第七章 血による新生



 『イエス答へて言ひ給ふ「……人あらたにうまれずば、神の國を見ることあたはず」……ニコデモ答へて言ふ「いかでかゝる事どものあり得べき」イエス答へて言ひ給ふ「……モーセ荒野あらのにて蛇を擧げしごとく、人の子もまた必ず擧げらるべし」』(ヨハネ三・三〜十四

 『血による新生』という表題は不思議に思われるであろう。けれども既に緒言に述べたように、『キリストの血』という言い表しは単にキリストの死と同義語なることを知れば了解される。聖書に用いられるキリストの十字架、キリストの苦難などもその同義語である。
 それゆえにパウロは、私共のキリストとともに十字架につけられたることを語るところにて、キリストの死が人間の霊魂の新生に対していかに働くかを私共に悟らせんとしておる。キリストの十字架、キリストの流血、キリストの生命を棄てたもうたことには、人の意志を更新し、その全性質を全然変化せしめる力がある。これは実に驚くべき奥義、幸いなる真理、栄光ある事実である。
 されど私共なお暫く、キリストの死によって確保される赦罪という前章の主題を続け、赦罪と、神の御霊みたまによりてなされる霊魂の新生との関係を、考察する必要がある。救い主がニコデモに対して、畢竟するに新生は血の流されることによってのみでき得ることを語りたまえる時に、それによって、私共の期待し得るように、赦罪と新生には深い根本的関係がある。義とする憐憫を離れて新生せしめる恩恵はあり得ない。血による赦罪は新生の条件である。これは、救いの宮殿に入って、愛、喜び、きよき、及びすべてきよき生活の大広間に住まわんと願う者の必ず通るべき入口である。さて今日ほど新生の必要を強調することを要する時代はない。多くの人は、キリストの私共のために成し遂げたまえる救いは罪の赦しに過ぎぬと、私共に信ぜしめんとする。けれどもキリストは、その救いはその神たる御霊による霊魂の新生更新であることを、争う由なきほどに明瞭になしたもうた。私共も単に赦されただけにとどまりあたわぬということを繰り返し述べる必要がある。もし私共が実際に赦されたならば、もし実地の釈放があったならば、必ず私共の性質に根本的な変化が起こらねばならぬ。これについて疑いあるべきでない。私はついでに言う、ここにローマ教会の懺悔所の虚しいことが曝露される。すなわちもし懺悔所の告白がその言い表した罪からの根本的絶対の救いを惹起し、将来またその必要のなからしめるのでないならば、それはむしろ霊魂を辱める。敵の虚偽の作り事で、救いの恩寵の確実な結果である真心の謙遜を生ずる主に対する罪の告白でないことが証明される。
 或る人は、人が赦罪されてもなお世俗的、虚栄的であり得るということ、また罪の赦しが霊魂の回心の全部であるということを不思議にも想像していることを私は知るけれども、これは実にたわいもなき妄想である。欺かれてはならぬ。赦罪と新生とは神の合わせたまえるもので、離すべきでない。誰でも、自らキリストにきたり、その罪の赦しのために彼を信じたと思いつつ、なおこの世の人と異ならぬ生活をしていることを自覚するならば、それを真の救いと想像することのなきよう、私は注意する。愛する友よ、あなたはまだ砂の上に立っている。あなたの基礎は磐の上の置かれておらぬ。あなたはただ門を眺め、それを嘆美し、入ることを告白した。けれどもあなたはまだ外にいる。そして神の赦罪の恩恵には無経験の人であるのである。
 かく救いはただ赦罪だけでなく、必ずこれに新生を伴うべきことを強調するは極めて肝要なると同時に、新生が、小羊の贖いの血による赦罪を通してのみでき得ることを言明するは、等しく必要である。私は思う、私共はみな、かつては或る他の道にて救われることを欲した時もあったけれども、神に感謝せよ、今はそうではない! 赦罪はいと甘美であり、彼の赦しの愛はいと優しい愛であった。されば私共はほかのいずれの道を通ることも欲せぬ。私共は神の定めたもうた大道を喜ぶのである。

一、キリストの死によって愛情が新たにせられる

 『キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに……そのすべての人に代りて死に給ひしは、生ける人の最早おのれの爲に生きざらん爲なり』(コリント後書五・十四、十五
 『赦さるる事のすくなき者は、その愛する事もまた少し』(ルカ七・四十七

 元来、愛情の更新より意志の更新を第一に語る方がよいはずではあるが、私共が霊的方面を取り扱う前に、まず考えるべき心理的な方面があるのである。それはすなわち赦されたることの自覚から結果する愛情の更新である。私共は既に、更新なき赦罪、また赦罪なき更新のあり得ざること、すなわち神学者の言辞でいえば、新生を離れた称義、また義とせられたることを離れた新生のあり得ざることを見た。人の思念の諸法則を知れば、私共は赦罪を受けたという自覚が、何ら聖霊の超自然的な作用なしに、必然的に道徳的性質に変化を生ずることを期待すべきである。されど悲しいかな、罪は心理学の良い予測を覆した。そして私共は罪の赦しの経験に伴う愛情の新生が、単に人間の心の法則の作用のみに帰せられないということは、大いにこれを強調すべきである。それはキリストの死と、聖霊なる神の生まれ変わらしめる御力みちからの働きに帰すべきである。もっとも、聖霊はその働きをなしたもうにあたって、私共の思念に感応し、心情を動かすべく、思想の通常の方法を用いたもうことはもちろんである。
 次に挙げる例証は、もしそれとともに私が強調せんとしたところを心に留めるならば、キリストの死と聖霊なる神のお働きを通して来る愛情の更新と赦罪との間の関係を、一層容易に理解するよう私共を助けるかと思う。
 数年前、或る日本の商人が私を訪ねて来た。この人はその妻や他の人々からキリスト教について久しく聞いているので、自分の救いの必要について或る程度目覚めておりながら、その心はなお暗く混乱していた。しかし彼はなお、宗教を通して安定したただしい性格を得たいとの切望をもっていた。私はすべて真のキリスト者人格の基礎としての赦罪について彼に語るように導かれ、彼もまた大いにこれに興味を感じ出した。私共はルカ伝に記されている罪ある一人の女の話を開き、この女が多く赦されたゆえに多く愛したということを指し示した。かくして私は、愛というものを分解すれば、(1) 自己については謙り、(2) 私共を恵みたもう神に向かっては感恩と讃美、そして (3) 同胞人類に対しては同情と好意を持つこととなる、ここに真の人格と美と秘密がある、ここに人間の自己に対し、神に対し、その隣人に対する義務の全部がある、そしてすべてその基礎は赦罪の事実とその自覚であるということを語り、続いて私の論点を次のごとく例証した。
 「たとえば、私が或る恩人から多年の間非常に親切に取り扱われたと想像しよう。しかるに何らかの理由で、私は彼の親切をありがたく思わず、彼をはなはだ薄遇し、彼の悪口を言い、彼の親切を無視し、あまつさえはなはだしく彼の利益を害することを行ったとする。けれども暫くして、私はわが無恥の行為を深く覚り、悔悟をもって彼に行き、私の悪行を言い表して赦しを求める。そのとき彼は愛情ある寛大さをもって自由に私を赦し、何ら憎悪や非難の痕跡もなく彼は赦した上に、それを忘れるように約束した。私はその容貌に愛を見、それが彼の心からであることを実感したとする。さればすべてこれは私の性格にいかなる影響を与えるであろうか。
 「第一に、私は深く謙らしめられる。彼の愛と寛容は、私をしてわが性格と行為がいかに全然卑劣無恥であったかを実感せしめるであろう。かくのごとき赦罪は、心の実地の謙卑をわがうちに生ずる。
 「第二に、私はかくも寛大に赦す人のために、力の限りを尽くすように決心するであろう。私の感謝の念は実行となって表れ、私は彼のしもべとなり、力の限り償いをなして彼の恩深き親切に報いるであろう。かくのごとき赦罪は、わが衷に感恩感謝の精神を生ずる。
 「第三に、私はわが同胞人間の最悪の者でも私自身よりなおしきことはなし得ないことを実感し、かくも高貴なる性質に対して、これを尊重して倣い、私もまた自ら取り扱われたるごとくに他人を取り扱い、霊的欠乏にある人々に同情し、また助けるように努めるであろう。かくのごとき赦罪は、わが衷にわが同胞人間に対する同情を生ずるのである」
と語り、この例話を神と私共の関係に当て嵌めた。かくてかの人はますます深く感じ、私が強調せんと努めつつあったことどもは、彼がまだ決して経験せぬところであることを実感した。かくて私共は共に頭を垂れて、共に祈りまた告白したことであったが、彼は間もなく、神の御霊みたまのお働きを通して、赦罪を受けるとは実に驚くべくまた幸いなることであるを感じ、また経験し始めた。かくして数年後に私は彼が支那から書き送った手紙を受け取ったが、彼はかつて私の書斎でその罪の赦しを通して見出した救いをば、なお喜びつつあるということであった。
 神を頌めよ! この人の経験したごとく、この文を読む何人なんぴとにも同様の経験があり得るのである。聖霊はあなたを熔かしたもうであろう。もしあなたがこの聖なる入口より入るならば、聖霊はあなたの霊を柔らかにし、あなたの心を愛をもって、あなたの目を涙をもって、あなたの口を論証をもって、満たしめたもうであろう。

二、キリストの死によって意志が新たにせられる

 『我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず』(ガラテヤ二・二十

 罪は心理学の良き推定を覆すということは私が既に陳べたとおりである。元来、私共は聖霊の神的すなわち奇蹟的作用によらず、単に感恩の情が人をして悔い改めてその主に立ち帰るに至らしめ、またただ赦罪の事実そのものが、人のうちに心の道徳的変化を生ずることをたしかに期待すべきであるが、悲しいかな、実際そうでない。そして、たとえ私共が既に見たごとく、心情の変化は神的赦罪の事実に続いて起こるものであるとも、これは単なる心理学的原則に従って生ずるものでない。私共は道徳的更新の実際の秘密を見るために、一層深く観察せねばならぬ。かくて私共は進んで、意志の更新を考えることにする。
 パウロはそのローマ書五章にて、信仰による称義および罪の赦しを取り扱いつつあったが、彼はまだ新生の問題に触れない。それゆえに第六章において、彼はまず、もし赦罪がさほど容易であり、称義が全く恩恵で信仰によって受けられるものならば、絶えず赦罪の喜びを保ち得るため、また神の恩恵の増し加わるために、私共が罪を犯し続けることに何の妨げがあるかという異論を掲げて議論の先回りをなし、直ちに聖化の問題を導く。すなわちそれは新生(すなわち聖化の始め)およびまったき聖化(すなわち聖化の完成)である。
 ローマ書の第六章は前者を扱い、第七章および第八章は後者を扱う。「何故に罪に留まるべからざるか」という問いに対して、パウロは三重の答をなすのである。第一に『なんぢら知らぬか』という言葉をもって始め(六・三〜十四において見るごとく)意志の更新を取り扱い、第二にまた『なんぢら知らぬか』なる言葉をもって始まる十六〜二十三節において良心の更新を取り扱い、第三にまた同じ『なんぢら知らぬか』という言い表しをもって始まる第七章および第八章において願望の更新を取り扱っているが、私共のいま考察せんとしているのは、その第一の点である。パウロは答えて、我らは罪におらぬ、何となれば我らの意志が更新されて、道徳的にそれをなしあたわぬからであると言う。キリストの死は私共の意志のうちにある敵対心を殺した。私共の思念も心情も変化せしめられた。私はキリストと共に十字架に釘づけられた。キリストの死はただわが罪を贖っただけでなく、ふるき人、すなわちかのわがままな強情な罪を好む利己的な自我を殺したのである。意志の更新すなわち霊魂の新生は、流したまえるキリストの血の結果である。毒は既に抜き出されたのである。蛇すなわち実際の蛇でなく、銅の蛇の挙げられたように、主イエスは私共の代わりに罪となされたもうた。主はご自身実に無罪にてありたまいながら、罪ある肉の形にて木の上に挙げられたもうた。かくて信仰をもって見上げ、その驚くべき犠牲に依りすがる時に、私はその瞬間に罪の力から自由にせられるのである。私は見、そして癒される。その奥義はわが決して理解し得ざるところであるけれども、私は信じ、そして『肉によりて弱くなれる律法おきての成しあたはぬ所を神は成し給へり、すなはおのれの子を罪ある肉の形にて遣はし、罪の爲の犠牲によりて、肉において罪を定め』たまえること(ローマ八・三=英改譯)、すなわち聖霊が現実の永遠の処刑を執行しつつありたもうことを悟る。ハレルヤ! パウロは言う、私共は道徳的にあたわぬがゆえに罪におることをせぬ。キリストの死はそのわざをなした。私共の意志は変えられた。讃美は神にあれ!

三、キリストの死によって良心が新たにせられる

 『まして……キリストの血は、我らの良心を死にたる行爲おこなひよりきよめてける神につかへしめざらんや』(ヘブル九・十四

 かくしていまパウロは、我らはなお罪におってもよいという異論に対して、なお進んだ答をなすのである。彼は『しからば如何いかに、我らは律法おきてしたにあらず、恩惠めぐみの下にあるがゆゑに罪を犯すべきか』(ローマ六・十五)と自問を発し、『汝等なんぢらは……罪より解放ときはなされて義の僕となりたり』(同十八)、これを『なんぢら知らぬか』(同十六)と叫ぶ。換言すれば、彼は私共は罪を犯してはならぬから罪におらぬと言うのである。私共の新たにせられた良心が罪を犯すことに反対する。私共は旧い律法の下にはおらぬけれども、一つの新しい律法の下におる。何故なれば、彼は進んで私共は『義の僕』と言う。そしてそれは無論一種の律法の下にあることであるからである。さて更新された良心は単に潔き良心のみではない。私は知る。主イエスの血はすべて罪を訴える良心の叫びを黙さしめ、これを潔くするは言うまでもないが、血はまだそれ以上のことをなす。それは良心を更新するのである。ヘブル書の記者は『ましてキリストの血は、我らの良心を潔めざらんや』と言うが、それは有罪の感からの潔めであるか。否、彼はかく言わず、『死にたる行爲より潔めて活ける神に事へしむ』と言っている。すなわち私共の良心が(単に潔くせられ、鎮められるよりも、さらにまさって)活かされ新たにされて、全然罪におることに反対するのである。それは新しい奉仕を主張する。それは、有罪感の除かれたことだけで満足し、過去の罪の赦しを喜ぶことで安んじておらぬ(それは潔められたれば無論であるが)。それはこののち罪を犯してはならぬことを主張する(そしてそれこそ良心の更新された証拠である)。意志は既に新たにせられており、良心もその意志にくみして正義と生活の真のきよきを要求する。この更新する能力はいずこから来るかと言えば、そこに、私共の贖い主の注ぎ出したまえる血という唯一の源泉がある。
 私はこの驚くべき真理の哲理を説明すると自任する者でないことは、既に言ったとおりであるが、今一度かく言ってもよい。元来、人間の思念はその奥義を測知し得るものでない。私は単にこの事実の神的啓示を提供するのみである。私は信じてその真実なることを発見する。私はキリストの死に対する信仰を通して、喜び、頌め、また礼拝しまつる。私はただ私のすべての罪の赦しを得たばかりでなく、再び生まれた。すなわち心も意志も良心も聖霊なる神のお働きを通して更新されたのである。
 私がニコデモと共に『いかでかゝる事どものあり得べき』と問いまつる時に、主は十字架よりほかの何の答えも与えたまわぬ。モーセが蛇を挙げたごとく人の子も挙げられたもうた。蛇に咬まれたイスラエル人が信仰をもって竿の上を見上げた時に、癒し活かす能力が、彼の血管から熱病を取り除くを知ったごとく、わが覚罪した心も、悔悟した信仰をもって、十字架に釘づけられたまえる贖い主を見上げる時に、すべての叛逆も敵対心も罪もわが衷に死に絶えるのである。
 古昔のイスラエル人は蛇の毒牙によって蒙らせられた苦痛と死からの救いを求めた。すなわち彼らは実に罪そのものからでなく、罪の結果からの救いを求めた。けれども主は彼らに罪の性質を示したまわねばならぬので、癒しの方法として挙げらるべく命ぜられたのは小羊でなく蛇であった。
 多くの人は私共の罪を負い去る、殺された小羊としてのキリストを知る。されど神の汚点なき御子みこが蛇として挙げられたもうたこと、すなわち私共の代わりに詛われる者となされたもうことを見た者は、いかほどあるであろうか。
 十字架上のキリストは、芸術家にとって何ら美の対象ではない。アダムの息子娘らに蛇ほど嫌われるものはない。私共が、私共のために詛われて裸にせられ、血を流し、唾せられ、嘲弄され、苦しめられたもうキリストを見る時に、そこには私共の慕うべき何らのうるわしさもない。そしてなお私共は礼拝しまつる。何故なれば、私共はそこに、ただそこにのみ、私共の悪しき性質、すなわち残酷な、欺瞞的な、蛇のごとくに有害な性質を見、その上に神に感謝せよ、そこにまたそれが象徴的に既に死ねるを見るからである。
 新生は新しいものの生命と共に古きものの死を意味する。
 かく十字架とキリストの流血を通して私共の霊魂は上より生まれるのである。
 本章の表題は私共の耳になお不思議に響くであろうか。もし私共が信仰によって、御霊みたまの約束を受け得るために私共のために詛われたる者となりたまえる神の御子を、信仰をもって見たならば、もし私共が私共の血管の中に蛇の歯の毒のあることを感じたならば、もし私共が私共の堕落した心を見たならば、もし私共が、私共の旧き人の死が救いの唯一の道であることを実感したならば、もし私共が見て生きまた生きつつあるならば、キリストの死が私共の衷に死を働かせ、私共の彼と共に十字架に釘づけられおることを見出したならば、キリストの死による新生という表題はもはや不思議に響かぬであろう。



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