深 き 愛 の 交 わ り



 『なんぢ我をふたゝびバアリ(わが主)とよばずしてイシ(わが夫)とよばん』(ホセア書二章十六節)

 このようにして、主は、奉仕よりも愛を求めたもうことを私共に示していたまいます。単なる義務でなく、愛に励まされることであります。主が聖霊を賜うのも、私共が単に僕でなく、楽しい神の家族の中にあって、幸福なる息子、娘たらんがためであります。
 多くのクリスチャンは、とかく、律法的な精神を持ち易くあります。──朝に祈る、それはその習慣です。聖書を読む、それもお務めです。また、他の人がするから自分もクリスチャンの働きを致します。しかし、神様は、かかる類のことを全部除いて、この古い律法的の生涯、すなわち、ただ、自分で最善をしようとする義務的の生涯に終わりを告げさせようと致します。主は御自身をイシ(わが夫)として示したまい、イシ、わが夫、わが愛、こよなく近く親しい愛の結合の中に一つとせられたる者、親しい交わり、愛の交わりを保つ者としてご自身を顕したまいとうございます。聖霊なる神が、どなたの心にでもきたりたもう時、キリストをそのように親しく知らしめ、そのように愛に結びつけ、その後、もはや、バアリ生活でなく、主とともに、また、主は偕に、全く一つに「イシ」生活をするようになしたもうのであります。
   主は我と偕に歩み、ともに語り
    汝はわがものなりと告げたもう
   そこに共に分かち合う我らの喜びは
    げに人の世にまたとたぐいあらじ
 『我はわが愛する者につき、わが愛する者はわれにつく』(雅歌六・三)とはこの経験を言い表すことばであります。『汝はわがものなり』(イザヤ四三・一)と、かくのたもうを主は愛したもう。しかして私共が彼のものであるがゆえに、彼の豊かなるすべての愛は、惜しげもなく、私共の上に注ぎ出されるのであります。『汝はわがものである。そして汝は我をイシ、わが夫と呼ぶであろう』。親しい愛の交わりに入り、真に主を知りまつり、わが友、わが親しき者、わが愛し奉るおひとかたと仰ぎ奉り、その愛し下さることを識りて、その愛に浸りつつその愛に励まされるのであります。
 しかして主は「わが夫」でありますから、私は主に所有せられ、主によりて顧みられます。ああ、その心の安息! 一切の責任が他の御方の肩にあると知る時の安息は如何ばかりでありましょう。しかして『なんぢ我をイシと呼ばん』との意味はそれであります。すなわち、今より後、あなたは彼のもの、彼はあなたのもので、今より後、責任は彼にあるとのいいです。すなわち主はあなたのために慮り、一切の必要を満たしたまい、あなたのために定めたもうたすべての道において守られ、満たされ、大能もて力づけられるのであります。おお、かかる事実を識ることの幸福さ、我は主のもの、主はわがものなのであります。

ペンテコステの経験

 これはペンテコステの経験であります。ヨハネ伝十四章において、主は弟子たちに、聖霊の降臨を待ち望む祈禱を吹き込もうとしていたまいます。主は、かしこで、聖霊の臨みたもう時、それはどれほどのことを意味するかを彼らに語り、二十一節において、『我を愛する者は我が父にも愛せられん、我もこれを愛し』と語っておられます。これこそはペンテコステの経験、すなわち主イエス・キリストの愛の経験であり、その愛の陽光のただ中に浸りつつ歩む経験なのであります。二十三節には、更にその約束を繰り返して、『人もし我を愛せば、わがことばを守らん、わが父これを愛し、かつ我等そのもとに来りて住処すみかを之とともにん』と宣いたまいます。ペンテコステの経験とは、聖父みちちを識り、聖子みこを識り奉ることであります。また、その御愛の中に生活し、主との交わりを楽しむこと、また、その与えたもう祝福を見出すことであります。彼は私にとってイシ、「わが夫」であります。
 ヨハネ伝十五章四節には、『我に居れ、さらば我なんぢらに居らん』とあり、九節には、やや異なった言い方をして──『父の我を愛し給ひしごとく、我も汝らを愛したり、わが愛に居れ』、すなわち、我と交わりを保ち、わが愛の陽光の中に留まれと仰せられております。聖霊にありて歩むとは、主イエス・キリストを識り、幸いなる愛のつなぎの中に彼と結合せしめられ、主との全き一致の中に歩むことにほかなりません。
 私は、三年前、ロンドンの聖書協会の集会において、サドウ・サンダシングの語るを聞きました。神と偕に歩み、主イエスと深く愛し合っている人であるとの印象を誰にも与えました。彼は、常に、天の光の中を歩んでいられるように見受けられました。過去の経験のいくつかを語られましたが、氏が主イエス・キリストに従い、主を己が救い主として受け入れ奉った時から迫害が始まり、家からは放り出されてしまいました。氏は裕福な家庭に育ち、最も幸福な、最上の生活をしておりましたが、ひとたび、主イエスを救い主とし奉るや、父から全く裸で勘当されました。しかし、その集会で、氏は申されました。『その夜は、私にとって、地上における初めての天でありました』と。その夜、すなわち彼が追い出されて枕する所もなかった夜、主イエスは、かくも彼に現実であり、その夜が彼には地上の天であったほどに主イエスとの愛の交わりがあったのであります。
 ペンテコステの経験とは、私共にも、かような経験を意味するのであります。その経験は私共をかかる主イエスの知識に到達せしめ、かかる親しい主との交わりに入らしめ、かくて私共の日常が、地上さながら天の日々となり、「我らは彼と偕に歩み、彼は我と語り、そして、汝はわがものなりと告げたもう」のであります。願わくば主、私共の面覆かおおおいを取り除き、私共めいめいが、この一週間において、かくのごとくに主を知り奉るに至らんことを!

愛 の 勝 利

 今晩ここに立って、お集まりの皆様を、この神との驚くべき交わりに導き入れるは、驚くべき、厳粛なる特権であります。『われ汝をめとりて永遠とこしへにいたらん』(ホセア二・十九)とは私共に対する神の約束であります。ペテロがその前書において、『散りて宿れる者』(一・一)に書き贈ったのも、このペンテコステの経験でありました。教会歴史中、あんな恐ろしい迫害は他にありますまい。多くの者は財産はおろか、その生命さえも失いました。彼らには少しも安全性はなく、いつ牢獄へ、しかして死へと進軍しなければならないか解りませんでした。しかし、かかる中にも、彼らは主との親しい交わりを保っておりました。それゆえにペテロは一章八節にあるように、『汝らイエスを見しことなけれど、之を愛し、今見ざれども、之を信じて、言ひがたく、かつ光栄ある喜悦よろこびをもて喜ぶ』と言うことができたのであります。聖霊なる神が、彼らを主イエスに結びつけいたもうたことによって、彼らは天の愛に満たされ、豊かなる霊の歓喜に満たされていたのであります。神の御子は激しい火の真只中にさえも彼らに顕現せられ、彼らは主と偕に歩み、偕に語ることができ、ただただ、言語に絶し、栄光に満つる歓喜に充ち溢れていたのであります。
 しかもこれは、ここにおる私共一人一人に対する神の約束であります。蓄えであります。神の御愛は私共めいめいのためのものであります。そしてその愛が私共にとってもまた現実になる時、私共もまた同じように歩むことが出来るのであります。そして、たとえ、迫害、困難、周囲の悲哀、損失は如何にもあれ、かかる中にあっても、言いがたくかつ光栄満つる歓喜があるでありましょう。主ご自身が自らを私共に顕し示したもうからであります。

愛 の 誘 引

 さて、この驚くべき御恵みは、誰のためのものでありますか。ホセア書のこの章は、いったい、誰がかかる恩恵を要求し得る権があるかを語っています。誰でも、人間的な推量からすれば、かかる恩恵に入ったり、或いは、これを要求し得る者は、強く自己を拒絶し、神に服従して最善を尽くし、全く己を神に献げ、全身全力を尽くして信仰の道に励んだ人々であろうと考えるかも知れません。しかしこの章はかかるたぐいの何人をも語りません。神は私共に告げて、この愛のすべての富は、神に背いている人、不従順、不信仰、失敗の人に対して惜しげもなくそそぎ出されていると言いたもう。神はこれを『その恋人らをしたひゆき我をわすれ』し者(二・十三)に提供していたもうのであります。彼らは神を忘れ、他のものに心惹かれ、その中に喜悦や平安を見出そうと努めた者たちであります。すなわち、この世の富やその他のものを求めました。世には私共の霊魂を誘うさまざまな愛着物があります。事実、過去において、私共の霊魂も誘われました。神を忘れて、もはや、神の中には喜悦も平安もなくなり、神に従わなくなりましたろう。私共は神の命令に背を向け、自分の良心にさえ逆らって、神の御言に背きさえした者なのであります。しかし神は実にやさしい御愛もてそういう者たちに近づきたもうのであります。神はすべての不義を拭い去り、そのように罪を犯した者をさえ、受け入れようと用意したまい、彼らを御自身に引き付け、彼らに語ろうとしていたもうのであります。
 この集会においても、神は幾多の人々の心を惹いていたまいました。私共を引き、その愛と御言とを示して私共を御自身に惹き付けようとしていたまいます。神は咎めたまいません(ヤコブ一・五)。私共の心を惹き、私共を引き寄せ、引き付けたまいます。それがここにおるすべての霊魂に対するお取り扱いであります。私共が過去を振り返る時、或る者は神を忘れて他のものを追い求めていたために、『荊棘いばらをもて……みちをふさ』がれ(ホセア二・六)、そこには、ただ、困難や試練や困惑のみが残っているかも知れません。しかし神はあなたの心を惹きたまいました。神はあなたが、かつて満足を得ようとして追い求めていたそれらのものの中に失望を感ずるに至ることを望みたまいます。『我かれがすべての喜楽たのしみ……をしてやましめん』(同十一節)と、あなたの心の楽しみは、漸次、消えゆきました。世のものにおけるあなたの満足は失せ行きました。神はあなたを御自身へと引いていたまいます。彼は、或いは、聖言によってあなたを惹きたまいました。或いは恩寵によって、或いは誰かの証詞あかしによって、或いはあなた自身の内心に囁く聖声みこえによってあなたを惹きたまいました。夜の静寂において聖言みことばを思い出させたまいましたか。神はどうにかしてあなたを御自身に引き、その愛を顕し、あなたをこの幸いな結合の中に入れんとしたもうのであります。
 おお、しかし、神がかく私共を御自身に引こうと試みたもうた時にも、私共は如何に神を恐れたことでありましょう。神はどんなことを求めたもうかも知れないと恐れて、はるかに離れいて、その意に従おうとはしませんでした。しかし神はなおも私共を愛し続け、なおも心を惹き、御許に引き寄せたまいました。今、なお、私共を御自身のものとして所有したく憧れいたまいます。なおもそのすべての愛の限りを尽くして、一人ひとりに対する恩寵の限りを尽くして、自らを私共に顕したまいとうございます。さらば、私共の心が聖前みまえに静まる時、神は慰め深く私共に語りたまいましょう。つまり、私共の心にちょうど当て嵌まる御言もて語り、ちょうど要していた御約束もて臨んで下さるでありましょう。
 それは、この聖会中、この講壇から語られた聖言を通してであったかも知れません。或いはあなたが独りお部屋に静まって読んでいた聖書の御言かも知れません。ないしは、神様の前に跪いた時、あなたの心の中に、思い出させられた聖言でしょうか。とにかく、神はあなたの心に語りたまいました。そしてそれが神様からだとあなたは知ります。それは神の光と力とをもてあなたの霊魂に臨みます。『我かれの心に語らん』(二・十四:speak unto her =英訳)。その聖言は清き心についてでしたか。内住の聖霊に関してでしたか。それとも、聖霊の黙示に関してでしたか。しかして主が語りたもうた時、あなたは、それこそ正にあなたの憧れていたもの、正にあなたの要していたものであることを感じなさいました。或いはあなたが跪いて祈り求め、それをあなたのものとして御約束を成就して下さるようにと願った聖言でありましたろう。
 その時、私共は、内心の罪が何であるか、何が今日まで、主を心の外に留めておいたかを示されましょう。『アコル(患難なやみ)の谷をのぞみの門』となす(二・十五)とは、まさにこのことであります。イスラエルの子孫は、輝く勝利を得ましたが、その次には、あえなくも、一敗地に塗れました。なぜか解らない。ヨシュアは了解に苦しみました。神の民は、約束のごとく、勝利から勝利へと進み往けるものとのみ思っておりました。それなのに、この大敗を喫するとは! しかして神はそれを探り出したまいました。そして神はその理由は天幕の中に匿された金の棒とバビロンの衣服にあることをヨシュア等に示したもうたのであります。ヨシュアは一切を明るみに持ち出し、それを主の前に毀ち去りました。かくて彼らは勝利に向かって前進することが出来ます。アコル、悩みの谷は、彼らにとって望みの門となりました。悩みは希望の入口です。その罪を全くさばいてしまうことは、敗戦を変えて勝利としたのであります。敗戦の原因が除かれたのであります。
 神は皆様の心に語って、何か敗戦の原因を示しましたか。あなたの天幕の中、地下に秘められた金の棒かバビロンの衣服かをお示しになりましたか。誰も見はしない、別に問題ではない。それは喜悦であり、利益であると、あなたは考えたかも知れません。すべての分捕りものは、みな、神の許に携え来らるべきはずでありましたのに、アカンは神のものを取りました。おお、もし神が語りたもうたならば、金の棒もバビロンの衣服も持ち来りなさい。神との交わりの幸福さとその御愛とを知りたいならば、それらすべてを聖前に破壊し尽くしなさい。神は『アコルの谷を望みの門』として下さいます。神に従うならば望みは再び心の中に湧然と湧き出でて参ります。そは主は、そこで、『われ汝をめとりて永遠とこしへにいたらん』(十九)と仰せたもうたからであります。この二節(十九、二十)の間に、二度もそう仰せたまいます。主は好んで繰り返し仰せたもう。そしてかく仰せたもうと伺う時、どうぞ、かつてなき神の愛をお感じなさい。
 かつて、皆様は、神、誠に、我を愛したもうと自覚しなさったことがありますか。今より永遠に、あなたを御自身のものとしようと求めておられるとお感じになったことがありますか。『われ汝をめとりて永遠にいたらん』と仰せて、永遠にあなたを御自身のものとしようとし、今より常に互いに委ね合い、頼り合う幸福の中に過ごさせようとしたもうのであります。今より後、主の顧みの中に、その御供えの中に、その盈満えいまんに与りつつ、一切は主によりて用意せられ、彼に守られ、彼と共に歩むのであります。
 詩篇第十八篇は歌っております、『ヱホバわれの力よ、われせちになんぢをいつくしむ。ヱホバはわがいはほ、わが城、われをすくふ者、わがよりたのむ神、わが堅固なるいはほ、わが盾、わがすくひの角、わがたかきやぐらなり』と(一、二節)。この時、ダビデは、主に娶られる経験の何たるかを知っていたようであります。ダビデは、真に、主を愛しました。自分は主のもの、主は自分のものと知っていました。私共も、また、主が私共のすべてのすべてであって、主からこそ私共の一切の必要、かえりみ、たくわえを頂くことを知り得るのであります。

 『われ汝をめとりて永遠とこしへにいたらん、公義たゞしき公平おほやけ寵愛いつくしみ憐憫あはれみとをもてなんぢを娶り、かはることなき真実まことをもて汝をめとるべし』(ホセア書二章十九、二十節)

 『われ公義をもてなんぢを娶らん』! この主との結合はあなたを本当の義に至らしめます。そして、主と一つにせられましたから、あなたは白衣を纏うて彼と偕に歩むことを得せしめられ、その衣を白く保ち、主はあなたを保って、実際のきよきの中に歩ましめたもうのであります。
 『われ寵愛をもてなんぢを娶らん』! 常に主の愛の自覚の中に留まり、その愛の中に歩み、御愛の陽光の中に浸りつつ、御愛をよろこび、楽しむのであります。
 しかして『われ真実をもてなんぢを娶らん』! すなわち主は絶えず偕なりたもう。最後まで真実にて在す。暫時だけではありません。すべての欠乏を満たし、常に偕に歩み、真に主と語るを得しめたまいます。
 神はこの『娶る』という語を、主との全き結合を表す語としておいでになります。主と交わり、主に保たれ、主は誠にご誠実にいまして交わりを楽しむことを得しめたまいます。主はこのことにまで、私共の心を惹き、このことを私共の心に語りたまいます。そのことが、ここに、この主の聖言の中にしるされているのであります。今宵、あなたのお答えは何でありますか。或るお方は、単に、聖言の解釈に安んじなさるかも知れません。しかし神はそれよりもなお深いことを求めたまいます。皆様は神の聖言を見、聖言を通して、神が皆様の心に語りたもうを聞きまして、たしかに、この聖言に従って、彼をあなたの主、また、イシとして受け入れなさることを私は信じます。もし、皆様の心の中に、過去において、妨げとなっていたものがありましたならば、皆様はそれを聖前に毀つ用意のあることと思います。かくてアコルの谷はあなたにとっての望みの門となる次第であります。
 それは、ちょうど、結婚式のようなものであります。一人の男と一人の女とが結ばれるために教会へ参ります。牧師はそこに立って彼らを迎え、「汝この女を娶るか」とその男に尋ねます。そして男は「我これを娶る」と答えます。その日、彼らは共に結ばれ、夫婦たることを宣言せられるのであります。さて、今宵、私は厳かに恭しく、主イエスに向かいお尋ねいたします──主よ、この者をお受け下さいませんか。彼女は或いはあなたを忘れたかも知れません。その道はいばらをもて取り囲まれたかも知れません。彼女の歓楽は去り、他のものにさまよい出たかも知れません。けれども、主よ、あなたは彼女をお受け入れ下さいますか。しかりと主は仰せたもう。我は真心より彼女を受け入れると。しかして私はあなたに向かいます、そして尋ねます──あなたは主をあなたの神とし、あなたのイシとして受け入れ奉るや、あなたは今晩、彼を受け入れ奉るや。しかして私は信頼する、すべての心は、喜んで、しかり、私はお受け致しますといらえ奉ることを!
 彼の「我受け入る」はあなたの「私はお受け入れ致します」に相答え、あなたの「私は受け入れます」はかれの「我受け入る」に相答えて、今より後、あなたは、主のもの、主はあなたのものであります。あなたは、『わが愛する者は我につき、我はかれにつく』(雅歌二・十六)ということができ、先ほど、歌いました歌の意味を知るでありましょう、
   永遠の愛もて愛せられ
   恩寵もて導かれてその愛を悟る
   上より息吹きたまえる御霊よ
   汝こそかくあることを教えたるなれ!
   おおこの充ち満てる全き平和!
   おおこの全く聖なる神のよろこび
   むことなき愛に浸されつつ
    我は彼のもの 彼はわがものぞ
 どうぞ、主に近づき、これぞ我らの求むるものなることを申し上げよ、しかして聖霊によって、これを私共に現実ならしめ、とこしえのちぎりもて、私共を御自身にまで娶りたまわんことを求めよ。



| 目次 || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |