第六章 四つの大いなる結果



 主は、聖霊のバプテスマを受けることによって与えられる四つの大いなる結果を期待するように弟子たちをお導きになり、内住の助け主を受ける人たちの前に輝かしい前途があることをお示しになりました。

 一。彼らは「すべてのことを教えられる」(ヨハネ十四章二十六節)ということです。彼らは、この教えの必要をいかに深く自覚しなければならなかったことでしょう。彼らは、主イエスの教えをすでに聞いており、それを心から喜んでいました。しかしその時、彼らは私たちと同じように、キリストなしにこの世に取り残されようとしていたのです。彼らは主の教えを受け継いでゆくには、あまりにも弱いものであることを感じていたに違いありません。まだ福音の真理については少ししか知ってはいませんでした。彼らは神の愛、贖罪、罪、天国、地獄、再臨、そのほかキリストが語られたこのようなことについて、ほとんど何もわかっていなかったのです。彼らは神の国を宣べ伝えることができたでしょうか。説得力を持って人々に聖書を説き明かすことができたでしょうか。彼らはすでに働いている説教者よりも、すぐれた働きができると望むことができたでしょうか。私たちはどうでしょうか。
 このような多くの疑問に対する答えがここにあります。聖霊なる神が、十分な理解力を与えてくださいます。彼らはこのお方によって、それまで浅薄な理解しか持っていなかった主イエスとその働きについて理解できるようになりました。このお方によってこそ、彼らはすべての人の上に起ころうとしている出来事の意味を深く悟れるようになりました。聖霊によって彼らは天国の真理とその有様を啓示されたのです。このようにして彼らは、御霊によって、預言者となり、先見者となりました。
 ここに、主を知る知識に乏しく、天国の現実を知ることの少ないことを嘆いている人がいるでしょうか。彼らはこれらのことを知ってはいるのですが、その生涯に効果が現れないことから、その知識はほんとうの理解に基づいていないと感じているのです。あなたの必要は備えられています! 神は私たちに、完全な知識と霊的な理解力を与えようと願っておられます。神は、私たちに主についての知識が増し加わることと、私たちが開かれた理解力の眼を持つことを、望んでおられます。そしてこれらすべてのことは、父なる神が与えてくださる最高の賜物である真理の御霊を受けることによって、誰にでも成就するものです。私たちは、これらのものは神が惜しまずに与えてくださることを知っています。そのとき私たちは、キリストの心を持っていますから、霊的真理を理解することができます。そして、物事を正しく見ることのできる真の光を持つようになるのです。

 二。内にとどまられる助け主は、どんなクリスチャンでも、ほかの人々に対する「恵みの源」にしてくださいます。ヨハネ福音書七章三十八節に「わたしを信じる者は‥‥‥その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と記されてあります。これは、イエスが栄光をお受けになることによって、ただちに弟子たちが受ける御霊のことを言っておられるのです。
 主からこれらの言葉を聞かされた弟子たちは、主の救いの喜びを経験しはじめていました。彼らは神の愛顧と平安をいただくことが、自分たちにとって何という恵みであるかを知りました。ですから彼らは、自分の愛している人たちもこの同じ恵みを受けて欲しいという願いを起こしました。その願いはどのようにしてかなえられましたか。彼らの心はすでに変えられていました。彼らの心は啓発されていました。彼らは神にふれることができていました。しかし彼らは、ほかの人たちをどのようにして同じ喜びに導くことができたでしょうか。
 そこでこの約束が彼らに与えられたのです。すなわち彼らに聖霊が降ることによって、ひとりひとりが生ける水の泉となることでした。彼らは周囲の人々の心に喜びと平安と命を与えることができる力を得ました。そうです。これは彼らの命が、自然に、豊かに流れ出るようになった結果です。彼らに近づいてきた者はみな恵まれ、彼らの神をほめたたえました。あなたは、彼らが、助け主が来て恵みを溢れさせてくださるその時を、熱心に、喜びながら待ち望んだとお思いになりませんか。これは私たちに対する約束でもありますが、今なお主イエスの弟子たちの中には、どう見ても生ける水の泉となっていない人たちが多くおります。彼らの働きは低調です。彼らの奉仕によってほかの人たちが新鮮な恵みを受けることも、強められることもありません。ほかの人たちは彼らから、キリストに関する知識を頭脳に受けるが、救いの喜びと情熱に満たされることもなく、主に心から身を献げるように導かれることもありません。
 その原因は遠くに求める必要はありません。このような働き人は、まだ助け主を受けていないからです。彼らの心には神の臨在と力が全くなく、あるいは半分しかなく、そのために、他の人に対して泉のように流れることができません。しかし主は、このお約束を昔の弟子たちに説かれたように、私たちにも確かに提供してくださっているのです。誰の心にでも、主イエスがあがめられるとき、聖霊をその人に与えられ、その周囲の多くの人々に対して恵みの泉となります。ほかの人々はあなたを通して救われ、強められ、天からの恵みによって喜びが与えられます。

 三。聖霊の内住の第三の結果は、「言葉における力」です。
 使徒行伝一章八節に、「聖霊があなた方に降るとき、あなたがたは力を受ける」と記されてあり、その結果として「あなたがたは‥‥‥わたしの証人となるであろう」と記されています。そこには、どこででも、いつでも、キリストの計り知れない富を伝える力と勇気が与えられることも含まれています。ある人がこの力を受けるならば、イザヤ書四十九章二節に記されているように、主はその人の口を鋭利な剣として罪を責める者とされ、教えを受けた者の舌を与えて、疲れた者を言葉によって助けることを知らせる者(五十章四節)としてくださいます。これこそ、彼らが語ることによって聴衆の心に注がれる、平安と喜びを与える力です。それは、彼らが聖霊を受けるとき、罪に悩んでいる人の心に赦しと平安を与えることのできる力を受けるからです(ヨハネ二十章二十二、二十三節)。
 言葉におけるこの力は、神の国の拡大のために用いられるばかりでなく、迫害されているクリスチャンを守るためにも用いられます。主はルカ福音書十二章十二節において、弟子たちに約束して、彼らが役人や高官の前に引っ張られていった場合には、言うべきことは聖霊がその時に教えてくださるであろうと言われ、またルカ福音書二十一章十五節では、反対者の誰もが抗弁も否定もできないような言葉と知恵を授けると約束されました。
 舌は通常、邪悪な世界で甘い水と苦い水を出す泉のようですが、恵みだけを出すことのできる泉に変えられることができるのです。その器官は地獄の火に燃えていたのですが、いまや神の火を燃やすために備えられ、ほかの人々の心を神の愛の火に燃やすために用いられるようにされるのです。
 福音を伝えるために、このように神の力を受ける日を、弟子たちはどんなにか熱心に待ち望んだことでしょう。私たちはこの幸いな約束の成就を受けるために、熱心に求めないでよいでしょうか。弟子たちは待ち望み、そして受けました。上からの力を与えられるまで待ち望もうではありませんか。

 四。主が弟子たちに約束された第四の結果は、「行為における力」です。
 ヨハネ福音書十四章十二節に、聖書の中で最もすばらしい約束が記されています。「よくよくあなた方に言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」。これが、主が弟子たちに約束された神的能力です。この驚くべきみ言葉を聞いたとき、弟子たちはどんなにか熱心に耳を傾けたことでしょうか。そしてこのことを思いめぐらし、期待の心をもって喜んだことでしょう。そして、ついに聖霊が彼らの上に訪れたとき、その約束はなんとすばらしい状態で成就したことでしょう。彼らは主がなさったと同じ働きをしました。彼らは福音を伝えました。彼らは人々を罪と地獄から救い出しました。ほかの人々を福音の光と自由にまで導きました。病をいやしました。死人を甦らせました。迫害を耐え忍びました。
 そしてこれらの働きの多くは、主がなされた業よりも大きなものでした。はるかに多くの人々が、しかも同時に救われました。村々は急速に神のみもとに導かれました(使徒九章三十五節)。町々は、聖霊に満たされた人々が現れたときに、ただちに心底から揺り動かされました。
 弟子たちのような弱い者であっても、この約束を受けたときには、彼らの生涯と教えに伴う奇跡的、超自然的結果を期待することができると思っていました。彼らは主がこれ以下のことを言われたとは思いませんでした。彼らの生涯は速やかに超自然的、神的なものとなりました。そうですから今でも、その心に助け主が来た人は、その生涯がそのように変えられます。
 私たちにもこの約束は成就されます。今でも信じる者は、同じ聖霊、すなわち助け主を受けます。現代でも昔のように同じ結果を見ることができます。このような神の教導、恵みのこのような氾濫、言葉と行為とのこのような力は、ただ不信仰と献身の不足によってだけ妨げられます。私たちはこれらを持つことのできる祝福を持たないで過ごしてはなりません。これらは私たちに対する神のご意志です。これらをいただこうとする意志があなたにありますか。



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