第十一章 エジプトより出るモーセ


 『信仰によって、モーセの生まれたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル十一・二十三〜二十七)

 我らがいま観察せんとするは、第五対の肖像の第二で、研究の主題は一国民の救いである。そしてその場面はやはりエジプトである。我らが既に学んだごとくヨセフはエジプトに留まることによってその民を救い、モーセはそこより出ずることによって彼らを救う。ヨセフの生涯は牢獄に始まって王位に終わり、モーセの生涯は太子の宮殿より始まって荒涼たる曠野に終わる。かく神がその子らを取り扱う道は同じでない。
 モーセの生涯は、ヨセフのそれのごとく劇的挿話に満ちており、また同じように驚くべきキリストの型である。モーセの生涯をキリストのそれに比較すれば著しい相似点がある。すなわちパロはモーセの誕生の時に嬰児たちを殺すべき命令を出していた。そのごとく、ヘロデも救い主の時に嬰児を殺さしめ、モーセがその両親によって隠されたごとく、キリストも隠されたまい、モーセにその生命を求むる者死にたれば帰れとの御言が伝えられたが、その同じ言葉がキリストに対しても用いられた。またモーセはエジプトにおいて奇蹟を行い、キリストはカナンにおいて奇蹟を行いたもうた。モーセはエジプトにおいて過越の節を立て、キリストはカナンにて聖餐式を立てたもうた。モーセが荒れ野にて多くの人を養いしごとく、主イエスもかくなし、モーセが荒れ野にて四十日断食せるごとく、主イエスもなし、モーセが十二人を命じたごとく、キリストも十二人を立て、モーセが七十人を選んで自己を助けしめたごとくに、キリストもかくなしたもうた。モーセがシナイ山にて律法を受けて民に授けたごとく、キリストも山にて王国の律法を受けて我らに授けたもうた。モーセが神の御前に執り成す者であったごとく、キリストも我らのために禱告者にてありたもう。モーセはネボ山で死んだが、キリストはカルバリ山で死にたもうた。悪魔はモーセの屍について天使ミカエルと争ったが、悪魔の子らは救い主の復活体について争った。さてかく多くの劇的出来事のある中から、聖霊がその主題なる信仰の例証のために何を選びたもうかを見るは興味あることである。しかもこの大立法者の生涯の動力は信仰であり、彼をして一切のことをなしまた成し遂げしめた強力なる要素は、律法でなくして恩寵であったから、その多くの出来事からの選択は容易でない。彼のその民の指導者としての公の生涯は、その大部分が荒れ野において過ごされた。されど彼が働かせた信仰の何一つも、荒れ野時代の挿話からは引き出されておらぬ。
 選ばれた例証は、出エジプトにおけるその生涯から、またそこで暗黒の勢力と闘ったその戦いからのみである。信仰によって彼はエジプトの危難から匿され、信仰によって彼はエジプトの地位、歓楽、財宝を拒否し、信仰によってエジプトの王宮を見棄て、また信仰によってその民のために過越を立てた。これらは選抜せられた四つの事共である。我らはこの画廊におけるほかのいずれの絵にも、彼の場合におけるごとく、生涯を通じて描かれているものがないということは注意に値する。他の場合においては、多くはその人の生涯中の一つの出来事が選ばれているのに、彼においては、揺籃における信仰、成人の始めにおける信仰、老年に及んでの信仰、そしてまたいよいよ成長し、深くなり、進歩し、進撃し、勝利する、神に対する信仰を見る次第である。すなわち第一に、世と肉と悪魔の羈絆から自由にされる、彼自身の体験的信仰、次にその生涯の事業における信仰、第三にその民のための信仰、第四に一国民を救い出す信仰である。
 されど我らは第四の点を別の研究に残して、ここには初めの三つだけを考察することとする。

一、揺籃における信仰

 『信仰によって、モーセの生まれたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。』

 モーセは信仰をもってその揺籃に置かれた。彼はその両親の信仰によって匿され、また保護された。いかに多くの優秀なる神の僕等についてもまたかく言われ得ることぞ! また我らの多くの者はその父母の信仰に負うところのいかに多きかを自ら知り得ぬ。しかり、我らは敬虔なる両親を持つことに対して、千万の感謝を神に献ぐべきである。
 さりながら、モーセの場合においては、その両親の信仰は多くの人のそれよりは遙かに勝っている。それは犠牲的の勇敢なる信仰であった。かの残酷なる王の命に背くことは、よし生命そのものを失わずとも、生命の愛する一切のものの喪失を意味する。モーセの一生は、それを通して多くの暴風がその頭上に吹き荒んだのであるから、その幼時にそれが始まるはむしろ当然であったろう。彼は嬰児の時にかくしてバプテスマを受けた。ただし彼が更生したのはその両親の信仰によってで、バプテスマによってではない。そして彼は、後日のバプテスマのヨハネのごとくに、母の胎より出でて聖霊に満たされたのである。
 さてここにこの両親の信仰の秘訣と原因を示して、『子供のうるわしいのを見たからである』と録されてある。ここに用いられている原語は『見事な』また『善き』などを意味する語で、かのステパノが議会において述べたその大抗議においても、モーセに関して同じ語を用いているが、彼はそれに形容を加えて『まれに見る美しい子』(使徒七・二十)と言っている(原語の直訳は英語欄外注のごとく『神にまでうるわしく』である)。それはモーセの両親が、生まれた立派な嬰児をながめて、そこに第二のヨセフを見たということではなかろうか。常に神と偕に歩む人に特有な一種の本能をもって、彼らはこの子が選ばれた神の御手の器であるということを信ぜざるを得なかったのではなかろうか。ベツレヘムの麁末な馬小屋を訪れた東方の博士たちは、周囲の卑しい様子や人物やまた馬槽などに目をつけず、ただ世の救い主のみを見、また知った。牧者たちもそのとおりである。シメオンもまたそのとおりであった。彼は神の霊に導かれて、他の人の目にはその日神に献げんと神殿に連れ来ている多くの子らと何の異なるところもない、眠りたもうこの嬰児に、信仰をもって神の聖子の形を見たのである。アンナもそのとおり、神の宮に入り来り、マリアの懐に世の贖い主を見るや否、讃美と喜びの歌を叫び出した。聖霊の他に確と彼らに語るものなく、信仰の人のほか、何人の目もかかる外貌の中にその御神性を発見することを得なかったであろう。
 エジプトにおけるこの嬰児の両親は、それが『神にまで麗しき』を見また知り、神がご自身のものを保護しまた救いたもうという信仰をもって、それを王と臣下の手に任すよりはむしろナイル川の鰐魚に任せたのである。
 かくモーセは信仰をもって揺籃に入れられた。彼はその誕生の時よりして、人生の唯一の動力は活ける神を信ずる信仰であることを、後の代々の人に教えるべき運命を持っていたのである。

(一)モーセは信仰によって神の道を見た。

 モーセはその民イスラエルを助け、彼らを奴隷の境遇から救い出すべく、心に信仰を起こした後、必ず幾たびもヨセフを憶い、その能力と勢力を回想し、もし彼がヨセフのごとき者であったならばこの苦しむ同胞を救い出すことがいかに容易にできたであろうものをと考えたことであろう。しからば、彼はいま第二のヨセフであり得ないか。彼は王の太子の宮殿に住んでいるではないか。彼の勢力は王と王の全朝廷を動かし得ないであろうか。彼にはすばらしい賜物も能力もあるではないか。神がそこに彼を置きたもうた目的は明らかにこのことのためであろう。しかり、彼が王位に近く来ているのはこの時のためではなかろうか。常識の言うところはまさにかくのごとくである。されども信仰は別のことを語る。彼が先祖大ヨセフの生涯を考え、彼を導きたもうた神の道を洞察し始めるに当たり、彼は自己の理性の都合よき議論を疑い始める。本来、英雄は王宮で修養されるものでない。ヨセフが学んだ大学はヘリオポリスの講堂ではなかった。人間の最深奥なる学課は経験の学校で教えられる。かく考え来る彼の目には、ヨセフの生涯の寂しきその年月、兄弟たちの憎悪、陥穽、ミデアンの旅商、主人の家の淫婦、牢獄生活、忘恩の酒人などは活動写真のごとく展開し来り、それらのうちに神が彼を取り扱い、また導きたもうたその道を見たのである。しかも、かかる幻示は彼の心を謙らしめるのである。ついに信仰は勝った。ヨセフを牢獄より王宮まで引き上げたもうた神は、また彼モーセの神にてありたもうべきである。

(二)モーセは信仰によって神の民を見た。

 『信仰によって、モーセは……罪なはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び』

 彼はその同胞を救うためには、彼らと共に苦しむべく彼らと同等の地位まで下らねばならぬ。すなわち王宮を去ってその出で来しところなる両親の小屋に帰り行くべきであるということを知った。かく彼が『苦しまんことを善しとし』た(=文語訳)その選択は、神の民の幻示から来たので、それによって自己の霊魂を潔めたいという虚しい望みからではなかった。人は自己を苦しましめることによって潔められも、精錬されもするものではない。我らは自己磔殺のために十字架をとることを命ぜられてはおらぬ。否、否、千度も言う、否! 我らはキリストと偕に十字架につけられたり! である。霊魂を潔めるはキリストのお苦しみであって、我ら自身の苦しみではない。我らの十字架を負う目的は他人のためである。我らが十字架の道を択び得るに至るは、神の民がその窮乏のさまにいるを見、彼らを祝福し、導き、救い出さんとの願望を起すからである。信仰は神の民を見、『聖徒にある神の嗣業の栄光の富』(エペソ一・十八)を見る。信仰が我らの心に注ぐ愛は、啻に、御子に対する神ご自身の愛(ヨハネ三・三十五)、亡び行く世に対する神の愛(ヨハネ三・十六)、我々個人個人に対する神の愛(ガラテア二・二十)ばかりでなく、また神の選びたまえる神の教会に対する神の愛(エペソ五・二十五〜二十七)である。
 かくして信仰は『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選』ぶに至らしめたのである。すなわち彼をしてかかる選択をなすことを得せしめたものは信仰であった。何故なれば、彼は信仰によって神の民の貴きを見たからである。当時、神の民なるイスラエル人はなお霊的でなく、肉に属するものであったにもかかわらず、彼は、彼らが神のご自身の栄光のために創造したもうた神の特選の宝であるということを悟ったのである。

(三)信仰によって彼は神の報賞を見た。

 信仰はモーセをしてなおそのほかのものを見せしめた。彼は信仰によって既に神の道を見、また神の民を見たが、今は神の報賞を見る。主イエスも二度三度、天における大いなる報いについて語り、『わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい』(マタイ五・十一、十二)などと仰せられた。モーセが『エジプトの宝にまさる富』と考えた『キリストのゆえに受けるそしり』というはこれである。これは忍び耐えるよりは、むしろ喜び受くべきものである。さりとてモーセが世の贖い主、すなわち活けるメシアご自身を幻示に見まつったということではない。主の名によって、牢獄にある聖徒を見舞い、その飢えしを見て食わせ、渇けるを見て飲ませ、病めるを見てこれに事えることは、すなわち主ご自身に対してなすのである(マタイ二十五・三十五〜四十)、という意味において彼が受けるところのものである。
 天国の富には大いなる配当があり、キリストによる謗りには大いなる報いがある。モーセはそれを見ていたであろうか。その報賞は来るべき日における霊魂の大収獲であり、代々を通して教えがたきほどの大衆に言うべからざる祝福となる特権であり、旧約の聖徒たちの中におけるほとんど最大の名を得ることであると、彼はその時知ったであろうか。彼は『その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた』(民数記十二・三)者、主がその友と語らうごとく顔を合わせて語りたまえる者、キリストのごとき大預言者、大救贖者、大立法者、大歴史家としてその名の代々に伝えられるということを知ったであろうか。しかり、彼は信仰によってその報いを見た。彼が自らその大模型であったところの救い主のごとくに、彼は『おのれを低くし』た(ピリピ二・八)。それゆえに神は彼を高く上げ得たもうたのである。救い主のごとくに『おのれをむなしうし』たので(同七)、神はユダヤ史上無比の名を彼に与えることを得たもうた。しかしもし信仰がこれらの報いを何も見なかったならば、そして彼がエジプトの名誉と富をもって満足したならば、子孫はついに彼について何の聞くところもなかったであろう。かくして二十世紀のエジプト研究者によって一つのミイラとして見出され、彼がメンフィスの埋石に記したその象形文字が判読されるくらいが、彼の期待しうる最上の栄光であったであろう。

二、その成人の初めにおける信仰

 『信仰によって、モーセは、成人した時、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』

 彼の成人の初めにおける信仰は真に芳しき花である。自信、大望、熱心、活動は常に我らが青年と連想するところのものである。神に依り頼むことの必要、自己の荏弱不充分を感じ、そのために単純に静かに主に信頼するなどいうことを我らの大学生の間に見ることは少ない。一般からいえば、霊魂が神に帰り、神を信じ、自己を神に委ねるというようなことを学ぶ前に、人生の苦痛と失望が味わわれねばならぬ。されどモーセの場合、それが彼の年なお壮んな時に、しかも最も期待され得ざる場所において現れたということは一層美わしい。実にモーセの時代におけるパロの宮廷はかかる思想の現れる場所ではなかったのである。
 モーセは成人の域に達した。ステパノの言葉(使徒七・二十二)により我らは彼が非常に高い教育を受け、その時代の青年中の優秀なる者で、エジプトの文学に達していたということを知る。その上、ステパノが『言葉に……力があった』と言えるごとく、彼には弁舌の賜物があった。さて、ステパノのこの不思議な語によって我らはまたモーセの性格を知るに何たる光の与えられることぞ。後に彼が使命を授けられるにあたり、神の前に訴えた辞退の唯一の理由として、彼は語り得ぬと言ったが、これによって見れば、彼はその時、かつてパロの宮廷にあった時のごとき言葉の能力、すなわち地に属ける弁舌の、神の御業のために何の役にも立たぬことを知ったのである。彼はまた『わざにも、力が』ある者であった。既に彼の施設司導の才能も明らかに知られていた。
 彼はこの世が与え得るあらゆるものを持っていたと言っても過言でない。彼ははなはだ麗しき人で、充分な教育を受け、能弁でかつ才能があった。それだけで充分地上における栄達の望みがあった。その上になお彼の願い得る何物があろうか。彼をして満足せしめ、世において名をなさしめるため、なお何の要するものがあろうか。されど彼はなおそれ以上のものを持っていた。すなわち彼は王の家族に養子とせられ、太子として育てられた。彼は自ら支配し得るすべての富を持ち、社交においても、文学や芸術においても、歓楽の道は彼の前に開けていたのである。
 地位と財宝と歓楽は、この世がその帰依者に提供する三つの賞品である。この三者のために人は生き、また死ぬる。この三者のために彼らは一切を犠牲にする。彼らは全霊全生全身をこれらの華やかな祭壇に献げて惜しまぬのである。そして悲しいかな、大多数の人はこれらのものに対する問題の解決を誤る。しかもそれはもはや多くの試験を経たる問題であるのに!
 モーセの場合は世人と異なる。彼は既にこれらのものを持っていた。彼はこの世を慕う多くの人が到達せんことを望むその所から、その生涯を出発するのである。地位は既に彼のもの、歓楽の道はまたその足もとにあり、富もまたその楽しむままに備えられてあった。されど彼はそれに満足せず、また満足し得なかった。彼の視界にはなお貴い幻示が現れたのである。ステパノは語る、『四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽くすことを、思い立った』云々(使徒七・二十三以下)。モーセはまだ『見えないかた』(ヘブル十一・二十七)を見まつらなかった。寂しき荒れ野の奥で燃ゆる柴が敬虔の奥義を示したのは、なおはるか後のことであった。けれども彼は、今この時のために見るべきものを充分に見た。そのゆえに心をしかと定めて、『肉の欲、目の欲、持ち物の誇』(ヨハネ一書二・十六)を拒むべく決心し、『パロの娘の子と言われることを拒』んだ。彼は自分に何の権利もない地位をとり、虚偽の基礎の上にその生涯を築くことを断ったのである。
 彼のこの決心の影響は大きい。それは、彼の生活の安易からも歓楽からも離れ、その地位の権利によって彼のものであるすべての富も見棄てることであった。その決心の一瞬間、その一転歩によって、彼は名誉と富と楽を提供するその生活を一擲し去ったのである。
 或いは言うであろう。『モーセはもはや四十である。宮廷の生活とその道も知り尽くしていたであろう。かのエリザベス女王朝のサー・ウォルター・レーライが書いた、
    心にもなきほほえみに
    繕い飾るむつみごと
    仮面舞踏のうたげこそ
    まこと悲哀の極みなれ
という感傷的な詩句に含まれている、同じ感じがモーセの心にも起こったであろう。「結局彼は異人種である。運命の車輪の廻るは早い。王位は常に揺らめきつつある。地位はしばしば危うき尖塔のごとし」、このような考察も彼の決心を助けたであろう。彼はもはや子供でない。かのエジプトの歴史の知識、人と書物に関する一般の知識、格別に世界の人、特に宮廷人の道を知る知識は、彼の考えと行動を形作る助けとなったであろう』と。
 しかり、実にそれもあり得ることであるが、彼を動かしたのはこれらのことではない。モーセのごとく思想高尚で才能常識に富む多くの人が、人生の無常、運命の不足、社会の反復を充分に知悉しながら、なお決して満足し得られぬこの世の虚栄を追い求めることを棄て得ずして、もはや挽回出来得ざる終わりの日に至り、悲惨零落をその末路に見るは世の常である。
 人生の目的は快楽にありとして、力を尽くしてこれを求めたバイロン卿は、その終わりに『ああ悔恨、悲嘆、腐爛、ただこれらのみわがものである』と。その智慧(?)を神としたヴォルテールは、墳墓に近づいた時に『ああ我は生まれざりしことをこそ願う』と言い、大富豪Z・グードはその死に臨み『我はおよそ地にあるもののうち、最も惨めな悪魔であると思う』と大声で呻いた。
 されどモーセを動かしてこの大決心をなさしめたものは、運命の不定、富の無常、利己の愚かさなどの考察より以上のものであった。それはまたステパノの言うところのその民を顧みる利他的精神より以上のもの、すなわち信仰の能力ある大動力であった。彼がその民を助けんとしたのは実に貴い願望である。けれども、単なる利他的精神そのものだけには、享楽主義の精神を逐い出し、名誉、黄金の偶像を投げ棄てる力はない。

三、老年に及んでの信仰

 『信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』

 モーセは信仰によって、既に神の道を見、神の民を見、また神の報いを見た。これらのものを見ることによって、彼はその媚び誘う魅力あるエジプトを投げ棄てた。されど彼は未だ、見えざる御方を見まつらなかった。その示現は未だ至らなかった。しかしいま我らは彼がさらに勝れる幻示を得、それによって王の憤恚をも恐れずしてエジプトを去ることを得、当時の最も偉大な王のすべての権力と威厳に対抗して立ち得るに至る次第を読む。
 これより先に彼は一度エジプトを去った。けれどもその時は恐怖をもって、自己の生命を救うために去った。そして実は(彼はその時それを知らなかったけれども)見ることを得ざる神の幻示の与えられ得るためであったのである。このたび彼は恐れずしてエジプトを去る。自己の生命を救うためでなく、一国民の生命を救うために去る。そしてそれは見えざる御方の幻示を得たからである。彼の謗り、彼の恥辱、彼の十字架、罪人の彼に対して逆らうことを見たからである。かく彼は見えざる御方を見たことのために耐え忍ぶ。モーセにこの幻示の啓示された物語は出エジプト記三章の初めに録されている。彼は燃ゆる柴の中に人の見る能わざる御方、すなわち見えざる神を見た。孤独の牧羊者モーセは幾度となく小さいアカシアの藪を見つつ荒れ野を行き通ったことであろう。されどかつて一度も、火の焔に燃えつつしかも焼け尽きないそれを見たことはなかった。彼がそれを見んとて振り向くや、神はその柴の中より語りたもうた。彼はこの比喩によって、火の爐の中にあってなお保たれているその民を見たであろうか。彼はまたそれによって彼自身を見、この低い柴のごとくに小さい、弱い、はかなき孤独の生涯が、焔に燃えつつなお亡びざるその奇蹟を見たであろうか。彼はまた神の言葉が神の臨在をもって燃ゆるさまを見たであろうか。彼はこの型をもって神のキリストを見たであろうか。しかり、疑いもなく彼はそれを見た。よしそれが一度にでなくとも、後日彼がそれを思いめぐらす時に、いずれの程度にしてもそれを見たに相違ない。しかし彼は火を見た。すなわち熱し、照らし、潔める火を見、そのうちに活ける神の能力と臨在を感じた。そして彼がこの見えざる神を伏し拝んだ時に、その先祖の神は彼に語りたもうたのである。
 そこで彼はその任務を授けられた。そのところで、時に自信に満ち時に絶望する頼みがたき以前のモーセは過ぎ去った。そして彼は神が、彼の尋常なひ弱な、恐れまた沮喪しやすい霊を占領して、彼をしてその敵たちの面前に燃ゆる焼き尽くす火とならしめたもうということを知ったのである。この幻示は、彼に逆らう地上の王とその権力に対する恐怖心を永久に亡ぼした。けれどもそれは信仰の幻示であった。彼は外部的の象徴を見たが、神をば見まつらなかったということは真実である。彼はさらにシナイ山においてなお驚くべき啓示に接せんとしている。けれども万軍の主のこの第一の幻示は、彼の生涯を通じての霊感であった。
 ここにすべての能力の秘密がある。それは神の御言のうちに神の幻示を見、キリストのうちに神の幻示を見、人の霊魂の中に神の幻示を見ることである。
 多くの人はモーセのごとく神の道を見、神の民を見、また神がその忠実従順なる僕に提供したもうところの報賞を見る。しかもなお神の彼らを召したもうたその使命を果たすに力を欠く。それは彼らがなお見えざる御方を見ないからである。シナイの寂しき野における燃ゆる柴の幻示がまだ彼らのものとなっていないからである。
 求める者にはそれが与えられる。霊魂を熱し、照らし、潔める神の火、主を知ることを切に求め、また従い続けるすべての人に約束された聖父の賜物なる聖霊は、聖名を呼ぶべく我らを活かし(詩篇八十・十八)、神の召しの望みを知るべく我らの目を明らかにし(エペソ一・十八)、キリストの内住の臨在を信ずべく我らを強め(エペソ三・十六、十七)、神の民を愛し、そのために生き、そのために苦しみ得るよう、心を広くしたもう(コリント後書六・十一〜十三)であろう。

 終わりに私は、現代における二つの相対照する驚くべき絵をここに掲げよう。この両者の比較はさながらルカ伝十六章の比喩における富める人とラザロのそれである。
 前者はその不幸なる死の前夜、彼自らを描いている。彼はロンドン財界の巨頭の一人であったが、その自殺の前夜、自己の告白を書いた。それがロンドンの主要なる日刊新聞の一つに現れたのである。曰く
 『永遠の入り口に立って、私はいま永久に人生に訣別を告げる人の立場よりこれを回顧して、わが最後の一文を草する。
 私は王族を饗応し、公爵伯爵などを遠慮なく愛称で呼んだ。私は政治の内面に関係した。私は快遊船を持ち、大競馬に馬群を競争させ、劇場を持ち、新聞に関係し、極めて大いなる財政的協定の或るものを成立せしめ、また様々な事業のために一億五千万ポンド以上の金を調達し、懸賞競技を起し、拳闘者を補助した。私はすべての人にもてはやされて、民衆世界からジミー何某と呼ばれた。
 それによって私が人生について意見を言う資格のあることが認められるであろう。
 私は人生の感動すべき幾多の場面を経験した。私は飢餓の何たるかを知り、その願う一切を持ち、数千人をしてその手より食せしめることの何であるかをも知っている。
 私は人生の不公平を感じ、また幸運のもたらす報いをも持った。
 私は愚かなことをして罪を犯したが、さりとて一人の親友の依頼をも拒まなかった。
 私は競馬の一度の賭けに十万ポンドを賭けたが、或る時はカード戦に百ペンスを賭けて一ペニーを得たこともある。
 私は千九百年には自分のためにマンチェスターまで特別列車を出させたが、かつては単に汽車賃を持たぬためにロンドンからロックテールまで徒歩したこともある。
 私はロイヤル・ハント・カップを獲、また多くの大競馬に勝った。
 私は金銭上のことで益になる間は親切でまた愛情をもって語らうも、銀行のバランスが傾けば冷淡になる男女のあることを知っている。
 わが生涯の最後の日、わが頭脳は過去のフィルムを繰り返してわが目の前に映し出す。一つの挿話の次にまた一つの挿話と、引き続いて見える。そして私は、今日までの生涯は、人間の貪欲、肉欲、権勢欲の煮えかえる大釜であったと判断せざるを得ぬ。
 愉快な感じや満足は去って、その代わりに怒号する憔悴せる存在を残すのみ。
 金銭、権勢や異性に向かう愛欲の激しさは、ただかの過激派の人々の世界改造の欲望と匹敵するのみ。
 面白き男女の友と食を友にし、毎日同じ誹謗を繰り返す。ただ名前を取り換えるだけで、同じことを語り続けて夜を更かす。
 明日は今日に次ぎ、日毎にただ働きをより少なく、楽をより多く、そして金銭をより多く儲けたいと、同じ願いを繰り返す。
 今日、面白い舞踏を導く二つの宗派があり、それに従う者は実に多い。それは最も富める淫蕩者と、最も傲慢な婦人であるが、世界の歴史にこの二種の者ほどその門徒を多く持つ者はない。
 一人の新しい人気者が現れると、彼らの全体がみな彼に向かって集まる。彼はその富の続く限り宴会を開いたり贈り物をしたりする。彼のことが夜のクラブや社交界の唯一の話題となる。彼は閑談欄に幾多の題目を与える。そして彼自ら神に次ぐ者であると自惚れる。されど彼の金銭がその身を離れれば、後悔と痛恨とがただ彼の随身の友として残されるのみである。
 人の世はもはや僥倖者に対してのほかは仁慈深くない。それは単調な日の連続で、世界の一半は新しい快楽不徳を求めて止まず、一半は自己の運命に呻吟して過ごすのみである。
 以上の考察より判断すれば、永久に眠るとも、それによって多くを損失するようにも見えぬ。
 されど待て! わが生涯の最後の瞬間に筆を止めて見上げれば、わが前にわが妻と三児の写真の掲げられてあるのを見る。わが妻の目は愛と憧憬をもって私を見つめつつあるように見える。坊やの茶目た笑顔は「ああ、とうちゃん‥‥‥」と呼びかけるようだし、娘らはもしここにいたならば飛びついて接吻したさに唇をふるわすごとく、その目は心に秘めた愛の喜楽を睫の下にたたえて我を見るかのごとく見える。
 私はついに人生の何であるか、また何故に我らがこれを去ることを欲せぬかを知る。
 わが目は再び写真を求める。その上にまたフィルムが繰り広げられる。わが頭は眩めき、わが胸は動機打つ。そして私はわが膝をかがめて神を見上げる。そは私は賭博の愚をなして罪を犯した。そしてその代償を払わねばならぬ。ああわが美しき妻よ、子どもたちよ。神の汝らを祝したまわんことを願う。ジミーを忘れぬそれらの人々にも祝福あれ』と。
 第二の絵画は日本の若き一人の伝道者のそれである。その背景を見れば、殊にその幼時における彼の物語はモーセのそれと一向に似通ったところがない。けれどもこの若い日本人に山腹にて示された神の顕現は、砂漠の燃ゆる柴の中でモーセに与えられたそれと似通っており、その結果モーセをして一切を棄てて神に従わしめたそれと同じような熱心な献身の心を彼に起さしめたのである。
 わずか数週前に私は日本の一大都会にある二つの教会を訪ったが、そこにある快活な熱心な信者の群れは、私がいま語らんとする一人の若い伝道者の献身的生涯の不朽の記念碑である。
 いま彼の生涯を一つの小冊子から引いて書こう。
 『贅沢な生活は言うに及ばず、必要なものさえ節約せねばならぬ貧しい家に生まれて、彼は幼少より自給知足の性情を養われた。それがやがて彼をしてその所有の一切を犠牲にするまで他人とものを分かつようにならしめた。
 彼のか弱い身体に宿っていたそれのように無私な克己の霊を、私は東においても西においても見たことがない。
 彼は十一の時に父を失ったが、彼の母は当時知っていた唯一の崇拝の目的である仏に仕えるべく、昔のサムエルの母のなしたごとく彼を寺院に送った。されば彼はその幼少の年を寺僧の手に委ねられ、経文を覚えることと小僧の務めに過ごした。
 寺から学校へ、学校から寺へ、希望なき年月を過ごして十八の年に至った時に、彼の霊的覚醒の時が来た。そこで彼はその霊魂のうちの神を求める大いなる叫びのために、断然寺院を去った。
 長い間神を慕い求めて見出し得なかったが、如何にしても神を見出さん、しからずば死をも厭わぬという覚悟をもって、少しの食料と身を掩うべきズックの布片を携えて山に入り、そこで唯独り神を求めて数日を過ごした。けれども霊魂の渇望は満たされず、ただあまりの寂しさに何処にか友を探し求め、森の小鳥や池の魚を友とした。鳥や魚も馴れて、彼がこれらに名を付けて呼ぶままに、命令に従って来往するようになったと彼は語っている。
 彼は今一度山を出でて家に帰ったが、市街の喧噪騒擾のうちには、彼の疲れた霊魂の欲求に何の答えも見出さなかった。
 この頃、或るキリスト教の書物が手に入ったので、彼はこれを携えて再び山に帰って行った。その書物の告げる使信と、彼の前に自らを開示する自然の美わしさを見て、彼は万物の起源を考察し始めたが、自然そのもののみからは何の慰安の言葉も聞こえなかった。しかし彼の願望の奥底から出る霊魂の叫びは、ヨブが「どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、そのみ座に至ることができるように」(ヨブ二十三・三)と言ったそれと同じであった。ついに神はその寂しき霊魂の叫びを聞きたもうた。そして彼は歩一歩導かれて理性と啓示の全き一致をなすところにいたり、その山腹の樹陰でその創造主と顔と顔を合わせてまみえ、光明は闇を徹して照らすに至った。神はその求める霊魂に幾分かご自身を顕したもうたのである。彼は自身に何事の起こりつつあるかを知らざるも、その喜ぶ心に神の啓示に応えつつ山を下ったが、そのとき彼はもはや己自身のものでないことを知った。
 この後、久しからずして一人の伝道者と接するようになり、なおも神の道を完全に教えられ、主イエスを信ずる信仰による救いの実験を得た。その時から彼はその救い主のご足跡に従い行くことを選び、その途へと進んだ。
 彼はそのはなはだしい貧困と闘いながら、その住んでいた貧民窟において悲哀苦痛欠乏を慰め助けるために、最もキリストに似た働きをなし始めた。
 彼はその母と親類の人々、また数人の孤児、そのほか彼と同じく貧困のどん底に陥った人々を保護せんことを求め、しかもそれらの支給は彼自ら責任を負い、勝利の信仰をもって神に頼った。しかし彼は単なる社会事業をなすことを拒み、「主よ、我に霊魂を与えよ」と叫んだ。されば彼はその働きに真の価値を与えるため、聖書を学び、神の救いの恩寵の福音を宣べるために伝道者の資格を得ることを求めた。
 月を重ねるほどに、彼は子供や青年の霊魂の重荷を感じ、その勉学や日毎の仕事の間に市街や郊外、または付近の村落に出掛けて伝道したが、彼の一種拒みがたき吸引力をもって子供や青年たちを引き付け、幼子の友にて在す主を親切に教えたので、多くの子どもたちが彼ら自身の救い主として主を知るに至った。そこで彼は自分の家を開放して子どもたちの集会所としたが、多数の子供は集まり来り、彼の口から贖いの愛の話を聞いた。
 彼の母は一時は彼に反対したが、ついに砕けて悔い改めて主に帰依し、その地方の多くの子どもたちのほかに、彼の兄弟や或いは親戚の者、隣人なども悔い改めるに至った。
 そのころ、彼に一段と広い御奉仕の召しが来た。すなわち或る団体が彼の少年たちに対する働きの賜物あるを聞き、子どもたちに対する専門巡回伝道者の一人となるように招いた。その働きは、天候如何にかかわらず海陸を経て困難な長旅を続け、未伝道地を開拓するための天幕集会で、十日間も子供の集会を続けることであったけれども、彼はこの召しの明らかに主のお導きであるのを見て、喜んでこれに応じた。そして天幕集会にあたって、彼は子どもたちに促されて一日に四回も大きな集会を持つこともあり、天幕の集会で感動された子どもたちに促されて別のまた屋内の集会を持っていることもあった。しかもそこに子どもたちがいっぱい詰まっているのを見た。
 かかる骨の折れる無理な働きは、以前から弱っていた彼の身体を疲れさせて体力の余裕なきに至らしめた。天幕の子供集会を終わって我らの宿る家に帰ると、彼は蒼くなり疲れ切って布団の上に身を投げて休み、次の働きのために力の回復を求めているさまをよく見受けた。しかし彼は決して自分のことは何とも言わず、また身を惜しみもいたわりもしなかった。
 一千九百二十九年の八月に、もう一つの天幕伝道が催された。或いは彼は、自らこれが神の御国のための最後の御奉仕となることを期待していたのではなかったかと思われるが、このとき彼は全く働きができなかったので、私たちはついに彼を休息のために帰らせた。しかるにちょうどその時、彼の姉が一人の子を残して死んだために、彼はさらに加わる責任をもって家に帰るのやむなきに至った。
 天幕伝道の間にも彼は一度ならず極度の疲労のために気力を失い、とぼとぼと漸く宿に帰ってそのまま寝床に倒れるのであった。けれども信者たちの前では元気いっぱいで、なかなか控えめにするようなことは自ら言いもせず、聞きもしなかったが、自分としては次の御用のために数時間を費やして力の回復を求めていた。
 彼の母は貧困と苦闘の生涯の結果としてついに失明したが、彼の弟は兵役に出ていたので、彼は自ら母の世話をしなければならなかった。しかし彼は決して敗北せず、最後まで天幕においてもそのほかのところでも説教し、勇敢に戦った。されど彼の身体は次第にかの恐ろしい敵なる結核に蝕まれつつあったのである。ああ、誰か彼が棄てた生命の結果を量り得る者ぞ。取り上げられた彼の生命のために、天使の前にいかに大いなる喜びあるかを誰が語り得ようぞ!!
 十一月六日(土曜日)の早朝、彼の危篤の報知が発せられるや、数人の教役者と信者一同はみな彼の床辺に集まった。彼は低い声で言った、「もはや我生くるにあらず、ただキリスト、すべてはただキリストに感謝である」と。我らみな「アーメン、ハレルヤ」と言うことを得るのみであった。彼はその母を顧みて、「母さん、あなたはキリストのものですよ、我らはみなキリストのもの、何もかもみなキリストのもの」と言った。
 日曜学校の生徒に会いたいかと問われた時に、彼は「会いたいが、今はできない。また会う時がある」と言った。信者が一人一人近寄って自分の名を告げた時に、彼の言った言葉は、「堅く立ってください。主のお働きを衰えさせてはならぬよ」であった。かく彼の最後の言葉は慰めと励ましの言葉であった。そのとき主の臨在ははなはだ現実であり、主の栄光ははなはだ顕著であったので、我らは涙ながらにも、主にあって喜べ、主を頌めよと言い得るのみであった。そして次の日曜日の午前五時、彼はついに永遠に主と偕におるべく、驚くべき平和をもって勝利の主の許に召された。
 私たちは彼の遺骸をば、ほど近き美わしき丘の上に葬った。子どもたちは彼ら自身葬式をし、多くの涙を流し、実に憫れであった。かくて一人一人花を携えて、棺に伴って埋葬地に向かった。彼の奉仕の果が最後に如何になりゆくかは、ただ永遠のみがよく語り得るところである。しかし或る者は主の御奉仕に献身した。そしてこれらは少なくとも彼のキリストに似たる生涯の果である。
 しかり、これらの者ならびに二十ヶ所以上の町々における日曜学校と共に、二つのキリスト教会は彼の奉仕の果である。
 彼はこの世の富の何の献ぐべきものをも持たなかったが、二十七の若い身を犠牲にして尽くし果たし、倒れて死するまで自己を献げた。そして主ご自身からの要求として、諸君と私に残した最後の言葉は、「堅く立て、主の御業を衰えさせてはならぬ」であった。』
    神のますらお、でかせしぞ。
       御子の力を身に帯びて
          いと勇ましく戦いし
       もののぐ脱ぎて今はしも
          冠を待つぞめでたけれ
    神のますらお、いざさらば。
       白き衣のひじりらの
          群れに加わり今はしも
       御前に勝ち歌うたいつつ
          とわに休むぞめでたけれ
 さて、これら二人の対照よりなお大いなる対照があり得ようか。一方はキリスト教国と呼ばれる英国に育ち、自らその生涯の終わりを急ぐ惨めな大富豪、他方はキリストのためにその生命を棄て、後に彼の記憶を呼び起こして永久に彼を幸いなる者とする多くの人をあとに残し、勝利を持ってアブラハムの懐に運ばれた、赤貧の若者である。
 しかり、彼もまたモーセのごとく、見えざる者を見るごとく忍んだのである。



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