たとあかしました。みたまによりて神と一つになりました。またみたまによりて兄弟と一つになりました。これはこの十七章の祈りのこたえです。私共はそのように、一つとなりまするならば、主の祈りがこたえられたものであります。すなわちこの十七章は、みたまくだるための祈りであります。

 今これを分かちまするならば、

 一〜五は、ご自分のために祈りたまいます。
 六〜十九は、弟子等のために祈りたまいます。
 二十〜二十六は、教会のための祈りです。また悔い改めたる者のために祈りたまいます。

 また主は神に向かって、如何いかに呼びたまいますか。五節父よと呼びたまいます。十一節聖父きよきちちと言いたまいます。二十五節たゞしき父よと言いたまいます。その区別をご覧なさい。ご自分のために祈りたまいます時には、ただ父よと言いたまいます。弟子のために祈りたもう時には、きよき父よと言いたまいます。これは何故なにゆえですかならば、弟子等がきよめられることを願いたもうからであります。弟子をして聖なる者とならしめることを願いたまいますから、聖き父よと言いたまいます。聖き父は、ご自分の民を聖くなしたもうことができます。私共はそれを信ずることができますか。主はそれを信じたまいました。

 また主はこの世にける者のために、祈りたもうたる時には、ただしき父よと言いたまいました。神は義をもって人間に対したまいます。また義をもって人間を救いたまいます。私共は神の義なることを信じますか。いま私共は幾分か神の愛なることを信じましたかも知れません。けれども、神の義しきことを信じました者は、少ないと思います。神は義をもって人間に対したもうこと、義をもって罪人つみびとを罰したもうこと、義をもって罪人を救いたもうこと、神の聖為みわざことごとく義しきことを信じますか。どうぞそれを明らかに信じとうございます。或る人は、神は人間を救いたもうならば、愛と憐憫あわれみとがあります、けれども、あまり公平ではありませんと申します。けれども、神は人間を救いたもうてもその聖為みわざは義しくあります。『神はその血によりてイエスをたてて信ずる者の挽回なだめ祭物そなへもの給へり そはしのび已往すぎこしかたの罪を寬容ゆるやか給ひし事につきて今その義をあらはさんため すなはちイエスを信ずる者を義としなほみづから義たらんがためなり』(ローマ三・二十五、二十六)。『かれら神のしもべモーセの歌とこひつじの歌をうたひいひけるは しゅ 全能の神 なんぢの行爲わざおほいなるかな たへなるかな 萬民ばんみんの王よ なんぢみちは義なるかな まことなるかな』(黙示録十五・三)。また黙示録十九・二をご覧なさい。『その審判さばきなほくかつたゞしきなり そは神かの淫亂いんらんよりて世界をけがしたる大淫婦たいゝんぷさばおの僕等しもべどもの血のむくいもとめこれを罰し給へばなり』。罪人を罰したもうことも、正しくございます。罪人を救いたもうことも、正しくございます。二つながら公平でございます。そうですから、二十五節において、この世のために祈りたもうた時に、義しき父よと言いたまいます。

 この十七章は、ことごとく祈りです。けれども、格別に願いたもうたる五つのことを見ます。

 第一は、『なんぢの子のさかえあらはし給へ』()。或いは『父よ 今われをしてなんぢともさかえを得させ給へ』()。これはご自分のための祈りです。以下、弟子、或いは教会のための四つの願いを見ます。

 第二は、『これまもり』(十一
 第三は、『きよめ給へ』(十七
 第四は、『ひとつにならんため』(二十一
 第五は、『われともをりわがさかえすなはちなんぢわれたまひし者を見んこと』(二十四)。

 この四つの願いを深く考えまするならば、私共の経験の順序に従う願いであると思います。これは私共のきよき心の願いであります。私共はまだかかる願いを捧げません前に、主は私共のために既に祈りたまいました。私共は自分が守られ悪より救われること、きよめられて主とともにおることを願いましたか。主はあらかじめ私共のために、そのことを願いたまいました。予め天のところにおいて、父の前に私共のために願いたまいました。

一  節

 『父よ 時いたりぬ』。初めから預言せられたる時、初めから罪人つみびとが待ち望みたる時、初めから種々いろいろの雛形において示されたる時、初めから天使も待ち望みたる時が、今いたりぬ。その時はいかなる時ですかならば、十字架の時です。永遠限りなき時から、永遠限りなき時まで、最も大切なる時です。必ず世の歴史の上に、最も大切なる時です。主はその時のために、栄光を捨てたまいました。その時のために、天国を去りたまいました。その時のために、人間となり、しもべとなりたまいました。その時のために、いま苦楚くるしみを受けたまいます。この時は、何人だれも注意を要すべき時であります。

 或いは罪人つみびとでありまするならば、この時を注意しなければなりません。或いは神の子供でありますならば、この時を注意しなければなりません。或いは天の使つかいでありましても、これは注意を要すべき時です。或いは救われて、もはや天国におる人間でも、この時を永遠紀念おぼえまして、その意味と力を研究しらべなければなりません。今その『時いたりぬ』。すなわち十字架の時が参りました。

 『なんぢのさかえあらはさんがためなんぢの子のさかえあらはし給へ』。主は何を願いたまいまするかならば、このさかずきを離ちたまえと願いたまわずして、十字架によりてなんじ栄光さかえあらわさんがために、なんじの子の栄光を顕したまえと願いたまいます。私共は、或いは苦難にいましても、或いは迫害に遇いましても、或いは人より窘迫せめられましても、これらのことの取り除かれることを願いませずして、ただその時、『父よ …… なんぢのさかえあらはさんがためなんぢの子のさかえあらはし給へ』と祈りとうございます。いま迫害のうちに、苦難のときに、どうぞなんじの栄光を顕したまえと祈りとうございます。主はご自分のために、栄光を求めたまいません。ただ神の栄光を顕わさんがために、栄光を求めたまいます。父が栄光を得たまわんがために、子は栄光を得とうございます。私共は神の子とわれますか。神の子たる者は、必ず自分の栄光を求めません。ただ父の栄光を求めます。けれども、そのために、天にける第一の恵みを求めましょう。主が求めたまいたる栄光は、如何なる栄光でありましたか。五節をご覧なさい。『父よ 今われをしてなんぢともさかえを得させ給へ』。英語聖書には、なんじと偕なることによりて(with thine own self)とあります。主はほかの栄光を求めたまいません。ただ父と交わることの栄光のみを求めたまいます。帕子かおおおいなくして、父と一つになりて交わることのみを求めたまいます。二十四節を見ますならば、同じことがあります。『父よ なんぢわれたまひし者のわがをる所にわれともをりわがさかえすなはちなんぢわれたまひし者を見んことをねがふ そは世基よのもとゐおかざりし先になんぢわれを愛したればなり』。すなわちその栄光は父の愛でした。主はその栄光を求めたまいます。主は必ず他の栄光、他の権力を求めたまいません。ただ父の愛を求めたまいました。それは主の栄光グローリーでした。それはまた私共の栄光グローリーです。私共はそれを求めますか。私共の栄光さかえは、父に愛せられることです。父の愛を経験することです。神は必ず何人だれでも愛したまいます。けれども、ご自分の聖旨みこころに叶う者を格別に愛したまいます。神は必ず何人だれでも愛したまいます。けれども、何人だれことごとく神の愛を経験いたしません。私共の栄光は、他のことではありません。父の愛を経験することです。これは世におる間の最上の恩恵めぐみです。私共はたびたび伝道の力を求めます。或いは心の喜楽よろこびを求めます。或いは種々いろいろの成功を求めます。けれども、これらのことは真正ほんとうの栄光ではありません。私共の求むべき栄光は、ただ父の愛のみです。

 主はこの祈りによりて、聖霊のくだることを願いたまいました。またその願いは、ご自分が経験したもうたる愛と同じ愛を、弟子等が経験することでした。それはただいま求めたもう栄光さかえであります。再びこの節をご覧なさい。『なんぢの子なんぢのさかえあらはさんがためなんぢの子のさかえあらはし給へ』。主はこの世に父の栄光を顕しとうございます。如何にしてそれができますかならば、天に昇りて聖霊をそそぎたもうことによってであります。聖霊がくだりたまいまするならば、人間は父を愛し、父を識ることを得ます。そうですから、いま聖霊を降すために、ご自分の栄光を求めたまいます。私共は聖霊がくだる時に、或いは主が聖霊を注ぎたもう時に、父なる神の栄光を顕したることがよく解ります。これはこの一節の祈りのこたえであります。

 またその時から、たびたび聖霊を注ぎ、たびたび父の栄光さかえが顕れます。『なんぢの子のさかえを顕し給へ』。十三・三十一、三十二をご覧なさい。以前に研究しらべましたとおり、このことばは、十字架を指します。十字架によりて、主は栄光を受けたまいます。そうですから、ただいま『なんぢの子のさかえあらはし給へ』という祈りは、ことばを換えますならば、十字架を負うことを願いたまいます。死ぬることによりて、その栄光を受けたまいます。

二  節

 その時に、何人だれがこのことばをいいたまいましたか。この言を発したる者は、表面うわべから見まするならば、人間に軽んぜられて、人間の中で最も弱き者でありました。当夜そのよ捕らわれて、翌朝十字架にけられたる、実に弱き者でありました。けれども、ただいま静かに聖声みこえをお聞きなさい。『すべての者ををさむる權威をわれたまひたればなり』。主はご自分の権力、ご自分は人間の救いぬしなることをく知りたまいました。その時から、十二時間を経たる後に、十字架に懸かりたまいました。けれども、ただいま確信をもって、ご自分の権能ちからわかりたもうて、『すべての者ををさむる權威をわれたまひたればなり』と言いたまいます。いま罪人つみびとの手にわたされましたる者は、億兆の罪人を救う力をっていたまいます。しゅはただいまこの権威を有っていたまいます。私共はこれを信じますか。罪人のために、血を流したもうたる主は、ただいま罪人をおさむる権威を有っていたまいます。どうかそれを信じて、主イエスを宣べ伝えとうございます。それを信じませずして、主イエスを宣べ伝えまするならば、その結果が少のうございます。けれども、この信仰をもって、福音を宣べ伝えまするならば、主はその権威を用いたまいます。

 主はすべての者をおさむる権威を受けたまいました。マタイ十一・二十七をご覧なさい。『父はわれ萬物ばんもつあたへたまへり』。マタイ二十八・十八をご覧なさい。『天のうち地の上のすべてけんわれたまはれり』。主はその権威をっていたまいました。けれども、その権威をあらわすために、父に権威を願いたまいます。すなわち人間を救うために、みたまくだりたもうことを願いたまいます。主は栄光さかえを受けることによりて、満足を得たまいません。そのために、罪人つみびとを救うことができまするならば、それによりて満足を得たまいます。主はただ自分のために、栄光を得とうございません。けれどもそれによりて、罪人が救いを得まするならば、満足を得たまいます。

 ただいま研究しましたることは、父なる神と、子なる神との交わりでした。また子なる神の心が、現れました。その心の願いは何でありますか。神の聖前みまえでて、その心が現れたる時に、如何いかなることを願いたまいましたか。それはただいま研究したるところであります。ああ主は、私共各自めいめいのことを重荷となしたまいます。主は私共各自めいめい栄光さかえを求めたまいます。各自めいめいの聖潔と、福祉さいわいとを求めたまいます。

三  節

 もう一度二節をご覧なさい。『これなんぢわれにたまひし所の者にわれ永生かぎりなきいのちあたへんがためすべての者ををさむる權威をわれたまひたればなり』。主は私共に、このように生命いのちを与える権威を父なる神より、頂戴したまいました。二節において、主は私共に永生かぎりなきいのちを与えたもうことを見ます。三節において、この永生とは、何でありますかならば、父を識り、子を識ることなることを見ます。そうですから、主は如何にして、罪人つみびとを救いますかならば、罪人に父なる神を示したもうことによりてであります。愛の繋ぎをもって、人間をご自分の足下あしもとに引き寄せたまいます。

 主は私共に三つの賜物を与えたまいます。

 第一は、永生です(二、三)。すなわち神を識ることです。
 第二は、ことばです(十四)。このことばは、生命いのちを養うかてです。
 第三は、栄光さかえです(二十二)。

 これは全き生命いのちであります。主は私共をご自分にかたどらしめんがためにこの三つの賜物を与えたまいます。

四  節

 『われなんぢのさかえを世にあらはし』。これは怪しむべきことです。神はいつでも天国に崇められたまいます。天国に神の栄光が顕れてあります。けれども、ただいまこのけがれたる世の中にその栄光が顕れました。サタンの国の中に、神の栄光が顕れました。神はその目的のために、イスラエルびとを撰びたまいました。『なんぢのたみはことごとく義者たゞしきものとなりてとこしへに地をつがん、かれはわがうゑたる樹株こかぶ わが手のわざ わが榮光えいくゎうをあらはす者となるべし』(イザヤ六十・二十一)。その栄光を顕すためです。『灰にかへ冠をたまひてシオンのなかのかなしむ者にあたへ、悲哀かなしみにかへて歡喜よろこびのあぶらをあたへ うれひの心にかへて讃美のころもをあたへしめたまふなり、かれらは義の ヱホバのうゑたまふ者 その榮光えいくゎうをあらはす者とゝなへられん』(同六十一・三)。主はどうして、この世の中に、神の栄光えいこうを顕したまいましたかならば、苦しむ者に安慰なぐさめを与え、え渇く者を満足せしめたもうことにより、神の栄光さかえを顕したまいました。

 『われなんぢのさかえを世にあらはなんぢわれゆだねし所のわざわれこれをなせり』。主はもはやそれを終わりたまいました。いま死ぬるよりほかに、何もわざは残りてありません。ただ死ぬることのみが残りてあります。ヨハネ十九・三十をご覧なさい。『事をはりぬ』。主はそれを叫びたもうことができました。この十七・四の時より、十九・三十の時までは、ただ僅かに一日の間でした。主は事おわりぬと叫びたもうことができました。十七・四において、もはや外部うわべの働きを終わりたまいました。そうですからこの時から、サタンはその心のままを行うことができました。黙示録十一・七をご覧なさい。『彼等かれらそのあかしをなしをはらんとき底なきあなよりのぼけものありてこれたゝかひをなしかちこれを殺さん』。これは今より未来のことであります。けれども、いま同じことがあります。主はもはやそのあかしをなし終わりたまいました。そうですから、サタンは、直ちにこれと戦いをなし勝ちてこれを殺します。今まで主がその働きをなし終わりたまいません間は、サタンは何の力もありません。サタンは、初めから主を亡ぼしとうございます。けれども、主が未だ委ねられたる働きをなし終わりたまいません間は、サタンは、何もすることができません。けれども最早その働きを終わりたまいたる時に、サタンはこれを殺す権威をちます。

 主はこの世にくだりたもうて、この世の中に、神の栄光さかえあらわしたもうことができました。その働きをなしおわりたまいました。黙示録二十一・六をご覧なさい。『既になれり』。これは同じ意味であります。ヨハネ伝の終わり(十九・三十)に、『事をはりぬ』と叫びたまいました。けれども、いま天国において、働きたまいます。いま新天新地を造る働きを務めたまいます。未来において、その働きを『既になれり』と叫びたもうことができます。

 『なんぢわれゆだねし所のわざわれこれをなせり』。私共もこの世を去ります時に、同じことを叫びとうございますならば、いま毎日主と共に歩み、一日のわざをその日になしおわらねばなりません。

五  節

 『創世はじめのよより先に』。主は何故なにゆえこの世にくだりしより先に、なんじともちし栄光さかえと言いたまいませんか。それは何故なにゆえですかならば、旧約聖書において、すでに主の苦しみが始まりました。主は旧約時代より、最早おのれひくくなしたまいました。罪がこの世にはいりました時から、主は己をひくくし、自らを苦しめて罪人つみびとを救うことを務めたまいました。その時から、神と偕に全き栄えがありません。そうですから、『創世はじめのよより先になんぢともたもちし所のさかえ』と言いたまいます。

 『なんぢともたもちし所のさかえを得させ給へ』。ピリピ二・九、十において、神はこの祈りにこたえたもうたることを見ます。またエペソ一・二十〜二十三をご覧なさい。主はこの世に王となるはずでした。けれども、人間はそれを拒みます。主はこの世に天国を造りたまいとうございました。けれども、人間はそれを拒みました。主は人間より追い出されたまいました。ただいま神はその主を受け入れたまいます。その主をあがめたまいます。以下六節より十九節までにおいて主は弟子のために祈りたまいます。

 六〜十三は、弟子と父との関係です。
 十四〜十九は、弟子とこの世との関係です。

 六節に『われたまふ』ということばを二度言いたまいます。この十七章に、弟子は主に賜りたるものであることを七度言いたまいます。

 神が聖子みこに与えた最上の賜物は、聖子の愛の目的である人間の魂です。またその魂より愛を受けたもうことであります。私共は聖子に与えられたる最上の賜物です。これによりて人間一人の魂は、全世界よりも貴くあることがわかると思います。

 主はほかの賜物を慕いません。私共の魂を慕いたまいます。なにのために、主がそれを慕いたまいますかならば、ご自分にかたどらしめんがためです。主は必ず罪人つみびともとめたまいません。けれども、けがれたる罪人を変えて、輝ける聖徒とならしめることができると思いたまいましたから、私共をえらびたまいました。私共のうちに、隠れたるものが解りたまいました。私共をもって、神の尊貴とうとき子供を造ることができると思いたまいました。未来において、私共がみな主の形を得ました時に、その選択えらびは正しくあることを解りましょう。主はそれほどに、私共を貴びたまいます。私共を慕いたまいます。そうですから、私共は互いに貴ばなければなりません。それを覚えまして、兄弟を軽んずることはできません。私共は、未来において、神の聖子みこの大いなる働きの記念碑となります。この主に賜りたるものの特質は六、七両節によりて解ります。

六〜八節

 主の弟子たる特質は二つあります。第一、主のことば受くることと、第二、主の言を知ることとであります。

 そのことば守り、その言を受け、その言を信ずることは、ほぼ同じ意味です。守り、受け、信ずることは、主の弟子たる者の特質です。兄弟よ、それは私共の特質でありますか。私共は主の言を受け入れまして、真実にそれに従うておりますか。少しも省きませずして、そのまま皆々主の言を受け入れますか。

 次に知ることです。『皆なんぢよりいでしとしる』()。『われなんぢよりいでし事をまことしり』()。格別に主が神たることを知ります。明らかにそれを知ります。

 この知ることは、ことばを受け入れたる結果です。私共は言を受け入れまするならば、必ず続いて知ることを得ます。

 『われなんぢの名をあらはせり』()。なんじの名とは汝の性質という意味です。汝の恵み、汝の愛、汝の性質、汝の心を彼等にあらわせりという意味であります。出エジプト記三十四・五をご覧なさい。『ヱホバ雲のうちにありてくだり彼とゝもに其處そこに立ちてヱホバの名をのべたまふ』。いま主が汝の名を顕せりと言いたもうたることばは、同じ意味であります。当時エホバは、雲のうちにモーセの眼の前にくだりて、ご自分の名、ご自分の性質を顕したもうたるごとく、主はこの世にくだりて、人間の眼の前に神の名を顕したまいました。神の性質、神の聖旨みこころを人間に顕したまいました。私共は霊のまなこをもって、四福音書を読みますならば、これは父なる神の黙示録であります。

 八節に、弟子等に与えられることばは、父なる神の言です。ちょうど十四・十のごとくであります。『われ父にをり父のわれをることを信ぜざる われ爾曹なんぢらかたりことみづかかたりしにあらず 我にをる父そのわざをなせるなり』。いま同じことを言いたまいます。そのことばは父の言です。またその言によりて、弟子等は、『なんぢわれつかはしゝこと』を信じました。その言によりて、また二十一節を見ますならば、『かつ世をしてなんぢわれつかはしゝ事を信ぜしめんためなり』。初めに弟子、次に世の中の人々は、主の神よりでたることを信じます。

九、十節

 これは私共の幸いではありませんか。『われかれらのために祈る』。このかれらは何人だれを指しますかならば、私共です。原語を見まするならばこの(Ego)は非常に語勢の強きことばです。その意味は、すべての権威をつ我、神たる栄光を有つ我、彼らのために祈るという意味です。そのような祈りは、必ずこたえられます。神たる主が祈りたもうならば、その祈りは必ず応えられます。

 『わが祈るは世のためあらなんぢわれたまひし者のためなるのみ それ彼等はなんぢものなればなり』。主はこの貴き賜物の価値ねうちを分りたまいます。このける魂の価値ねうちを分りたまいます。父なる神より与えられたる賜物ですから、父の神のために、その賜物を守りとうございます。またその賜物を顧みとうございます。父なる神は私共をもって、その賜物を与えたまいましたとわかりますから、主はその賜物をいつまでも眷顧かえりみとうございます。

 また十節を見まするならば、『すべわがものなんぢもの なんぢのものわがものなり かつわれ彼等によりさかえうく』と言いたまいます。これは主の神に願いたもうところであります。主が弟子のきよめられることによりて、栄光さかえを得たまいますから、父なる神は主を愛したもうためにその弟子を恵みたまいます。そうですからこの九、十節において、私共キリストの弟子たる者は、如何いかなるものなるかが分かります。

 第一は、キリストに賜わりたるものです。
 第二は、神のものです。
 第三は、キリストの栄光です。

十 一 節

 『われ今より世にをらず』。九・五をご覧なさい。『われ世にをる時は世の光なり』。けれども、今より世にらずと言いたまいます。けれども『彼等は世にをり』。たとい主がこの世を去りたまいましても、弟子はこの世におります。そうですから、主がこの世を去りたまいましても、この世の損ではありません。かえりてそれは神のめぐみを現すに、最も善き企てです。ご自分が天国におりたもうて、弟子が地の上におることは、神の栄光をあらわす最上の方法です。天国において、主はすべての権威をっていたまいますから、地の上に戦う者を助けることができます。また悪魔の国にる弟子は、主の助けによりて、主のために戦うことができます。それを見まするならば、自分の責任の重きことがわかります。私共は主の代理人であります。

 『彼等は世にをり』。十四節に『彼等も世のものあらざればなり』と言いたまいます。そうですから世におります。けれども世のものではありません。全く世の中の人々とは違います。私共は果たしてそのような弟子でありますか。また十八節をご覧なさい。『われも彼等を世につかはせり』。私共は何のためにこの世におりますかならば、主に遣わされましたからです。私共は主の使者です。主はこの世に遣わされたもうたるがごとく、私共も遣わされたるものであります。私共はこの世において、ほかの用事はありません。ただ主がこの世に遣わされたもうたるごとく、主に遣わされたるものであります。

 『聖父きよきちゝなんぢわれたまひし者をなんぢの名にをらしめ これまもり我儕われらの如く彼等をもひとつになし給へ』。主はここで私共のために二つの願いをなしたまいます。『これまもりて』。この弱き羊は狼の中におりますから、これを守りたまえ。この弱き者はけがれたる世の中におりますから、世に化せられぬように、父よ彼らを守りたまえと祈りたまいます。私共はこの祈りの力によりて、けがれたる境遇におりましても、父に守られてきよきものであります。

 また第二の願いは、『我儕われらの如く彼等をもひとつになし給へ』。キリスト信者は、一つでありませんならば、必ず勝利を得ることはできません。キリスト信者の中に、或いは相互あいたがい隔障へだたりがあり、或いは憎悪にくみがあり、或いは教派の隔障へだたりなどがありまするならば、それは主の心の祈りを妨げます。また必ずそういうことがありまするほど、この世の中に弱きものです。たぶん世に負けましょう。けれども、この一つということばの中に、なおなお深き意味があると思います。神と一つになるという意味も含みてあります。今まで主が御在世中に、神と一つでありしごとく、今からのちにキリスト信者は、神と一つにおることができます。神と私共との間に隔てがなく、一つになるように守られます。これは実に幸いの事であります。神に守られることは、それほどの意味があります。

 『なんぢの名にをらしめ』。神の名は私共の上にしるされまするならば、サタンは私共に触れることはできません。どうぞこれを確信して、心の中に不断たえず自分は神のものであると思いたいものです。神の名は私共の上にあります。しもべは主人の名を法被はっぴに録して用いますように、私共は不断たえず神の名をもって、この世を歩まなければなりません。雅歌二・十六をご覧なさい。『わが愛する者はわれにつきわれはかれにつく』。どうぞ不断たえず心の中にそれを覚えとうございます。

十 二 節

 イザヤ四十・二十六において、主の守りの力を見ます。『主のいきほひおほいなり、その力のつよきがゆゑにいつかくることなし』。このように『なんぢわれたまひし者をわれ守りしが其中そのうち一人だにほろびたる者なし』。

 今まで主がこれを守りたまいました。けれども、今からこれを去りたまいますから、その淋しきこと、また危うきことを覚えたまいます。今まで弟子は、危うき境遇の中におりました。けれども、主はこれを守りたまいました。今からこれを去りたまいますから、父なる神の守りを願いたまいます。

十 三 節

 ただ喜楽よろこびを与えんがためのみにあらずして、充たしめんがためです。今まで極めて弱きものでありました。けれども、今から主の喜楽よろこびに充たされまして、強き者となることができます。ネヘミヤ八・十をご覧なさい。『ヱホバを喜ぶ事はなんぢらの力なるぞかし』。主はただいま弱き弟子たちに力を与えたまいとうございます。また主は『わが喜悦よろこび』と言いたまいます。十六・三十三において、主は平安を与えたまいます。またその平安は、十四・二十七を見まするならば、『わが平安やすき』と言いたまいます。主は艱難なやみの中にわが平安やすきを与えたまいます。危険あやうき模様におる時に、わが喜楽よろこびを与えたまいます。また十七・二十六を見まするならば、わが愛も与えたまいます。今まで主がっていたもう平安へいあんと、喜楽よろこびと、愛をこれから弟子たちに与えたまいます。私共に与えたまいます。以下十四節から、主に与えられたるものは、どういうものであるかがしるされてあります。

十 四 節

 『われなんぢことばを彼等にさづけたり』。これは第一のことであります。信仰をもって神のけることばを受け入れました。またそのために、『世は彼等をにくそはわが世のものあらざる如く彼等も世のものあらざればなり』。ことばのために世を離れたる者となります。天にける者となります。世を愛する愛がせ、世に繫がれたる関係が切れます。弟子は世を離れたる全き者となります。またそのために、世ににくまれる者となります。これは第三の特質です。主のものはこの世より悪まれます。けれども、第四に、十五節をご覧なさい。

十 五 節

 神に守られております。『かれらをまもりあしきおちいらすなかれと祈る』。ヨハネ一書五・十九をご覧なさい。『我儕われらは神につき 擧世すべてのよ惡者あしきものに服するを我儕われらしる』。すべての世は悪しき者に服しております。そうですから、私共は守られて、この世に消光しょうこうすることができまするならば、奇跡です。この世に服しませずして、この世を歩むことができまするならば、奇跡です。神は私共のためにこの奇跡を行いたまいます。私共は毎日それを祈らなければなりません。マタイ六・十三をご覧なさい。『惡よりすくひいだし給へ』。原語で同じことばです (『惡』は poneros = 「害するもの」の意) 。悪しきことより、救いいだしたまえと祈らなければなりません。

十六、十七節

 第五の特質はきよめられました者です。私共は主のことばによりて潔められます。癩病人が主の言によりて、潔められましたように、私共は同じける言によりて、潔められておるはずです。私共はただ十六節のごとく、世を離れたるだけにては、主は満足したまいません。それと同時に潔められたる者とならなければなりません。どうぞコロサイ書三・十六のごとく、潔めを受けんがために、断えず主の言を受け入れて、生涯を送りとうございます。

十 八 節

 私共は十六節のごとく、世を離れ、また十七節のごとく潔められまするならば、十八節のごとく、主の使者となることができます。これは第六の特質です。私共は全く主イエスの立場に立つことができます。私共は世のものにあらずして、きよめられた者です。また主イエスのように、遣わされたる者です。また二十六節のごとく、主が父に愛せられたまいしごとく、私共も同じ愛を頂戴することができます。主はどういう法をもって、私共のこの六つの特質を成就したまいますかは、十九節に示されてあります。

十 九 節

 『われ彼等のため自己みづからきよむ』。この意味は、何でありますか。主はもとより聖なるものであります。けれども、この自己みずからを潔むという意味は、ほかのことを離れて、ただ彼らの潔められることのみを務むという意味です。戦争にずる兵士は、ただ戦争のことばかりに力を尽くしまするように、主は他のこと、他の栄光、他の務めを捨てて、ただこの一事を務めたまいます。主はいかばかり私共の潔められることを願いたまいましたかならば、自己みずからを潔めて、それを成就なしたもうほどでありました。

 以下、主は悔い改めました者のために、祈りたまいます。

二十、二十一節

 また格別に、のちに悔い改めたる者のために、何を祈りたまいますかならば、一つになることを祈りたまいます。これは格別に主の心の願いです。主が父なる神と親しく交わりたもう時に、格別にこれを願いたまいます。どうかこの祈りに少しも妨げないように、気を付けとうございます。またその一つになることは、何程なにほど一つになることを願いたまいますかならば、『父よ なんぢわれにをりわれまたなんぢにをる』ごとく、一つにならんことを願いたまいます。私共はいかにして、互いにあい愛することができますか。いかにして一つになることができますか。それは『彼等も我儕われらにをりてひとつにならん爲』。すなわち私共は主におりますならば、必ず弟子等の中に隔てがありません。

 『かつ世をしてなんぢわれつかはしゝ事を信ぜしめんためなり』。そうですから、私共は一つでありますならば、この世は信じます。主はここにおいて私共に勝利の秘訣を悟らしめたまいます。私共はいかにして、この世に主を信ぜしめることができますか。熱心なる働きによりてでありますか。多数の働き人があることによりてでありますか。いいえそうではありません。ただ一つになることによりてであります。これは主を信ぜしめることの秘訣です、信者が一つになりまするならば、そのために、世は必ず主イエスを信じます。主が私共に勝利の秘訣を与えたまいます。私共はそれを信じて、それに従いますか。たびたび私共は、伝道について相談します。いかにして伝道を盛んにせんかと思います。けれども、ここに明らかにその秘訣がしるされてあります。

 兄弟と兄弟の間に隔てがありますか。或いはしき感情がありますか。伝道を致しとうございまするならば、第一にそれを取り除かなければなりません。伝道師は、いかに熱心に働きましても、いかに聖書の知識がありましても、いかに霊の経験や、伝道の経験がありましても、ほかの兄弟と一つにありませんならば、その人は伝道師として、欠けたるところがあります。かえって伝道を妨げます。神は私共に、知識や経験などを求めたまいません。ただ愛のみを求めたまいます。愛をもって、兄弟と交わることを願いたまいます。これは伝道の秘訣です。或る人は、わたしは他の兄弟と別段隔てがありません、悪しき感情がありませんと申します。けれども、その人は、他の兄弟と一つになりましたか。真正ほんとうの愛がありますか。主は兄弟と兄弟との間に、悪しき感情のないことのみを願いたまいません。真正ほんとうに一つになることを願いたまいます。真正ほんとうの愛が行われることを願いたまいます。心と心が一つになりて、どなたでも、祈りの友となることを願いたまいます。兄弟よ、私共はこのことによりて、神の御名みなけがしたことはありませんか。このことによりて、罪人つみびとの救われることを妨げたことはありませんか。このことのために主の栄光を隠したことはありませんか。

二十二、二十三節

 『なんぢわれたまひさかえわれかれらにさづけたり』。この栄光さかえは何でありますかならば、みたまです。みたまは天国の栄光です。主がご自分に与えられたまいし栄光を、ペンテコステの日において、初めて弟子に授けたまいます。エペソ書一・十三、十四をご覧なさい。『爾曹なんぢらまことことばすなはち爾曹なんぢらを救ふ福音をきゝのちキリストを信じ我儕われらげふつぐかたなる約束の聖靈をいんせらる』。聖霊はぎょうを嗣ぐのかたです。そうですから、『なんぢわれたまひさかえ』とは、聖霊を指します。それにより、『我儕われらひとつなるが如く彼等もたがひひとつとならんためなり』。聖霊によりて一つになります。

 私共は、神が私共を愛したもうことを、この世に知らしめますか。世にける者が、私共を見まして、私共によりて神の愛を知りますか。私共は自分の心のうちに、神の愛をわかりますか。神が主イエスを愛したもうごとく、私共を愛したもうことを知りますか。『なんぢわれを愛する如く彼等をも愛することをしらしめんとなり』。これは実に怪しむべきことばではありませんか。おお、父はちょうど聖子みこを愛したもうごとく、私共をも愛したまいます。主は断えず神の慈愛の全き光の中にいたまいました。私共は幾分か父の愛を経験しました。けれども、このように父の全き愛のうちにおりますか。神は主に授けたまいましたと同じ愛を私共に与えたまいます。十五・九をご覧なさい。『父のわれを愛し給ふ如くわれなんぢらを愛す』。十三・三十四をご覧なさい。『われ新誡あたらしきいましめ爾曹なんぢらあたすなは爾曹なんぢらあひ愛すべしとのこれなり わがなんぢらを愛する如く爾曹なんぢらあひ愛すべし』。そうですから、第一に、父は聖子みこを愛したもうごとく、また私共を愛したまいます。また第二に、父の聖子みこを愛したもうごとく、聖子みこは私共を愛したまいます。第三に、主が私共を愛したもうごとく、私共も互いに愛せねばなりません。そうですから、父の聖子みこに対する愛は、父が私共に対する愛と同じことです。父の聖子みこに対する愛は、聖子みこが私共に対する愛と同じことです。聖子みこが私共に対してちたもう愛と、私共が互いに愛する愛と同じことでなければなりません。

二十四節

 『わがをる所にわれともをりて』。主は何処どこにいたまいましたかならば、三・十三のごとく、『天よりくだり天にをり』たまいました。主は御在世中にも、天国におりたまいました。父の栄光のうちにおりたまいました。その栄光さかえは、父の愛です。そうですから、この二十四節において、私共のために未来の栄光を願いたまいません。現在の恵みを願いたまいます。今この世におる間に、天のところにおることを願いたまいます。エペソ書二・六をご覧なさい。『又イエスキリストにあるわれらを彼とともよみがへらせ共に天のところせしめ給へり』。いま私共は、これを経験することができます。前に十一節に、『彼等は世にをり』と言いたまいました。今『わがをる所にわれともをりて』と言いたまいます。これは反対ではありません。私共の身体からだは、この世におります。けれども、心においては、天国におることができます。天国を経験しまするならば、主の栄光さかえを見ることができます。コリント後書三・十八をご覧なさい。帕子かおおおいなくして、主の栄光さかえを見る処は、何処どこですか。いま主とともに天の処におることです。

二十五節

 『たゞしき父よ 世はなんぢしらず』。神は初めから黙示を与えたまいました。初めから人間の心のうちに働きたまいました。けれども、『世はなんぢしらず』。世は初めから宗教が行われました。宗教の儀式を務めました。けれども、『世はなんぢしらず』。世は神を識ると思いました。けれども、主がこの世にきたりたまいました時に、主が神について思いたもうところは、人間が神について思う所と反対でありましたことを見ます。主は父を識りたまいましたならば、世は父を識らざりしことを分かります。その思想かんがえは、全く反対でありました。私共は神を識りとうございまするならば、世にける思想かんがえを全く捨てて、主イエスの聖旨みこころを受け入れなければなりません。

二十六節

 『われなんぢの名を彼等にしめせり』。今までことばによりて、行いによりて、ご自分の生涯によりて、神の名を彼らに示したまいました。『またこれをしめさん』。これからのちに聖霊によりて、なおなお明らかに『またこれをしめさん』。これからのちに新約の聖書によりて、信者の心のうちに、『またこれをしめさん』。そうですから、どうぞ主イエスが私共に新しく父を示したもうことを不断たえず待ち望みとうございます。マタイ十一・二十七をご覧なさい。『子のあらはす所の者のほかに父をしる者なし』。私共は今まで主によりて父を示されました。けれども、またこれを示さんと言いたまいます。どうぞ主は新たに、また明らかに、私共に父を顕したもうことを待ち望みとうございます。そうですから、漸次だんだん心の中に愛が生長いたします。『そはなんぢのわれを愛するの愛かれらにをり またわれかれらにをらためなり』。そうですから、父の愛は私共の心のうちにあり、またそれと同時に、主は私共の心のうちにおりたまいます。主はただ愛のうちにおりたまいます。私共は心のうちに父の愛がありまするならば、主も心のうちにおりたもうことができます。



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